月: 2020年1月

消える現代史資料:遅報(21)

 私の妻は、私が死んだら私の書籍をゴミとして処分するといっている。できれば大学図書館に連絡してくれ、せめて古書店に、と私が言っても面倒くさいので「お断り」だそうだ。マンションの,本来応接間が書架というか物置になっており、玄関から居間を結ぶ廊下も本棚が並んでいるし、いつの間にか居間とか寝室も私の本や書類箱が占領してきているので、気持ち的に分からないわけではない。そもそもマンションの購入費の三分の二は彼女の負担だから、ヤドカリ亭主としてはもとより発言権なしなのであるが。

 退職前に書籍の処分を思い立ち、神田の名の知れた古書店に電話したことがあったが、けんもほろろだった。団塊の世代のリタイア時だったので、よほどの稀覯本でなければ、もうけっこうということなのだろう。所属の大学図書館も、基本的に寄贈は拒否している。書架が満杯ですというのが表向きの理由だが、駄本のゴミ捨て場になるのは勘弁なのは分かるが、選別などで通常業務以外の仕事が増えるからだろうとつい考えてしまうのは、ひがみであろうか。そこをルートをたどって頼んでみたら、英語文献はそれなりに拾ってくれたが、私が貴重と思っていたバチカンの出版のイタリア語文献なんか返って来てしまったので、期待薄とは思いながらも、時代が変わってくれるのを念願して処分せずにまだ持っている。

 その折、我が国で衰退を辿っている私の専門分野古代ローマ史の欧文書籍は、売れる見込みがないので、段ボール売りとなった。それでなくとも国内の古書店はほとんど話にならない品揃えで、大学図書館もあてにならず、勢いインターネットでの海外古書データベースに依存して購入して来た。私の場合はもっぱらAmazonと「BookFinder」である。海外からだから郵送費が本代の5割に達する場合もあった。

 ウェブで「(ルポ2020 カナリアの歌:2)戦争や暮らし、朽ちる紙の資料、いまなら救える」を読んだ(2019/12/31発信:https://digital.asahi.com/articles/DA3S14313570.html)。山のような古書の中から後世に残すに足る書籍を見つけるのは至難の技だろう。商売だから売れ筋が第一にせよ、目利きでないと学術的なものの発掘はできないし、目利きを育てる風土がないと、良書も消えてゆく。

 真の歴史の再現は、これまでの支配者の言説ではわからない、庶民の実際を掘り起こすべし、という理屈をいうのは簡単だが、最近死去した義弟の家にしても、主を失った家から彼の存在痕跡はあっというまに消えてしまう。彼の写真すら,仏壇の遺影以外、親戚にとっても保存対象にならないゴミなのである。私は保存してあった義母の原爆手帳申請時のメモなどだけは持ち帰ったが(その中に高校生当時と思われる妻の生意気そうな写真もあった。妻はそれすらいらないとおっしゃる)。

 思うのだが、iPhone時代になってやたら写真が撮られるようになったが、持ち主が死ねばすべて消えてしまう運命を辿るのではなかろうか。広島の我が家には父母の時代にまだ貴重だった写真が祖父母時代からの写真帳として保存してある。そこに写っている直系の叔父叔母(四名)はすべて死去してしまった(叔父の妻はまだ2人存命)。これは印画紙に焼き付けられ写真帳になっているから残っているのであって、HDに保存されているデジタルなどは、形になっていないので、持ち主とともに跡形もなく失われてしまうはずだ。とはいえ父母と無縁の世代になれば、写真帳も処分の運命となることだろう。そういえば、私の子供二名も、小さいときの写真を見たいとも言わない。孫だってご同様で、ただゲームに夢中である。彼らが書いた絵なども我が家に保存しているが、私が撮った孫のデジタル写真ともどもどうなることやら。

 となると、現代においてすら後世に残りえる史資料とは,庶民にとってどれほどのものなのであろうか。はなはだ心許ないことである。

 実は、次にまとめようと思っている「トイレ」関係の書籍であるが、邦語での関係図書だけでもう30冊手元にあって、ちょっと広めの段ボール箱1つを占めている(翻訳物は数冊。最古のものは、李家正文『厠[加波夜]考』六文館、昭和7年:安いのを購入したこともあり、酸性紙のせいでもうぼろぼろ)。新書や文庫が多いので、これは最終的には50冊を越えるだろう。「日本の古本屋」などに捨て値で出ているのでつい購入してしまう。文庫・新書だとここでも書籍より郵送費が高いのは常である。図書館にあるものは避けているので、両方合わせるとかなりになるはず。内容的に同音異曲が多いが、意外と古いものに面白いエピソードが書かれているので油断できない。

 ま、これも私が死んだら、ゴミ袋に入れられて捨てられるのだろうか。孫が小遣い銭稼ぎに古本屋ではなく「BookOff」なんぞに持ち込むのだろうか。

【追記】戸高一成・大木毅『帝国軍人』角川新書、2020/7、の第5章「日本軍の文書改竄」が興味深い。

p.220-2:(松井石根大将の「陣中日記」の復刻時に彼の秘書だった田中正明が千数百箇所、改竄していた) いったん活字になると原本まで読む人はなかなかいません。当事者あるいは原本まで辿り着くには、面倒なこともいろいろあります。だから、活字になったものを見て済ますことが多い。世の中に出回っているものは「正しいのか?」「これは本当だろうか?」という意識で見ないといけないところがあります。

p.233-4:(宇垣纏「戦藻録」の重要部分を借り出して「紛失」した人物)黒島亀人が、自分に都合の悪いことが書いてあるからという理由で、借りだしたものを「紛失」した・・・、と本人は言いましたが、実際は焼き捨てたのだろうと言われています。・・・ (土肥一夫さんも)軍令部のファイルの何冊かで同じことをされたと言っていました。ああいう困った人が入ると、史料も危うい。

p.225:(エリート軍人は)陸軍幼年学校、士官学校、海軍兵学校では、日記をつけることが習慣づけられます。しかも、それが検閲されるものだから、軍人、特に将校は日記に本音を書かない癖がつきます。

p.232:歴史が難しいのは、伝わりやすい情報や伝わらない情報、伝わりにくい情報など、いろいろあることです。伝わりやすい文献情報だけを見ていると、当時の実際の雰囲気が抜け落ちることある。

pp.239-240:チャンスを逃したら、永遠にわからないままになってしまう史資料もあるわけです。だから個々の、断片的な情報も大切にしないといけません。立派な研究書は長く残りますが、断片資料はなかなか残りません。雑誌や新聞の小さいコラムなど、埋もれてしまったけれど実は貴重な資料もあるわけです。・・・ 貴重な史資料が目の前でどんどん失われつつある時代でもあるのです。

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『しょぼい喫茶店』その後

 昨年の10/18に書いた『しょぼい喫茶店』のその後がアップされた。なんと昨年11月中旬から休業中のようだ。しかし、無理して体を壊してはもともこもない。ゆるゆるでの再出発を祈っている。https://digital.asahi.com/articles/ASMDV36D3MDVUTIL00D.html?ref=mor_mail_topix3_6

 そのウェブの下の「関連ニュース」で紹介されていた記事に目がいった。三年前の記事だったが、私も密かに支援し、購入して来た広島での試みである。「ブーランジュ・ドリアン」。「「捨てないパン屋」の挑戦 休みも増え売り上げもキープ」(2017/3/22):https://digital.asahi.com/articles/ASK3P056TK3NUPQJ005.html?iref=pc_rellink_01。ただ、経営が順調なのはいいのだが、売り切れが多くてなかなか手に入らなくなった。送料もかかるので(通常1000円)、最近はごぶさたである。私が広島に帰ったときも週末が多いので、営業日でなく、寄ったことがない。営業日は八丁堀店で木・金・土、12:00-18:00。新年の営業は1/10より。 http://www.derien.jp/

 あと、2770日。

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ケルト・メモ:(5)エポナ女神

 余りの高額に古書が出るまで様子見していたが、『ローマ宗教文化事典』原書房、2019年、をようやく購入した(けど、我慢したほどには大して安くならなかった)。気になる項目をちらちら眺めているうちに「エポナ」に行き当たった。そこに、エポナはもともとケルトの馬の女神であったが、ガリアの神のうちローマで唯一「エポナ祭」Eponaliaという祝祭が12月18日にもたれていた、と書いてあることに目がとまった(ほぼ同様な内容がウィキペディアや、一層詳しく『ケルト神話・伝説事典』東京書籍、2006年、66-68頁にも掲載されていたのは、迂闊だった)。Epona女神像で、一般に流布している上品なローマ的傾向の彫像は以下。

Solonica出土:4世紀

 というのは、昨年の三月に京大で開催された九大の堀教授の科研での国際小シンポジウムで、オクスフォード大学のジャネット・ディレーンJanet DeLaine博士の「オスティアの街角にみる聖なるお守りたち」Seeking Divine Protection in the Streets of Ostiaの中で、これまでオスティア遺跡で帝国西部の神格のイメージは皆無だったはずが、突如エポナ女神を描いた平板reliefが登場したことに、私はおおげさでなく驚愕したことがあったからである。

 しかし、これはEric Taylor編集のHP「Ostia:Harbour City of Ancient Rome」 の「Terracotta objects」の中にすでに「E27317」として登録ずみのものだったことをあとから知ったので(https://www.ostia-antica.org/vmuseum/small_3.htm)、当方の調査不足にすぎなかったのだが。ディレーン女史は、この平板の元来の設置場所を、Caseggiato di Annio (III,XIV,4)の一番右側の空の枠内だったと想定している。下図がそれである。

Relief of Epona between two horses. Guida p. 97. Museo Ostiense. Inv. 3344.

 現地産の女神像は以下のようなものだった。見ての通り、素材・技量ともに劣るので、博物館でも見栄えしないし、見学者の興味をひくことも少ないだろう。なので結果的に見た目のいい「ローマ化」された大理石製のものの展示が幅をきかすことになるが、掛け値なしの現地発のレベルはこちらにあるのだ。

フランスのフレマン出土、ルクセンブルクのDuelem出土、ハンガリーのブタペスト出土

 続きは「オスティア謎めぐり(3)」のほうで。

【補遺】ローマ時代の文獻で「女神エポナ」が出てくるものをメモしておこう。

ユウェナリス『風刺詩集』8.155:執政官のあいだ、「毛持てる者」(ひつじ)と赭い若去勢牛(うし)をヌマ(王)の(定めた)流儀で(供犠として)殺しはしても、ユーピテルの祭壇の前で、(彼が)誓うのは、(馬の守護女神たる)エポナと臭い檻に描かれた(エポナの)像にかけてだけなのだ。

アプレイウス『転身物語』3.27:この厩の梁を支えている大黒柱の、ちょうど真ん中のところに馬頭観音(エポナ)のお像が小さなお宮に据えられてあるのが目につきました。見れば正しく真新しい薔薇の花冠がいくつか、小綺麗にそれには懸けまわしてあります。

テルトゥリアヌス『護教論』16.5:ところであなたがたの間では、あらゆる種類の役畜やすべての駄馬が、その女神エポナとともに崇拝されているのを、あなたがたは否定しないであろう。してみると、恐らくこのこと、つまりさまざまな家畜や野獣の中で、ロバだけしか崇拝しないということが、あなたがたがわれわれを非難する理由なのであろう。

テルトゥリアヌス『異教徒へ』11.6:すべてのロバですら、たしかに汝らにとって崇拝の対象である、彼らの守護者エポナと共に。そしてすべての畜群、そして畜牛、そして野獣を汝らは聖別する、そしてその上それらの厩舎をすら。

ミヌキウス・フェリクス『オクタウィウス』28.7:これが君たちが風聞によって得た話、ロバの頭は我々にとって聖なるものである、の出所である。そのようなものを崇拝する愚か者がどこにあろうか? また、それが崇拝されるなどと考える愚か者がどこにあろうか? もっともそれは、すべてのロバを君たちのエポナに捧げている、まさに君たちの中の者を抜かしての話なのだが、君たちはイシスの集団の儀式においてはロバを貪り食らう。

【閑話休題】私は四谷3丁目の老舗のイタリアン・リストランテで、二の皿としてロバ肉を食したことがある。それまでイタリア人がそんなものを食すことなど知らなかったのだが、ローマ時代にロバやラバは荷駄として多かったので、庶民は当然食しただろう、だったら食してみない手はない、と。食感としては普通の牛肉と変わることはなく、柔らかかった。まあ食用に育てられたものだろうが、往時庶民が食したのはきつい労働の挙げ句使い物にならなくなったなれの果てだったのだろうから、かなり堅かったに違いない。

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先達の足跡:(5) 安田徳太郎

 医師、歴史家。戦前は共産党シンパでゾルゲ事件にも連座、戦後著述家・翻訳者として著名(生没年:1898-1983年)。

 トイレ関係を再び漁っていたら、彼の『人間の歴史』全6巻、光文社(1951-57)がやっぱり引用されていた。わが図書館には所蔵がなかった(翻訳のE.フックス『風俗の歴史』や『エロチック美術の歴史』はあった)。他大学はどうかと思って上智のOPACで検索してみたが、なぜかヒットしなかった(あとで、東大でやってみたらちゃんと出てきた)。しょうがないので、全巻送料無料で1600円の古書を発注。

 とりあえず『人間の歴史』3所収の「肥料と女の風習」を拝読。分かりやすく説得的な文章。註記を見て驚いた。英独仏の文献を渉猟している。さすが京都帝国大学医学部卒。いずれ本腰を入れて紹介せねば。

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ローマ宮廷のトイレ(1)「ドミティアヌスの傾斜路」Rampa domizianea:トイレ噺(13)

 2015年の冬、オスティア調査の合間を縫って一日フォロ・ロマーノを再訪し歩き回った。ウェスタ神殿の南の、いつもは閉まっている「40人殉教者礼拝堂」Oratorio di XL Martyres(地図番号12付近)が開いていたので、こりゃ見逃せないと突入した。そこには中世の壁画があって、そこを拝見して出てひょいと左側を見ると30年間ずっと閉鎖され続けていたSanta Maria Antiqua教会(翌年公開された)の入り口をふさいで「MOSTRA / LA RAMPA / IMPERIALE / 20 OTTOBRE 2015-10 GENNAIO 2016」と書かれた目立たない白い立て看が目に入った。その時は意味もわからず4か月限定で何があるんだろうと歩み寄ると、その前で東西を走る通路に出て、目と鼻の先の東の端はパラティヌスの宮殿の丘に接して行き止まりで巨大な円筒型天井の構造物が。そこの右にガラス張りの入り口があって、番人もおらず中に入る。

Santa Maria Antiqua教会は9の先の1−5;6がRampa
正面左が「8」のOratorio di XL Martyres:その背後右上がRampaを登り切ったところの展望台
正面が「9」への入り口:その前を左に向かうと
「6」への入り口

 そこで展開した風景はなんとも奇妙な光景だった。ひたすら細長〜く高い天井が南への緩やかな上り坂の空間を支えている。そしてその坂の行き止まりまで行くと左折してさらに坂道が上に。そこを登り切って外に出て、今度は露天(現況)でまた左に折れて坂が続く。最後の綴れ折りを登り切ると展望台(現況)に出る。往事はそこから右にパラティヌス丘に出る道があったに違いない。すなわちこの綴れ折の坂道は、丘の上の宮殿からフォロ・ロマーノに通じる、おそらく皇帝専用の通路だったのである。

関係断面図
入り口から通路を見る:壁を隔てて左側の部屋は出土遺物展示室、右側がSanta Maria Antiqua教会
最初の綴れ折:右が上への坂道
2つ目の綴れ折
3つ目の綴れ折
上空からのRampaの眺望:左上が展望台とパラティヌス丘の地面、右の奥まった建物がSanta Maria Antiqua教会
展望台での西から北の眺望:左手前のギリシア十字型の屋根がOratorio di XL Martyres

 そこから帰りに来た道を下っていくと、一階の最初の綴れ折の隅に妙な構造物があることに気付いた(というのは嘘で、そこに向けてライトが点いているので登りの時にもう分かっていた)。まず左壁に沿って走る溝の遺構があり、その先に階段と囲いが見える。目を凝らしてみると、奥の奥になんと二人分の便座が設置可能な空間が飛び込んできたのである(実際には進入禁止の綱があるので接近して見ることはできない)。

壁沿いに溝が走って暗渠の中、すなわちトイレへと水を導く仕組みになっている
遺物の現況:この箇所は、現状までに幾度か改修されている:以下の写真や復元図は、a cura di Patrizia Fortini, La rampa imperiale:scavi e restauri tra foro romano e palatino, Electa, 2015, p.91-99.

正面奥の平石2枚はトイレの足台:上部構造は残っていない。

 このトイレは、皇帝専用だったのかもしれないが、それにしてはちょっと豪華さが足らないような気がする。とまれ、このトイレについては欧米の専門家たちも知らなかったようで、これまで誰も触れていない新知見ということになる。

 これ以降、渡伊の折に毎回訪れているが、Santa Maria Antiquaともどもずっと公開されていた(但し、公開初年の2016年にはレザー光線での3D映像などあったが、それはない)。しかし2019年夏、入場券売り場でそれらの見学も可能のはずの「Pass Super」を購入したのだが、なぜかタッチの差で見学が叶わなかった。午後は駄目になったのであろうか。

【メモ】パラティヌス丘には、ものの本で言及されているトイレが他に2箇所はあるらしいが、非公開で筆者未見である。毎年再訪のたびに奇跡の僥倖を願って寄っている。だから(2)とか(3)の続きがいつになるかは、不明。

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私の余命カウントダウン:痴呆への一里塚(15)

 『トイレは世界を救う』を読んでいたら、p.100に「カウントダウンアプリ」のことが出ていたので、それに触発されてApp Storeで無料の「nDayLeft」というアプリを入手した。統計上私の余命はあと14年余りとなっているが、話半分としてあと7年存命するとして、その年の誕生日に日時を設定したら、「あと396週余、2775日」と数字が出てきた。3D風の図形では一日が点で示されていて、それが一日いちにちと減っていくのであろうか。なんだか点の数が少ないような気がするが。

 日数の数字の方は確かだろうから、この数字を日々眺めながら、ま、できるだけ充実した余生を送りたいとの、年頭にあたっての恒例のクセのせいかもなので、実際にはぐずぐず過ごしてしまうに違いない。今日も眠たくて眠たくて(「これは経費で落ちません!」なる再放送テレビを見たせいで、昨晩、いな、今朝寝たのが遅かったから当たり前だが)、うとうとしているうちに終わってしまった (^^ゞ

 願わくば、このゴールまで意識明晰で現役でありますように。

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2020年の元旦に,閲覧注意(^^):トイレ噺(12)

 明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。

 今年こそあの論文まとめないと(^^ゞ 以下、決意表明を兼ねまして。

ゴルフボールらしい:一発必チュウ!を狙います

 元旦の朝10時前にピンポンと鳴った。なんと宅配便のおじさんだ。大晦日の昼過ぎに古書店に発注した本を持って来てくれたのだ。正月早々ご苦労様である。こんなに早くていいのだろうか。なにか間違っているような気がする。

 で、届いた本は『餓鬼草紙・地獄草紙・病草紙・九相詩絵巻』中央公論社、1987年。私的には「九相詩絵巻」がお目当てだったのだが、「餓鬼草紙」の「伺便餓鬼」も興味深い。東博の川本家本と京博の曹源寺本の二巻が残存しているそうで、いずれも来歴が岡山なのがおもしろい。

 こういう六道絵のことを初めて知ったのは、元の職場での大学院の授業で日東西の古代・中世史合同のゼミ発表でだった。私は68年大学封鎖での自主講座以来、こういう分野横断的なゼミ発表大好き人間である。

 六道絵から学んだことは多いが、日本では昔、庶民の場合弔いなんてなくて、葬所とされた野っ原に終末病人や遺体を放置していたとか(「疾行餓鬼」:京都だったら鳥部野ないし船岡の由)、に大いに啓発されたものだが、「伺便餓鬼」での排便の図はよりいっそう惹かれるものがあった。

 平安末期の荒廃した京都洛中の路地の路上で、屋内にトイレを持たない当時の庶民の、文字通り老若男女5名が排便しているわけだが、皆揃いもそろってなぜか当時高価だった高下駄を履いていて、これは用便用の共同使用ではとか、回りに散乱する籌木や反古紙も活写されていて、歴史資料としてなかなかスミに置けないのである。

部分図:反古紙にしたところで,本当に庶民が使っていたのかな。ひょっとしてボロ衣だったのかも
大人用の高下駄をつっかけて母親と連れ便している童が尻拭き用の籌木でバランスとっているのに、注目

 これらはいずれも東博・京博や文化庁のHPでデジタル化されているのは有難い。

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