月: 2020年7月

デジタル教育の明日:飛耳長目(48)

 今回のコロナ騒動で、日本の教育関係は否応なくデジタル教育への舵を切ることが強制されているやにみえるが、その動機は単に本年度の教育課程を履修したことにするつじつま合わせという側面が強いのが、偽らざる現場の本音であろう。一件落着した後どうなるのか、私は悲観的にならざるをえない。教師が置かれている多忙な雑務と、それによる新らたな試みへの意欲の萎えは否定しがたいからだ。やらないための言い訳には事欠かない現実がある。大学生ですらノートパソコン、いわんやプリンターを持っていないのが多数派、なのだから。なにしろ、秀才は生んでも天才を育てることができない日本的教育風土は構造的な問題である。しかしそこをなんとか打破してほしい気持ちはある。

 そんな折、以下のウェブ記事を読んだ:『台湾の超天才「唐鳳」が語るデジタル教育の本懐:39歳デジタル大臣「自ら動機を探すことが重要」』(https://toyokeizai.net/articles/-/362226?utm_campaign=ADict-edu&utm_source=adTKmail&utm_medium=email&utm_content=20200715&mkt_tok=eyJpIjoiTW1SbVlUazRORGsxTWpReSIsInQiOiJQaUlsWlFCSkhrYXlYc2N6U2k2VmtpUCsza2plRk9hXC9ZNk4rYzd6XC9QM0pLVjFrUmJSU0xVMjBxbnllRWh5dUhNRndWM2tqTWpwdWlcL2U2M3dORXVUMCtUeDFObWRteTRreEJpMTFvNFpub2tIUnZjazVwVEFVbVJmK3ZmbFZ0diJ9)

唐鳳(別称オードリー・タン氏:1981年-)

 このインタヴューの中で、私がなるほどと思ったのは後半である。要約すると、インターネットでは「自学自習」を自ら発展させる可能性がある。その好奇心から同好の仲間のコミュニケーションが育ち、そこからイノベーションが生まれる、というわけである。「正解がないからこそ、生まれる創造性」を育むことで、生涯学習への意欲も喚起できる・・・。

 ここで彼は、他方で生じるはずのマイナス面、問題行動については触れていない。7/24公開予定の後編ではそれが論じられるのだろうか。なにしろ14歳で中学を中退。15歳で起業。19歳で米シリコンバレー進出、35歳で入閣、というごくごく稀な道を歩んできた成功者の言である。そうそう楽観論でいい気持ちになることもできない。

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久々に街に出る:痴呆への一里塚(26)

 3月に入ってすぐ、3つやっていた読書会をすべて休会にしたせいで、それまであれでも週2、3回は外出していたのだが、それが本当に家に引きこもり状態となって、いつのまにかまる四か月経っていた。ま、私にとってパソコンの前に座ってごそごそするのが通常行動で、別に苦にならないし、右足首が痛むということもあって出歩くのはご近所での買い物だけ。それですっかりイノブタになってしまい・・・。ところが、7月に入って義弟の相続関係も大詰めで、またまた昨日法務局練馬出張所に行って久々にお(小)役人の融通の気かなさに腹を立て、今日出直しで書類を出したり、ようやく他大学に依頼していた研究論文のコピーの到着連絡があったりで、その受領のため四谷に出かけたのだが・・・。

 なんとまあ、出張所への道順を忘れて通り過ぎてみたり、地下鉄で降車する駅を間違えたり(代々木なのに新宿で降りたり)、帰宅してみたら蛍光灯付けっぱなしだったり・・・。ささいなことだが、思い込みでの間違いばかりで、我ながらやれやれという感じだった。体が覚えているはずの感覚が消え去っていたというべきか、ボケが進んだというべきか。ま、日頃の運動不足解消にはちょうどいいけど、などと負け惜しみを言いながらよたよた歩き(お陰で、iPhoneで昨日は7242歩、本日は9541歩の由。なんだか多すぎる感じするが、とにかく先行する数日間は歩行数ゼロなのだから:ご近所での買い物にはケータイを持ち歩かない)。

 そして、簡単にお昼をとろうと四谷の行きつけの立ち食いソバ屋に入ってびっくり。狭い室内は従前以上におじさんたちサラリーマンで密集状態(昼食費の節約だろうたぶん)、お決まりのコロナ対策でのアクリル板もなにもなく、誰も利用しない消毒液設置だけで、小心者の私はこりゃあぶないと慌てて食べたせいか胃にもたれ・・・。

 大学では入試の時のように正門で教職員証をチェックされ、図書館に行くと、パソコン室も閲覧室も立入禁止で、辛うじて書架には入れて図書の貸借はなされていたが、当然のこと学生の姿はまったく見えなかった(さすがに理工学部棟では廊下からでも室内での人の気配が濃厚だったが)。偶然会った教員に聞くと、授業はすべてテレビで「やってみると結構できるもんですね」と。基本的に登学するな、という感じがまだ続いていたのだ。なにしろ当方リタイアしているので、大学からなんの通達も送られて来ておらず、浦島太郎さん状態。

 それにしても、大学のこのロック・アウト状態は、私的には1969-70年の大学封鎖(学生側+大学側)以来の状況である。誰かが書いていたが、今回、医学部系でも大学構内に入れない状況が続き、そのためむざむざ大学施設・機器の対コロナへの投入を不可能にしている現状もあるとか。これが事実とすれば、政府側は大学の研究施設的側面をすでに視野から葬り去り、初等・中等教育に連なる教育機関としてのみ位置づけてしまっていることになる。

 夕方に、ラテン語のテレビ会議で聞いた話だと、試験ができないのでどの科目もレポート提出ということになるが、思い通りに図書館も使えないし(大学によっては郵送での対応しかしていない由:余分の手間と郵送料がかかる)、10科目ものレポートを1,2週間の期限内で提出せよという無茶な話、その上新入生はレポートの書き方の手ほどきもされないままだし、語学関係で機械翻訳で提出したのがばれて怒られた学生がいた、とか(そういえば、例年だともう期末ですね)、まあ学生さんのほうも対応策として安直に逃げ切ろうと相変わらず智恵を絞っているようで、これには苦笑い。現職教員は、ウェブ掲載記事のコピー・レポートを見破る能力が必要とされることになるが、もとより教育という視点で勤労意欲のない諸先生方も手抜きで対応されるわけだから、大丈夫な気が私など全然しない。ま、私のこのブログなんか悪用されないように祈るばかりだ。

 この話の流れで、今日日パソコンで第二外国語など欧米語だと英語に翻訳するソフトがかなりよくなっていてそれなりに読めるので(語族の異なる日本語訳はまだ使い物にならないが)、ラテン語読書会参加の皆さんも独仏語なんか英語でザッと読むのに大いに利用している、という話に花が咲いたのだが、それをビックリして「へ〜〜」と聞いていたのはロートルの私だけだった。でも、テキスト化しないと翻訳ソフトにかけられないので、ocrスキャンでのスペルの正誤チェックの手間なんか考えると、どうなんだろうかなあ。

【追記】大学ロック・アウト余波の件は、新恭「国家権力&メディア一刀両断」 2020.07.16;但し有料。彼の情報の元講演は、7/3の日本記者クラブでの児玉龍彦東大名誉教授による:https://www.youtube.com/watch?v=8qW7rkFsvvM(これの42ー45分あたりと、最後の5分)。一見(視聴)の価値あり。最後の件には元厚生医療技官のわが嫁さんも激しく同意してた。文字的には以下も参照:https://blog.goo.ne.jp/sa-1223/e/272cdb4bc20c33617ed434359666b884

児玉達彦名誉教授(1953年ー)
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コンスタンティヌスのアーチ門:北面東側レリーフをめぐって

 以前、「続・コンスタンティヌスのアーチ門の太陽神について」(2020/6/5)の中でちょっと触れているが、あらためてここで図版を掲示して説明を加えておきたい。掲載図版はすべてウェブから拝借した。

 実は、テトラルキア時代のフォロ・ロマーノについて面白い研究テーマが転がっている。ディオクレティアヌスが開始したテトラルキア体制の理念を象徴する建造物がそこに幾つかあり、それにその支配体制の継承者を自認していたマクセンティウスが一連の公共建築物を追加、だがその後、征服者としてローマに入城したコンスタンティヌスは彼らとは一線を画して、マクセンティウスの造営を乗っ取ると同時に、ローマ帝国の単独支配理念を復活させている、という視点で彼の公共建築造営を位置づけようというものである。それが最もよく現れているのが、アーチ門の北面東側のレリーフである。

北面東側レリーフ全体図

 左から見てゆく。さりげなく背景として刻まれている記念建造物に集中したい。

左はフォロ・ロマーノ西端の平面図;右再現想像図は、西からの景観。手前左からセプティミウス・セウェルスのアーチ門、ロストラ、ティベリウスのアーチ門、そして90度向こう側にバシリカ・ユリア

 レリーフ左端から見ていく。この部分の背景左半分を占めて4連のアーチが見えるが、これらは明らかにBasilica Juliaを示している。そして右端に若干大きめのアーチが続いているが、これはArcus Tiberiを示していると思われる。前者がガリア戦争での戦利品で前54年から建設が開始され、アウグストゥス時代に完成、後者は後9年にゲルマン人に奪取された軍旗返還を記念して後16年に建立された。前面の群像はローマ市民男性で、一人男児が描かれている。

 ただ、中央広場から西を見たときに、Basilica Juliaは正面ではなく左に位置している。そしてArcus Tiberiは、最近の説ではBasilica JuliaとAedes Saturuniの間の通りvicus Jugariusの入り口に想定されている場合もあるので(上記平面図でゲタ記号状の印の箇所がそれ)、その場合これも中央広場から直接見れたはずはないので、いうまでもなくレリーフ製作側の意図的意志だったと思われる。

 次に、レリーフ中央部分。背景に見える列柱は、テトラルキア体制創設10周年を記念して303年に建設された5柱記念物で、中央柱頭上に主神ユピテル像(ディオクレティアヌス帝の保護神でもある)、その左右に4帝立像が配置されていた。手前の囲い部分がロストラ(演壇)で、その左右端にマルクス・アウレリウス帝とハドリアヌス帝が座像で描かれている。群像中央の顔面が破損された立像がコンスタンティヌス帝で、あとの登場人物は元老院議員集団。

左がロストラ正面の想定例、右が背後からの復元想像図、の一例(レリーフに一致したものを選んだ)
こちらの方が円柱の配置に関しては正しいかも

 最後にレリーフ右端背後に見える3連アーチは、セプティミウス・セウェルスのアーチ門。いうまでもなく対パルティア戦勝利(後194/5と197-9年)を記念して後203年に創建された建造物。手前の群像はローマ市民男性で、右端に男児2名が紛れ込んでいる。

 総体的にこのレリーフは、いわゆる対外戦争勝利を記念した記念建造物、とりわけユリウス・クラウディウス朝がらみとセウェルス朝の凱旋門が左右に描き込まれ、中央演壇上にアントニヌス朝の2皇帝、そしてコンスタンティヌスにとっては直前の第一次テトラルキアの4皇帝(その一人が父コンスタンティウス)が刻み込まれていて、自らをローマ帝国を代表する諸皇帝の正統継承者として表現しているわけである。315年、未だ皇帝として盤石の地位を確保できていなかったコンスタンティヌスにとって重要なプロパガンダであったし、実質的にアーチ門建立を担ったローマ元老院としては、新皇帝の治世方針がローマ元老院を尊重する帝国再興の賢帝であれかしとの思いもあったはず。ある意味で両者同床異夢の蜜月時代を演出していたわけである。ただし、コンスタンティヌス帝自身は、旧帝都ローマを疎んじ、すでに過去の遺物と見ていた節があり、それは単独皇帝となった324年以降にあからさまになる。その意味で彼は皮肉にも、テトラルキア体制からの脱却をはかっていたにもかかわらず、こと対旧都ローマに関してはディオクレティアヌス帝の遺志の継承者でもあったのである。

 最近の考古学の成果を反映した以下の書籍が必読(見)文献。Gilbert J.Gorski & James E.Packer, The Roman Forum:A Reconstruction and Architectural Guide, Cambridge UP, 2015;Ed. by Andrea Carandini e Paolo Carafa, Translated by Andrew Campbell Halavais, The Atlas of Ancient Rome:Biography and Portraits of the City, 2vols., Princeton UP, 2012;Gregor Kalas, The Restoration of the Roman Forum in Late Antiquity: Transforming Pbulic Space, University of Texas Press, 2015.

【付記】ほとんど知られていないはずだが、フォロ・ロマーノにはここで触れた古来からの「ロストラ」(別名「西のロストラ」「アウグストゥスのロストラ」)の他に、中央広場を挟んで3世紀末ないし4世紀初頭に「東のロストラ」も造られていた(それ以前からあったとする説もある)。これは現在の遺構だとカエサルの火葬場遺構の前方西側に見ることができる。その建設はテトラルキア体制によるフォロ・ロマーノの再構成の一環だった。よってこの東のロストラは別名で「ディオクレティアヌスのロストラ」Rostra Diocletianiとも呼ばれているが、テトラルキアの正統継承者を自認するマクセンティウスが、フォロ・ロマーノ東端で自らの権威を誇示すべく一連の公共建造物(ロムルス霊廟と新バシリカの新築、女神ウェヌスと女神ローマの神殿修復;その他、アッピア街道沿いに競技場、さらにクイリナーレの浴場もか)を建設した時のものとする説もある。

左はフォロ・ロマーノを南東上のパラティーノ丘から見た写真、中央長方形区画の左に残る遺構が「東のロストラ」跡;右は後310年頃の復元想像図
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世界キリスト教情報第1538信:2020/7/13

= 目 次 =
▼トルコ大統領、世界遺産アヤソフィアを「モスク」と宣言
▼トルコの旧大聖堂モスク化に教皇「非常に悲しい」
▼トルコ大統領府報道官「礼拝開放決定は世界遺産消滅にはならない」
▼教皇「謙遜で柔和な人々は神の御国を証しする」
▼英国国教会トップが奴隷制念頭に歴史の直視訴え
▼ドイツの教会で信者離れ進む
▼米ロサンゼルス郊外の249年の歴史持つ教会で火事
▼フロリダ州でもカトリック教会に放火3番目を。

 今回は下から3番目を。ドイツでは国民が自己の信仰を申告し、それによって宗教税が所属宗教に分配される仕組みになっているので、より正確な信者数が確認され、以前からカトリックの漸減が問題視されてきた。

◎【CJC】ドイツの教会で信者離れが激化している。カトリック教会では、2019年には27万2771人が脱会した。前年2018年の21万6078人から大幅に増加している。『カトリック・ニュース・サービス』の記事を紹介する。
 ドイツ司教協議会会長のゲオルグ・べッツィング大司教は6月26日の声明で、「もちろん、この減少は人口動態によるものでもあるが、私たちの具体的な司牧的・社会的行動が、もはや多くの人々を教会生活へ導く動機付けになっていないことを示しているのは明らかだ」と言う。
 「教会を離れる人が非常に多いことは、特に私たちの“重荷”になっている。教会を離れた人、また離れようとしている人に、まず私たちに話をするように誘っている。教会を去る人の増加は、教会共同体での信仰生活への疎外感がさらに強くなっている兆候なのだ」。
 カトリック教徒の数は2018年の2300万人から19年には2260万人に減少した。
 カトリック教徒は19年に、ドイツの総人口約8400万人のうち27・2%を占めているが、18年の27・7%から微減している。
 教会のミサに出席するカトリック教徒の割合は、前年の9・3%に比べて19年は9・1%と、過去最低の水準にまで低下している。
 プロテスタント20教会を代表するドイツ福音教会(EKD)も6月26日、年次統計を発表した。それによると、会員数は2018年の2114万人から2019年には2070万人と、44万人減少した。
 教会からの正式脱会は、国の教会税を回避したいという願望が動機となってもいる。個人がカトリックとして登録されている場合、所得税の8~9%がカトリック教会に渡される。教会税の支払いを止める唯一の方法は、教会員であることを放棄する、と公式に宣言すること。ただそうなると、もはやカトリックの秘跡や埋葬を受けることは認められない。
 ベッツィング大司教の地元リンブルグ教区では、19年に9439人が教会を離れた。脱会者数は18年よりも1459人増えている。
 この3月にラインハルト・マルクス枢機卿の後任として司教協議会会長に就任した同司教は、教会は「時代の精神を追いかける」のではなく、第2バチカン公会議で呼びかけられた「時代のしるし」を認識することで対応すべきだと述べた。□
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NHKプラスの功罪:遅報(45)

 私のように行き当たりばったりでテレビを見る者にとって、放映後1週間程度とはいえ、そしてNHKプラスの再放送は総合とEテレ関係だけにせよ、無料(受信料を払っているにせよ)でみることできるので有難い試みのように思える。

 手始めに、「NHKスペシャル 戦国:激動の世界と日本(2)▽ジャパン・シルバーを獲得せよ」をみていて、おや、とおもったのは、本放送では放映されているはずの映像の一部が消されていることである(「この映像は配信しておりません」というテロップが出る)。たぶん他からの借り物映像に関する使用制限なのであろう。興趣を削ぐこと著しいが、なにしろ無料なのでがまんするしかない。

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世界キリスト教情報第1537信:2020/7/6

= 目 次 =
▼韓国の市民団体・宗教団体が日本との新しい関係づくりへ
▼韓国『殉教者の声』が3日夜にも「聖書をつけた風船」を北へ飛ばす
▼韓国警察がビラ散布団体への捜査強化、国際犯罪捜査隊も合流
▼モルモン教が上海で神殿開設目指す、米『CNN』が狙い紹介
▼世界遺産アヤソフィアの「博物館」としての地位を司法が是非判断
▼サグラダ・ファミリアが医療関係者ら招き限定公開し謝意表明
▼名誉教皇ベネディクト16世の兄G・ラッツィンガー神父死去
▼ゲオルグ・ラッツィンガー神父死去に教皇がお悔やみ書簡
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才能事始め「エール」:遅報(44)

 私は普通のテレビ番組はみないので、なんで「麒麟がくる」がこれまでの大河ドラマの回顧談になっているのか、今日も今日とて朝の連続ドラマ「エール」が8時から再放送になっているのか知らないのだが(ご多分に漏れずコロナの影響だろうと察しはつくが)、ともかく、今朝またあの言葉に出会うことができた。

 「人よりほんの少し努力するのがつらくなくて、ほんの少し簡単にできること、それがお前の得意なものだ。それがみつかれば、しがみつけ。必ず道はひらける」。

主人公が小学生の時の先生の言葉である。先生はしがみつく人生を選べなかったんだろうな、と察しがつく。

 ほんのちょっぴりの才能なのだ。それがみつかったのが本人にとって幸福だったかどうか、は分からない。また、それにしがみつけるのは幾つかの偶然が重ならないとできないだろうし、むしろ苦難の始まりのような気もする。だが、葛藤のない人生などありはしないし、色んなしがらみの中でその才能を諦めた人生も多いはずで(諦めても悔いがないほど小さな可能性だったのだし)、ともかくすべての人にとって葛藤の末に現在がある、のは確かなことだ。

 ごくごく取り柄のない私がこんな研究者人生を辿ったのは、父の言葉が導きの糸だった。私が記憶している彼の語録では、大正3(1914)年生まれの彼は絵描きになりたかったが(たしかに、若いときの彼の油絵には勢いがあった)、軍人上がりの父親の反対でそれが果たせず(勘当された由)、得意だった剣道を生かすべく職業軍人を目指そうにも身長が足らず、旧制中学卒業後は教師養成所に入ったり、東京のChu大学の夜間(中退)に通ったりの青春の蹉跌の連続だったようだ。三男に産まれたのに兄たちが死んだこともあり(出来のよかった次男はノモンハンで1939年戦死)、家督を継ぐはめになり、瀬戸内海の島で小学校の教諭をしたり、海軍に徴兵されて、戦後からだと思うがまったく方向違いの庶民金庫(のち、3公社・5現業・8公庫のひとつ国民金融公庫)で働くようになった。そして私の生まれが1947年で、物心ついたころから、「父ちゃんはやりたいことを許されなかった。お前は好きな道に進みなさい」と、膝に抱っこされて何度も聞かされて大きくなった。

 話がここで終われば、まあそれなりの美談?ですんだかもなのだが・・・。

 その父親が、優秀な同級生に比べ頭もよくない私が自分なりに行く末を見据えて、これなら自分にもやれるだろうと進学先を教育学部にすると言ったら(といっても、広島師範、高等師範、文理科大学の流れを汲む教育学部高校教員養成課程の偏差値は高かったのだが)、烈火のごとく怒って「お前を教師にするために広島学院に入れたのではない」と宣うたのだから、こっちも驚いた。たぶん軍国少年育成に先進加担した教育への彼なりの慚愧の念からだったのではないか。そこで私は変化球を考え,母を通じて「文学部史学科」とアドバルーンを揚げたら(本当は考古学やりたかったのだが、当時だと食える見込みがなさそうだった:土地開発での緊急発掘調査が法制化されたのは大学進学後のことだった)、「それならよかろう」と今度はすんなりだったので、これには二度ビックリだった。彼が何をどう判断したのかは不明である。なにしろ大蔵省の外郭団体の職場で、ずっと学歴に悩まされていた彼の本音は法学部か経済学部だった。だが私にとって、周囲の優秀な同級生がそれを狙っていたので、こりゃあかんわというのが当方の認識だったのである。この判断は正しかったと今でも思う。その方面に適正がなかったからだ。

 なぜ史学科なのか、については話が長くなるので、機会があればいずれまた。

【追記】風呂に入っていたら思い出したことがあった。父はずっと絵は描き続けてはいた。だが日曜画家というべきか、多くの作品がアフターファイブの蛍光灯のもとでのものだったので、私のような素人目にもそれらは色が濁っている印象があった。その父が臨終の時、意識不明になったはずの彼が、突然右手を挙げて激しく動かしたので、驚いた。母だったと記憶するが、「ああ、何か描いている」と。たしかにあれはキャンバスに絵を描いている時の動きだった。それで私は臨死体験の存在に納得することになった。たぶん父は最期の瞬間に、描きたいと思う強い衝動に突き動かされていたのだろう。描かざるを得ない強烈で圧倒的な光景を見ていたに違いない。その意味で、彼は生涯絵描きだった、と思う。

ヒエロニムス・ボス「天上への上昇」1500-1504年作成(部分)
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