日本マスコミ論:飛耳長目(49)

 黒木亮「BBCの英首相会見で痛感、日本メディアの情けなさ:欧米の健全なジャーナリズムが羨ましい、それに引き換え日本は」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61461)

 日本では安倍も小池も大手マスコミ対策に余念なく、権力と癒着してメディアが生き延びてきた現実は、戦前の「大本営発表」と構造的にまったくかわっていないわけである。

 もちろん例外的に反骨精神旺盛な記者もいることは確かだし、記者クラブのぼんくらたちとて、真実を知らないわけでもない。国民に知らせていないだけだ。国民の求めている情報源は、今や文春砲なのである。それにしてもこのコラムの最後あたりで、こう書かれていたのは印象的だ。

 「1974年に「文藝春秋」誌に『田中角栄研究―その金脈と人脈』を発表し、田中首相を退陣に追い込んだジャーナリストの立花隆氏は近著『知の旅は終わらない』の中で、記事を発表したとき、真っ先に駆け付けたのは「ワシントン・ポスト」や「ニューズウィーク」など外国メディアで、日本の新聞記者の多くは「あんなことはオレたちは前からみんな知っていたんだ」とうそぶくだけだったと書いている。」

 気配り、空気を読む、穏便に、は日本人の美徳とされる。これはプラス的表現で、その裏側には当然マイナスの落とし穴がある。我々は隣国の中国や韓国や北朝鮮のあれこれをあげつらって、負の優越感に浸っている自称知識人たちの言説を受け入れやすい素地を持っている。私は、マッカーサーの1951年の発言(我が国では「失言」とされ、一挙に彼への好意が醒めてしまった、らしい)を思い起こさざるを得ない。「アングロサクソン民族が45歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人はそれとほぼ同年齢である。しかし、日本人はまだ児童の時代で、12歳の少年である。ドイツは・・・意識してやったのであり、無知のためではない。ドイツが犯した失敗は、日本人の失敗とは趣を異にするのである。ドイツ人は、今後も自分がこれと信じることに向かっていけるであろう。日本人はドイツ人とは違う。」

 彼のアングロサクソンやドイツへの見解が正しいかどうかは別にして、あれからすでに70年。どうやら、日本人は永遠の12歳に甘んじているらしい。

 日本には、民衆のためのジャーナリズムは未だない、と思わざるを得ない。

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