月: 2021年3月

目がおかしい:痴呆への一里塚(46)

 今日、眼科に行って視野検査を受けたが、以前白内障の手術を受けていた左目はともかく、右目は二度検査をやったけど結果が思わしくなかったらしく、追加の検査まで受けさせられた挙げ句、2か月後に再検査となった。追加で点眼された薬(虹彩を開け、眼底検査したのだと思う)のせいで、半日間、目の調子がおかしくなった。両目の焦点が合わないので文字が読めないのである。ぼ〜としている以外ない、そんな感じ。眼科にいって目がおかしくなるのって、やっぱりおかしい、と思ったりする。

 自覚的には、視野検査でドットが点滅するのが薄いせいで見えないような感じだったので、前回12月末だっけに白内障と指摘されていたのが進んだのかなと思ったが、それよりもなんか深刻な感じではあった。今回ではお医者さんもその判断がつかない故での再検査設定のようだった。

 以前、緑内障が発覚したとき「死ぬのが先か、盲目になるのが先か、のデス・レース」といった表現をしたことがあるが、このレースも終盤にさしかかってきたのかも知れない。昼夜逆転的な生活で目を酷使しているのは確かだから、何が起こっても文句はいえない。

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世界キリスト教情報第1575信:2021/3/29

= 目 次 =
▼マフィアは「罪の組織」と教皇が厳しく批判
▼バチカンが第2次大戦中、カトリック系新聞社の報道に圧力
▼インドネシアのカトリック教会で自爆攻撃、容疑者2人死亡19人負傷
▼韓国の新規コロナ感染者494人と35日ぶり高水準

 本日は日本がらみの2番目を紹介しよう。

◎バチカンが第2次大戦中、カトリック系新聞社の報道に圧力

【CJC】バチカンは第2次大戦中、米国と戦争を続ける日本を刺激するような「公平さを欠いた」報道を改めるようカトリック系新聞社に圧力をかけていたことが3月27日までに分かった、と共同通信が報じている。バチカンが公開した教皇ピウス12世関連の機密文書を、関係者が閲覧した際に発見した。  

 共同通信は、バチカンで日米和平仲介を目指す動きがあったことは知られているが、交渉が難航し、緊張が高まっていた様子が浮き彫りとなったとし、カトリック系メディアが米側に肩入れしているとして日本当局者が中立国バチカンへの心証を悪化させれば、終戦に向けた仲介の妨げになると判断したもよう、という。  

 教皇ピウス12世関連の機密文書は、共同通信関係者が閲覧した際、第2次大戦中に戦時下の日本の様子を駐日ローマ教皇使節を務めたパウロ・マレラ大司教がバチカン高官に報告した1944年12月12日付けのイタリア語で手書きされた書簡を発見、外国公人から見た戦時下の過酷な状況がうかがえる貴重な資料と言えそうだ、と共同通信が3月3日までに分かったとして報じている。□

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日本の将来なんか、もはや私には無関係ですが:飛耳長目(78)

 このところ、軍事的側面からの中国問題があれこれ目についている。ここでちょっと踏ん張って思い出してみると、数年前から「もう中国は経済破綻だ」といった経済終末論が目白押しだったが、そういった観測は結果的にことごとくはずれてしまっている。まあそのような情報はもっぱらインターネットの個人商店的な評論家たちが自分たちのブログを売らんかなと、耳目を引く刺激的な言動で危機的状況を煽っていたわけであるが、そして始末に悪いのは、彼らは自論の一過性を重々知りつつ目前の危機を煽っていることである。とはいえそんなつまみ食いだらけの中で将来を見据えた見解もないわけではない。しかしいずれも現状分析というよりは未来学に類するからはずれの確率は高いのだが。ま、8割引きで読むのがいいだろう。

「大手新聞の終焉:サラリーマン記者の書く記事が中身ゼロな3つの理由」(https://www.mag2.com/p/news/491084?utm_content=uzou_2001&utm_source=uzou)

「軍事衝突は不可避か。米中が「第二次太平洋戦争」準備開始の可能性」(https://www.mag2.com/p/news/490918)

「ヒトラーのソ連攻撃に匹敵する愚行。インドを本気で怒らせた中国」(https://www.mag2.com/p/news/490886)

 予想される危機にはそれなりの対応策が必ずとられるから、予測は必ず外れてしまうという側面もあるし、その対応をしたところで新たな問題が生じてきて、というように現状は常にモグラ叩き状況なのである。要するに、問題は単純ではなく、またどこまで一時的に適切な対応が続けられるか、ということなのであり、その矛盾のツケが一定以上に膨らんだとき、「リセット」が謀られることになる。すなわち、体制一新をもくろんでの内乱や対外戦争である。身近なところで例を挙げるなら、明治維新しかり太平洋戦争しかり、である。

 私的にはそれを古代ローマ帝国にどう応用して考えてみるか、ということになるが、これは改めて論じる機会を持ちたいテーマである。否それこそ私的には率先して追求すべき課題のはず。とりあえず他山の石として若干陳腐ではあるが、以下をメモっておこう。玉木俊明「中世「最先端地域」イタリア、経済成長が遅れた理由」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64679)。まああからさまに言うと、ローマ帝国はあくまで間接統治の「帝国」であって、我ら(特に特殊日本的な状況に洗脳されている我ら)が陥りがちな現在的な統一統治「国家」ではなかった、という原点に立ち帰って考える必要があるということだ。改めていうのも陳腐なのだが、山川的な教科書叙述の短絡記述から我々は解放されなければならない。同時にその未来像は現在の中国のような最先端の人民把握に向かうのが歴史の趨勢なのかという大問題を提起するはずである。

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世界キリスト教情報第1574信:2021/3/22

= 目 次 =      
▼「愛のよろこびの家族年」始まる      
▼バチカン教理省は同性間のユニオン祝福の可能性に否定      
▼独ケルン大司教区で聖職者ら202人が性暴力、被害者314人と報告書 
▼フィリピン福音宣教500年記念しバチカンで教皇ミサ      
▼マレーシア高裁、キリスト教徒も「アラー」を使えると判断      
▼ミャンマーでデモ参加者を傷つけないで、と修道女が警官に嘆願      
▼死海文書の新たな断片を発見、「恐怖の洞窟」で

 今回は話題てんこ盛りだった。3つ紹介する。

◎バチカン教理省は同性間のユニオン祝福の可能性に否定的
【CJC】バチカン教理省は、同性間のユニオンへの祝福をめぐる質問書に否定的回答を示す一方、その回答について「不当な差別や、個人を対象とする見解ではない」と述べた。バチカン・ニュースが報じた。
 教会は同性間のユニオンに対して祝福を与える権限を持たず、それは正当と認められない、と教理省は文書を通して回答した。
 文書は、同性カップルが自分たちのパートナーシップ関係に対する一種の宗教的な公認を求めて祝福を願う場合、司祭はそのカップルに祝福を与えることはできない、という見解を表している。
 教皇フランシスコは、この件について報告を受け、教理省長官ルイス・ラダリア枢機卿と次官ジャコモ・モランディ大司教の署名による回答書および注釈の公表を承認した。
 この回答公表に当たっては、確認といくつかの手順が踏まれた。同文書は「同性愛者の受け入れと、寄り添いに対する誠実な意志」の枠組みに位置づけられるもので、使徒的勧告「愛の喜び」にも記された方針に従い、同性愛者に対し、信仰における成長の歩みを提案するものとしている。
 教理省文書で、基本としていることは、一個人と、パートナーシップ関係との間の区別。
 同性間のユニオンを祝福することへの否定的な回答は、実際、この件に関わる一個人に対する見解ではない。教会の教えに関する諸文書がすでに明示しているように、むしろこれらの人々は「尊重、思いやり、配慮」をもって迎え入れられるべきであり、あらゆる不当な差別のしるしを退けなければならない、としている。
 同文書で、否定的回答の基礎となる理由は次のもの。
 まず、祝福の真理と価値に関して、これらは「秘跡的な」ものであり、教会の典礼行為である。そして、祝福の対象となる人が「創造においてしるされた神の御計画に沿って、恵みを受けそれを表現するように客観的に定められていなければならない」。
 次に、婚姻外での、すなわち、いのちの継承に向けて開かれた、男性と女性による不解消の婚姻外での、性的実践を伴う関係は、たとえそれが安定したものであっても、またその関係にポジティブな要素が存在するとしても、それは「神の御計画」に呼応しない。
 留意すべきことは、これは同性愛者のカップルだけでなく、婚姻外において性的関係を伴うすべてのユニオンについて言えるということである。
 否定的回答のもう一つの理由は、同性のユニオンへの祝福と結婚の秘跡が、誤って同一視される恐れがあるためである。
 最後に、教理省は、神によって啓示された計画に忠実に生きる意志を表明する、同性愛指向を持つ個人への祝福は可能であることを明確にする一方、同性間のユニオンの承認を目的とする「あらゆる形の祝福」は認められないと宣言している。□
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◎独ケルン大司教区で聖職者ら202人が性暴力、被害者314人と報告書
【CJC】独カトリック教会ケルン大司教区で浮上した過去の性暴力疑惑についての独立調査の報告書が3月18日公開され、聖職者や信者202人が暴行に及び、被害者は314人に上っていたことが明らかになった。AFP通信が報じた。
 カトリック教会の委託で調査を実施していた弁護士が、800ページに及ぶ報告書を公開した。弁護士は記者会見で、被害者の大半が当時14歳未満だったと発表した。
 疑惑をめぐり、ライナー・マリア・ベルキ大司教による「義務違反」の可能性も調査対象とされたが、その事実はなかったとの結論が報告された。
 AFP通信によると、保守派のベルキ大司教は以前から、教会の改革に反対。自身の教区内での聖職者らによる虐待に関し、別の報告書の公表を拒否したため、数か月にわたり激しい抗議の的となってきた。大司教はその拒否の理由として、加害者とされる人物のプライバシー保護と、一部の調査員らの独立性の欠如を挙げていた。□
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◎死海文書の新たな断片を発見、「恐怖の洞窟」で  
【CJC】地理学を中心とした米国の科学総合誌ナショナル・ジオグラフィックが伝えるところでは、イスラエル考古学庁(IAA)が、死海文書の新たな断片が約60年ぶりに発見されたほか、完全な状態としてはおそらく世界最古の籠も見つかったとこのほど発表した。  
 死海文書の断片は、2019年末から20年初頭にかけて行われた発掘調査により、ナハル・ヘベルのワディ(涸れ谷、ワジともいう)にある第8洞窟で発見された。洞窟は、1960年代初頭の発掘調査で大人と子ども40人の遺体が発見されたことから「恐怖の洞窟」と呼ばれている。  
 今回発見された20片以上の羊皮紙断片は「十二小預言書」の一部。その最初の断片は、ナハル・ヘベルで地元のベドウィン(遊牧民)によって発見され、1950年代初頭にエルサレムで売りに出された。  
 新しい断片も他と同じく書記2人によってギリシャ語で書かれていると、IAAの死海文書部門のオレン・エイブルマン研究員は説明する。羊皮紙の質感も、過去に見つかった十二小預言書と似ているか、同じであるという。□
 

【追伸】最後の記事についての別情報。https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/21/031900134/?n_cid=nbpnng_mled_html&xadid=10005;https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/gallery/031901121/?n_cid=nbpnng_mled_html&xadid=10005
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えっ、脱糞フレスコ画?:トイレ噺(27)

 希有な画題のご紹介。帝都ローマの西部、川向こうの旧アウレリア街道に接したローマ最大の公園Villa Doria Pamphilj付近では古くからいくつも古代ローマ時代の墳墓が発見されていた。残念ながら私はまだ見学したことがないが、事前予約で公開されている納骨堂columbariumには、大・小・それにScribonius Menophilusの三箇所あるようで、特に大納骨堂Colombario MaggioreとScribonius Menophilusのそれはそれぞれ500の遺灰壺を収容するニッチからなっている。いずれも共和政末期から初期アウグストゥス時代の建設で、二世紀半ばまで継続して使用されていた。とくに壁画はパラティヌス丘のアウグストゥスやリウィアの家、テヴェレ川沿いのファルネジーナの邸宅のそれと類似した第2期後半から第3期のスタイル、つまり前30−前10年に日付けられている。現在、国立ローマ博物館(パラッツォ・マッシモ)に展示されているのは大納骨堂のもので、そこはすでに1838年に発見され、第8列目まで保存されていたが略奪を受け、拾い集められた彩色装飾は1922年にローマ国立博物館に引き渡され、2008年に未完成のまま公開された(他方、1984年に再発見されたScribonius Menophilusの納骨堂は、現場保存)。その中に貴重な脱糞の絵が紛れ込んでいたわけである。

発掘中の大納骨堂と南西の壁の書き起こし

 パンフィーリといえば、どうしても丸一年過ごしたナヴォーナ広場を思い出してしまう私ではあるが、今はそれを横に置いといて、件の地下墓室である。当時は火葬だったので遺灰を納める骨壺が壁体のニッチ(ないし小アルコソリウム)下に蓋付きで埋め込まれ、それが幾段か横一列に並び、その下に故人の姓名を記す柄付碑銘板tabulae ansataeも周到に描かれていた。実際、赤や黒の顔料で、なぜか二重に書かれたものもあれば(たぶん転売されたのだろう)、そうかと思えば未だまっさらな空欄のままのものもあって、そこを買えばいいようなものであるが、複雑な所有権問題があったことも想起させる(ここの埋葬の大部分は、特定の家族familiaや同業組合collegiumの兆候が見当たらないため、建売分譲販売だったようだ)。なおcolumbariumとは「鳩小屋」の意なのだが、蜂の巣のようにニッチにフタをしたものもあって、命日には故人の好物のワインなど上から注いで死者との供食行事をしたはずなのだが、フタしてしまったらさてどうなるのだろうか。それにしても、博物館では表面のフレスコ画だけが剥ぎ取られ、いささかきれいすぎるほどの修復を経て展示されているので、本来壁体の中に埋め込まれていた骨壺やその中の遺灰はない、平べったく文字通り抜け殻風の、なんとも浮世離れした弛緩した展示なのである。

博物館内での展示状況

 そしてその上下のニッチ間の、白というより象牙色の空間に色々な風景画,動植物、演劇マスクなどが当時流行の筆致で自由闊達に描かれていて、それが見どころのひとつとなっているのだが、その中の一つにナイル河風景よろしく3人の裸体のピグミーの船遊びがある。彼らは例のごとく戯画的に各々大小の男根を露出し、それぞれ竿で一艘の葦舟と思しき船を操っているが、船尾の一人が、大口を開けて迫ってきたカバに向かって撃退すべく、尻を突き出して若干水っぽそうな糞をひっかけているのだが、これがなんと古代ローマ時代に描かれて現在のところ唯一残存の、よってたいへん貴重な脱糞図なのだそうなので、皆様、心して拝観してくださいませ。

フレスコ画の上の段に柄付碑銘板tabulae ansataeが見えるだけでなく、埋葬者の重複記載の跡あり

【参考文献】

 Thomas Froehlich & Silke Haps, Architektur und Dekoration der Columbarien an der Villa Doria Pamphilj, XVIII CIAC:Centra y periferia en el mundo clasico, Merida, 2014, pp.1187-1192(=https://www.academia.edu/18451855/Architektur_und_Dekoration_der_Columbarien_an_der_Villa_Doria_Pamphilj_Rom).

 Dorian Borbonus, Columbarium Tombs and Collective Identity in Augustan Rome, Cambridge UP, 2004.

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また?カード詐欺騒動:痴呆への一里塚(45)

 昨日午前10時すぎにドイツのアマゾンから「Amazon Prime」の期限が来たが前のカードが切れているので更新してほしいとメールが届いた。クレジット・カードを数ヶ月前に切り替えていたので、まあこういうことはあるだろうと想定していたし、この18日にWissenschaftliche Buchgesellchaftからカード切り替え要請があったりしたので、なんでドイツのアマゾンなんだとは思ったが、日本の「Amazon Prime」には入っている記憶あったので、たぶん国際的な対応でやっているのだろうと勝手に得心して(なんでそう思っちゃったのか、自分でも計り知れないが、これがオレオレ詐欺の心理的落とし穴なんだろう)、新しいデータを知らせたばかりかご丁寧に、月ごとの振込ではなく格安の年間分に切り替えて(欲をこいたわけ)申込みをしてしまったのであ〜る。

 そして同じく昨日23時過ぎに今度はイギリスのアマゾンから同様のメールが入ってきた。その段階で,普通なら自動返信されるだろうドイツからの受領メールも返って来ていないことに気付いた。ここに至り、さすがのボケ老人の私もようやくこりゃおかしいと。急いでカードの使用状況を調べたが、ドイツからの相応の額の掲示はまだ記録されていなかったので、ちょっと安心してカード会社に電話すると(実はどこに電話するかでだいぶ手間取った:この電話番号では盗難・紛失以外は受付けませんとか、ご相談の時間帯は9-17時ですので明日電話し直してくださいとか)、やっと繫がったと思ったら、現カードの廃棄しかありませんねといわれ、またしても番号変更となった・・・。ううっ、これではまるでボケ老人ではないか・・・。昔は該当物件だけストップすることやってくれてた記憶あるのだが。

 ともかく、またやってしまったわけだ。今年の1/4ごろに怪しい振込させられて、カード番号を切り替えたよなあ、たしか・・・。3か月未満でまたもやかあぁぁ。そのつもりでメールを見直すと、今回の両方ともHTML表示にすると、メールの欄外上部にちゃんと「 信頼できる人からのメールでない場合は、表示しないことをおすすめします」とあった。しかし私の場合、昔からクロネコ・ヤマトの配達変更メールでもその表示がついていて、どうしてと疑問なのだが(問い合わせたけど、納得できる返事はなかった)、そっちはなんの問題もなくこれまでちゃんと荷物は届いているし。今回は当たりだったというべきなのだろう。

 よく考えないで即応してしまう自分が悪いのだが、いずれ呆けが本格化したら、ひどいことになりそうな予感がしてならない・・・。それを想定してどう対応すべきか、今のところ拙速の性格変えなきゃと思うだけで、思案投げ首の呈であ〜る。

【前日談】メールの記録を見直していたら、日本語の表題で文字化けしたメールが17日と18日に2通届いていた。テキスト表示でもHTML表示にしてみても文面には「??」とあるだけだったので、即ゴミ箱行きにしていたのだが、これが今回の予表だったような気がする。ちなみに以下のごとし。

題名お支�Bい方法の情�螭蚋�新
差出人amazon<rpzlpray@snjy.com> 

この到着メールの差出人は「amazon」のみであって、日本のアマゾンだったら表記が「Amazon.co.jp」のはず、ということにもあとから気がついた。

【後日談2 :2021/4/16】昨日あたりから、今度は楽天市場や三菱UFJニコスの名前で表題もおなじ「重要なお知らせ」が届きだした。なんだかぎこちない日本語なので無視できるのは不幸中の幸い。たとえば後者の書き出しは以下:「いつも弊社カードをご利用いただきありがとうございます。   お客様の三菱UFJニコスのNet Branchのカードには普段と異なる環境からのア クセスと判定された。」

 これがもっと巧妙になると、惚けの私などかなり危うい。

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水源と水道渠:Ostia謎めぐり(7)

 オスティアは海が近かったにもかかわらず井戸から良質な地下水が容易に得れたので、それが利用されるのが通常であったとされているが(但し、私は実際に飲んで試したわけではない;遺跡内の水道水はたしかに美味しくなかったが、あれの水源はどうなんだろう。駅から遺跡への途中にある水道蛇口nasoneのそれはまずまずだったが、一昨年に行ってみたら壊れていた。自動車がぶつかったて破壊された感じだった)、公衆浴場のような大量消費に対しては、オスティアからまず9km北上してAciliaに至り、そこから東にMalafede方向を越えて8kmのTrigoriaが水源と想定されている(具体的ポイントがどこか私は知らない)。水はそこから水道渠ないし暗渠でAciliaで発見された貯水槽を経由して(それはLido線Acilia駅から下流に400mほど帰った場所。その年の調査期間に滞在したレジデンスのご主人が車で連れて行って下さった。ありがたいことだ。その時の雑談で、現在路上に設置されている垂れ流しのローマ水道の蛇口nasoneは,実はムッソリーニが作ったものだ、と聞いてなるほどと感心したが、それは庶民にありがちな都市伝説だったようで、実際には19世紀末から設置がされていたらしい:https://en.wikipedia.org/wiki/Nasone)、そこから水道渠がオスティエンセ街道に並行して現Borgo di Ostiaにまで伸び、さらに当時の川筋の湾曲に即応して南方向に曲がり(その痕跡は現在の住居や司教館の外壁に残されている:参照、黒田泰介「ボルゴ・ディ・オスティアにおける古代ローマ水道橋遺構の転用による中世都市組織の形成」坂口明・豊田編著『古代ローマの港町:オスティア・アンティカ研究の最前線』勉誠出版、pp.321-299、口絵)、さらにOstia Antica遺跡の正門Porta Romana東のやや高台に設置された貯水槽(標高8mの由)に貯められたあと、都市内に流され、また一部さらに城壁上を走っていたとのこと(cf., https://www.ostia-antica.org/regio5/aqueduct/aqueduct.htm)。貯水槽探索で猛暑の中で黒田氏と茨をかき分けながらさ迷ったこともいい思い出である。

 これをGoogle Earth計測による等高線的に確認してみると、テヴェレ川中流域の標高は6m、ドラゴンチェッロ丘がせいぜい21m、アチリアの貯水槽跡が34m、マラフェデ地区が60m、その東のクリストフォロ・コロンボ通り東の丘が70m以上となった。水源と想定されているTrigoriaあたりは80m級ある場所もある。ついでに触れておくと、ボルゴの北端道路面が5m、遺跡内の貯水槽が5-6m、ウィクトリア広場の噴水・貯水池が3m、スカヴィ通り(昔のDecumanus maximus)が2m(但し、遺跡付近でのテヴェレ川の水面が-1mと表示されているが、それはありえないので、以上の数字には1mほど誤差があるとみるべきかも:堀教授情報では、Google EarthはGPSデータなのでかなりの誤差がある由)。

M.A.Locicero, Liquid footprints:water, urbanism, and sustainability in Roman Ostia, Leiden University dissertation, 2018:The hydrogeological composition of Ostia and the surrounding area. The archaeological site of Ostia is indicated by the dark circle (Mastrorillo et al. 2016, 37, Fig. 2).—テヴェレ川左岸デルタ:水文地質学的設定。a)採石場を埋め戻すための不均一な堆積物HOLOVCENE;b) 砂質、シルト質、粘土質の沖積堆積物 HOLOVCENE;c) 砂浜の堆積物HOLOVCENE;d) 不均一な砕屑性堆積物(砂質シルトと粘土の堆積物が砂利と混ざり合っている)PLEISTOCENE;e) ピエゾメトリック表面(等距離:1m);f) 高塩分地域;g) テヴェレ川とスタグノ運河での海水の上昇;h) オスティア埋め立ての水ポンプ場;i) Ostia Anticaの遺跡
Acilia貯水槽跡:Viale dei Romagnoliと鉄道のリド線で囲まれた高架上に移築され(それがイタリアでの遺跡保存のやりかた)、下をvia OstienseとVia del Mareが通る
Acilia付近の東西状況:左端上隅をテヴェレ河、水源と思しき地域は右の山岳地帯のどこかにある
、R.Meiggs, Roman Ostia, 2.ed., Oxford, 1973, p.112:破線が水道渠;、1517年作成のEufrosino dlla Volpaiaの地図にも、オスティエンセ街道沿いに断続的に残存水道渠が描かれている。
中央右端からの破線が水道渠の経路(現在残っていない):http://books.openedition.org/efr/docannexe/image/3734/img-14.jpg
東方向からボルゴと遺跡入口をみる。水道渠は手前中央のボルゴ区画北端の塔から左に司教館外壁をぐるりと廻って遺跡方向に向かっていた:Google Earthより
がボルゴ北端の塔古写真、が黒田氏による民家と司教館の外壁に組込まれた水道渠復元図
東南方向から遺跡の中央道路を見る:中央付近に遺跡入口、その左下方向に貯水槽遺構:Google Earthより
上記写真の貯水槽部分拡大:その延長部分と道路の交点にPorta Romanaがあった。道路沿い左手前に長方形の大噴水・貯水池の遺構:Google Earthより

 都市オスティアの正門のローマ門Porta Romanaを入ってすぐに、かなり広い空間の女神ウィクトリア広場Piazzale della Vittoriaがある(現在、その広場の左奥に女神ウィクトリアのレプリカ像が設置されているが、本来は城門上に立っていた由で、出土現物は遺跡内博物館所蔵)。そしてこの広場の東側には一見不必要なほど大きなニンフェウム(泉水:長さ23m;前面に貯水池あり)があって、私には長らくなぜこんなに巨大なのだろうと疑問に思ってきていたのだが、今回面白い叙述に出会って、なるほどと腑に落ちたのである。

 が、巨大ニンフェウムと貯水池:その右端奥に女神ウィクトリアのレプリカ像;が、正門のPorta Romana跡

 それは、私などには思いもつかぬ意表を突いた観察から導き出された考察からだった。遺跡の東西中央通りのDecumanus maximusの石畳には多くの車輪の轍が見られるが、劇場より向こう側では見られない。それはオスティアでの物資輸送が、そこから先は陸上輸送において荷馬車ではなく、荷役奴隷や荷駄によって行われたからだというもので、この点は、ポンペイ(北東最高標高のウェスヴィオ門Porta Vesuvioが集積場だった:よってそこに分水施設もある)やローマ(トラヤヌスのメルカート:ここも一番上から下へ荷下ろしされていた)の状況と似た側面がある。この伝から推察するに、広場がそれなりの広さをもっていた理由も、そこが荷物輸送の集積場であると同時に、積み荷の交換場所だったからだったこと、よってそこは多数の荷駄や当時のタクシーにあたる無蓋の軽装馬車が集合する、現在の高速道路のサービス・エリアないしパーキング・エリアに相当し、ニンフフェウムの前の貯水池も馬やラバ・ロバの荷駄獣にとっての水場、ガソリン・スタンドを兼ねていたに違いない。

 こう考えることで、これも私の積年の漠然とした疑問だった、なぜ城門近くにわざわざ浴場(Terme dei Cisiarii:すなわち「御者たちの浴場」II.ii.3)が存在するのか(も少し先に巨大な「ネプチューンの浴場」があるではないか)、も同時に氷解した。無蓋の軽装馬車でローマから到着した乗客や御者がここで埃や汗を洗い流すことができたわけだ。そのつもりでこの浴場の冷浴室frigidarium(下図でのA)の舗床白黒モザイクを読み解いてみるとたいへん興味深い。すなわち、描かれている中心テーマは、無蓋の軽装馬車と御者・乗客、それを牽引するラバなのである(周辺には海に生息する海獣たちと泳者も見えるが)。部屋の真ん中の排水口を囲む城壁と四隅の塔(それをアトランテス、ないしテラモネスが支えている)はおそらくオスティアを意味し、この部屋の壁沿いをぐるりと取り囲んだ城壁には数多くの城門が描かれているので、帝都ローマとも絵解きできるわけである(cf., https://www.ostia-antica.org/regio2/2/2-3.htm)。また、この浴場には2つのバールも付属していたので、一風呂浴びるだけでなく、一息入れて軽食をとることもできる仕組みだった。たぶん御者たちのたまり場だったに違いない。ところで、御者ってやっぱり奴隷・解放奴隷の職種だったのだろうか。

左図:https://www.ostiaantica.beniculturali.it/en/educational-panels/the-area-serving-the-river/terme-dei-cisiarii/

 上図左は二頭立てを御者が乗客2名を乗せ、右は一頭立てで御者が客寄せしている場面だろうか。下の2つには荷駄獣(たぶんラバ)の名前が記載されていて貴重である。左のPudes(はにかみ屋)とPodagrosus(痛風持ち)は並んで水を武者振り飲んでいる様子から、オスティアに到着直後で、御者は足台のはしごから客を下ろしているところだろうか、右のPotiscus(がぶ飲み)とBarosus(腰抜け)は御者に手綱をとられている;ちなみに彼ら4頭はその名前が明記された最古のラバらしい(cf., J.M.C.Toynbee, Beasts and Their Names in the Roman Empire, Papers of the British School at Rome, 16, 1948, 24-37)。

 と、ここまで書くとついでに触れたくなる。この浴場の東に隣接した建物(II.i.1)にはやはりモザイクで犬が描かれていて、犬の名前も「MONNVS」(日本風に言うとポチ?)と埋め込まれている(モザイクは3世紀初頭作)。愛犬の名前として最古かどうかは、残念ながら確かめていないが(周知のように、名付けられた猟犬のモザイク事例は数多い:cf., Toynbee, op.cit.)。

「犬のMonnusの集合住宅」の連続モザイク(https://www.ostia-foundation.org/the-mystery-of-cane-monnus/):左隅下に件の犬で、全体のテーマからは明らかに外れている

【付論1】個人的関心から、ここまで詮索していて妙な関連が明るみに。それは以前扱った「アレクサンデルとヘリックスの居酒屋」(IV.vii.4)のモザイク師(工房)がこの「犬のMONNVSの集合住宅」、および「落雷(封じ)の邸宅」(III.vii.3-4)のモザイク製作者だったとの指摘がある(https://www.ostia-foundation.org/want-to-uncover-the-cane-monnus-mosaic/)。その正否について私はそう判断する根拠を知らないが。

「アレクサンデルとヘリックスの居酒屋」の、エジプト流グロテスクな棒使いダンサー(一人は巨根持ち)と、鏡を持つウェヌスとガードルを捧げるアモルの図:この画題ゆえこの居酒屋は売春宿を兼ねていた(普通は上階の部屋で客をとる)、とも
「落雷(封じ)の家」三世紀半ばの作(https://www.ostia-antica.org/regio3/7/7-3.htm):左が、鏡とウェヌス女神で「BENVS/[・・・]AE」(ウェヌス女神?)の銘文、右はレダと白鳥。その時期、その画題のゆえ売春宿に改築された、とも

【付論2】なお、現地でつい見落としやすいが、この浴場には地下貯水槽からの人力揚水装置が備わっていた。デクマヌス通りに近い区画の赤茶けたトタン下がそれであるので、是非覗いてみてほしい。コマネズミよろしく奴隷が中に入ってくるくる回す木造ホイールの断片がそこから出土しているらしい(どこに保存されているのか私は知らない)。

左、出土した木造人力揚水装置断片;右、その構造図(但し、ミトラス浴場の第1段階図のもの:https://www.ostia-antica.org/regio1/17/17-2.htm):N室のがそれ
写真、中央左寄りのトタン屋根下がそれ;中央写真、ここにホイールが設置されていた;写真、現在でも階段直下まで地下水がきている
人力揚水機にも当然色々ある:左がホイール型、右が左上での腕力型;もちろん平地空間さえあれば、エジプトなんかのように動物を動力にした場合もあるはず。

【追記】我孫子の読書会でこれ関係の発表したら、ヴェネツィアは雨水に依存していたようだがとの例を出しての質問があった。それに対して、私に確たる根拠・確信があったわけではないが、ヴェネツァでも日々の飲料水は本土側から船で運んでいたのでは、とお答えした(緊急状況下では、しょうがなく貯蔵雨水を飲んだかもだが;貯水槽の防水が完璧だったとは思えない上に、今みたいに海水面が上昇したら貯水槽に海水が入るわけだし、ほんとどうしていたのやら)。私は地下貯水槽に備蓄しての雨水って飲料水にならないだろうという認識が強く(正直、如何に濾過していたとしても、そんな生水飲みたくない)、あれだけ水源からの直接取水にこだわっていたローマ人がそれで満足していたとは到底思えないので、家に帰ってちょっと調べてみたら、やはりというべきか、「水売り業者」の存在が出てきた。それが、必ずしも上水に恵まれなかった当時の一部庶民にとって水道渠よりはよほど身近だったかもしれない。というのも、夏の渇水期においては現在でも取水制限が課せられる場合があるように、さしもの水道渠も張り子の虎になる事態を想起すればいいだけのことである。

これらはいずれもIsola SacraのNo.30で出土したテラコッタかと。に「LVCIFER/AQVATARI [us]」、真ん中の柄付碑銘板tabulae ansataeにも「LVCI・・・/N・・・」の文字が読み取れる

 考えてみれば近代的な上水道が整備されるまでは、古今東西に「水売り」が存在していた(し、今だってそうだ、特にローマでは観光客相手にボトルで売っているじゃないか)。空気と水はタダのわが日本でさえも「水屋」「水船」があったではないか(以下、江戸の話ではありますが:https://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/01/kaisetsu3.html;https://www.jdpa.gr.jp/siryou_html/14html/14_essay1.pdf)。置かれていた状況と場合によっての、地下(井戸)水、雨水、上水、湧き水の利用という、その多様性にこそ注目して、これまで巨大水道渠にばかり目が向いてきた都市伝説は修正されるべきだろう。

各地の水売り人:、スペイン(ベラスケス画);、モロッコ;、エジプト
、イスタンブール;、満州一輪車水売り;、江戸の水屋

 反論が予想されるのであらかじめ付け加えておく。現代ではこの水売屋、観光客相手とはいえ、さらには薄めたジュースであるとはいえ。

【補遺】2021/4/19:在イタリアの藤井さんに問い合わせたら、彼女も最近井戸の井桁putealeの浮彫装飾に関心を持っていた由で、大略以下のブログを訳して送ってくれた。感謝。

 結論をいうと、最初は井戸を掘ってそれで水を確保していたらしい。それ
が可能な場所に住んでいた、というわけ。「マラモッコMalamoccoに飲み
水があったからこそ、最初の大規模なラグーン集落が生まれたのです。」

 「リアルト地区でのヴェネツィアの誕生は、雨水を集める貯水槽なしにはあ
り得なかった。」(図版1参照)

 だが人口の増加で公共・民間の井戸の数が増えても、雨水の供給も不足する
ようになる。

 そのうえ、貯水槽は冠水したり、穴があいたりして海水(より正確にはラグーンだから、汽水)が入ると、修理が大変で、だから修理せず放棄されるのが普通だったらしい。

 1318年以来、平底の水船が本土のブレンタ川の河口で新鮮な水を汲み、8バ
ケツ1ペニーで売っていた(1493年の価格)。小売りは「bigolanti」と呼ばれる
女性たちが、湾曲した棒の両端にバケツをぶらさげ肩にかけて、「aqua mo」というかけ声を呼びながら街を歩いたそうだ(図版2参照)。

 人口が増えていくと雨水の貯水槽には、potabile(飲料可)とnon potabile
(飲料不可)があり、16世紀初頭で、前者(100の公共貯水槽と2700の個人貯
水槽)と、1300の後者があった由。

 1884年に本土からの水道橋の開通式がおこなわれ、新時代が到来したわけで
す。

 ということで、私の山勘はそう間違っていなかったようです。掘り抜き井戸、雨水、本土からの輸送、の組み合わせ。
左、図版1:雨水利用井戸の構造;右、図版2:ヴェネツィアの水売り女(左隅に井戸も見える)

 なお、このブログ(Vanzan Marchini, I puteali veneziani. Storia di ieri e ignoranza di oggi – TIMER magazine )は、Elena Vanzan Marchini, Venezia Civiltà Anfibia, Sommacampagna,  CIERRE Edizioni 2009、を参照しているそうなので、探したらまだ入手可能。早速発注しました(例のごとく、本代より郵送料のほうが・・・(^_^;)。

 ところで、私なんかヴェネツィアはそのほとんどが浮き島みたいに思い込んできたが、今回坂本鉄男氏の『ビバ!』を新幹線の中で読んでいたら、以下の箇所が。p.96:「ベネチア本島の石畳の小路を歩いているかぎり、この町が118の小島を400以上の橋でつなぎ合わせたものとは想像がつかない」と。小島だったらそこで井戸は掘ることできるわけだ。となると雨水の件ばかりを強調するのもおかしくなる。これも一種の観光案内的誇張のような気がする。

 また、藤井さんの在所の中部イタリアの「アラートリAlatriでは、つい70年ほど前まで、街の各所にある噴水?から水を汲んで、各家庭に持ち帰っていたそうで、頭に載せて運んだ銅製の両把手付きの水入れが町のシンボルにもなっています。我が屋から最も近いところで歩いて40分のところに、かつての水くみ場の痕跡があります」とのこと。40分! ま、渇水のアフリカの現状よりはましだが。

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翻訳ソフトの今

  ラテン語一緒に読んでいる若い人から最近、無料の「Google翻訳」なる翻訳ソフトの存在を教えられ、大まかなこと知るためには、こりゃほんとうに便利だとこのところ遊んでいる。デジタル論文が手軽に試訳できて、たしかに超便利。キーボード打たなくても日本語が出てくるので、労力の節約にもなる。ただ、活字本の場合はコピーしてOCRスキャンし、訂正しないといけないので、そう簡単にはいかないだろうし、意味不明の誤訳部分の修正にやはりかなり時間がとられてしまって、これじゃあ最初から訳した方が、などと文句いいながらであるが。

 後輩がこれまでも「ざっと読んでみましたが」などと書いていた理由がやっと分かった気がする。若い人は先刻ご承知で利用しているわけだろう。皆さんおやりなのに、私は相変わらず辞書引き引きタイプ打ってやってたのがバカみたいな気がしないでもない。とはいえ試して見て、さすがにラテン語の邦訳は無理みたい。 それとあれこれやっているうちに、jpgをpdfに変換するソフトなんかもみつけてたが、やっぱりちょっと面倒だ。 

 以下は、ローマ・トイレ関係の本のAmazon.comでの紹介でオランダ語から直接日本語に訳し たもの。ざっと文意をとるためにはほぼ完璧で、びっくり。細かいこと言うと冒頭からちょっと問題かもだが、古代ローマ世界には一定の共通の給水・排水システムがあったわけではなく、状況に合わせて住民がそれぞれ小規模な解決策を色々ためしてみて、それらがだめだったとき初めて大規模で高価な工事を行ったのだ(それが従来、他文明や後世の中世・近世ヨーロッパとの比較で、優れた水道渠や地下排水システムとして喧伝されてきたわけであるが)、という重要な趣旨は十分に伝わるはずだ。ま、第2次世界大戦のドイツ戦車となると映画などでは必ずと言っていいほど「6号戦車」(Tiger:アハトアハト)が出てくるが、確かに最強だったがコスト的に量産できなかったのが現実だったのと似ているのかも知れない。

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Gemma C.M.Jansen, Water in de Romeinse Stad Pompeji-Herculaneum-Ostia,2002(https://www.amazon.co.jp/-/en/Gemma-C-M-Jansen/dp/9042911182

ローマ人は都市の水供給が良いことで知られています。すべての都市で、彼らは優れた給水、衛生設備、排水システムを提供しました。この研究では、イタリアで最も保存状態の良い3つのローマの都市、ポンペイ、ヘルクラネウム、オスティアのこのような施設について説明し、比較します。これは、ロ ーマのシステムがなかったことを示していますが、ローマ人は水問題に対してさまざまな標準ソリューションを持っていて、さまざまな組み合わせで適用していました。都市の住民は、井戸、雨水収集、またはセスプールなどの好ましい小規模施設を調査しました。 これらが効果がなかった場合にのみ、上下水道システムなどの大規模で高価なインフラストラクチャの作業が開始されました。

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 次はイタリア語。Barbara Lepri et Lucia Saguìの論文(Vetri e indicatori di produzione vetraria a Ostia e a Porto,2018)の冒頭、ためしに掲載すると以下のごとし。註番号なんか直さないでそのままにしている。

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 オスティエンセのガラスシーンに関する私たちの知識はまだ非常に不足しています。最新の発掘調査のガラスの発見物が現在ほぼ定期的に公開されているとしても(図1)、それらは体系的な研究ではありません。1唯一の例外は、スイマー浴場の発掘に関する巻に掲載された先駆的な研究によって表されます。 これはそれが作られた年を考えると、特にフラビアン時代から、そして2-3世紀の終わりから、まだオスティアガラスの研究の基礎を表しています。2 アウグスブルク大学のMacellum4ブロックの発掘調査で、ドイツ考古学研究所ロムとローマのアメリカンアカデミーが地域III、IV、Vで実施した37のエッセイで見つかったガラスを、ここ数か月で研究する可能性3(図.2)、ポルトゥスのローマにある英国アカデミーのものでは、皇居のエリア(図3)5、そしてパオラ・ゲルモニ博士の利用可能性のおかげで、オスティアの預金と文書にアクセスするそして彼女の共同研究者6は、まだ多くの調査が残っているとしても、その範囲が次第に広がっている研究に着手するように私たちを刺激しました。

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 とはいえ、辞書や文体が一番鍛えられているはずの英語でも、書き手の文体によってぐちゃぐちゃな訳になる場合もあった。たぶん技巧を凝らした文体なのだろう。それ以上に自分的に辞書を鍛えるわけにはいかないようで、これが目下の不満。Senatorが「上院議員」、Emperorが「天皇」と訳されるが、それを私が「元老院議員」「皇帝」と提案してもたぶんダメだろう。その道の人から聞いた所では、翻訳業用の高額な変換ソフトもあるらしいが、とてもリタイア老人には手が出ない。

 ポーランド滞在の林君からは、以下のような指摘が。「Googleのオンライン翻訳は、ポーランドのニュースを知るために私もよく使い ますが、データが蓄積されてないとマイナー言語のオンライン翻訳はきついです。(中略) ポーランド語→日本語は使い物にならないので、ポーランド語 →英語でGoogle翻訳はよく使っていますね。 データが蓄積されているのでネット翻訳でも普通に読めます」。ビッグデータの解析投入で情報を早く正確に取得できるようになってくれることは、残り時間が限られている痴呆直前の私にとってなにはともあれありがたいことに違いない。

【追記】その後、あれこれやっていると、訳されていない脱文が生じている事例に遭遇。それなりに見直しは必定であると認識。

【追記2】イタリアのF女史から、同様の翻訳ソフト「DeepL」を教えてもらった。有料にすると独自の辞書も構築できるという触れ込み。Googleよりはこなれた日本語のように思える。

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原発崩壊と自衛隊、そして米軍:飛耳長目(77)

 昨日はテレビ会議で疲れたせいか、私としては早く寝た、それで本日早く目が覚めて、ちょうどNHK総合で、東関東大震災のときの自衛隊と米軍の裏でのやりとりの新情報公開をやっていた(磯部晃一・元統幕部長:後から知ったが彼はこのテーマで本も書いてた)。それで少し前に読んだ一連のブログ記事を思い出した。この3/11が10周年だったからだろうが。書き手はいずれも森 永輔(日経ビジネス副編集長)。あ、これって有料記事だったっけ。

「福島第1原発2号機にホウ酸をまけ! 幻で済んだ自衛隊決死の作戦」https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00179/030200042/?n_cid=nbpnb_mled_mpu

「水素爆発起こした福島第1原発に水を放て!飛行隊長が振り返る2日間」https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00179/030300043/

 以下は、今回初めて読んだ2018年のブログだが、なかなか考えさせる内容だった:「陸上自衛隊トップ、辞任覚悟の出動命令:東日本大震災の発災からわずか30分で下した決断」(https://business.nikkei.com/article/interview/20150302/278140/022300001/)。プラス面的には、制服組の日頃の訓練が危機的状況に生きてくる。それをダメにするのが政治家や官僚だ。

 この記事の最後に以下も。

【東日本大震災と自衛隊】

トモダチ作戦、米兵はシャワーすら浴びなかった
第3回 一等陸佐 笠松誠氏

平時の管理は性悪説 有事の実行は性善説に立つ
自衛隊元統合幕僚長の折木良一氏

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3月11日で東日本大震災から7年を迎えます。被災地の復興が進む一方、関心や支援の熱が冷めたという話もあちこちから聞こえてきます。記憶の風化が進みつつある今だからこそ、大震災の発生したあの時、そして被災地の今について、考えてみる必要があるのではないでしょうか。

(「3.11から7年…」記事一覧はこちらから)

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世界キリスト教情報第1573信:2021/3/15

= 目 次 =
▼米バイデン政権、「子ども移民」増加に妙案なく最大級の試練に
▼ニューヨークYMCAがキャンプ場3カ所売却へ
▼教皇、イラク司牧訪問終えてバチカンに
▼イタリアが昨年に続き、復活祭は原則外出禁止
▼スリランカで「非急進化」目的の過激派拘束が可能に?
▼新駐日教皇大使にボッカルディ大司教
▼世界80カ国以上で福音伝えたルイス・パラウ死去=「教皇は長年の友人」

 今日は復活祭関係を紹介。

◎イタリアが昨年に続き、復活祭は原則外出禁止
【CJC】イタリア政府は3月12日、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、4月4日の復活祭(イースター)前後の同3~5日を全国的に原則外出禁
止にすると発表した。昨年のイースター期間も外出禁止措置が取られた。
 イタリアでは新型コロナで連日数百人が死亡。英国由来の変異株感染者の割
合も増えている。ドラギ首相は、ワクチン接種を加速させていく考えを示した、と共同通信が伝えた。□
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