480年代著作の、Victor Vitensis, Persecutionis Africanae Provinciae, I.3 (9), in:MGH, AA, Tom.III, Pars 1, 1879 (rep.1961), p.3に、以下の文言が残っている。「そして必須の事どもを述べるなら、彼ら(ヴァンダル人たち)は、聖殉教者たちペルペトゥア、かつそしてフェリキタスの遺体が埋葬されたMaior(先人たち)の教会、Celerinaの(教会)、またScillitaniの(教会)、そして彼らが破壊しなかった他(の諸教会)を、彼ら(アレイオス派)の宗教へ暴君的な許可により引き渡したのだ」Et ut de necessaires loquar, basilicam maiorem, ubi corpora sanctum martyrum Perpetuae atque Felicitatis sepulta sunt, Celerinae vel Scillitanorum et alias, quas non destruxerant, suae religioni licentia tyrannia mancipaverunt.
要するに、二世紀後の情報としてペルペトゥアたちの埋葬地が「Basilica Majorum」だ、と断言されている。実際には彼女らが葬られた墓所の上に後にキリスト教会の殉教者巡礼教会が建てられ、それが段々と拡張されていった、ということだったのだろう。それが50年前にアレイオス派のヴァンダル人に占拠され果たして無事に保存されていたのかどうか、Victorは何も述べていない。だがその後、7世紀後半にイスラームによりこの地が征服されていることを考慮にいれると、たとえ聖遺物が公然・非公然にキリスト教徒たちによって持ち出されたとしても、それは長い年月の間に霧散して、やっぱり消滅してしまう運命に遭ったのでは。まあ偽物はもちろん出回るだろうが(後述、およびペルペトゥア・メモ(8)参照)。
いわずもがな、7世紀以来ムスリム化されていたこの地に、キリスト教が再進出する契機となったのは、19世紀半ば以降、1881年から1956年までのフランス保護領下のことであった。
最初にこの地を発掘してBasilica Majorumと断定したのは、アフリカにおけるキリスト教宣教を目的に、1868年にアルジェ大司教によって創設された「白衣宣教師会」Pères Blancs(ドミニコ会系らしい:Ch.-R.アージュロン[私市正年・中島節子訳]『アルジェリア近現代史』クセジュ文庫、白水社、2002年[初版1964, 11e édition, 1999]、 p.87)に所属していたAlfred-Louis Delattre師(1850-1932年)で、早くも1907年4月にペルペトゥアらの墓碑発見を報告している(A.-L.Delattre, Lettre à M.Héron de Villefosse, sur l’inscription des martyrs de Carthage, sainte Perpétue, sainte Félicité et leurs compagnons, in:Comptes rendus des séances de l’académie des Inscriptions et Belles-Lettres, 51e année, N.4, 1907, pp.193-5)。この書簡の宛先の人物は、Antoine Héron de Villefosse(1845-1919年)で、当時フランスで著名な考古学者、とりわけラテン碑文学の権威で、言うまでもなく投稿先の l’Académie des inscriptions et belles-lettresの会員であった。
左端のアプシスと右端のAreaを除き、61m×45mの広さの長方形の教会堂の中央身廊の真ん中に3.7m×3.6mの、床モザイクが敷かれたアプシス付き礼拝堂が建てられており、その地下クリプトは聖遺物室となっていて、巡礼が両脇の階段で昇り降りできるようになっていたらしい。礼拝堂のアプシスが教会堂のそれと逆向きになっているので、おそらくAreaがもともと1,2世紀起源の異教墓地で、そこに最初殉教者たちが葬られていたのであろう。但し、Noël Duval, Études d’architecture chrétienne nord-africaine, in:Mélanges de l’École française de Rome, Antiquité, 84-2, 1972, p.1117のFig.19では、教会堂からAreaへの入り口を囲むように小アプシスが、そしてArea内の南側、即ち、聖遺物室のアプシスと同方向に大きなアプシスがそれぞれ描かれており、後者の方は「Abside trouvée en 1929」と表記されている(この二重アプシス構造は、とりわけ北アフリカの特徴のようだ:cf., N.Duval, Les Églises africaines à deux absides : recherches archéologiques sur la liturgie chrétienne en Afrique du Nord, 2vols., Roma, 1971,1973)。ローマ世界では2世紀末から3世紀初頭にかけて火葬(遺灰壺埋葬)から土葬(木・石棺埋葬)への移行期だったので、異教墓地のほうの主流は火葬墳墓だったはず。教会堂とAreaの東側にキリスト教徒の土葬墓が集中的に確認されている他、例外的に教会堂北東の壁沿いに5基が描かれている(以下の写真Fig.3 参照)。
そこからDelattre師が1906-8年に発掘した碑文断片は総数4000で、うち最も注目された大理石板の墓碑諸断片は全部で34で、以下上図が師によるその組み合わせ、下図の左が師によるその復元の読み,右がL.Ennabliの読みである。
Delattre師に依拠するなら以下のように読める。「ここに、殉教者たち、サトゥルス、サトゥルニヌス、レウォカトゥス、セクンドゥルス、フェリキタス、ペルペトゥアが、3月7日に受難し(て埋葬され)た。マイウルスは・・・」。興味深いのは殉教者の記載順で、サトゥルス以下四名の男性が列挙されたあとに、フェリキタス、そして最後がペルペトゥアとなっている。この点を突いてくるのが、J.Divjak-W.Wischmeyer, Perpetua felicitate oder Perpetua und Felicitas? Zu ICKarth 2,1, in:Wiener Studien, N.F., 114, 2001, pp.613-627、である。彼らは、この碑銘を男性殉教者のみを書いたものと考え、女性殉教者の名前を「豊穣が永遠(に続きますように)」と誓願定文として捕らえ直すのである。従って女性殉教者二名の記念碑は別の場所(そこが文書史料が触れているBasilica Maiorumということになる)というわけで、面白い指摘である。
また碑銘の行の頭に✚印がついていて、これと字体をもって現在ではこの墓碑は、師が想定したような殉教直後のものではなく、ヴァンダル支配末期の6世紀初めの製作と考えられている(となると、ヴァンダル時代この聖所は保全されていたことになる、のかも)。
ちなみに最後のマイウルスなる人物は、テルトゥリアヌス『スカプラへ』iiii.5に「Hadrumetum(現在のスース付近)のMaiulus」として登場しているほか、幾つかの殉教暦では殉教日が3月7日とされているが、 Kalendarium CarthaginensisやMartyrologium Hieronymianumでは5月11日になっている。
以下の石灰岩製の石板も出土している。場所は聖遺物室から南西に数歩のところの、数百の遺骨が埋まっていた深い井戸の中に混じっていたらしい。3世紀の字体で「Perpetuaに、最も甘美な娘に filie dulcissimae」と彫られているが、それが聖ペルペトゥア自身を示しているとしたら、この埋葬場所は彼女が出生したVibii家の所有する墓所だったのか(その場合、カルタゴ出身家系説が有力となる)、それとも処刑された娘のために新たに購入したのか(生地としてカルタゴの西53KmのThuburbo Minus説あり)、はたまた聖女の名前を霊名として頂戴した後世の、またはまったくの別人なのだろうか。私見では上記の新見解も踏まえ、最後の可能性が大と思われる。同様にこの井戸から、彼女と同家名、同名の銘文が他に3例出土しているが、これとて件のVibii家のものと速断するのは慎むべきであろう(cf., Delattre, Comptes rendus, 52-1, 1908, p.61ff.;E, F, G, H)。
この発掘場所は、現在Mcidfaと呼ばれている場所で、奇しくも第2次世界大戦で戦死したアメリカ兵の広大な墓地が隣接し、また歩いていける距離で、音楽堂Odeon遺跡のそばには2004年に時の大統領Zine el-Abidine Ben Aliの名前の、堂々たるモスクも建設されている。しかし、2011年1月の「アラブの春」「ジャスミン革命」勃発で彼はサウジアラビアに亡命し、その地で2019年9月に死亡しているので、その後モスクはどうなったのだろうか。
墓碑発見後すでに1世紀経過しているが、この墓碑を巡っての論義は活発とは言いがたいらしいが続いている。上記で触れたように、そもそもDelattre師の発掘地点が本当にVictorが述べているBasilica Majorumなのか、ということ自体に疑問があるし、Delattre師たちの発掘方法が問題視されたり(正直、次段落のモザイクの発掘地点がどこなのか、私にはよくわかっていない)、銘文の復元を巡っても異論が提出されている(cf., B.D.Shaw, The Passion of Perpetua, Past & Present, 139, 1993, p.42, n.88, 89)。おそらく聖書考古学での発掘にありがちな最初に結論ありきの決め打ち発掘や、強引な論証、さらには調査方法の杜撰さが指摘されているわけであるが、だがH・シュリーマンのトロイア発掘(1870年代)やH・カーターのツタンカーメン発見(1922年)でもそうだったように、調査方法がまだ手探りだった考古学黎明期では多かれ少なかれそれが普通のことだったというべきか。この件は、このブログでもポンペイでの最近の再調査でこれまでのロマンあふれる解釈がもろくも崩壊していることを考え合わせると納得していただけるかもしれない(2019/4/14)。それにしても、この問題をからめて集中的に掘り起こすと色々面白そうなテーマなので、誰かきちんとやってくれないかな、と思う。
この遺跡からはキリスト教的モザイクも出土している。時間があればいずれ多少詳しく検討するに値すると思っているが、とりあえず白黒画像をアップしておこう。メダイオン内部の文字列とそとに描かれている鳥(鳩?)などの向きが逆なのが、ちょっと解せないが。ところでカラー版が見当たらない。ご存知寄りの方からの提供を期待している。
関連で、さらに浴場近くのDermech地区の遺跡(le monastère de Saint-Étienne)からは、モザイクで描かれたメダイオンの中に、5+2名の聖人名が記されていたものが出土している。右端からSaturninusとSaturusの銘文が埋め込まれ、次いでSirica、Istefanus、Speratus、そしてかろうじてフェリキタスを予想させる「・・・TAS」が続き、となるとほとんど失われてしまった左端のメダイオンにはペルペトゥアが想定される一連の殉教者モザイクなのである。これは現在バルドー博物館に展示されている。これもカラー写真が見当たらない(中央部分の2つのは見つけた)。ご存知寄りの方からの提供を期待している。
ところで、ウェブ情報(https://www.wikiwand.com/fr/Perpétue_et_Félicité)で以下を知った。彼女の聖遺物は439年(ヴァンダル族のカルタゴ占領時)にローマに移動され、それから843年にBourges大司教Raoulにより、フランス中部のSaint-Georges-sur-la-PréeにあったDèvres (ないしDeuvre)大修道院に移され、そこが903年のノルマン人に掠奪された後に、926年に近隣のVierzonに移され、そこの現在の市庁舎に置かれていたが、1807年にNotre-Dame de Vierzon教会内に移葬され今に至っている由。以下の写真は、その教会内のもの。以上の聖遺物の移葬情報はベリー地方の伝承によるものなので、その真偽を問うのは野暮というものだろう。
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