世代論:8/15前後のテレビを見ていて:飛耳長目(13)

 例年のことだが、8/15前後に戦争や敗戦関係の放送が多くなる。それを見るともなく見ながら、いまさらだがやっと気付いたことがある。まあ専門家はとっくの昔にご存知のはず。

 例えば、今年の目玉でNHKが2つの特集を組んだ。一つが二・二六事件で新たに出てきた海軍軍令部の極秘文書(敗戦時にミズーリ上での降伏文書調印に立ち会った海軍軍令部長の富岡定俊少将が保管)、もう一つが初代宮内庁長官田島道治の「拝謁記」(遺族が保管)である。そこで、たとえば二・二六事件のとき昭和天皇が34才(開戦時は40才、敗戦時は44才)だったことに、うかつながらやっと思いが至った次第。私が生まれ育った時期、天皇はすでに立派な壮年だったので、思わず知らずそれ以前の彼の言動もその印象を引きずって捉えがちだった、のである。

 それがどうしたというと、1901年生まれの天皇を取り巻いていた軍人たちは、いずれも彼よりはるかに年上だった、ということなのだ。調べてみると、陸軍関係で荒木貞夫や真崎甚三郎は24、5才も年上で、東条英機は17才、石原莞爾でも12才年上だった。そこに若輩の天皇を「玉」として祭り上げて操作しようとする驕りが果たして彼らになかったと言えるであろうか、というわけだ。それでなくとも彼は麻雀やゴルフにうつつを抜かす軟弱者で、代わりは他にもいるぞという考え方が、当時の軍部にあったらしいので、何をか言わんやだ。

 しかも戦後の退位問題までずっとくすぶり続ける弟宮たちとの関係も年齢的に微妙であった(14才違いの三笠宮は論外にしても、秩父宮とは1才違い、高松宮とは4才)。君側の奸はいつの世でも彼らの回りに蝟集して、あわよくばと計略をめぐらせるものだからである。こうなると男系が多いのも考えものである。これは、私の研究対象のコンスタンティヌス一族を考えてみれば自明である。

1921年撮影、左端が後の昭和天皇、右から秩父宮、高松宮、三笠宮

 関連でちょっと調べてみた。明治維新直前の1867年1月に、孝明天皇が35才で急死すると(死因は天然痘となっているが、微妙な時期だっただけに当然暗殺説も浮上する。その場合の黒幕は言うまでもなく岩倉具視)、14才で践祚したのが明治天皇だった。こうして神輿に担ぎやすい若年の天皇の時に、側近たちは明治維新を着々と実行していくわけである。ちなみに日清戦争は天皇はすでに42才、日露戦争は52才のときのことだった。

 大正天皇の践祚は33才で、病弱のため皇太子が摂政となったのは,天皇42才、皇太子20歳の時のこと(1921年末)。5年後に天皇崩御さる。

【追記】今読んでいる礫川全次『独学で歴史家になる方法』に興味深い関連記事が。それは伏せ字を論じた第10講に出てくる。2・26事件の5年後に復刊が出された改造文庫版福地桜痴『懐往事談』で、1894年の初版ではなかった伏せ字だらけなのはなぜか、という考察箇所。

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