月: 2023年2月

老残記

 1月半ばから二月初頭にかけて、20歳になった孫娘と過ごすことが多かった。一緒に広島に帰省したり、彼女が大学での課題を消化するために我が家に泊まり込みで継続して滞在していたからだ。

 ほぼ一日中同じ部屋(居間)でそれぞれパソコンに向かうことが多かったわけだが、そこで老妻との二人の生活では気かなかったことを認識させられて、自らの老化現象を再確認させられてしまった。

 第一に、匂いへの感覚である。若い娘に較べ、老人の嗅覚が妻ともどもかなり衰えていることが色々の場面で判明。トイレに薬剤を撒いておいたら、私には全然薬品臭は臭わないのに、目ざとく気づくのである。もっともこの孫娘はどこでどう間違ったのか、思春期以来魚類はいっさい受け付けない体質になってしまっているので、特殊すぎるのかもしれないと思わないでもないが、老人の嗅覚が確実に衰退していることは疑うべくもない。

 第二に、耳の中がかゆいので、私がよく黒綿棒を突っ込んでいるのを見て、耳のかゆみをとる「ムヒ」なる商品があることを教えてくれたのも孫娘だった。早速購入してこれつけるとちょっとひんやりするだけで、私の場合やっぱり綿棒でぬぐい取る結果になるのでそう効果的ではなかったが。年取ってから耳の裏のねっとりした分泌物に自覚的に気付いている身からすると、この内外の現象は一連のものと素人考えしている。

 第三に、ここ五年で私の歯がガタガタになってきているのだが(奥歯が一本抜けたせいで、歯と歯の間が開いてきたのが原因かと)、したがって食事の後に私は無意識に口の中の掃除をして、ちゅうちゅうと音をたてていることを、孫娘に指摘されてしまった。妻はすでに聴力が衰えていることもあり(別説では夫にまったく関心を持たなくなっているせいだとの有力仮説もある)、これまで何の指摘もされていなかったことで、恥ずかしくもあったが、ありがたい指摘だった。孫娘は、家の中ではともかく、新幹線の中でもやっていたので、これは周囲の人に不快感を与えるだろうから、やめたほうがいい、と。

 それにしても、朝起きたときの口中の不快感は半端でない。唾液の分泌が激減しているせいだろう。

 妻には歯医者に行けとかいわれてしまったのだが、私は最近、長寿のあげく痴呆症になって死んでいくよりも、そうなる以前に病気にかかって死ぬという伝統的死に様を選択しようと考え出しているので、そのための第一段階は歯の治療をしないことだと思い定め、あと健康診断を受けないことでガンなんかが発症したらすでに末期だった、という段取を構想しているので、却下なのである。しかし、歯のちゅうちゅうは、ここ数年、知らず知らずやって来た習慣であるので、その修正はなかなか困難なはずだ。その第一歩は食後の歯磨き実践だろうか。

 しかし彼女にしたところで、言うのを憚っていることがまだまだあるのだろうが、私としては言ってもらったほうがいいのはいうまでもない。それが諦められたら、もう人間としておしまいなんだろうなと思っている。

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コンスタンティヌスはなぜ親キリスト教政策を採用したのか : Morris Keith Hopkinsの指摘

 このテーマは、現代に至る多くの親教会的な研究者にとっては、コンスタンティヌスらキリスト教皇帝たちのキリスト教への帰依で短絡的に処理されがちである。そもそもこういうテーマを研究に取り上げようという研究者の多くはキリスト教徒、ないしシンパだったりするので、結果論的にその結論は最初から予定調和的にそうありきとなり勝ちだ。逆に、非信者の研究者にとっては、皇帝とキリスト教会の関連など最初から関心の外だったりするので、いわゆる学界の主流は信者研究者の路線で占められて来たといっても過言でない。基本的に護教なのである。その認識が薄い中で当時の文書史料を表面的に読んでしまうと、書き手(その多くがキリスト教徒)の意図したとおりの術中に陥ってしまう。それは普通の分野では「研究」とはいわれないわけなのだが。

 そんな中で、イギリスの社会学・人口統計学・歴史学者のMorris Keith Hopkins(1934/6-2004/3:1985-2000年までケンブリッジ大学古代史教授)は異色だった。まず大学院時代にはMoses Finley教授(1912/5-1986/6:アメリカ生まれだったが、赤狩りで職を追われイギリスに移住、ケンブリッジ大学古典学教授になる)の影響を受けて、社会学研究者として出発。彼は、古代史研究者は研究対象である史料は偏見に満ちているので従う必要はなく、むしろ史料を問い直し、より大きな相互作用の中で理解することを追求すべきと主張し、文献中心の伝統主義のオクスフォード教授Fergus Millar(1935/7-2019/7)と意見を異にした。ある意味、ケンブリッジ大学での最初の恩師A.H.M.Jonesの文献史学の集大成的著述The Later Roman Empire 284-602, Oxford, 1973出版のあと、おそらく、何が自分に残されているかと考えあぐねた末に、彼は、フィンレイの影響によってアメリカ流の社会科学的視点を古典学に導入しようと意図的に蛮勇を振るったのではなかろうか。性格的にも万人向けではなかったようだ。だから決して評判がよかったわけではないらしいが、20世紀において最も影響力のある古代史家の一人だったことに間違いはない。

享年69歳の「若さ」だった

 完璧主義者だった彼に著書は4冊とそう多くないが(論稿はそれなりにある。彼の人となりや研究業績の位置づけ・評価に関して詳しくは、学統的に盟友とでもいうべきコロンビア大学教授W.V.Harrisの以下参照。”Morris Keith Hopkins 1934–2004, ” Proceedings of the British Academy,130, 2005, 81–105:私はこれに導かれて迂闊にも、私が学部時代に竹内正三先生の演習で延々と読んだ前記A.H.M.Jones, The Later Roman Empire 284-602の前書きで、Jonesが謝意を表している錚々たる顔ぶれの中にロンドン大学のMr.Hopkins(当時博士論文も書いていなかったはず)が第二巻を読んでくれたという一文を遅ればせながら確認することができた)、彼の著作の日本語訳は以下の2冊しかない。

   高木正朗・永都軍三訳『古代ローマ人と死』晃洋書房、1996年(原著1983年:但し全訳ではない)

  小堀響子・中西恭子・本村凌二訳『神々にあふれる世界』上下、岩波書店、2003年(原著1999年)

 基本、経済社会学的見地から歴史を見るホプキンスが、欧米の宗教史研究の「致命的なスコラ学」打破に果敢に挑戦したのが後者であるが、私はその中で以下の文言をみつけて文字通り絶句したのである。「国家規模の寛恕と民衆の信心こそが、信心と平和に支えられて何世紀にもわたって異教神殿に蓄えられていた莫大な神殿財産を貨幣に鋳造してローマ帝国が引き出した多大なる利益から関心を逸らす役割を果たしていたのである(註66)。異教からキリスト教へ、という公的宗教の変化は、莫大な棚ぼた的利益をローマ帝国にもたらしたのである」(上、p.182)。

 ・・・・これは私にとって盲点だった! しかし、いわれてみれば納得なのである。言い得て妙なのだが、へたをすると「GOD / GOTT」は「GOLD / GELD」なのだ(昨今の旧統一教会問題など、その錬金術の小規模な現実にすぎない)。慌てて註(66)をみてみると、冒頭に「この主張は大胆であるが、細部に関しては正当化しがたいものである」と、著者自身の私には意味不明のコメントが。そこに記されていた諸史料のうち、他の教会史家たちがコンスタンティヌス顕彰で書いている中で、「無名氏『戦争をめぐる問題について』2.1」ただ一人がそれにズバリ言及しているのだが、これは初見だったので有難かった(Anonymus, De rebus bellici : https://archive.md/xo0fT:あとになって、以下もあることを知った;Firmicus Maternus, The Error of the Pagan Religions, in:Ancient Christian Writers, No.37, 1970 : De errore profanarum religionum)。こういう本は我が図書館には当然のように所蔵されているのは、ありがたいことだ。

ところで、上記以外にも翻訳であれこれ散見する意味不明の箇所確認のため早速ホプキンスの原本を発注したのだが、どうしたものか一向に届かない。現在3回目の発注を試みている状況である。キャンセル通知もないのだ。しょうがないから所蔵大学図書館からの借り出しを試みることにした。

 本書に関し、予想通り現在においても伝統的スコラ学に牛耳られている学界の反発も強くて、彼の試みが完全に成功したとは言えない。その線での研究が将来を切り拓くことは自明のことであるとはいえ、冒頭述べた伝統史学に連なる権勢は未だ強力である。進取の気性に富む気鋭の若手の登場を期待してやまない。

【付記】著者には好意的なのに監修者・翻訳者に対してかなり辛辣な以下の書評参照のこと。さながら神学の聖域に土足で踏み込まれた祭司の憤りの表白ともいえるが、私的な感想でも核心部分でまんざらはずれていない面があると思うのは、私がカトリック系だからであろうか。否、やはり翻訳の節々に問題ありと感じてしまうのだ。:

 秋山学『地中海研究』28,2005年、pp.131-136.

 他に、新刊紹介的な以下もある。松本宣郎『西洋古典学研究』49、2001年、pp.133-157.

【追記】図書館を通じて国立のTH大学から届いた件の本はペーパーバック(2000年)だったが、背表紙に折り目もついておらず、私が初見なのは歴然。さっそく犬の匂いつけよろしく盛大に折り目をつけさせていただき、気になっていた箇所を点検し始めたのだが、文飾・文体がらみのほうについては触れないとしても、単純な歴史用語に関してやはり問題を早くも見つけてしまった。英和辞典の訳に準拠したのであろう、古代ローマ史だと「円形闘技場」とすべき所を「円形劇場」にしていたり(初出は上巻訳p.65:p.66の2行目ではせっかく正しく訳しているのに、その後も回帰しているのは、どうしたことか)、アタナシオスの場合はわざわざギリシア語読みに直して訳しておりながら、なぜかアレイオスとせずに「アリウス」のままだったり。特に前者はローマ史の専門家であれば誤訳しようもない初歩的問題なので、監修者役がきちんと校正していなかったことになる。

 また、これが指摘できるのは日本で私だけかもしれないが、上巻訳の第1章註(18)で、latrineをやはり英和辞典訳に従ったのだろう、ご丁寧に「汲み取り便所」としているが、それだと、本文p.33の末尾の「各階に汲み取り便所があった」という訳と齟齬を来すはずではないか。ここは平明に「便所」でいいはずだ。

 ただ、上記松本氏が指摘していた図19(原本では22)に関する第6章註(5)での人名誤記問題は修正されており、間違いへの配慮なのだろうか、図のキャプションも懇切丁寧なコメントに改められている。また私は、上巻訳p.65,66の剣闘士競技や、下巻訳p.24とp.91掲載のいわゆる呪詛板の図版に番号も付されていないことを奇異に感じていたのだが、それは2000年版でもそうなっていたことを付記しておこう。

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