先日、NHKスペシャル「平成史」第5回「“ノーベル賞会社員”~科学技術立国の苦闘~」で、田中耕一氏のノーベル賞受賞以降の苦悩と新境地開拓が放映された。https://news.nicovideo.jp/watch/nw4851000
標記はそこで彼が言った言葉である。ノーベル賞級の発明発見の半分は偶然に見つけられたということで、それの意味することはこれまでもさまざまに表現されてきた(ルイ・パストゥール「幸運は用意された心のみに宿る」le hasard ne favorise que les esprits préparés)。今風に若干格好つけた表現をするなら「セレンディピティ」Serendipityということになろうか。
我々のような文系の輸入研究分野(紹介史学)にひきつけてみると、まあ欧米の研究成果の横文字を縦にする世界は、多少の和製のこねくり回しをほどこしたところで、所詮猿まね、縮小再生産で終わってしまうこと必定なのだが、そこでセレンディピティ創出をめざすならどうしたらいいのかと考える時、これはもうひたすら原典史料の読破しかない、と私は思わざるをえない。理系の実験は何万通りの組み合わせを一つ一つ潰していって、しかし多くの場合は実験者の事前想定などいとも簡単に覆して、最初の想定だと失敗のはずの試みから偶然に発見されることがあるわけだが、それと同様の苦闘を、我々はギリシア語・ラテン語の原典との対峙の中でしなければならない、はずなのだ。この営みはオリジナルの成果などいつみつかるかわからないのだが(しかし、体験的に必ず新発見があることも確か、なのである:鶴岡一人曰く「グラウンドにゼニが落ちている」)、それが我々にとっての何万通りの実験なのである。上記放映で若手研究者が「研究者生命をかけ」て命じられた実験に向かっている姿があったが、はたして文系の我々はそれほどの覚悟をもってやっているのだろうか。
とはいえ、人間相手の人文学は理系と違って実験はなかなか難しい。しかも、「ミネルヴァのふくろうは夕暮れに飛び立つ」(G.W.F.ヘーゲル『法哲学』序文)とはよく言ったもので、すでに終わってしまった人生でようやく初めて見えてくるものがある、と思うのは私だけであろうか。若手にはそれまでなんとか生き延びてもらいたいと思うと同時に、なぜか職を得た途端に研究を止めてしまうあられもない現実を見るにつけ、なんだかなと思わざるを得ない私である。そっから先がまさしく正念場だろうに。
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