いずれも打刻場所は上パンノニア(現クロアチア)のSiscia造幣所、打刻時期もいずれもコンスタンティヌス大帝時代に属する317-318年と大帝晩年の334-335年にあたるが、となると、317-318年のほうはリキニウス統治時代となる。これらは、大帝(272?-:在位306−337)と父コンスタンティウス1世・クロルス(250?-:在位293-306)、そして大帝が祖先としたとされるクラウディウス・ゴティクス(214?-:在位268-270)を表面に打刻しているので、コンスタンティヌス朝の始祖(伝説上にしろ:SHA, v. Claud. 13.1-3)を含めての3名の揃い踏みなので(但し大帝のコインの表面の像はコンスタンティノポリスであって大帝ではない)、つい (^^ゞ。
Louis Duchesne, Le Liber pontificalis, tom.1, Paris, 1886(https://books.google.co.jp/books/about/Le_Liber_pontificalis.html?id=_gAXCJUWI0UC&redir_esc=y)
翻訳:
Louise Ropes Loomis, The Book of the Popes, New York, 1916(https://books.google.co.jp/books/about/The_Book_of_the_Popes.html?id=Q3CxAAAAMAAJ&redir_esc=y)
Raymond Davis, The Book of Pontiffs, Liverpool UP, revised third edition, 2010.
Nathalie Desgrugillers, Liber Pontificalis 1.Des Origines au pontificat de Sylvestre (30-355), L’Éncyclopédie médiévale, 2012:入手不可
参照辞書:
de Daremberg et Saglio, Le Dictionnaire des Antiquités Grecques et Romaines, Paris, Hachette, 1877-1919(http://dagr.univ-tlse2.fr/)
猊下の聖性の栄光に鑑み、我ら謹んで次のごとく哀願いたします。我らが猊下の聖性のおかげで司られることを知ったところの使徒座のapostolicae sedis(権威)に基づき、これに対し深く頭を垂れてhoc curui、我らは祈ります、祝福されたbeati 使徒ペトルスの首位権の(時代)から、猊下の(使徒)座の中で行われた猊下たちの諸時代までずっとusque ad 諸事績を、平和の秩序のために、我らに詳述するのを猊下が決心させられますように、と。我ら謹んで、上述の聖座sanctae sedis の諸司教のうち誰が殉教の冠を得たか、それどころかuel 誰が諸使徒の諸規範に反して逸脱したかさえ知られているのかを、思量することを知る限りにおいて、我らのために祈りたまえ、至福なるbeatissimae 教皇(猊下)よ。
2. 彼は、祝福されたペトルスの指示に則りex praecepto、女性は聖堂内ではin ecclesia 頭部をヴェールで覆って入るべしと制定したconstituit。彼は、二回の叙階式で、司教十五名、司祭十八名を執り行ったfecit。彼は、祝福されたペトルスの遺骸の傍らにiuxta corpus beati Petri、ウァティカヌス(の丘)の中にin Vaticano、九月二三日に埋葬された。
第三章 クレトゥス CLEVVS
1. クレトゥスは、生まれはローマ人で、パトリキウス街 vico Patricii 出身で、父はアエミリアヌスAemiliano、(司教座に)十二年一ヶ月十一日。彼はまた[かくして]autem ウェスパシアヌスとティトゥスの諸時代、ウェスパシアヌス七回目とドミティアヌス五回目の執政官職(後七七年)からドミティアヌス九回目とルフスが執政官職(後八三年)に至るまでずっとusque ad だった。(彼は)殉教により花冠を受ける。
2. 彼は祝福されたペトルスの指示に則りex praecepto、司祭二十五名を首都ローマでurbe Roma 叙階したordinauit。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカーヌス(の丘)内へとin Vaticanum 四月二六日に埋葬された。そして司教座は二〇日間空座だった。
2. 彼は、祝福されたペトルスの記念碑を建設した、そして、彼は祝福されたペトルスによって司祭にされていた間にdum、あるいはseu 司教たちが安置されるべき他の諸々の埋葬場所を配置したconposuit。そこにさらにとはいえubi tamen et、彼自身も埋葬された、祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、七月十三日に。
1.シストゥスは、生まれはローマ人で、父はパストルで、ラタ通り街区[上図のVII]出身でde regione Via Lata、一〇年二ヶ月一日着座した。彼はまた[かくして]autem ハドリアヌスの諸時代、ウェルスとアンニクルス(の執政官職:一二六年)に至るまでずっといた。彼は殉教により花冠を受ける。
4.彼は以下を制定した。(ミサの)司式中にintra actionem、それを始めている祭司はsacerdus、会衆にpolulo (以下の)聖歌を唱和させるように、と。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主」Sanctus,sanctus,sanctus,Dominus Deus Sabalot[序誦中の文言]、そしてなどなど。
2.彼は、以下を制定した:復活祭前の七週間に断食が挙行され、そして主の御降誕ではnatalem Domini 夜間にnoctu ミサ聖祭missas が挙行されるように、と。というのもnam あらゆる時代において、誰も三時課[午前九時]より前にante horae tertiae cursum ミサ聖祭をmissas 挙行することを企図しなかったのだが、(それは)その時間に我らの主が十字架にお登りになったからだがascendit、そしていけにえの前にante sacrificium 天使の讃歌hymnus angelicus[栄光頌(グロリア)のことか]、すなわちhoc est:「天のいと高きところに神に光栄あれ」Gloria in excelsis Deo が奉献されたdiceretur。彼は殉教により花冠を受けた。
昔、ファウノの邸宅(VI.12.2)のエクセドラの床を飾っていたこのモザイクを卒論で取り上げた学生がいたので(テキストは、Ada Cohen, The Alexander Mosaic:Stories of Victory and Defeat, Cambridge UP, 1997;Paolo Moreno, Apelles:The Alexander Mosaic, Skira, 2002)、若干お付き合いして調べた時に、お〜〜〜という驚きを体験したことがあって。
さて今回ググっていたら、またまた驚くべき説を唱えている人物に行き当たった。Werner Kruckの英語版ウェブ「Reconstruction of the mosaic」(http://alexandermosaik.de/en/interpretation_of_the_mosaic.html)に寄せられた、Justin Woodのコメントである(2015/02/05)。中央から右の背後に見える長槍をギリシア系と見るところまでは同じなのだが、それをアレクサンドロス大王麾下のファランクスとみなす。即ち、ペルシア軍本陣はこの絵での背後からギリシア歩兵に追い立てられ、左からは突撃してくる大王の騎兵隊に不意を突かれ、この時点でダレイオス3世は大王軍に包囲されつつあった。それでダレイオス3世がまさに逃走を図った瞬間を描いているのだ(戦車の前の尻を見せている馬は王の逃走用だったと、もっともらしく言われている)、と。
【付記】最近このモザイクの研究書というか写真集が出ていたことにようやく気付いた(なんと、Fausto Zevi御大が寄稿者の一人としてご登場だ!:Photography by Luigi Spina et als., The Alexander Mosaic, 5 Continents Editions Srl, 2021)。しかしさて2021年開始で今年中には終わる修復結果とどう整合するか見ものである。なにしろこれまで塗られていたニスを取り除くというので、光沢など変わる可能性が高い。逆にいうと、未だにほかにそんなに専門研究書がないので、ねらい目のテーマではある。