月: 2021年3月

世界キリスト教情報第1572信:2021/3/8

= 目 次 =
▼「生き残ったら奇跡」と戦時下の日本をバチカンに報告した書簡確認
▼教皇、イラク訪問を前にビデオメッセージで挨拶
▼教皇、ローマ発、バグダッド着=初のイラク司牧訪問
▼教皇、イラク司牧訪問2日目にシーア派最高権威シスタニ師と会談
▼教皇のイラク司牧訪問、全日程こなしローマへ

 今日は最初のニュースを紹介。

◎「生き残ったら奇跡」と戦時下の日本をバチカンに報告した書簡確認
【CJC】ローマ発共同通信が、第2次大戦中に駐日ローマ教皇使節(現在の
大使に相当)を務めたパウロ・マレラ大司教が戦時下の日本の様子をバチカン
(ローマ教皇庁)高官に報告した書簡が現存することが3月3日までに分かっ
たと報じている。
 書簡は、空襲警報が絶えず鳴り響く日々に言及し「この破滅の後に生き残る人がいれば奇跡だ!」「外国人にできることは全く何もない!」と伝えていた。
 教皇ピウス12世(在位1939~58年)関連の機密文書をバチカンが公開、共同通信が1944年12月12日付のイタリア語で手書きされた書簡を確認した。
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時節がら気になること:飛耳長目(76)

コロナ後の社会層の格差二分化拡大のメカニズム:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64350

国境をどう護るか:https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20210303/pol/00m/010/008000c?cx_fm=mailhiru&cx_ml=premier&cx_mdate=20210308

軍事施設等の周辺への外資の土地買収監視の必要性:https://www.yomiuri.co.jp/politics/20210214-OYT1T50038/

いつの間にか、外国資本が水資源を買い占めている:https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20210303/pol/00m/010/008000c?cx_fm=mailhiru&cx_ml=premier&cx_mdate=20210308

英国王室の人種差別:https://wedge.ismedia.jp/articles/-/22393?utm_source=newsletter&utm_medium=email&utm_campaign=20210309

原発事故と女性差別:https://mainichi.jp/articles/20210308/k00/00m/040/121000c?cx_fm=mailhiru&cx_ml=article&cx_mdate=20210309

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古代ローマ男子専用トイレ:Ostia 謎めぐり(6)

 現地調査は休暇の都合で例年真夏となる。私にとってOstia antica遺跡が主要研究対象になって以来、とにかく現場に転がっているオリジナルな宝を求めて歩き回るのを信条に、というのも遺跡に不可欠な考古学や建築・土木の知識も皆無だったので、無手勝流でいくしかなく、「犬も歩けば棒にあたる、豊田が歩けば遺物にあたる」と念じつつ、猛暑の午後も遅くなると半ば朦朧として遺跡内を彷徨するのが常だったが(遺跡内レストランで14時頃の昼食時にいつもビール飲んだりするせいでもあるが (^^ゞ)、さていつごろだったか、たぶん早々と妙な構造物をみつけていた。それが私にとっての、古代ローマ時代の男子専用立ちション・トイレ開眼の瞬間だった。

 場所は、遺跡群の北西端といっていい「ミトラスの浴場」Terme del Mitra(I.xvii.2:その先には旧河口にあった宮殿以外ほとんど未発掘)。ここは1939-40年に発掘され、創建はハドリアヌス時代で、セウェルス朝時代と四世紀第1四半世紀に改造されたことがレンガ積みによって判明している。現況でみると、南北に細長いこの箇所は地上に浴場とキリスト教教会堂の遺跡が相前後して広がり、西外側地下にはミトラエウムがあってミトラス神のもっともらしいレプリカ像が置かれ(本物は遺跡内博物館に展示)、これらすべては通常の見学者でも見ることができる。逆の東側地下は南北の通路となっているが、こっちには許可なしでは入れない。

右写真の中央が東西通路の入り口で、すぐ右にそこから北への通路出入り口が見える
後述のNielsen & Schiøler, Fig.1による現況の地階=一階平面図:中央から左が浴場部分、右が教会部分、それに手前の壁体2列は地下構造と連動して地下では南北の通路となっている;なお、本構造体の西外側の左上のL字型は公共トイレ、その右手地下にミトラエウムが位置する

 しかしなかなか複雑な構造体なので、細かい施設の意味は当時の私には不明だった(後日、その理由が分かった。ここは一階=地階だけを見ている限りダメで、地下と上階を含めて初めて理解できる構造なのだっ)。だがそれだけに私にとって興味深い遺構であることも確かだった。東側の南北の道(ミトラス通り)から南寄りの、西へと建物を横断する通路に入ってすぐ右側に、北に向けての入り口があるが、現在では鉄格子があってそちらに進入はできなくなっている。

 その右壁の床に大理石製とおぼしき奇妙な構造物がある。さてそれが何なのか、排水口でよく見る切れ口の穴があり、屋内での壁際でもあるので、ひょっとしてとの思いは最初からあったが、本当に思い付きのレベルなので口には出せず、これが積年の課題だった。この狭い空間、逆方向も鉄門で閉鎖されていたが、鍵さえ開けてもらえれば進入できる感じだったので、そのころ遅ればせながらようやく見つけたほとんど唯一の先行研究文献(Nielsen,I. & Schiøler,T., The Water System in the Baths of Mithra in Ostia, in:Analecta Romana Instituti Danici, 9, 1980, pp.149-159+plate)を把握した上で、2016年に管理事務所の許可を得て開けてもらった。以下の写真がその時のもの(同時に、堀教授グループのレザー測量も入った)。

左、鉄格子越しに通路の北方向をみる;右、内側から南端部分をみる:右排水口付近に注目

 床に長年の土砂が堆積していたので、それを取り除いてみると、白色のモザイク舗床が微妙に凹になっていて(上掲写真では巧まずして、鉄格子の影でそれとわかる)、しかも南端のトラバーチン製敷居の下部に排水口とおぼしき穴が開いていることも判明。これは思わぬ収穫だった。要するにこの場所が水を使う場所であることの傍証だからだ。なお、見方によれば穴が2つ見える。ひょっとすると右上のそれは、掃除の際に栓を抜くと水が流れ出る仕組みだったのかもしれない(cf., Nielsen & Schiøler, Fig.10:但し、彼らはその左の排水口については無視しているようだ)。

上が実写、下が構造断面図(cf.,Nielsen & Schiøler, Fig.11)

 さて、件の構造物である。材質は大理石か。縁が若干高くなっていての凹面に都合5つの穴が開いている。両脇2つが花片状切れ込み、内側2つが単純な丸型、中心の大きな穴はどうやら破壊された痕跡が認められるので、花片状だったのかもしれない(そこで左右に割れてもいる)。これらの穴で上からの流水を受け止めて、下のたぶんテラコッタ製の箱に流し込んでいたのだろう。この箱状の中の現状は枯れ葉や土砂が詰まっていて、私にはついに未確認のままなのだが、左隅に、溜まった液体を下に導く土管の穴が開いているらしい(以下参照)。Fig.11の断面図への我々の実測を記しておくと、上蓋部分は縦39cm、横185cm、穴の形式は大3と小2が交互に配置されていて、直径はそれぞれ20cm(中央15cmか)と12ー13cm(排水口自体は直径5cm)。深さはスケールを差し込んでの概算で36cm。小の排水口は単純な丸型だが、大のほうは、遺跡でもその気になればよく目撃される花片状の切れ込みが、この場合は6箇所入っている。Ostiaにはそれとちょっと異なった「丸に逆三つ巴」といった意匠の下水の上蓋なども見られる。

左はDomus del Protiro(V.ii.4-5):たぶん墓石の再利用品;右はよくある菱形三切込型(Terme del Faro:IV.ii.1)

 そうこうしているうちに、トイレ関係の色々な文献を目にすることができるようになってきた。イギリスのBarry Hobson氏(1925-2017年:91歳)、アメリカのAnn Olga Koloski-Ostro女史(1949- )、オランダ人のGemma C.M.Jansen女史(1963-)たちである。こうして私は自分の直感を信じていいことの裏打ちを得た。このように私の場合、まず現場があって、そこで浮かんだド素人の疑問を解決すべく文献調査に向かう、という段取なのであるが、それが実を結んだ希有な例であろう。

Ann Olga Koloski-Ostroと、Gemma C.M.Jansen(残念ながらリタイア医師Hobsonの写真はウェブで見つからなかった。ご存知寄りからの提供を待つ)

 ところで以下は参考資料。サルディニア島のCagliariの「全国社会保険公社」INPS改築時発見の洗濯工房fullonicaの床モザイク。銘文は「M(arci) Ploti(i) Silisonis f(ilius) Rufus」(マルクス・プロティウス・シリソネの息子ルフス)。おそらく同工房の所有者名と思われるが、fullonicaの必需品の男性用立ちション・トイレを図案化したものと想像。

 さて本筋に帰って、テラコッタ部分の左底の導管の下部はどうなっているのか。

 上記の図、Nielsen & Schiøler, Fig.12は、Fig.1のA-Aでの東西断面図である。左端がトイレとその部分拡大図、そして浴場湯沸・暖房構造、右端が地下のミトレウムである。部分拡大図を見ると、地下通路に導管が伸びていて、そこにはもとアンフォラが置かれていて、尿が集められたと想定されている。そしてそれは地下通路を北のfullonicaに運ばれて使用された。筆者はその構造を現地でつぶさに確認することができた。

地下構造図(九州大学・堀研究室提供):右端下のΓ字区画の2箇所「Full-1,2」表記が洗濯作業場
左、見つけたぞ!導管開口部;右、それにライトを当ててみた

 地下部分は一般的に奴隷の作業場であり、ここのfullonicaも劣悪な作業環境だった(オスティアには地階=一階部分でのfullonicaは別に数軒確認されているので、何を好んでの地下設置だったのか、私には疑問となっている:https://www.ostia-antica.org/dict/topics/fullones/fullones.htm)。しかも私ですら幾度も頭を天井についぶつけたほど、なぜか低く、大の大人よりも子供奴隷がもっぱら投入されていたのかもしれない、とは実感であったし、道路沿いを除いては自然光源も届かず暗闇の世界なのである。

左、こっから入った;右、内部の天井はこんなに低い
左が上図でのFull-1、右がFull-2:作業場は、ここも天井は低くとても狭苦しい:かなりの臭気を発したはずなので、劣悪な作業環境だったと思われる

 こうして、立ちション・トイレがおのずとfullonica研究につながってくるわけである。となると、ポンペイ出土のフレスコ画に触れておきたくなるのも人情というものだが(但し、もう遺された時間がないので、fullonica研究は後進に譲っておこう:とりあえず以下参照、Miko Flohr, The World of the Fullo:Work, Economy, and Society in Roman Italy, Oxford UP, 2013)、私はこれを所蔵場所とされていた国立ナポリ博物館で探していたのだが、偶然まったく予想外の部屋でみつけることができた。これについてだけ紹介する機会を持ちたいが、そこでも子供の作業員が描かれていて示唆的である。

 閑話休題。ところで、この階段下に構築された小空間がトイレだったことは、階段の3段目に換気のための穴が穿たれていることからも明らかかと思われる。そして2017年に、筆者は意を決してこれをよじ登って階段を上がってみた。そうすると、上階の左右になんと貯水槽を確認できた:もちろんそのための地下貯水槽から上階への揚水装置も2段構えで併設されていたわけであるが、今はそれに触れる余裕はない(cf., https://www.ostia-antica.org/regio1/17/17-2.htm)。そこに登って大規模な仕掛けが工夫されていることを、私はようやく実感をもって理解できた次第である。高所揚水の利点は、いうまでもなく重力を利用しての配水の便にある。

左、高台から撮ってみると階段は踊り場を経て更に上に伸びていた;右、下の階段の3段目の下に空気穴が開いていることが確認できる。これは同時に光源にもなっていたはず。

 それにしてもこの階段は途中から上に伸びていてなんとも奇妙な外階段である。しかし歩道に数段分伸びていたとしたら歩行者の邪魔になるし。最初は関係者以外が登れないようになっていて、たぶん利用時に木製の踏み台が設置されたのであろうと思っていたが、同じ通りに面した北側でこれまた奇妙な構造物を見つけてしまったので、この仮説はあっけなく撤回となった。ま、素人の淺知恵でありんした。

北側の階段構造の遺物:中空構造なのである

 要するに、この壊れた遺物はローマ時代の階段の構築方法のひとつを示してくれているわけである。そういえば南のそれにも歩道にわずかだが一段目の踏み台のトラヴァーチンが残っている。この階段構造の類似物はフォロ・ロマーノのアントニヌス・ピウスと妻ファウスティナの神殿の階段でより大規模に目撃できる。

Tempio di Antonino e Faustina:左、復元想像図;右、遺跡ならではの現況で構造丸見え

 さらに、この件で写真を見ていて色々気付くことあった。私には歩道に見えていたものがどうやらそうではないこととか、その「歩道」はこの浴場の北端まで延びておらず途中で途切れていることとか、その「歩道」の下のところどころに穴が開いていることとか。

南から北を見る:「歩道」の下の穴に注目

 下の写真のほぼ中央部に件の階段構造遺物。たまにはいつもと逆の視点で見直してみると思いがけない発見をすることもできる。なにごとによらず正面玄関からばかり見ていると実態を見逃しかねないわけだ。いやあ、なかなか難物だが実に興味深い構造体である。

北から南を見る:「歩道」の路肩が途切れている?;そういえば道の対面にはそれはまったくない

【備忘録】もうひとつ、男子専用立ちション・トイレが確認されている中部イタリアのMinturno遺跡について触れる機会を得たいものだ。ここには写真だけ掲載しておくが、例のJansen女史の論文もある。Gemma Jansen, in: a cura di Giovanna Rita Bellini e Henner von Hesberg, Minturnae.Novi contributi alla conoscenza della forma urbi, Edizioni Quasar, Roma, 2015, pp.129-138.

壁に向かって石畳の道路に設置されている。ここでは下部構造は確認されておらず、今となってはなんとも希有な例である(私的には壁の穴も気になっている)

 上階トイレの総まとめや、そうそう、トイレの宝庫、Piazza ArmerinaやVilla Adrianaにも触れなきゃ。さてさて私に残り時間はどれほどあるのやら。学部演習で完訳した以下の内容も紹介したいものだ。B.Hobson, Latrinae et Foricae:Toilets in the Roman World, London, 2009.

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またまた失せ物探し:痴呆への一里塚(44)

 2021/3/8:今日は実印入れたポーチを探し回った。実印押す必要のある書類が来る、というので、手元そばに関係書類と置いていたはずが、肝心なときポーチが雲隠れ。元の置き場もなんども家捜しした。それでも見つからないので、すんでのところで、そんなはずないと思いつつも無関係の妻にまで職場に電話するところだった。

 結果は、書類とポーチを上に置いていたファイル箱の裏側、ではなく(そこは最初に見た)、なぜか30センチ横にずれた場所の食卓と壁の間に挟み落ちていた。ポーチが黒色だったので見えなかったのだが、今回は念を入れて懐中電灯で照らして発見、ふ〜〜。ざっと1時間半の捜査時間。最近、こんなのばっか。

【教訓】手間でも、いつもの置き場所に置いておくこと。いつかそこも忘れるだろうから、妻に言っておくこと。

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ローマで前6世紀の住居出土:遅報(73)

 2015年に、現在のローマ市の中心部から前6世紀の大きな邸宅が発見された(参照、https://www.digitalaugustanrome.org/:85付近かと)。その場所は、古来Quirinaleの丘と呼ばれている地区で、現在ではテルミニ駅から共和国広場を経て、バルベリーニ広場に弧を描いて至るバルベリーニ通りの北端に位置するPalazzo Canevari(Largo di Santa Susanna, 13)の敷地内で、その改築現場での2010年からの予備発掘によって出土した。この歴史的建造物は、19世紀後半にイタリア王国で3度財務大臣を勤めたQuintino Sellaによって建てられ、地質学研究所の元本部で、現在はCassa Depositi e Prestiti S.p.A.が100%所有するCDP Immobiliare=不動産開発セクターの所有である。2013年に前五世紀の神殿が発見され(幅25m、長さ40mと、当時ローマ最大級:その下から前七世紀の新生児の骨格も出てきた由)、調査は周辺に拡大され、そこで今回の発見に至った。

中央上部の赤印がPalazzo Canevari

 ローマ第6代の王セルウィウス・トゥリウス(紀元前578-535年)による城壁の北西端に位置していたその場所から、なんと、かの王と同時代の前六世紀に属する大きな住居がでてきたのである。保存状態は良好で、家は長方形で(3.5m × 10m)、玄関と柱廊玄関のあるトゥフォ石のブロックで区切られた2つの部屋、壁は粘土で覆われた木で作られ、高さは3m、屋根は瓦で覆われていた可能性がある。ここ10年間でもっとも重要な発見とされているのも無理はない。

左図赤線がセルウィウスの城壁:出土地は上部くびれやや下付近か;右写真、中央に女性が立っている

 この地域は城壁内とはいえ場末であったので、従来ネクロボリス=墓地としての使用が想定され、ローマの住民はフォロ周辺(上記地図ではティヴェレ川蛇行付近以南)に居住しているものとばかり考えられてきたが、今回、居住地が予想以上の広がりを持っていたことが実証されたわけである(考えてみれば、城壁でわざわざ護る必要があったのだから、まあ墓地よりも住民がそれなりにいたはずではある)。その一方で、2013年に発見された前五世紀の神殿との関連でその管理人の住居だったという、時代設定的に若干矛盾したような想定もされているようだ。別の考古学者は、この住居はかの神殿ができるまでの約50〜60年間使用されていた、と考えている。

 イタリアでは、このような発見があると、私有地といえども遺跡保存されなければならない法律があるので、いかなる形になるかは不明だが、遺存されるはず。たとえばナヴォーナ広場北側でドミティアヌスのスタディウムがビルの地下と一階部分の空間を割いて保存されているように(以下の写真参照)。

は時々見学会が開かれている地下遺跡、は現在の通りから見ることできる入場門
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2020年発掘トップ10:遅報(72)

2021/1/1ARCHEOLOGY誌情報:トップ10の中に古代ローマ関係がひとつだけ入っていた。

 このところ、ずっと整備調査中で見ることできないフォロ・ロマーノのセプティミウス・セウェルスのアーチ門と元老院会議場の間であるが、そこの地下にローマの礎石といわれている「黒石柱」ラピス・ニゲルLapis Nigerがある。その付近から小さな記念碑が、1899年に考古学者Giacomo Boniによって発見されていたが、その後1世紀以上にわたって忘れられていたものが、今回の調査で「再発見」された。

 カエサルが作った元老院会議場curia Juliaの階段を修復中に、前6世紀の石棺と小さな丸い祭壇を含む地下墓室が出てきた。そこが伝説時代のローマの最初の王ロムルス(前771-717年)の墓ではないかというわけである。私にはその真偽を論ずる資格はない。

左がラピス・ニゲル付近の祭壇復元図;右が再発見の丸祭壇と石棺

 余談になるが、それにしても、上左のラピス・ニゲル隣接の祭壇復元図を見て、かつて1997年夏に訪れたラヴィニウムで見学した「十三祭壇」にそっくりなことに驚かされる(http://www.koji007.tokyo/atelier/bar/)。

現在は第14番目も見つかっている由
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Oplontisの希有なトイレ:トイレ噺(26)

 エルコラーノのトイレ話を書いていたら、思い出して。OplontisのVilla di Poppeaには、意表をついた隠しトイレがあるので紹介しておこう。

中央サロン(下図での24)から両翼に広がる邸宅に向かって、右端の坂を下っていく。

 この別荘、皇帝ネロの愛妾ポッパイア所有と言われているだけあって、鮮やかな色彩の剛胆ともいえる壁面絵画が目を奪うが、正面左にみえる列柱廊の裏側に、共同トイレ(下図左での21;右図だと44:平面図は上記写真とは方向が逆になっていることに注意)があって、そこには下図では右方向から入って行けることが見てとれよう。そしてさらによく目を凝らして見てほしい。馬蹄形をした通常の共同トイレを示す番号(21)に重なって手前に狭く細長い空間があることに(右図では44の下)お気づきだろうか。

右はその拡大図で、トイレは(44)

 上記写真が馬蹄形の普通の流水型共同トイレで、往時は木製の便座があったと思われる。室内に外光は直接入らずほとんど真っ暗。手前右端の構造物は水槽の縁。ところでここに至る通路が右手前にあって、それを逆にトイレ側から写した写真が下図である。そこでは左側に出入りする通路が伸びている。手前左下に見える構造物は水槽の縁。

 問題は、侵入禁止の木製扉が壊れてたてかけてある箇所で、そこを覗いて右向きに撮った写真が以下である。ついでにいうと、ここはさらに真っ暗闇である。

ただ左壁に沿って深い溝が区切られているだけ

 溝の上の壁に便座を設置した痕跡はない。すなわち、男子用の立ちション用便所である。要するにここでは、共同トイレの手前に男子専用の立ちション・トイレが立地している希有な例で、私の知っている数少ない男子専用トイレである。それにしても、両トイレとも閉鎖空間なのでいかに流水型とはいえ、往時においてはかなり強烈に異臭がただよったのではないか。華麗を極めた豪邸のすぐ背後の思わぬ秘め場所である。なぜこんなややこしい場所に作ったのだろう。私には賓客用とは到底思えず、従業員の奴隷や被解放奴隷専用だったと断じたいのだが、どうだろう。ひと言申し添えておくと、この邸宅、今のところ他にトイレ構造は残っていない(完全に発掘されているわけではないが)。

 なお、Pompeii in picturesの中では(https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/VF/Villa_055%20Oplontis%20Villa%20of%20Poppea%20p12.htm#_Room_47:_Latrine)、この横長トイレを女性用、馬蹄形のほうを男性用と表記しているが、納得できない。

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エルコラーノのトイレの落書き:トイレ噺(25)

 前ブログで思い出したことが。エルコラーノの「宝石の家」Casa della Gemma(Ins.or.I,n.1)には、小さい個人用トイレがあって(下図17:18は台所)、そこの南側壁に有名な落書きが残っている。ここは事前に見学許可をとる必要がある。

Apollinaris medicus Titi im(peratoris) / Hic cacavit bene=「アポッリナリスは、医者は、ティトゥス皇帝の / ここでよき排便をした」(CIL, IV, 10619)

 ウェスビオス火山の後79年の噴火時(8/24;ないし10/24)、ローマ皇帝はティトゥスであったので(79/6/24-81/9/13)、エルコラーノの埋没までの実にきわどい期間に、この家をティトゥス帝の侍医が訪れたことになる。もっとも「imperator」とは当時ではまだ「最高軍司令官」の意味が強く、第一次ユダヤ戦争でエルサレムを陥落させたティトゥスは、71/8/6以来帝位に就くまでに8年間に実に計15回も最高軍司令官の歓呼を受けているので、父帝生前においてそう呼ばれることがあっても一向に不思議ではないのであるが。

 また、この邸宅の北と東側を占めている大規模(約1800㎡)で眺望絶景なうえに豪華絢爛な邸宅「テレフォス・レリーフの家」Casa del Rilievo di Telefo (Ins.or.I,n.2:下図・写真参照)が、もしウェスパシアヌスが勝利して皇帝になった68-9年の内乱で、彼を支持した元老院議員マルクス・ノニウス・バルブスM.Nonius.Balbus 所有のものだとすると、ひょっとするとそこにティトゥスが滞在した折に(ヘルクラネウムにおいて格式的にも皇族の宿舎に最もふさわしかったはず)、同行していた侍医が隣家に逗留(分宿)したのかもしれない。いずれにせよ、この落書きを記したのがはたして侍医自身だったのか、それとも貴人逗留を記念して家人が書き込んだものなのか、謎であるが。常識的に後者の方がありえるだろうが。

この豪邸から郊外浴場に出ることできるそうなので、M.ノニウス・バルブス所有と想定されている。ちなみにバルブスとは「吃音=どもり」の意
往年の絢爛豪華さを偲ばせる最上階展望台のMable Salon(18)

 段々と、M.Nonius Balbusにも言及したくなるが、それはいずれ。郊外の浴場前の広場の彼の立像と、国立ナポリ博物館のたしか中庭列柱廊の出口近くにあった騎馬像が、今回ようやく結びついた(JuniorとSenior両人がいる)。

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プロシュート型?携帯日時計:遅報(71)

 以前見つけていた2017/1/24の記事がたまたま目にとまったので。「古代ローマの「ハム」形携帯時計、3D技術で検証:3Dプリンターを駆使して忠実に再現、使い方や機能が明らかに」(https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/012300022/)。

 以下がエルコラーノのパピルス荘から1775年に発見された現物の現況(後1世紀後半:国立ナポリ博物館所蔵)と発掘時のスケッチ。

 が3Dでの復元品に発見当時のスケッチにあった豚の尻尾状の針を設置;は豚肉のプロシュート

 私はこういう数式が必要な理系的思考はやたら苦手なのだが、私も大好きな豚の生ハム・プロシュート型をした携帯日時計Portable Sundialということで、おもしろいなと(別説としては、水筒がわりの革袋型とも;私的にはそのほうが身近な感じする)。古来携帯日時計は旅行者用に色々工夫されていたようだ(機会があれば触れたいものだ)。地中海世界では、中世修道院で修道士が時祷用に所持していたとか。

 このプロシュート型、きちんと計測すれば誤差15〜30分程度らしいが、弱点は風でゆれるので実際にはもっと不正確になるとのこと。ただ、考えてみるとのどかだったあの時代、そんなに正確さは要求されていなかったので、十分実用的だったとは思う。だがまあ私など天空の太陽の角度で推し量かればいいことと考えてしまう。当時の庶民にとっても必需品ではなかっただろうが。

 普通の日時計はこんな形で固定設置されていた。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/b/111000126/?SS=imgview&FD=-787263934はエルコラーノ遺跡のCasa della Gemma(Ins.or.I,n.1)の中庭設置のもの
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西洋古代史の未来問題

 ある古代史関係の学会の月報に、2022年度から高校世界史が必修からはずされ、フランス革命以後のみ扱う「歴史総合」が始まるので、西洋古代史の今後を憂えている一文を読む機会があった。

 かつて私が所属していた史学科では、1、2年次の概説レベルの講義でも高校で日本史しか受講してこなかった学生にも西洋史や東洋史を選択必修としていたので、学生の戸惑いに接することがあったが、「山川の詳説世界史の教科書をざっと読みなさい」といった乱暴な指導をせざるを得なかったことを想い出す。まあ選択必修のためそれなりの受講生も得ていたこともあり、行く末に危機感も感じることなく過ごしていた。そして立場が変わって教職リタイア後に、この私のブログは、主軸は古代ローマ史関係のはずのところ、アクセスの頻度数としては、圧倒的に雑談レベルのもののほうが多いのが現実で、世の中の皆さんにとって、古代ローマ史なんかどうでもいい存在なんだな〜と痛感している身からすると(この点、一世風靡された塩野女史はとにかく偉大というしかないが、なぜなのだ?)、いまさらながら研究者がおたおたしているのも滑稽な感じがしないでもない。

 私の感覚からすると、中等教育において地球規模で世界史を論じる事ができる、ないし論じる視野が要求されるのはいわゆる「大航海時代」以後であって、それ以前の原始・古代・中世は、隣接文明圏との関係を踏まえながらの各国史レベル中心でいいようにも思われるので、今回なんで時代区分的にフランス革命以降なのかについてはまったく納得できないけれど、古代ローマ史なんか、大学に入ってから外国文学や語学、地域研究で必要に応じて学べばいい、また、そういった科目を目指している者は高校で世界史を選択しているはずとの判断なのだろう。

 いずれにせよ、従来西欧での古典語・古典学重視がそのまま輸入されてきて、これまで高尚さを売り物にしてきた経緯があるが、その西欧においてさえ古典語・古典学の重要性減退が著しい昨今、見直されるのは当然である。なにしろ第2次世界大戦以降の日本史すら高校で手抜き状況は問題と言わざるをえないし。

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