月: 2023年3月

世界キリスト教情報第1678信:2023/3/27

 このところの様子から予期されたことだったが、発信者から以下の連絡があった。「主宰者がこの1月に85歳を迎えました。【週刊 世界キリスト教情報】の 企画・編集・配信にも影響が出て、受信者皆様にご迷惑をお掛けしています。 あれこれと対応を検討しましたが、この4月10日付けをもって休刊することを決意いたしました。  突然のことですが、事情ご了承のほどお願いいたします。メールマガジンな どへ転載・使用されておられる方には、さらに手間のかかることになりますが 、申し訳ありません。長い間のご支援、ご協力に改めて感謝いたします。  なお情報源の【CJC通信】は、なおしばらく(2023年度内)は発信を 予定しています。」

 長い間ご苦労様でした、と言いたい。後継者が得がたいのはどこも同じである。

◎ロシア、ベラルーシに戦術核配備へ=ウクライナ政府高官が批判
◎中国、ウクライナ侵攻1年でロシアに無人機15億円分輸出
◎ホンジュラス、中国と国交で台湾と断交
◎韓国のカトリック司祭団体、「尹錫悦退陣」要求する「時局ミサ」

 今回は最後のニュースを紹介しよう。
◎韓国のカトリック司祭団体、「尹錫悦退陣」要求する「時局ミサ」
【CJC】韓国メディア「ハンギョレ新聞」(日本語版)によると、カトリック正義具現全国司祭団(正義具現司祭団)が3月20日午後7時、全羅北道全州市(チョンジュシ)の豊南門(プンナンムン)広場で民主主義回復と平和を願い、検察独裁打倒と買弁売国独裁政権退陣を要求する「時局ミサ」を開いた。

 正義具現司祭団が政権退陣を要求する「時局ミサ」を開いたのは、尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権では今回が初めて。

 この日のミサは神父、修道女、市民など主催者側推算1000人余り(警推算500人余り)が参加する中で開かれた。全州教区のキム・ジンファ神父は説教を通して「私たちは惨憺(さんたん)たる思いで、しかし断固として、『憲法を踏みにじり国民の自尊心を踏み付けたためもうその座から下りるべし』と言わなければならない。

 正義具現司祭団はこの日「絶体絶命の今、泣訴します」という声明書を通して「尹錫悦政権が歴史に永く輝くことを心より祈願し、梨泰院(イテウォン)惨事で退陣の声が高まった時も私たちの生活方式を作り直すのが先だとして期待を捨てずにいたが、今日、大統領の勇退を促す」と明らかにした。

 正義具現司祭団のソン・ニョンホン総務神父は「彼が日本に行ってきて以来、私たちの大統領ではない、日本のための大統領だと考えるようになった。韓国人だと思ったのに、日本のために働く、国民と関係ない他の働きをする大統領だった。だからこそ私たちが立ち上がって退陣を要求するのだ。時は熟した。(この豊南門広場は) 朴槿惠(パク・クネ)元大統領の退陣を要求した場所だ。本当に国民による大統領、国民と共にする大統領、国民の生と共にする大統領が必要だ」と語った。□

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世界キリスト教情報第1677信:2023/3/20

 元情報のブログでは、「企画・編集の都合で、3月13日付けを休みます」とあって、その一週間後のアップもないが、小原氏のブログ(http://www.kohara.ac/news/2023/03/20.html)には3/20分として以下が掲載されている。

◎北朝鮮に拘束されたキム・グクキ牧師の妻「生存確認だけでも」
◎教皇、台湾の仏教の僧侶たちと会見
◎「DKZ」のギョンユン、”カルト宗教信者”めぐる物議に謝罪

 この現象をどう捉えればいいのか門外漢の私には分からないが、今回は最初の記事を紹介しておこう。

◎北朝鮮に拘束されたキム・グクキ牧師の妻「生存確認だけでも」

【CJC】北朝鮮で宣教活動中に逮捕され、8年間拘束されているキム・グクキ牧師の妻、キム・ヒスンさんが夫に送る手紙を公開した。米政府系放送局「ボイス・オブ・アメリカ」(VOA)が3月10日報じた。キム牧師の家族がメディアに心情を明かしたのは初めてだと、VOAは伝えた。韓国メディア「東亜日報」(日本語版)によって紹介する。
 キムさんは手紙で、「寂しくても頑張ってください。今年、あなたは70歳です。一緒に迎えたいです」とし、「健康はいかがですか。あなたが生きていることだけでも確認できればいいのに」と切ない気持ちを表した。また、「国内だけでなく世界の多くの国であなたが無事に釈放されて戻ってくることを祈っています」とし、「あなたは一人ではない。多くの人があなたのために努力している」とメッセージを伝えた。
 大韓イエス教長老会合同に所属するキム牧師は、国内でホームレスなど社会的弱者を支えていたが、2003年に宣教のために中朝国境地帯である中国遼寧省丹東に派遣された。キム牧師は脱北者や「コッチェビ(浮浪児)」など北朝鮮住民のための「脱北者シェルター」を運営し、北朝鮮に医薬品や農機具などを送り、宣教活動をしたという。15年に北朝鮮当局に逮捕され、スパイ罪と国家転覆陰謀罪の疑いで無期労働教化刑を宣告された。
 キム牧師夫妻の知人が、「権寧世(クォン・ヨンセ)統一部長官が7日、拘束者の家族に会って励ました。米国務省もキム牧師の釈放に関心を示し、キム・ヒスンさんが勇気を得たようだ」と伝えたと、VOAは報じた。
 米国務省は1月、全世界の政治犯釈放キャンペーンでキム牧師を紹介し、「キム牧師をはじめ、すべての政治犯の釈放を求める声に参加してほしい」と呼びかけた。
 北朝鮮には現在、キム牧師のほかにもキム・ジョンウク、チェ・チュンギル氏や脱北者出身の韓国人6人が拘束されている。

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(5)3/16の徘徊

 まず、その前日のリド・ディ・オスティアの海岸での夕焼けをごらんください。もちろん無修正(念のため)。私はこの鮮明なあかね色が大好きです。白い雲が朱に染まり、徐々に墨色に変わっていく。なぜか日本ではこんな夕焼けに出会ったことがない気がする。我らはこれを見た後、中華料理屋でチンタオ・ビールと夕食を楽しんだ。

3/16 晴天。

 ドイツ留学中で先般我らと合流したGE君と二人でオスティア関係の遺跡めぐりを企て(OK君より譲られたオスティア遺跡の入場券が8日間通用でオスティア遺跡管理事務所管轄下の諸遺跡[Ostia Antica, C.Giulio II, Museo navi, Porti Claudio e Traiano, Necropoli]共通券18€だったので:なんと今回の訪問で知ったが、オスティア遺跡のみの1日券はなくなっていた! あとの選択肢は年間パスの40€。これってかなり大胆な実質的値上げじゃんかあ・・・。今年中にまた来りゃいいだろ、というわけか)、早めに駅前で郊外線バスのコトラル1.3ユーロを2枚づつ購入してイゾラ・サクラのマウソレオに向かう。乗車場は駅の若干左側。

 例の給水塔が右手前方に見えたところで無事下車、ところが早く着きすぎて10時だっけの開園まで間が持たないので、まず北の教会跡、その後、西のマウソレオを押さえ、そしてロータリーのところにあるバールでこちらでの朝食、ブリオッシュとカプチーノ。そこからちょっと西に歩いたところのエディコーラでポルトゥスに行く道を店のご主人のお爺さんに教えてもらうが、橋が30分歩いた西にしかないので、橋を渡ってそこから川筋をほぼUターンして、計小一時間歩かないといけない。

 とぼとぼ歩いてようやくポルトゥス公園の入口につき、2人いたクストーデさんの指示に従い、園内を北に道をとり、かなり歩いてやっと受付にたどり着く(入口に作っておけよ、といいたい所だ)。そこにも3名ほど人がいて、あっちがクラウディウス、こっちがトラヤヌスと説明を受けたあとは、無料の地図をもらって(別途、QRコードで説明を読むこともできる)勝手に自力で歩くシステム。遺跡の各所に説明板はあっても道順なんかの標識はない。野原の気ままな散策という感じ。このところの晴天続きもあって、もう雨期も終盤の趣で野原には可憐な花も咲き乱れている。

トルローニアの館までいって、最近発掘中の皇帝宮殿方面はパスして、帰路に移る。入口への帰り際にすれ違った見物人は2組のみ。すでにかなり疲れていたので(約1時間の無駄なUターンがきいていた:あのロータリーあたりに橋があれば、または陸橋の自動車道に歩道があれば、こんな苦労はしなくてすむのに・・・)、ケータイでウーバー方式のタクシー呼んで船舶博物館への道を探ろうと思ったが、まずは途中で見かけた中華料理屋(例の赤い提灯ぶら下げている)で昼食をとひたすら歩いて、そこでビールを飲んで元気になり、GE君のケータイで首尾よくタクシーも来てくれた。それに乗ってケータイでの事前提示料金20ユーロで船舶博物館に到着。

 私は18ユーロの入場券で、彼は40ユーロの年間パスで無事入場。20年前と比べて今回内装もすべて改装されたようで明るく(昔のはなんだか薄暗く寒々とした印象の記憶が)、船の展示はいうまでもなく、説明板、関連展示もなかなか体裁よくあか抜けている(一部、フランスの手が入っているようだ)。本物とコピー取り交ぜての展示物の中でひときわ私の注目を引いたのは、船舶繋留装置であった(表示には「Bitta d’ormeggio, marmo, Portus, II secolo d.C.」、すなわち(船の)繫留柱、大理石製、Portus出土、後2世紀、と書かれていた)。私にはトラヴァーチンにしか見えないのだが。その直後、それ関係で予想外の遭遇もあったのだが、その時はそんなこと知るよしもない。我ら以外の入場者はフランス人男性一人のみ。そこになぜか係員5,6名はたむろしていたな。なんとも贅沢というかいたずらに無駄な感じである。

しかしこんな平べったい石の差し込みで船がちゃんと係留できたのであろうか:土留め装置もないようだし
私が異常接近していたので、お喋りしていた2人の女性監視人の注目を引いてしまった。ぎりぎり何もいわれなかったようなので、計測するのは諦めた。

 そこを出て、我らは博物館の背後の野原にそっと向かった。突堤跡とかつての港の管理者の官舎跡を見るためだ。群れてお喋りに興じていた係員たち、監視カメラ見ていなかったのだろう、警告を受けることなく、そこでなんてことない平凡な写真を撮ることができた。それが以下の写真。実は20年前にこの角度で撮っていたら「ピーっ」と鋭い笛の音がして、なにごとやあらんと周囲を見渡したら空港方向のはるか向こうの建物の影に自動小銃構えた兵隊さんが・・・。要するに飛行場だし軍用地だからこっち側を撮るなという警告だった。わかったわかったと手を振ってあちらに背を向けて写真撮った体験あったので、実は今回もビクビクモノだったが、今回は何も起こらず・・・。

こんもりとした凸が緩いカーブを描きながら向こうへと続いている

 だけど、そのあと最初に見学を飛ばしたイゾラ・サクラのマウソレオに帰ろうとして、右往左往、この日の徘徊が始まったのであ〜る。まずはバス停をさがすがみつからない(空港内巡回の無料のシャトル・バスのはあったが、郊外線のコトラルのが・・・)、GE君のケータイ情報でそれがあるというちょっと離れた北側に自動車道を歩いて向かう。

 その途中でなんととんでもない遺跡に。それは博物館の裏にあった突堤の延長で、自動車道で切断された向こう側の続きだった。それ自体の存在は平面図で知ってはいたが、それを目の当たりにできたのは、この徘徊の思わぬ副産物であったのだし、しかも博物館の裏のそれには見当たらなかった、私にとってきわめて興味深い痕跡がそこに認められ、俄然興奮も高まったのであ〜る。それは、トラヴァーチンないしトゥーフォ製、ないし大理石製と思しき船舶繋留装置が抜かれた跡であった、はずなのだ。文字通り、犬も歩けば棒にあたる、豊田が歩けば遺跡にあたる。だから徘徊はやめられな 〜い。

自動車が疾駆するこんな自動車道をヒヤヒヤしながら歩いていると・・・(右側が博物館区域)
左手の草地に突堤の延長が…
よくよく見ると等間隔で穴が開いているじゃないの、これはひょっとすると・・・

 たぶんひょっとしたわけである。最左付近での穴ぽこ間は平均141-150cm、穴の大きさは横幅30,縦25cm、といった感じで、我が愛すべき米軍御用達のガーミンによる測定高度は−14mと出た。え、なんでぇ?

 この出会いで私は充分満足したのであるが、その遺物を通り過ぎて自動車道から見返すと、おっとっと、

 さらにその偉容が偲ばれることとなった。これは博物館裏の突堤跡ではそれほどの高度差でなかった光景だ。そしてこちら側には穴は開いていない。その手前地面にぽつぽつ見えているのは、照明灯。

 ちなみに我が愛すべきガーミンによるこちら側の測定高度は40m! ものの10分でのこのでたらめさにはもはや苦笑いも浮かばない。

 その後、その先のロータリーまでいくが、停留所が見つからないので、タクシーを呼ぼうとしてこれもうまくいかない、たぶん飛行場に近いせいだろうとのことで、来た道を博物館までまた引っ返すが、そこでもタクシーはなぜかイタリア語をまくし立てて来てくれない(キャンセル3回)。しょうがないので明るいうちに飛行場のターミナルまで歩こうということになって、それは自動車道をあれこれいくつも強制横断するということを意味するのだが、無事成功し、私は初めて徒歩でローマ空港にたどり着くという快挙を達成することができたのであ〜る。これを得がたい体験といわずして・・・、なにをか言わんや。

 なつかしのターミナル3のタクシー乗り場で乗車(差配していた係員に「荷物は」と問われて「ない」と答え、怪訝な表情されてしまった:おれたちは難民か)、運ちゃんにはトゥット・トレンタと連呼して(全部で30ユーロ、のつもり:ローマの雲助運転手、下車時に一人30だと言いかねないので)、運ちゃんもメーター倒さず動きだすが、どうやらオスティア橋での事故のせいで渋滞に巻き込まれさんざ時間とられながらもリド・チェントロ駅に到着。運ちゃんお約束の30ユーロ以外に渋滞にこと寄せてチップを要求し出す。面倒なので金満日本人の端くれとして5ユーロ札を出すと喜んで引ったくる。

 18時過ぎてのご帰還に、心やさしいOK氏はわれらのためにビールを残してくれていた。夕食は米を炊いて、ふりかけに湯を注いで軽くすませ、早く寝る。28580歩。これって今回最高歩数だ。

【追記】この突堤等については、以下参照。http://www.ostia-antica.org/portus/plan-claudius.htm

 ところで、帰国後1か月過ぎて興奮が醒めて見直していて、気がついてしまった。ポンペイの係留装置の計測は、横23cm、縦44cmだった。これだとフイミチーノのアナポコよりは微妙に縦が大きくなる・・・。ということは、フイミチーノのはポンペイと規格が違っていた可能性もある。やっぱり船舶博物館で計測すべきだったなあ。

【追記2:2023/5/17】あれこれ調べていると、現地研究者たちはあの穴を係留装置の抜けた跡とは考えておらず、ウィトルウィウス『建築書』叙述に依拠して、堰堤構築工法における横木の露頭部分と捉えているようだ。まあ、このあたりの着想の欠如は素人の哀しさであるが、丸太にしては穴の断面が大きすぎる気がするし、背面の北側に見当たらないのはおかしいな、と思うだがどうだろう。いずれにせよ、この問題は継続検討したい。

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(4)移動日

 3/11早朝に起きて、それなりに住みよかったポンペイのコンドミニオを後にする。私には未だよくわからない現金の宿泊税(ポンペイでは1泊2ユーロ)と鍵を室内において扉をしめれば、はいサヨウナラという仕儀。駅で巨大な荷物を持参するOG君と合流してからしばし、めずらしく周遊鉄道が定刻通りやってきた。

周遊鉄道は、相も変わらず落書きだらけの車体だらけ:一部きれいなのもみかけたが

 ナポリ駅で荷物を預け、地下鉄に乗り換えてカヴール駅経由で国立博物館へ。ビザンツ関係とかの展示会をしていたが、大枠展示に変わりばえなし。ここも、高校生とおぼしき集団がガイドないし引率教員に誘導されて多数群れていたが、その大多数の疲れ果てて無関心な顔つきを見ていると、どこも同じで、学校教育の限界について、久々に思い巡らされてしまったことだ。しかし思い起こせば、けっしていい生徒でなかった私が未だこんなことしているのは何故なのだろう。

 その後どうなっていたか気になっていたアレクサンドロス・モザイクはまだ修復中で、その場所には合成布製?の複写がぶらさげられていた。

 2時間の見学を終え、足の都合というわけではないが、地下鉄で博物館前から大回りしてナポリ駅(ガリバルディ)に移動。そのとき車内で面白いものを見つけた。ちなみにポンペイでは全く見かけなかったマスク姿をナポリではちらほら目撃していたが。

車中でも距離を取りましょう、という表示が地下鉄車両の床に貼られていて:これいつまで残ってるんだろうか

ナポリ駅2階で慌ただしく昼食をとり、イタロという別会社に乗るOG君と別れて、我らはFSに。と、まるで我ら二人の専用列車のおもむき。どうしてこんなに乗客いないのだろうと思っていると、ときどき停車もするし、それで行きのFrecciarossa(1時間強) と違って2時間ちょっとのIntercityであることを知る(あとから家族連れ数名が乗ってきて、よりによって我らの横列に)。

 テルミニからピラミデ経由でリド線に乗るが、3年前の未使用の乗車券が使えたことはダメ元だったので、ありがたさと同時に意外感あった。車内にはナポリと比べ一段とマスク姿の、特に老人がぼつぼ目に付いた。通い慣れたオスティア・アンティカ駅を通り過ぎ、チェントロ駅で下車すると、予約したOKは今回の宿舎は駅の直ぐ裏ですと簡単にいうが(実際に裏の線路脇なんだけど)、そこをめざして重いスーツケースを引きずって線路の陸橋を超えてまた下るのは、今の私には一苦労で、彼に助けてもらうしまつ。75歳、老残である。

 着いた場所はコンドミニオ群といったほうがいいような、規格化された新しめの4階建ての建物群で、その前で待っていることしばし、OKから連絡受けてやって来たのは、まれに見る上品な初老のご婦人だった。古代ローマ史でマトロナと呼ばれる「既婚婦人」もかくやという印象。その彼女が手に持った携帯を我らに差し出す。見れば日本語で「身分証明書をみせていただけますか」とか「それを写真にとっていいですか」の文章が。ここまでグーグルの翻訳が活用されているとわ!  ローマの宿泊税は一人3.5ユーロ/日。ここはそれが前払いだった。ただ契約したOKさまいわく、ここの借り上げ費は安く、日本円で一日一人当たり4000円ちょっとなのだ、と大いばりなのである。とまれ内装も小綺麗で清潔感にあふれ、年金生活者にやさしいので感謝です。簡易ベッドを含めれば4-5名は宿泊可能。

よくみると一部5階もあるが、エレベーターはない、はず。われらの住居は3階。

 チェントロ駅の前には大型のスーパーがあるのは知っているが、疲れているので、こちら側の街を歩き、アリメンタリイと小さな売店のみつけ、とりあえず前者でパンとトイレ紙、宿舎に近い後者で水・ビール等を買う。後者はモロッコさん風の店員が、いちいち電話で値段をボスに聞いていたようで、察するににわか仕立ての店番か。

 そのあと、これまで中華料理を連呼してきたOK君に引きづられるように、陸橋を越えてチェントロに出る。以前滞在していたことのある宿舎への道だったので見覚えある通りで、繁盛している寿司屋を横目に、たどり着いた店でまず見せられたのが大きく拡大されたバーコードで、なぜかメニューと一緒に持ってこられる。OK君が聞き取った説明はバーコードが英語版のよし。しかしここでも注文は口頭。あと、支払いもクレジットが主流とみたが、我らは現金。

 家に帰れば、シャワーを浴びる気力もなく私は爆睡するのであった。

【追記】今回の2箇所のコンドミニオの台所で気になったのは、電化製品の普及である。今滞在中の台所の写真をみよ。

手前がコーヒーメーカー、中が電動ヤカン、右はこれまでもみたことある電子ヒーター?

偶然だろうが、ヤカンはポンペイもまったく同じ銘柄だった(そこには電子ヒーターはなく、ガスだった)。後から気付いたのだが、下には自動食器洗浄器と、レンジ・オーブンも付いていた。この家にはマッキネッタがないのには、畏れ入った。カプセル買わないとカフェも飲めないとは。ちなみにこの機械(LAVAZZA A MODO MIO)、後から調べたら、どうやら日本未発売のようで、ちゃちな作りの割には1万7千円はするしろもの。泡立ちがよくてバール並みのこくなのでついほしくなるが、日本の水でははたしてどうだろうか。

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(3)ポンペイでの追加訪問地:Morgine発掘地点

 そういえば、今回是非とも訪れておきたい場所があったのを思い出し、大荒れとの天気予報が大外れの曇天下、遺跡から南に700mを午前中に往復しました(これ書いている午後1時半、しっかりと雨が降り出したようですが、しばらくしたらまた太陽が・・・:こちらの雨期はこんなのとか、夜のうちに降っているとかが多い感じです)。iPhone計測で往復5600歩程度で、驚いたことに7日にねじった右膝がかなり回復していて、普通に歩けるようになっていることでした。

 さて、件の場所とは、ポンペイ遺跡の大体操場内にこのところ豪華なフレスコ壁画が掲示されてきた「Morgine=argo Murecine」遺跡のことです(今回、以前の展示よりだいぶ縮小されてしまった印象あります。奥のほうには別の新展示が開陳してあって油断ができません)。

 足の不安があったので、あらかじめiPhoneの地図で道順を見極め、それを頼りにとぼとぼと行ってきました。確かにあれ便利ですね。  

 国鉄の線路を高架で通り抜け、着いた先はネギなど植えられた農地や草ぼうぼうの空き地で、そこを東西に高速道路が横切っています。その工事中に発見された古代遺跡からめぼしいものを保存切り取って、道路建設が優先され、今や高速道路の下になっているようです。表示くらいあるだろうと期待したのですが、それらしいものは見当たりませんでした。作業中の農婦さんに発掘現場(スカーヴィ)はこのあたりですか、と聞いたけど、そう、だけどもう自動車道の下になったり、埋め戻してたいらになってるよ、という感じのやり取りでした。そのとき横を車ですれ違った主婦さんも運転しながら「ああ、スカーヴィね」と言って、直ぐ近くの住宅に入って行かれてたので、ご近所からすると、物好きな輩がまた来たわ、という感じでありました。

奥に壁のように見えるのが高速自動車道:発掘地点はたぶんこの道の行き止まり、というかトンネル付近

 ガーミン計測での海抜は59mで、ちなみにこのあと昼食にポモドーロのパスタを食したFS国鉄駅ポンペイのレストランあたりは63m、例の引き算すればそれぞれ、標高5m、9mとなるのですが、さてどんなものでしょうか。

 このそばを、往年のサルノ川の本流が流れていたはずですが、なにかで読んだブログでは、近年著名な公害垂れ流しのドブ川となり、暗渠化されてしまったとされてたはず。でもグーグル・マップなんかみても3、400m南をちゃんと流れているようですが、今回そこまでは行きませんでした。

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世界キリスト教情報第1676信:2023/3/6

元情報に行ってみたら以下の文言が。「≪連絡≫世界キリスト教情報(第1676信)は3月6日に送信すべきところ、主宰者の一身上の理由で、送信が3月7日まで出来ませんでした。申し訳ありません」。

◎中国が全人代開幕、23年成長率目標「5%前後」
◎教皇、今年4月にハンガリー司牧訪問
◎ウクライナにおける戦争から1年、教皇の祈りとアピール
◎ブラジル貧民街の個人宅、「今年の家」に 建築専門サイトが選出
◎クフ王のピラミッドで未知の空間発見、構造解明に期待

 今回は、キリスト教情報とは思えないが、最後のを紹介してみよう。

◎クフ王のピラミッドで未知の空間発見、構造解明に期待

 【CJC】カイロ2日発ロイター通信(日本語)によると、エジプト観光・
考古省は3月2日、首都カイロ近郊のギザにあるクフ王のピラミッド内部に通
路のような空間が見つかったと発表した。4500年の歴史を持つ大ピラミッ
ドにおける新発見につながる可能性もある。

 見つかった空間は長さが約9メートル。2015年に始まった「スキャンピ
ラミッド」プロジェクトによる成果で、3Dシミュレーションや宇宙線を利用
した新技術を駆使してピラミッド内部構造の調査が行われた。

 学術誌「ネイチャー」に掲載された論文によると、今回の発見はピラミッド
の構造解明につながる可能性があるほか、切妻型になっている新たな空間の目
的についても調査が行われる。

 エジプト考古最高評議会のモスタファ・ワジリ議長は、今後もスキャンによ
る調査を続けるとし「通路の奥に何が見つかるかを把握したい」と述べた。

 宇宙線が大気に衝突して生じる「ミュー粒子」を利用した調査には、名古屋
大学の技術が用いられた。□

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(2)順調な外食と自炊

 ポンペイではコンドミニオを借りて、まあ基本は自炊をしている。ここは洗濯機がないのと炊事道具が不十分なのが欠点だが,空間的には広くて、周遊鉄道のサンクチュアリ駅歩いて1分だから、我らには至便である(4星ホテルのパルマと同じ建物だから基本いい集合住宅なのだろう)。[ところが、あとから悩まされ出したのが、イタリアではよくある、シャワーで温水が出なくなるという事態:テクニコが二回きたけど、最後は洗面所は温水出るけど、シャワーはいっかな冷水のままだった:家主に言わせると同時に2箇所で使うなと。そんなあ]

 ①は昨3月4日の昼は、OG君ご推奨のピザ屋(Mercato Pompeiano:ちょっと国鉄駅方向)に行ったのですが、安いはずの「デ・ラ・カーザ」(その家のワイン )を頼んだのに21ユーロの立派なボトルの白ワインが出てきて、若いかわいいお嬢さん給仕にうまくやられた感ありでしたが、まあ美味しかったので許します(本当は許さない!)。ピザは典型的なナポリ・ピザで周りの土手がやたら立派で、私は6ユーロ、OK氏は6 .5ユーロ、そして写真添付したOG氏のは10ユーロ、それに席料のコペルト計6ユー ロと、ピザ屋のくせにリストランテ並にぼったくる。甘く見られたものだ。こうなるとチップなしね。  

半分食べて、一休みのOG・ピザ

 ②われらみな満腹で、OG氏は晩飯パス。我らはちょっと薄いステーキを自炊。

我らの夕食:これにコンソメ味の冷凍野菜のスープがつく。パンもうまいので、充分いける。

 基本、冷凍野菜にコンソメ入れた温かいスープがよかった。それに近所の小さなスーパーで購入したパン(長細いのと亀の甲型)がいずれも美味だったのがうれしい。

 それにしても、後半、OG君が近くのB&Bに来てからは、一緒に夕食とるようになったのだけど、彼の腕前はたいしたもので、我らは手出しできないレベルでした。米使ってのチャーハンや、冷凍フンギと鶏肉の惣菜など実に美味しかったなあ。

③ OG君のご所望で、私がごひいきのジャルディーノのあるオステリア(Osteria da Peppino)に一夕行った。入口から中を覗いたら、以前と異なって黒と白を基調とした洒落た造作なので、あれ店間違ったかと思って周囲を見直したのだが、場所はここだと意を決して入ると、どうやらその屋の家族が夕食をしていたらしく、母親然とした女性が立ちあがってエスコートしてくれ、そのあと若いカメリエーレが給仕してくれた。彼が最初に持って来たのは、なんとQRコードとパスワード。これにはとまどってしまったが、どうやら代替わりでの新機軸といった感じ(昔なじみのご主人の顔が見えなかった)。さすがにiPhone情報はメニューだけで、注文はカメリエーレ、略してカメさんが取りに来るシステムだったのでなんじゃらほい。このあたりが、日本のシステムとちょっと違うわけ。

 やっぱりデ・ラ・カーザで頼んだ白が立派なボトルで出てきて、しかも微発酵で美味、ワインリストも35あたりからだったので、昨日の今日の我らは俄然緊張せざるを得なかったのだが、結果はなんとなんと6ユーロとはこれいかに。自重せずにもう一本頼むべきだったが、後の祭り。

 海の幸の前菜食してはじめて、おお変わらずこの店の味だと納得(オリオがいいのだろう、じつに美味)。しかし件のカメさん2皿とったらとアドバイスして、それでそうしたのだが、それで満腹感が得られてしまう小食の日本人たちが、2の皿にいけなかったのは、店としては失敗だったかも。

タコとルッコラ、絶妙な味付け

 1の皿はこれも定番の海の幸のパスタ。かなりコシの強いパスタもこの店のものだった。味は並としておこう(OK君は絶賛していたが)。

 小心者揃いの我らはここで食事をやめてカフェにしたのだが(OG君いわく、カメさんは不服そうな顔してました、と)、3人での総額80ユーロちょっととはこれいかに、であった。一人頭30€は安いよなあ。なんだかバランス感覚がまだとれない感じ・・・。やっぱここはいい店だ。も一度行きたい、つくづくそう思ったことだ。

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(1)3年振りのイタリア調査旅行

 3/1に羽田を発って、21日までイタリアにいます。前半はナポリ経由でポンペイに行き、エルコラーノにも足を伸ばします。後半はリド・ディ・オスティアに滞在し、主としてオスティア・アンティカ遺跡に通う予定。

 今日は3/4。昨日までのメモをアップしておきます。

 今、イタリアは雨期ですので、毎日のように曇天・降雨です。コロナの影響でしょうか、3年前にはあったなじみの中華料理屋がローマのテルミニ駅前でもポンペイでも消えていたり、やっぱり影響が出ている感じです。ちなみに羽田発の直行便は、乗客は4割程度でがらがらで、皆さん席を占領して横に寝てらっしゃいました。ローマからナポリの特急列車もがらがら。イタリア人でマスクしている人は例外的存在です。私も顔をさらしているので、帰国してからがこわいなあ、と。
 3/2 ポンペイ行く途中でいつも寄るナポリ駅前のリストランテ・ミミで待望の海の幸のパスタと白ワインをおいしく食したのですが(チップを含めて一人あたり40€)、日本語メニューは消えていて、イタリア語だけという地元民主体の体制になってました。その後のポンペイ行きのウェスウィオ周遊鉄道はさすが地元民で混雑していましたが。

 以下は、事務連絡で送ったメールの一部ですが、転送します。

 実はもうポンペイ初日にして得がたい体験をすることができ、我ら参加者一同は大感激、ちょっとすぐには消化しきれないほどの体験をする事できました。

 昨日(3月3日)のポンペイ調査では、通訳のイザベラさんのねばり強い交渉とお人柄なのでしょうが、クストーデ(現場の番人)との関係が上手な感じで、特にCasa di Maius Castriciusの見学ではクストーデのドミニコ氏の裁量で我々の現場での飛び入り要望に次々と応じていただけ(申請場所はそこそこに、隣接しているM.Fabius Rufusの大邸宅の迷路めぐりとなりましたが、これが本当に圧倒的な体験で)、挙げ句なんと修復工事現場でのゆらゆらゆれる簡易エレベータに乗せられて(私は本当に怖かった!)11mの最上階と地面を往復するなど、得がたい体験と見学(とりわけ,迷路のような多階層で豪華絢爛な3階立ての大邸宅を上から下まで見せていただき、その途中に現場保存の遺体とも遭遇、その上、その南に面した切石造りの城壁の観察(上記邸宅はそれ以前にできていた城壁裏を利用して建築されたもの)、地上の中庭西壁のナイル川風景のフレスコ画など)をすることができまして、大感激の呈でした。私がポンペイに通い出して以来ずっと閉鎖されてきた邸宅なので、許可見学そのものが感激ものなのですが、全く期待を裏切らない偉容でした。興味ある方は以下をご覧下さい。https://sites.google.com/site/ad79eruption/pompeii/regio-vii/reg-vii-ins-16/house-of-m-fabius-rufus?tmpl=%2Fsystem%2Fapp%2Ftemplates%2Fprint%2F&showPrintDialog=1

 午前が終わり、これもコロナの影響なのでしょうか、見物人が激減したせいなのでしょう、ここもバールだけ営業の営業休止の遺跡内レストランで、いつもと違い混雑していないのでゆっくり昼食休憩したあと、3人でポルタ・マリーナ門の従業員出入口から港湾跡への侵入を試み、番人たちの目をぬすんで部分的に裏側からの接近に成功しましたが、正式の入構許可証もありますので、正面突破は後日を期す予定です。

 かくして、初日から若い二人に引きずられて2万3千歩歩かされ疲れ果てました(円形闘技場門からポルタ・マリーナ門まで片道30分の遺跡外道路の往復がこたえました)。みんな中華を食べるのを楽しみにしていたのですが、店は消えてました。イタリアに来て、日本では感じなかったコロナの影響とおぼしき現象を散見し、改めてその傷跡に触れている思いです。
 
 しかして期せずして、本日4日は休養日とあいなりました。
見学場所の前で:右から、通訳のイザベラさん、クストーデのドミニコ氏、調査隊の2名
小部屋の中の遺体。これ未公開じゃないの?:頭蓋からは歯がみえていた。足には布のひだが確認できた
南地面から見学箇所を見る。正面が城壁、その上に邸宅上階。簡易エレベーターは中央ではなく(あれはクレーン)、その左に見えている
西端から郊外浴場方向をのぞき見る:中央を横切っている段丘に船舶繋留装置の列が見えている
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