月: 2021年9月

世界キリスト教情報第1601信:2021/9/27

= 目 次 =

▼スイス、同性婚の合法化に多数が賛成
▼バチカン訪問者、10月から「グリーンパス」必要に
▼教皇、アルメニア典礼キリキア新総大主教承認
▼教皇が冗談「私の死を望む人々もいた?」
▼仏修道士が5G基地局に放火、電波の健康被害訴え
▼ギルガメシュ叙事詩の粘土板、米からイラクに戻る
▼ソドムを滅ぼしたのは隕石? 国際研究チームの研究結果

 本日は、二番目を紹介する。

◎バチカン訪問者、10月から「グリーンパス」必要に
【CJC】バチカンを訪問する人は、10月から、新型コロナウイルスのワクチン接種済みか感染症回復を証明する「グリーンパス」、またはウイルス検査の陰性証明書が必要となる。

 現在の公衆衛生危機に対応するために、バチカン市国においてあらゆる適切な予防・管理対策を講じるようにとの、教皇フランシスコの指示に従い、バチカン市国行政庁が制定した条例をバチカン市国委員会が、9月18日付で公布した。10月1日から施行される。

 バチカン市国内、およびラテラノ条約が定める区域(バチカン市国外のバチカンに属する諸機関の建物、教皇直属バシリカ、ラテラノ宮殿、カステルガンドルフォ教皇離宮博物館など)に入るためには、新型コロナウイルスのワクチン接種済み、または同ウイルス感染症からの回復証明書「グリーンパス」かウイルス検査(PCR検査または抗原検査)の陰性証明書が必要となる。

 この規定は、「バチカン市国の市国民、居住者、バチカン市国行政庁および教皇庁諸機関・関連施設で働くあらゆる立場の人々、すべてのビジター、サービスの利用者」に適用される。

 唯一の例外として、ミサの参加者にはこの規定は適用されない。しかし、儀式に必要な時間内に限られ、ソーシャルディスタンスの適用、マスク着用、人流・密集に関する制限等、衛生上定められた規則を尊重することが求められる。

 バチカン美術館では、すでに8月6日から入館のために「グリーンパス」の提示が義務付けられている。□
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どう思いますぅ? 河岸のローマ道発見!?:オスティア謎めぐり(15)

  先にテヴェレ川の左岸を歩いたと書いたが、それはオスティア遺跡のちょうど裏側のことである。そこから遺跡まで帰る道すがら、妙なことに気付いた。寡聞のせいかこれまで触れた文献に出会っていないので(絶対あるはず)、にわかには信じられない、というか確信をもてないのだが。この件、ご存知よりの方からのアドバイスを求めています。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

 それをやはりGoogle Earthのストリートビューの画像で紹介しよう。現代のテヴェレ川の湾曲部の凹の地点にコンクリートを15m×10m の長方形に平打ちした感じの簡易船着き場がある。そこから下流にさらに175m 歩くと葦に遮られて道が途絶えてしまう。地図的にはその葦原を250m 突破するとヨットハーバーに出ることできるようにおもえるのだが、その時の私はそれを試みる体力が奪われていたので、オスティア遺跡に帰り着くべくUターンした(グーグル・アースで後からみると、船着き場に降りないでそのまま遺跡の北側にそって河口方向に向かう道もあるようだ。次回があれば試してみたいが、それにしたところでヨット・ハーバー目前で「Da qua nun se passa,toma indietro」とわざわざ表記されているので行き止まりとなっているのだろうし、藪を突破したところでヨット・ハーバーの柵があるだろう)。その船着き場から約1km 弱のところに例の石柱が立っているわけだが、まずは船着き場から140m 戻ると左側に2軒ほど民家があり(番犬がいてやたら吠える)、右側はオスティア遺跡事務所(コ字型のピンクの天井)の裏口といった趣の三叉路に出る。そこから川筋を遡上すると来た道になるが、今回の復路は三叉路の右であった。そこをものの20m も歩かないうちに,私は道路面の変化に気付いてしまったのだ。

 それまで未舗装のはずの差し渡し4.4m 幅のその道の片一方、帰途の私にとっての左半分にどうやら平たい小石が敷き詰められていたのである。最初は断続的に、しばらくするとずっとそれが次の人家の手前まで続いている。その距離約300m。その写真が以下である。後日、動画も撮っていたはずだ。

   、初め付近          、向こうに人家が見え出す

 残念ながら私は考古学者ではないので、この道の舗床がいわゆるローマ時代のものそのものかどうかは判定できない。みなさんおなじみの大きな玄武岩を敷きつめたアッピウス軍道などと比べれば石自体があまりに小型である。砕石を敷きつめたようにさえ見える。しかし私にはスペインでサンチャゴ巡礼した時、河原から拾い集めたような若干大きめな丸っこい玉砂利のこれは正真正銘のローマ軍道を目撃した経験があるので、違和感はない。ローマ街道はよく画一的規格で解説されがちであるが、石材も工法も地域的特色があるのが普通だった。今の場合、古代ローマ時代に平底船を綱で牽引していた奴隷や牛にとって一番いい舗床がどういうものだったかが重要だったはずである。

 また、この石が敷きつめられているのが、現在の道幅の半分、せいぜい2m なのはなぜか、これも疑問である。もともと2m 幅だったのが、現代生活で不可欠な自動車の普及で道幅を拡張したのではないか、というのがど素人の私の思い付きなのだが、どうだろう。川端近くの三叉路付近には先に述べたように1、2軒の民家しかないが、オスティア遺跡の裏口として物品の運搬時に8トン・トラックにしたところで車幅は2m強なので、この道の使用も十分可能だからである。この件は、遺跡内を避けてその東西大通りdecumanus maximus の北側を遺跡入場口受付から事務棟、さらにはその奧の収蔵庫にむけて走っている舗装道路の道幅も4.4m とほぼ同じことも、それを傍証しているように思える)。

 船着き場から人家まで約500m のこの道は、おそらくかつて大湾曲していたFiume Morto 沿いの道にほぼ相当していたのではという私の直感が正しければ、往時、奴隷や牛に曳かせてテヴェレ川を平底船が帝都ローマまで遡上していた運搬路があったことは確かで、しかし、その時のものと断言するのはさすがに勇気がいるが、大湾曲部分が洪水でFiume Mortoとなってしまった1557年まで、この道は河沿いの道路として機能していたのは確実といっていいように思うが、どうだろう。

       ↑船着き場から人家までの道筋↑      下隅、ユリウス2世の砦Castello
、1884年:大湾曲部の片鱗が砦付近にまだ残っていた   、1911年の航空写真
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河岸河床監督官の石柱みっけ?:オスティア謎めぐり(14)

 前の書き込みの続き。Mauro Greco氏の叙述内に「2つの大きな石柱」があって未だ直立しているほうにラテン語碑文が刻まれていてと、写真も2葉添えられていた(下の写真)。ただどうやら二つとも同一石柱の写真で、しかもそれから刻字を読み取るのは無理なようだ。立っていないほうの石柱はどうなっているのだろう、といつものない物ねだりで気になるところではある。

 最終的にみつけた場所をGoogle Earthで表示しておこう。大通りに面したOstia Antica 遺跡の正面玄関の真ん前に教皇ユリウス二世が枢機卿時代に創建した砦があり(下の写真①だと右下隅の三角形構造物)、そこの白丸を基点として黄色の線を辿って最初の三叉路(白丸)を左折して次の三叉路の交差点中央(白丸)にそれ(ら)があった。基点からの距離は340m ほど。

写真①  Ostia遺跡    煉瓦色の屋根が屋敷   中央の白色の道筋と白丸の交差地点が石柱設置場所

 かのお屋敷(といってもそれほどの豪邸にはみえないが)は、オスティア遺跡だと以前このウェブで扱ったことのある「御者たちの浴場」Terme dei Cisiarii (II.2.I3) の北側真裏になる。今から20年も前そういえば、ミトラエウムを探しあぐねて格子越しにのぞき込んで、境界に設置された頑丈な金属製の柵に寄りすがって「ここにあるんだろう。入りたい」と嘆息したことを思い出してしまった。

 これももう数年前のこと、思い立ってテヴェレ川のかつての川筋(Fiume Morto)の痕跡を求めてボルゴの東北地域の畑の中をさ迷ったことがある。遺跡の神様も哀れに思ってくださったのだろう、偶然、一面の畑の真ん中にぽつんと保存された遺跡にひとつだけ行きつくことができた(いずれ触れる予定)。平べったい農地の中の農道をひたすら歩くだけなのだが、そのときは体調思わしくなく、めまいに襲われたこともあり、涼しい午前中に出発しても炎天下なので昼過ぎには体力と同時に気力も奪われてしまう。しかしあきらめず帰り道は西に歩いて現在のテヴェレ川の左岸に至り、川筋沿いに道がある限り下ってみた。そこはちょうどオスティア遺跡の本当にま裏だったが、そっから先は葦の原になっていて、ワンゲルでは普通の昔とった杵柄とはいえ、その時の私にはもはや藪こぎする余力は残っていなかったし、単独行だったので河岸で事故った時が怖かったので、川辺でしばし休憩してからUターンした。川筋のすぐ南側はオスティア遺跡の敷地なのだが、ここも丈夫な柵で閉鎖されているので、目前に慣れ親しんだ遺跡を見ながら大回りせざるを得ないことを呪いながらだったが、その帰り道、何が幸いするかわからないもので、実は今問題の石柱が設置されている交差点で件の石柱にこれも偶然遭遇し、由来もなにも知らないまま念のために写真も撮った記憶がある。今はそれを探す手間を厭って手っ取り早くGoogle Earthのストリートビューを利用しての写真を掲載しておく。有難い時代となったものだ。

写真② 左奥にAldobrandini家の建物がみえる   東から見た石柱   右の道を行くとテヴェレ川左岸に出る   

 ストリートビューは撮影機器が通った道にしか進めないので、今の場合、左の道はAldobrandini家のお屋敷のファサードに導く並木のアプローチ道であり、私有地だから撮影されていない。それで石柱のそっち側や裏側の映像は確認できないのが残念だ。だが、石柱のそばに倒れた切り石が見つかったのは、なにはともあれ収穫だった。但し、重そうだし、ここでひっくり返したりして刻文をチェックしたりしていると(何もないかもだが:じゃあなんなのさ、この切り石)、車で通りすがる地元民のみなさんに怪しまれること請け合いだろう。

写真③ 石柱を北西側からみる

 さて、その石柱に刻まれている銘文は以下の通りらしい:CIL XIV 4704 = AE 1922, 95(但し、未確認)。不完全だが現段階での試訳も付記しておく。

1 C(aius) Antistius C(ai) f(ilius) C(ai) n(epos) Vetus /

2 C(aius) Valerius L(uci) f(ilius) Flacc(us) Tanur(ianus) /

3 P(ublius) Vergilius M(arci) f(ilius) Pontian(us) /

4 P(ublius) Catienus P(ubli) f(ilius) Sabinus /

5 Ti(berius) Vergilius Ti(beri) f(ilius) Rufus /

6 curatores riparum et alvei /

7 Tiberis ex s(enatus) c(onsulto) terminaver(unt) /     

8 r(ecto) r(igore) l(ongum) p(edes) //

9 Sine praeiudic(io) /                 

10 publico aut /                    

11 privatorum                     

 1行目のAntistiusのみ祖父まで書いた若干くどい念入りな標記なのは、彼が執政官格の本監督官評議会の筆頭者だからで、後の4名は法務官格だったから、だろう。

 6行目から7行目冒頭に出てくる「curatores riparum et alvei / Tiberis」は一般に知られている政務官職名だが、Greco氏が書いている「オスティア・アンティカの」di Ostia anticaが抜けているのが気になるし、その語が di Ostiaと、しかもアンティカと現代表記したイタリア語なのだ。奇妙だとようやく気付いたが、あれはGreco氏の勝手な付加だとすれば、帝都ローマのcuratores (pl.)がこれを建てたことになって、それはそれでリーゾナブルではある。

 実は、8行目については別の読み方もあり、最後に欠字もあるようだ(あってほしい)。ちょっと調べてみたら、9-11行目は研究論文などでなぜか省略されている場合が多い。定型表現のようだが、異読もあり、いずれにせよこの銘文いずれきちんと検討・詳述できればと思っているので、ご意見いただければ嬉しい。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

 ところでこの探険、もうひとつの思わぬ副産物にこれも偶然出会った。それは続きで。

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アルドブランディーニ家とミトラエウム:オスティア謎めぐり(13)

堀賀貴編著『古代ローマ人の都市管理』九州大学出版会、を読んでいて、関連でちょっと調べたら、アルドブランディーニ家がらみで偶然23つの事例が引っかかってきた。 ことの発端は以下である。ティベリス川の洪水に古来悩まされ続けたローマは、河岸河床監督官を定めたというくだりで、その官職名curatores riparum et alvei Tiberis をググっていて(それはそれで、「使徒行伝」13.4-12に登場するキプロス総督[正確には騎士身分から派遣される管理官procuratorのはず]Lucius Sergius Paulus/Paullusと関係あるかものという名前も出てきて、知らなんだ〜と大いに興奮したのだが、念のためと田川建三大先生の注解書を開いてみたら、すでにK.Lakeが1933年の注解書でちゃんと説明しているように同一人物とはいえない、とそっけなく却下なさっていて、私はエウセビオス研究がらみでかねてK.Lake先生のご研究を尊敬してきたので、こりゃもうあかんとガックリ)、たまたまなんと、curatores riparum et alvei Tiberis di Ostia antica もヒットした。 おいおいこれはなんなんだ、そんな官職オスティアにあったって聞いてないよ〜とそっちをググり出すと、Mauro Greco氏が2018/2/4にアップされた「Il cippo dei Curatores riparum et alvei Tiberis di Ostia antica」(http://visiteromeguide.altervista.org/cippo-dei-curatores-riparum-alvei-tiberis-ostia-antica/)が引っかかった。最近クラウディウス帝のローマ市域石標pomerium cippus を紹介していたので、あれれこんなものオスティアにあったかいなと、レジメ作成作業を中断してとうとう大幅に横道にそれることに。Mauro Greco氏によるその紹介文に「オスティア・アンティカをよく知る人なら、遺跡の左側にあるアルドブランディーニ家の敷地に沿った未舗装の道を散歩したことがあるだろう。アルドブランディーニ家の敷地に通じる大通りから数十メートルのところにある分かれ道で、2つの大きな石柱に出会う」とあって、これまたはじめて知った「アルドブランディーニ家」Aldobrandini という存在(ググってみれは、これはフィレンツェ起源の大変な名家だった。以下の[付記]参照)や、それが遺跡の左側にあるという叙述に、どっちから見て左側なんだ、現在牧場風の空間が広がっている右側の間違いじゃないの〜、と首を傾げながら、Google Earthで検索したりググってみたりする中で、今度は「Mithraeum Aldobrandini」なんてものもヒットして(http://www.visitostiaantica.org/en/2017/07/02/the-mithraeum-aldobrandini/:但し、Stefania Gialdroni女史撮影の掲載写真は表紙の1枚を除きすでに見ることできなくなっている)、これはひょっとして20年も前に気になって探していた19番目のミトラエウムのことでは、と。 昔、オスティア遺跡にあるミトラエウムに興味を持ち調べたときの知識では、オスティアのローマ側からの入城門 Porta Romana門の右側城壁をテヴェレ川方向に辿ると塔があって、そこがミトラス教の祠だった、というごく簡単な説明しかなかったと記憶しているが、現地で遺跡とテヴェレ川の間のそれらしい場所を見当つけて道伝いに探し歩いたこともあったのだが、農地と私有地だらけで、その上甲高い番犬どもに吠えられたりで目的を果たせなかった過去があった。今回みつけた写真はあのとき探せなかったのも道理で、「塔」というにはおこがましい小型の構造遺物で、しかも「アルドブランディーニ家」の私有地の中にあって非公開ということも分かり、まあこれで一応積年の疑問を解消することができただけでなく、上記ウェブ掲載のリンク先に飛んでみるとなんとそれは例の「OSTIA:Harbour City of ancien Roma」で、いつの間にか充実した記事となってアップされていて(https://www.ostia-antica.org/regio2/1/1-2)、めでたく写真や碑文も入手できたのである。そのウェブの管理人Jan Theo Bakker氏の尽力はかくも偉大なのである。これはこれで十分紹介する内容を備えているので、誰か手早く紹介すればいいのになと思わざるを得ない。ああ、天我をして十年の命を長らわしめば・・・。 さて本論のcippusに話を戻したいが、それは続きで。最後にGialdroni女史撮影の「塔」の表紙写真を転載させていただこう。
ところでこの項目、なんど段落切っても修正されない。どうしたことか。読みづらくて申し訳なし。 [付記]2021/11/24 帝都ローマのトラヤヌス市場の3D画像をGoogle Earthで切り取ろうとしたら、そのすぐ北に「Villa Aldobrandini」を見つけてしまった。これは今は庭園だけのようだが、フラスカーティには文字通りの豪邸があるようだ。
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世界キリスト教情報第1600信:2021/9/20

= 目 次 =
▼教皇、スロバキア訪問終了、ローマ帰着
▼教皇、「自由を証しし、創造性と対話ある教会を」要望
▼教皇、ロマ共同体と交流、「偏見から対話へ、閉鎖から融合へ」
▼十字架称賛の祝日に教皇「十字架を見つめ、証しする」
▼バチカンがブラジルの宣教会『福音の使者』に寄宿学校閉鎖を指示
▼ニューヨーク州のワクチン接種、宗教上免除主張で義務化停止
▼ワクチン接種しないと誓った米保守系ラジオ司会者、コロナ合併症で死去
▼スイス政府、妊婦へのワクチン接種を勧告
▼マカオの聖ポール大学跡で人工穴遺跡が一般公開
▼汝矣島純福音教会を創設した趙牧師死去

 今日は、2番目を紹介しよう。
◎教皇、「自由を証しし、創造性と対話ある教会を」要望

【CJC】教皇フランシスコはの欧州訪問の2日目の9月13日、スロバキアの首都ブラチスラヴァ市内の大統領官邸で歓迎式典に臨み、チャプトヴァー大統領や各界代表と会見。続いて、カテドラルで教会関係者とたちと会われた。

 この日、ゴシック様式の聖堂内には、スロバキア各地から司教・司祭・修道者・神学生・カテキスタたちが集まった。スロバキアのカトリック信者は、約339万人、全人口のおよそ73・7%を占める。国内には12の教区がある。

 教皇は参加者への言葉で、ブラチスラバの美しい城に触れつつ、しかしながら教会は高い場所から世界を見下ろす砦のようなものであってはならない、と説かれた。
 教会は福音の喜びを通して人々をキリストへと惹きつけることを願う共同体、と教皇は述べ、世俗的な偉大さへの誘惑に陥ることがないように、と注意された。
 世界や生活から距離を置くことなくその中に住む教会、分かち合い、共に歩み、人々の問いや希望に耳を傾ける教会の姿を示された教皇は、「教会の心は、教会ではない」と話された。
 そして、教皇はスロバキアの教会が、自由を証しし、創造性をもって、対話のうちに歩むことを希望された。

 教皇は、同日午後、神の愛の宣教者会の支援センター訪問、またブラチスラバ市内のホロコースト犠牲者追悼モニュメントの前で、ユダヤ人共同体との出会いを持ち、ホロコーストの犠牲者を思い起こした。
 このモニュメントは、「ショア」(ユダヤ人大虐殺)の犠牲となったスロバキア出身の10万5000人以上のユダヤ人たちを記憶にとどめるために、かつてのシナゴーグがあった場所に建立された。シナゴーグは1969年、共産政権によって取り壊された。

 ブラチスラバは、世紀にわたりユダヤ人の生活の重要な中心地であった。しかし、1940年、ブラチスラバに約1万5000人住んでいたユダヤ人のうち、ホロコーストを生き延びた人々はわずか約3500人だった。
 この集いでは、ホロコーストの生存者1人が、家族と共に体験した恐ろしい悲劇を振り返ると同時に、当時、いかなる政治家でさえも政権に表立った批判ができなかった中で、バチカンの外交官が反ユダヤ政策を止めようと尽力していた、と証言した。
 また聖ウルスラ修道会の修道女は、迫害のさなか、同修道会はユダヤ人の子どもたちをかくまい、国外に逃がしていたことが、生存者たちの証言によって明らかにされた、と語った。

 教皇は、歴史と記憶の場所、苦しみの場所に「触れると共に、心に触れられるために」「巡礼者」として訪れた、と述べた。
 集いの終わりに、ユダヤ教の祈りが唱えられる中、ホロコーストの犠牲者を思い起こすためにろうそくに火が灯された。□
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オスティアって実は季節労働だった、はず:オスティア謎めぐり(12)

 以下で触れる件は、一般向けのカルチャでは話してきたが、これまで秘中の秘として温めてきた構想である。文献的に見落としあれば、ご連絡いただけると幸甚である。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

 帝都ローマの外港オスティアのことを調べていると、私は思考の落とし穴のひとつに、古代地中海世界の船舶航行にとって航行可能期間が春から夏にかけてと限られていたという指摘から、あることに気付いてしまった(やっぱ、才能は隠せんものじゃの〜 (^^ゞ)。それは、当時の港湾労働のかなりの部分が人力に頼っていたという当たり前の事実から、当時の人力の最大の供給源は奴隷だったはずで、ここまではそれぞれ従来から普通に言われていたことであったが、ちょっと待てよと。

 前段と後段を繫いで、はたと気付いたのが、じゃあ航海不能の期間に奴隷たちはどうしていたのか、ということだった。奴隷の所有者は無駄飯を食わせていなかったはずだ。これを別視点から見てみると、港湾労働が季節労働だったということであり、具体的には繁忙期は3月から9月までで、10月から翌年の3月までの実に半年が、毎年決まったように港での仕事閑散期となるのであれば、私が奴隷所有者であれば当然、労働力の有効活用の途を探ったに違いないはずなのだが、というわけである。

 奴隷労働の季節的転用といっても、なにしろ本邦どころか管見の限りとはいえ欧米研究者の文献中にも具体的に触れているものにお目にかかったことがなく、データ的に若干間遠いけれどようやく見つけえたのが以下の図33と解説だった。K.グリーン『ローマ経済の考古学』白水社、1999年、p.191、図33.

 

この図をじっくり拝見していて、なんと都合いいことに、地中海世界では港湾作業の閑散期が農繁期にあたり、とりわけオリーブ収穫期に集約的な労働力が必要とされていた、すなわちおそらく春先から港湾労働に投入されていた奴隷たちは、秋以降はオリーブの、そして穀物やブドウの手入れや収穫作業へと就業場所を移動していたのでは、との想定が可能になったのではと思う。

 私は、後四世紀の北アフリカの初期キリスト教運動でのドナティストの一派、キルクムケリオーネスを久々に思い出してしまった。彼らは、属州の現地人なので、いかにカラカッラ帝以降とはいえローマ市民権保持者として遇せられていたとは思えないが、奴隷ではなく、季節労働に従事する無産階層、いわば現代のフリーターだった(厳然と存在していたいわゆる下級市民humiliores:別件だが、池袋での運転ミスした現代の上級市民honestioresさん、当然のことながら処罰されてよかったと思う。でも収監はされないのだろうけど。同様にサクラ問題の最上級市民に対しても厳正にやってほしいと思うのが私のような庶民感情なのだが、ま、政権に媚びるどっかの国レベルの我が国司法体制ではだめでしょうね、残念ながら)。

 引き続いて次に湧いて出る疑問、ではオスティアでの半年間の港湾労働従事中、奴隷はどこに宿泊していたのか、という問題が出てこざるをえない。果たして港湾労働に従事していた奴隷たちはあの立派な集合住宅内に居住していたのであろうか。そんなことはありえない(家内奴隷でも一室を与えられたかどうか不明だし)。冬が雨期で春から夏は乾期の地中海気候を考慮にいれるなら、臨時宿舎としてせいぜいテント生活していたのでは、との可能性を指摘したくなるのである。そのほうが昼間の熱がこもっている石やレンガ作りの家屋内で過ごすより、はるかに快適という事実がある(私はそれをローマ滞在中や、サンチャゴ巡礼中の巡礼宿で目撃・体験した。日本と違いなぜか蚊が出てこないので、野外での夜のほうがすがすがしい)。奴隷の逃亡を防ぎ、管理しやすい区画が奴隷用にオスティアのどこかに割り当てられていたのではないか、というわけである。雨期には使い物にならな単なる野っ原だったらなおさらいいはずのその場所がどこだったのか、が当面の課題となろう(現段階で私は、川向こう、とりわけ当時存在していたテヴェレ川の大湾曲部分が最適ではと密かに思っている)。

 また、先行研究者たちによってオスティアの集合住宅から居住者数が想定されてきているのだが、このような諸事情を勘案するなら、奴隷以外の、解放奴隷やローマ人たち、それに貿易に従事して地中海各地から往来していた非ローマ人たちの滞在状況も、現代の海岸のリド・ディ・オスティアでの観察から、ヴァカンツァ期の夏以外多くの集合住宅が無人化し、スーパーも休業して街自体が閑散化していることから連想して、貿易商はもとより、役人・商人たちも同様に相当規模で年中行事的にローマや本拠地とオスティア間を人口移動していた、と想定してもあながち間違ってはいないような気がする。要するに立派な居住家屋も季節使用されていたに過ぎなかったのでは、というわけである。

 そこからさらに、オスティアでの社会インフラ、とりわけ特徴的な多数存在する公共浴場や大規模な製パン工房なども、繁忙期を想定してのそれであって、閑散期にはその多くが店じまいしていたはずという結論が容易に導かれるのであ〜る。

 ただし、そもそもオスティアは創建以来状況の変化の中で都市機能的にずいぶんと変容してきた挙げ句、最後は大理石やトラヴァーチン、ついでにおそらく焼成レンガなどの建築資材の石切場・採掘場となる運命を辿っているからには、二〇世紀における発掘状況で姿を現したその都市景観はその最終段階の姿に他ならないわけで、要するに転用や放棄・破壊を蒙ったあとの景観から、往時を再現しようとするには慎重な配慮が必要とされねばならない。たとえば私など実は、オスティアはポンペイに比べてバール関係がやたら少ないことに不審を覚えたものであるが、それも5,6世紀の都市凋落期の姿とすればなんとなく納得できるような気がしないでもないのである。それにしてもあまりに少ない気がするので、別の仮説を加味すべきだと思っている:現段階では、オスティアは基本的な都市機能が一般市民を前提とした消費都市ではなく、なによりも特殊港湾都市であり、そこに集住していた主要構成員が奴隷であるという特異事情、すなわち、基本的に廉価な賄いで養われていた身分層からなっていたせいでは、と考えている。奴隷には身銭を切っての購買能力が、お目こぼし程度にはあったにしても、基本的に備わっていないはずと考えるからである。

 サァテかくのごとき珍説、いつものことながら、はたしていつになったら真面目に取り上げられることになるのやら、もって瞑すべし。

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政局の真の黒幕は誰だ:飛耳長目(93)

 予想通り新コロナ対策など吹き飛んでしまう形での総裁選一色のマスコミ報道になってしまった感じだが、このところの感染者数減少を一番残念に思っているのはガースー(すでに元)首相ではなかろうか、つくづくツキに見放されている、と。

 ところで派閥が首班候補を出せなくなったとかしがましいが、それもこれも小選挙区制(1996年導入)・政党交付金制度(1994年成立:年間総額で317億円強)が遠因になっていることに違いない。派閥の親分から選挙資金を札束でもらう儀式も必要なくなってきたのだから(とはいえ、政権派閥が交付金の流れを左右できるわけで、それが今回の二階降ろしに連動しているのだろう)。

 むしろ決定権をにぎっているのは、相変わらず合衆国(現在は民主党政権の)という、このあたりの見立てはどうなのであろうか、と思っていたら、案の定出てきた:高島康司「「新首相は河野太郎」バイデン政権から圧力?ジャパンハンドラーは対中強硬しか認めない」(https://www.mag2.com/p/money/1099801?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000115_sat&utm_campaign=mag_9999_0918&trflg=1)。

 没落大国とはいえ相も変わらず属領ニッポンへの操作構造は健在ということなのであろうが、ま、我が国のアフガン撤退のお粗末さを考えるにつけ、属国傀儡国家という認識を残念ながら否定できない体たらくなのだから仕方がない。

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その昔、山本七平がいた:先達の足跡(7)

 最近、研究者仲間から「いまどきの学生は映画ベン・ハーもしりませんから」と聞いた。今でも時折放映されているにもかかわらず、そうなのだそうだ。私が幾度となく見てきたそれは、3度目の映画化のもので1959年製作だったので、もう60年も前、私も多感な?中学生だったころになる。

 蛇足ながら、今やそれとだいぶおもむきの違う新作も登場しているが、それすら若い人がどれほどみていることやら:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC_(2016%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)。

 だから、生涯が1921年から1991年(享年69歳)だった山本七平を知る人も少なくなってきているのも当然だろう。その彼を最近私はしばしば思い出している。それは彼が『空気の研究』という小論を1977年に文藝春秋から出していたからだ。私はこれを読んで(出版後かなりたってのことだったと思う:手元には1983年発行の文春文庫版があるがこれとて古本入手だった可能性がある)、日本人は回りの空気に影響されて行動してきたし、これからもそうするはずだ、ということを勉強したのだが、最近ウェブ情報でこの「空気」という表現によくお目にかかるような気がしてならない。たとえば今日、こんなインタビュー記事があった。「自民党総裁選で見えるもの:社会の空気一変の怖さ」:(https://mainichi.jp/articles/20210917/dde/012/010/019000c?cx_fm=maildigital&cx_ml=article&cx_mdate=20210919)。

 あの文庫本の解説で日下公人は、山本の手で「戦中戦前の日本人の思想様式や行動様式が今も変わっていない」ことが提示され、「大正族や昭和ヒトケタ族にはその伸縮しない物差しの重要性と必要性はよくわかるのである。その世代は理由がよく分からない戦争に捲き込まれて、ひどい苦労をさせられたからである」と喝破している。昭和ヒトケタ世代すら消え去ろうとしている昨今、大多数を占めるに到った戦争体験のない国民に、どれほどの説得力があるか不明であるが。一抹の不安を感じざるをえない私である。いや私も昭和22年生まれの戦後族だが、池田内閣以前はまだなんとなく戦前・戦中を引きずっていた気配があった。なにせ復員軍人が社会の主要生産世代だったのだから。

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地球温暖化って:「極地大冒険」前編を見た

 2021/9/15のNHK BSプレミアム「コズミックフロント:氷から見える地球史前編」を見た。そこで遅ればせながら、地球の過去5億年の歴史のうち、現在のような寒冷な気候は全体の25%を占めてきたに過ぎないことを知った。逆にいえば、南極にも北極にも氷がない温暖な時期が4分の3を占めてきたわけである。

放映画面から

 となると、世間を騒がせている温暖化なる現象は、地球規模ではむしろ常態に帰りつつあるということになる。草食性恐竜なんかは温暖化で豊かな植物が旺盛に繁茂した中で、巨大化できていたようである。

 こうなると、このところの二酸化炭素削減なんかで一体何を騒いでいるのか、愚鈍な私には理解できなくなる。人間が身勝手にだだこねているようにしか思えないのだが。要するに、人類は寒冷化のもとで適応的にこの地球上で存在できるに過ぎない、ということなのだろう。温暖化の促進は恐竜時代を再現するだけのことなのかも知れない。他の生物にとって迷惑でお騒がせの現生人類など滅亡したっていい。何百万年後にさて地球の王者として君臨しているのはどんな生物なのだろう。

 こういう問題は、どのように時代を区切ってもっともらしく数字を提示して主張するかということ、すなわち、以下の図を見せられたとき、普通の人だったら危機感を抱くだろう。だけどその数字は1950年で区切ってのことなのである。

 歴史を見るのも同様な落とし穴がある。気をつけねばと思う。

【追記】以下をみつけた。永井俊哉「地球温暖化論争の三つの争点」(https://www.nagaitoshiya.com/ja/2007/global-warming-three-issues/)

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最近のあれこれ:飛耳長目(92)

 ちょっと間遠いような気もするが、しばし留まってじっくり考えてみるのもいいかも。


◎田中宇「中国を社会主義に戻す習近平」:http://tanakanews.com/210908china.php

◎林奈緒美「国や専門家が認めないコロナ「空気感染」は不都合な真実か」:https://mainichi.jp/articles/20210910/k00/00m/040/354000c?cx_fm=mailcp&cx_ml=article&cx_mdate=20210915

◎「安倍晋三、統一教会との蜜月を笑顔でカミングアウト」:https://www.mag2.com/p/news/511216

◎池口恵観「中国やアフガニスタンで民主主義が不可能なわけ:歴史の教訓:人は宗教、法律、武力のいずれかで統治される」:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66888

◎横山恭三「韓国に「恥辱」と呼ばれたアフガン撤退作戦が示す課題:致命的な決断の遅れ、大使の早すぎる退避、法整備・・・」:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66920?utm_source=editor&utm_medium=mail&utm_campaign=link&utm_content=top

◎今市太郎「菅首相「今さら訪米」で持ち帰る中国包囲網参加と戦費負担の置き土産。卒業旅行のツケはすべて国民に」:https://www.mag2.com/p/money/1100515?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000204_tue&utm_campaign=mag_9999_0914&trflg=1

◎和田秀樹「尾身会長の病院も。補助金まる儲けで患者を見捨てる医師たちのコロナ太り」:https://www.mag2.com/p/news/511328?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000001_tue&utm_campaign=mag_9999_0914&trflg=1

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