月: 2021年8月

今日みた反(非)戦ドキュメンタリー

 ①中国満州での残留孤児を引き取って育てた中国人里親たちはすでに全員死亡しているが、孤児たちは里親たちのことを今でも忘れていない。日中の架け橋になりたいと思っている元孤児もいる。https://www.youtube.com/watch?v=Ey1ouKnJR0k;https://www.youtube.com/watch?v=rbvcgJzpDwc

 中国残留孤児については、別の話(子供のいない夫婦が老後を見てもらうための手段)も聞いているが、そうでない人たちもいたわけだ。そういえば、昨晩は原爆孤児を引き取って韓国に連れて行ってくれた韓国人、そしてそこで育ててくれたオモニの話を再放送でまた見た。

 ②大戦直前、チェコのプラハからユダヤ人の子どもたちが、ボランティアのイギリス人銀行家ニコラス・ウィントンによってイギリスの里親たちに引き取られた。救出すべき5000人がまだ残っていたが、最後に列車に乗せられた250人は大戦勃発で一日遅れで出発することができず、混乱の中で一、二名以外全員死亡したらしい。もちろん他の残された子どもたちも。結局、669名の子どもたちだけがイギリスに逃れることができた。その功績でウィントンはサー称号ももらったらしい。

Sir Nicholas George Winton:1909-2015年 享年105歳

 以前、イギリスにせよフランスにせよ、ユダヤ人が大量に亡命してくるのを恐れて、ナチのユダヤ人絶滅政策をなかったことにして、動かなかったことを知った時、なんとまあと思ったことだ。しかし、今日みた中国人庶民やイギリス人市民といった個人は、国家の思惑を超えて結果的に人道支援に動いたのである。

 国家はいつもこうなのである。「国民の命と安全と守る」と火星人みたいな首相がぼそぼそ地球語をつぶやいたところで、それは空手形であることは、常識的な国民なら皆知っている。自宅療養なんて、ウソで固めた棄民の言い換えにすぎない。ちゃんとした日本語を使え、といいたい。野戦病院のほうがまだましのような気がする。

 同様の事情があったと思えるのが、バチカンのピオ十二世の挙動である。これも数日前のドキュメンタリーでやっていたが、スッキリしないまとめ方だったが、実際現実がすっきりしないからだと思う。対権力者との交渉ごとと、目の前の個別具体への対応はしばしば一致しないわけで、それは両面から眺めるしかないからだ。

 ③そうそう思いだした。「#(ハッシュタグ)あちこちのすずさん 2021 :教えてください あなたの戦争」というキャンペーン番組もあった。歴史の主体は庶民である、いやそんなきれい事ではなしに、庶民の早晩消え去る事実をなんとか残したいという観点からはこういう運動こそあるべき本筋だと思う。

 ④九州帝大医学専門部での米軍捕虜への生体解剖「相川事件」(1945年5-6月)、斬首事件「西部軍事件」「油山事件」(同年6-8月)(https://www.nishinippon.co.jp/item/n/723177/;https://www.nishinippon.co.jp/item/n/671379/)に取材したドラマもあった。「終戦ドラマ:しかたなかったと言うてはいかんのです」(https://news.yahoo.co.jp/articles/1798e08b075162633bfb306b1074adda2dc51363)。 

 遠藤周作の小説『海と毒薬』(1957年)を思い出した。上官の命令を拒否する兵士は軍隊では二律背反で、昨晩「私は貝になりたい」(1958年製作)を見たし、今日はB・C級戦犯のドキュメンタリー、それに東京裁判もあった。フィリピン戦線でジャングルをさ迷った民間人たち、また沖縄の摩文仁の海岸線に追い込まれガマや切羽詰まった民間人の様々の生き死にもかいま見た。庶民の生き様は兵士よりもはるかに多様で、また悲惨だ。

 以下新たな研究も見つけた。丸山マサ美「アメリカ公文書館にみる九州大学生体解剖事件関係資料とその意義」『日本健康学会誌』86-5, 2020, pp.224-230(https://www.jstage.jst.go.jp/article/kenko/86/5/86_224/_pdf)。

 あれこれググっていると関連で米陸軍第7軍第45歩兵師団兵士による「ダッハウでの報復虐殺」(1945/4/29)なんてことがあったことを初めて知った(https://ja.wikipedia.org/wiki/ダッハウの虐殺)。これが映画などで流されているきれい事ではない現実なんだ、との思いが深い。これと米軍日系人部隊だった第442連隊戦闘団や第522野戦砲兵大隊はどんな関連をもっていたのか。知らないことが多すぎる。

【追記】20211120:こういったドキュメンタリーもあったことを記録として付記しておく。

 右田千代「特ダネの記憶:NHKスペシャル㊤「日本海軍400時間の証言」時代がその時を待っていた よみがえった音声テープ」2021/7/29(https://webronza.asahi.com/journalism/articles/2021072800002.html?returl=https://webronza.asahi.com/journalism/articles/2021072800002.html&code=101WRA)。

 ちなみに㊦は「全貌 二・二六事件」(https://webronza.asahi.com/journalism/articles/2021082000004.html)。こっちの放送は見た記憶がある。

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被爆広島とイエズス会神父

 太平洋戦争で、敗色が濃くなった日本で、カトリック教会の男子修道会イエズス会も疎開を開始していて、たとえば広島市観音町あたりに神学校が移動していた、らしい(上長のラサール神父にはイエズス会日本管区の広島移動の構想もあってのことだったらしい)。それ以前すでに1938年に長束に修練院も建立されていて、指導司祭たちと神学生の修練の場となっていた。また中国5県を網羅する広島教区のうち、広島・山口・島根3県はイエズス会神父が担当派遣される教区(当時はたしか代牧区)となっていたので、司教座聖堂の幟町教会もイエズス会神父が数名配置されていた。合計16名の関係イエズス会士のうち、修練長のスペイン人アルペ神父、それに神学生だった朝鮮人2名以外はすべてドイツ人だった。それとは別に、三篠教会併設の修道院には、日本人2人のほか、フランス3人、イタリア2人、アイルランド1人の煉獄援助修道女会のシスターがいたが、被爆後、P.コップ神父とともに長束に移動。これら外国人はすでに2005年までに全員死没している。http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=94336

 先般、広島原爆忌にイエズス会神父、とりわけルーメル神父をめぐる話題を広島学院同窓会HPに送付した。

https://suiyukai.com/?p=2269

https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/54465

そのとき掲載し忘れた動画をここに追加しておく。提供は中国新聞社である。2020年の大沢美智子さんのYouTubeを探してみてください。

https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?peacemovies=2020-13

 ひとつ思いだしたので、余談を。私が20世紀末にローマに一年間いたとき、当時のグレゴリアナ神学大学長だったヨセフ(本当はジョッゼッペ)・ピタウ神父の斡旋で縁あってナヴォーナ広場の西側3階に住んだ。広場に面した4階にドイツ系の老シスターが二人で住んでいたが、渡伊して直後の4月の復活祭の時一席が設けられ懇談する機会があった。産毛なのだろうが髭にみえるほど伸びて魔法使いのような老シスターに、英語で「日本の広島から来た」と自己紹介した私は、「ラザロ神父を知っているか」と問われた。瞬間誰のことかぜんぜん分からず、イエスの時代の死者から復活したラザロではあるまいし、と「ラザロ、ラザロ」と何度も反芻し、ややあってはっと気付いたのが、「ラサール神父」であった。場所が異なれば発音も異なる、なるほどな、と。

 彼は1948年に日本人に帰化して「愛宮真備」(えのみや・まきび)と称した。私も幟町教会で幾度か見かけたことがあるが、長身・痩躯・金髪の,回りから抜きん出た存在感で、隠修士的な近寄りがたい威厳が備わっていて(禅修行の導師だったし)、当時の多くの人々を引きつけた理由も理解できる、そんな存在であった。そして、とにもかくにも私にとってのイエズス会士とはドイツ人なのである。

Hugo Lassalle,S.J.(1898-1990年)
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帰省へのお墨付き:pcr検査結果

 秋の学会で口頭発表するために広島大学に入構しようとすると、東京などの蔓延地域からの者は、「マンボウ対策のため原則禁止となっており、入構するためには、健康な場合、6日の待機+pcr検査が必要で、それ以外ならば1 4日の待機後に可能。今だったらお盆がらみの帰省だと、無料でpcr検査できますよ」との情報が寄せられた(https://www.pref.hiroshima.lg.jp/lab/topics/20210730/01/)。

 それで、ものは試しと申し込んだら中二日で検査キットが送りつけられてきて、連休前の土曜日に本局に持ち込んで郵送した。郵送先の検査所は都内だったようだ。8/7に発送したがどうせ結果連絡は遅れるだろうと、たかをくくって新幹線予約も遅らせる手続きしていたのに、なんと8/10夜9時にメールで検査結果が送られてきた。出発予定日を8/11としていたので、間に合わせてくれたのだろう。検査日見たらなんと日曜に作業をやっていた。ご苦労様です。そして結果は「陰性」だった。

 秋にはまた改めて検査やり直ししないといけないだろうが、それにあんまし信頼もしていないけれど、これで大手を振って8月に帰省できる。新型コロナ・パスポートではないが、練馬区役所に行ってワクチン注射接種済証ももらっておこうか。

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敗戦忌近し

 年中行事のようにマスコミが戦争関係の情報をまた流している。年寄りの私などからすれば今さらのものも多いが、特に若い世代への伝承という観点からはいいことだと思う。とはいえ、若い人たちはまたまた平和教育かと見る以前に食傷気味で見ようとは思わないかもだが。

 一昨晩は「マルレ:“特攻艇”隊員たちの戦争」を見た。どうやら海軍が震洋を作ったので、陸軍でもなんかしなきゃならんだろう、といった例のごとくの低レベルなライバル意識で、1944年に急遽策定された一人用の攻撃艇で、装甲なしのベニア製、自動車用エンジン搭載というお粗末なものだった。投入要員は徴兵以前の志願者からなる特別幹部候補生たちで、転用時には一応の志願確認が行われた由。そもそも本土決戦に備えてのもので、外洋航行を想定していなかったので、制海権が失われていた時期に遠くフィリピン等への配備(3000隻予定)はすでに無謀で、輸送中の喪失1300隻、戦死者317名におよび、しかもたいした戦果を挙げる間もなく(米軍の記録だと、震洋ともども損害は4艦程度)、米軍の対応策の餌食となり、フィリピンや沖縄戦等で海に出撃することもできず、砲撃で破壊され、あげく兵隊は地上戦に巻き込まれ、餓死者多数を出した、らしい。そもそも震洋にしたところで、航空機が不足して余った航空要員転用として構想されたらしい。https://www.nhk.jp/p/bs1sp/ts/YMKV7LM62W/episode/te/QNZ7ZKM8K7/

左、マルレ(船尾に装着した爆雷を反転時に投下・生還を期していたが、すぐに特攻兵器化);右、震洋(爆弾は船首に装備した最初から特攻兵器)

 費用対効果、いな人命対効果など無視した暴挙といっていいだろうが、それが優等の成績で採用された参謀本部作戦課員のやったことなのだ。優秀とはなんなのだろう。きっと彼らにとって自らを上級特権市民の証しとして、他を見下して認識する以外のものではなかったのだろう。

 昨晩は、色々の再放送があった。スペインでの情報収集工作をみた(たしか1988年作成:アナウンサーの声が昔風で若干声高)。そこでも、中立国だったスペインからの貴重情報を在スペイン公使あたりが中心となり収集し、スパイを米国に放ってのことだった。莫大な資金を投入してのせっかくの情報を生かさないで無視した参謀本部の見識のなさ、しかもすべて自軍の暗号は米軍に解読され筒抜けという大失態だったのだ。再びいう、秀才とはなんなんだろうか。

 戦後補償の問題のドキュメンタリーもあった。近代戦が総力戦(前線も銃後も区別なし)となって、非戦闘員も被災者となった。同じ敗戦国のドイツやイタリアでは戦災被害者への補償がわずかでもなされているのだが、日本では戦時中には戦意高揚のためその制度があったにもかかわらず、占領軍GHQによって軍人恩給ともども一旦は廃止されたが、1951年の独立後間をおかず軍人恩給は復活された。だが、あれだけ総力戦を叫んで国民の犠牲を求めてきたくせに、戦災被害者は未だ放置されてきている、というなんとも無残な内容だった。「空襲被害者救済:国家としてのけじめが必要だ」(https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20210708/pol/00m/010/002000c?cx_fm=mailpol&cx_ml=article&cx_mdate=20210815)。

 私に身近な原爆被災者たちは例外だったのだ。「第2次世界大戦は全国民が被害を被った戦争であり、米軍の空襲による被害は全国に及びましたが、広島、長崎の原爆被災者だけに「被爆者援護法」による、 特別に手厚い援護施策が実施されているのは、原爆特有の「放射線」があったからです」(https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/genbaku09/15e.html)。ほぼ死に絶えたところで、黒い雨訴訟を上訴しない決断をする首相の魂胆みえたり、と思わざるを得ないだろう。

 米軍による残留放射能隠蔽もあった。NHKスペシャル「原爆初動調査 隠された真実」(8月9日):https://wedge.ismedia.jp/articles/-/23959

【追記】震洋、マルレについて、こんな面白い解説企画をみつけた。https://www.youtube.com/watch?v=0lQomkAfckk&list=RDCMUCfrFp_0bl5LO-kOtlp45rMQ&index=18

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世界キリスト教情報第1594信:2021/8/9

= 目 次 =
▼キリストによる真の福音を告げるパウロ=教皇1カ月ぶり一般謁見
▼新型コロナ、韓国で第4次流行の勢い衰えず、非首都圏への広がり抑制を
▼ソウル・城北区、禁止されている対面礼拝を強行した教会に「閉鎖」も
▼チョン・グァンフン牧師のサラン第一教会、また対面礼拝を強行
▼岩窟教会群などエチオピア世界遺産の地域を反政府勢力占拠
▼米、イラクに粘土版「ギルガメシュの夢」など返還へ
▼アメリカ正教会レオニード・キシュコフスキー司祭逝去

 本日の紹介は下から2つ目。

◎米、イラクに粘土版「ギルガメシュの夢」など返還へ
【CJC】1991年の湾岸戦争、2003年のイラク戦争で多くの遺物を略奪されたイラクに、古代メソポタミア文明の遺物が多く含まれた遺物1万7千点が米国から返還された。韓国紙「東亜日報」が8月5日報じた。今回の返還に含まれてはいないが人類最古の文献の一つとされる3500年前のギルガメシュ叙事詩の一部が書かれた粘土版「ギルガメシュの夢」も近く返還されるという。
 AP通信などによると、イラク政府は3日、記者会見を行い、「先週、米国を訪れたアルカディミ首相とともに遺物が戻って来た」と明らかにした。アルカディミ氏は、訪米前から遺物返還に向けて米国と接触し、先月26日のバイデン米大統領との会談でもこの懸案に言及した。
 米国が返還した遺物のうち約7割の約1万2000点は、これまで首都ワシントンの聖書博物館が所蔵していた。多くがメソポタミア文明の有名都市「アイリサグリグ」関連の遺物だ。
 特に、早ければ数週内に返還される「ギルガメシュの夢」に大きな関心が集まっている、と東亜日報。ギルガメシュ叙事詩は、古代メソポタミア都市国家ウルク第1王朝の王ギルガメシュに関する伝説を意味する。「ギルガメシュの夢」の大きさは横15センチ、縦12センチで、聖書に出てくる大洪水、エデンの園などに言及する内容もある。
 この粘土版は、03年に米骨董品仲介人が英ロンドンで購入した後、密かに米国に搬入した。14年に米美術工芸品店「ホビー・ロビー」が購入した後、聖書博物館で展示してきた。最近、米連邦裁判所は、同店が「ギルガメシュの夢」を不法なルートで入手したとし、イラクへの返還を命じる判決を下した。□
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「焼き場に立つ少年」の検証をめぐって

 米軍海兵隊第5師団所属軍曹のカメラマンで当時23歳のジョー・オダネル Joe O’Donnell氏(1922-2007)が長崎で撮影した私的写真(1989年公開:そもそも第5師団は福岡・佐賀県占領を担当だった由:長崎県は同第2師団管轄)をもとにしたNHK ETV特集「“焼き場に立つ少年”をさがして」をみた。これも昨年の再放送だが、未見の人にはお勧めする。NHKオンデマンド(単品¥220)で見ることできる。

彼は7か月(1945/9-1946/3)の任務を終え帰国、1949年からホワイト・ハウス専属カメラマンとして勤務、トルーマンからジョンソンに至る四代の大統領を撮影する任務に就いていて、ケネディ国葬の日が3歳の誕生日だったJFKジュニアの敬礼写真を撮ったのも彼だそうで、その筋では著名人だったようだ(但し、異論・反論あり:【補遺4】参照)。

 NHKのそこでの追跡の仕方が歴史学研究に通底していて、そっから始めるか、といささか興奮。米軍が北九州で撮影した4000枚の中から、まずオダネル撮影分127枚を摘出。それを時系列的に並べて、彼が担当地福岡・佐賀以外の長崎へ行った可能性(写真のない空白期日)を割り出すと、1945年10月13−17日あたりが該当。夕方でフラッシュを焚いているので曇りの日となり、気象台資料から15、17日にさらに特定【後日談:でも彼の上陸港は佐世保で、大村に師団本部があったという記述もあり・・・。参照、【補遺1】の吉岡、それにオダネル『トランクの中の日本』】。

 写真の分析はさらに進み、洋服だと男性は右前のところそうなっていないし、胸の名札は普通左胸に位置していたので、あの写真は左右反転であること(住所や名前は読み取れず)、さらにはカラー化のプロセスで、少年の鼻の中に布片の詰め物が認められ、また写真の左目の白眼の様子から出血痕が見て取れるとし、そういった白血病(血小板減少)の症状の被爆量(含む、2次被爆)の想定から被爆後2か月あたりまでと判定。

、反転させた写真;、カラー化したもの(いずれもウェブから入手)

 回りの風景からも焼き場の位置を想定する。背景は段々畑風。石柱に刻まれた字は旧字体「縣」と思われるがそれ以上の追求はできなかった由(この石柱は何らかの公的な境界表示と思われるので、その意味で重要証拠のはず。よって私にはあの程度の調査では納得できない)。足元の電線は電車用の通信ケーブルで、その手前の石垣は線路沿いによくあった加工石材と鉄道関係者が証言を寄せる。こういう風景全体から旧国鉄長崎本線の大草・長与駅と道ノ尾駅の間の線路の上側に少年が立ち、被写体までの距離1.8mで撮影、と絞られていく。となると当然、長崎の爆心地(浦上)付近での撮影ではなくなる、はず(すなわち、NHK想定撮影地は爆心地から直線で3.4〜5.1kmと距離がある:少年たち兄弟はもちろんそこで被爆したわけではなく、どこかで被災して移り住んできて暮らしていたにすぎなかったのかもしれない)。

、3Dでの環境再現;、放送製作者が撮影現場と同定しているかのような映像(NHKオンデマンドより:著作権的にやばいですが、参考までに一時的に掲載してみました)

 別情報では、少年の名前も実名候補が挙げられているが、どうも間違いだったようだ。上述の想定場所とすると、撮影者オダネル氏がどうして長崎の手前で列車から降りて(ないしは帰り際途中下車して)、高台から見下ろして焼き場を見つけえたのか、そして線路の下側すぐに焼き場があったことになるが、はたしてそんなことあるのだろうか、私には謎である(http://leoap11.sakura.ne.jp/iroiro/new/yakibanitatushounen.pdf)【後から入手した『トランクの中の日本』によって、ジープや馬を使っての撮影行と判明】。また、オダネル氏の手記によると、血が滲むくらいきつく唇を噛みしめていたのなら、なぜその出血(これも口内出血を含め白血病の症状)をカラー復元していないのか、疑問(これはたぶん、出血が認められなかった、すなわちオダネル氏の報告が誇張だった、との判断か)。

以下は、2019/8/10 日テレのもの(ウェブから入手)。

 いずれにせよ、オダネル氏のシナリオに従うと、この少年も弟も、おそらく以前紹介した戦災(原爆)孤児だったのでは。敗戦後2か月、とうとう弟は死んだ。そして彼自身も白血病でおそらくは・・・。https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_22.html;http://www.kirishin.com/2019/11/22/39020/;https://www.vidro.gr.jp/wp-content/uploads/2019/08/c06351757f3044e5ff1ed8f8da500642.pdf

【補遺1】2021/8/17:ようやく入手できた吉岡栄二郎『「焼き場に立つ少年」は何処へ』長崎新聞社、2013/8/9、p.28掲載の図版2「オリジナル密着プリント」をスキャンし、反転させ、露出を明るめに加工したもの。

 吉岡氏は、オダネル氏の数々の矛盾する証言を(上掲のp.24-5で早くも「一説に、オダネル氏は一九九〇年ごろより認知症の兆候が見られたという記述がある」と紹介:そこまで言わなくても、45年間という歳月は、健康人でも記憶の混濁は生じて不思議はない。但し、1990年ごろというと彼が写真の封印を解いた直後からとなる。彼が国の裏切り者と非難され出し、それらに対する抗弁のあげくの言説の揺れだったのかもしれない)、現地調査や地元の生存者の証言とつき合わせて5年間かけて検証し、結果、場所も個人も特定できず、この写真の意義を「写された特定の場所や人にあるのではなく、時間を超越した”象徴的な含意”にある」と結んでいる(p.104)。私もそれでいいのだろうと思う。そもそも、米軍や日本の撮影隊によって写された被爆者の姿は、ほとんど身元が判明しているが、ことこの写真に限っては、写真集やテレビでも紹介され全国的に反響を呼んだにもかかわらず、少年も場所も未だ特定されていない。彼が地元民ではなく敗戦間際の戦災移住者で、戦後まもなく死亡したかどこかに移動した可能性すらある、はずだ。

 結局、2019年のNHKの特集での新味は、場所を旧国鉄長崎本線の道ノ尾駅から大草駅間に想定している点にある。あらかたのことはすでに吉岡氏叙述の中で検討されていた。

現在発注中の以下がまだ未入手だが(ジョー・オダネル著/ジェニファー・オルドリッチ(聞き取り)/平岡豊子訳『トランクの中の日本:米従軍カメラマンの非公式記録』小学館、1995年;ジョー・オダネル写真・坂井貴美子編著『神様のファインダー:元米従軍カメラマンの遺産』いのちのことば社、2017年)、参考までにこれもやばい写真を一時アップしてみる。オダネル氏に同行した通訳が(あるいは、役回りは逆か)釣り竿を持った少年に振り付けしている場面のように思われる。ここでも少年は軍隊式にピシッとみごとなまでに直立不動を決め、素足である。彼の名前は判明し、生存も確認された:西依政光くん。ただ撮影場所は長崎市内ではなくなんと佐世保(長崎県内ではある)のようで、西依くんは6月にそこで空襲を受けずっと防空壕住まいをしていた戦災孤児だった(https://www.bs-tbs.co.jp/genre/detail/?mid=KDT0401600)。となると、オダネル氏がたとえ「NAGASAKI」といっていたとしても(日本の現地名にうとい米人による聞き取り調査・編集の場合だと一層)、それは長崎県域の佐世保、大村、諫早などを意味している可能性は十分あったはずだ(それを吉岡氏も指摘している:pp.52-56)。

「原爆の夏 遠い日の少年:元米軍カメラマンが心奪われた一瞬の出会い」BS-i、2004年制作より。このとき西依さんは67歳の由で、だったら1945年は8歳となる勘定。オダネルとの再会後の彼の言葉があまりに印象的なので、無断引用で孫引きします。(https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=790&id=21960869)

覚えてるっちゅうより その この人たちが こがん殺生ばしてしもたか 焼け野原にしたちゅうことに 全然そこまで考えんちゅうか ただ 家が焼けたちゅうことだけですよね
進駐軍が敵ちゅうことなんか ぜんぜん考えんですもんね その時分は この人のために 家が焼けたとなんたちゅう
そしてもう 遠か親戚ば頼って あっちに一ヶ月 こっちに一ヶ月ちゅうてですね 住みながら ずーっと 
とにかくもう裸一貫ですからね もうなんもなかですからね 着替えもなんもなし 下は履くもんもなしですね
もうほんと しかし あの時期がいちばんよかったですよ
今の時分でなく あの時期がいちばんよかったですよ なんも心配しなくてですよね

【補遺2】 以下をみつけた。2006年製作・NHKスペシャル「解かれた封印:米軍カメラマンがみたNAGASAKI」49分(http://kazh.xsrv.jp/?p=9068;https://ameblo.jp/creopatoran/entry-12503687701.html)。この録画も是非みるべきだろう。そこでは、オダネル氏の離婚した最初の妻との間の長男タイグTyge O’Donnell 氏が登場し、1989年以降の写真公表による父の苦悩がより深く描かれている。そこで強調されていたことに、彼が第5師団管轄外の長崎県域(さらには廣島、宮崎)で軍に無断で私的に写真を撮影し、密かに持ち帰っていた(公用写真はすべて軍に提出が義務づけられていたので、有り体に言って,軍規違反)、ということがある。戦場や冷戦下での情報秘匿という意味もあったのだろうが、そういう状況下で彼が撮影した写真はネガ状況で300枚はあったらしいが【『トランクの中の日本』p.4-5】、帰国後母に見せようと点検し、あまりにも悲惨なものは捨て、トランクを封印した【『神様のファインダー』p.43-45】。また、米国内で彼を非難する声もかなりあって彼を精神的に追い込んでもいたし、それが原因で離婚に繫がった由。

【補遺3】コメントで寄せられた高橋様のご指摘に導かれ、私なりにGoogle Earthで想定場所を眺めてみた(3D)。土地勘のまったくない私でも臨場感が味わえる、ありがたい時代になったものだ。

線路の手前は現ローソンとその駐車場
あの写真だと、単線の線路のすぐ上の段に少年は立っていた、はず。焼き場は線路を越えて現在ローソンの駐車場となっているあたりだったのかもしれない。踏切左の箱に「西高田踏切」の表示が読める。テレビ撮影時に向こうの山裾にあった2階建ての家がすでになくなっていて、その変化に驚かされる。手前中央の小川(用水路?)は手前方向に135m流れて(一部暗渠化?され)浦上川に至っているようだ。

 2021/8/19 0時 原爆孤児のことをNHK ETV1「ひまわりの子どもたち:長崎・戦争孤児の記憶」でやってます。例の銭田兄弟たちが出演して、例の向陽寮(長崎市岩屋町666番地)での生活を話しているが、被災孤児の生き抜くための生き様がきれいごと抜きで述べられていて(盗みとか)興味深い。また、出演者たちはある意味勝ち組であり、いずれも男性のみということから、一人も登場しない女性孤児たちのその後の運命の苛酷さをつい想像してしまった。

【補遺4】オダネル氏認知症ないし「妄想虚言癖」疑惑問題

 aburaya氏のブログ(2013/10-2015/11)を見つけてしまった。彼は写真資料に興味をお持ちの方のようだ。以下はその最初あたりからの転載:https://ameblo.jp/nagasakiphotographer/entry-11634614592.html?frm=theme

 aburaya氏は最初は単に焼き場に立つ少年の子守姿や直立不動を他の写真と比較することから始められたようだが、それからじゃんじゃん思索が深まっていっているのが興味深い。たぶんオダネル氏の写真を求めてググっているうちに米国ウィキペデイアに行きつき、禁断の文言を知ってしまったのだろう(https://ameblo.jp/nagasakiphotographer/entry-11647428622.html?frm=theme)。そっからは一気呵成で、日本のメディアが(おそらく実は知っていて、だが視聴者を意識して美談仕立てにするために)触れるのを避けてきた問題に容赦なく突入する。いや単に邦訳しただけなのだが,その破壊力たるやメガトン級である(https://ameblo.jp/nagasakiphotographer/entry-11666636231.html)。そのへんをオダネル氏の息子や4度目の再婚相手の坂井紀美子氏がどこまで事実に肉薄して書いているのか、発注中の本が届くのが待ち遠しい・・・【本が届いて読んだのだが、まったく触れていなかった。彼の死後のことなので、後書きとかで触れてほしかったのだが。売れ行きにも関わるので出版社は触れてほしくなかっただろうが】。

 実はいつもの悪いクセで、私も弟はただ寝ているだけじゃないか(だって、aburaya氏の写真のように、生きていても背後に首折れて口も開けて寝ているのが普通なんだし)、とか、戦災孤児であれば栄養失調で足がむくんでいても当たり前だろう、といった疑問は思いついていたが、そんな突っ込みをみだりにおこなってオダネル氏を誹謗するのは避けたいとの「忖度」がこれまで働いていたのだが、さてさて。いつもながら事実は残酷である。

 現代史ではかくのごとく、否応なく本人にとって知られたくなかったり、痛くもない腹を探られたりして、有象無象の「事実」があぶり出されてくる。なにしろ当事者や利害関係者がまだ生存しているのだから、異論が出てこないはずはない(事実は一つではなく、目撃者の数だけある)。オダネル氏の言動への疑惑が表面化したのは、なんと新聞に彼の訃報が生前の業績とともに掲載されて、それを読んだ読者から、あれは違う、自分が撮った写真だ、おかしい!という投書が寄せられたことが発端だった由)。

 2000年前の古代ローマにおいても実情は同じはずなのだが、すでに都市伝説化し俗耳にはいりやすい言説や美談が再生産されている面もあることを失念してはならない。証拠がないのではなく、失われてしまった、ないし抹殺されてしまったに過ぎないのだ。史料が「ない」がゆえに、そんな事実が本当になかったとはいえないのである。むしろ仮説的にではあれ、複数の「あった」可能性を常に念頭に置きつつ、周辺情報を突き合わせて「より」客観的な「事実」をめざすべきなのである。さらにややこしいことをいえば、史料が残っていたとしても、それは意図的偽造ないし意図せざる誤解だった場合もあるのだ。プロの歴史学徒であれば「事実」を暴く勇気を持たねばならない、はずだ。それは同時に自らの足元を崩すことにも繫がりかねない営みなので、凡百の徒は足を踏み入れることなどせず美談に逃げ込んでお茶を濁すのが通例となる、のだが。

【後日談:2022/7/12】なぜかここ数日この記事が読まれているようなので、あれから一年また敗戦記念日が近づいたせいなのかと思ったりもしたが、関係記事を追跡する気になってググってみたら、上記検証でお世話になった高橋さまのブログを見つけることができたので、関心お持ちの方はご一読ください。M高橋「「焼き場に立つ少年」の謎の撮影場所を徹底検証する」2021/8/19(https://nagasaki1945.blog.jp/archives/10658149.html)。新事実を含め執念の論究と拝見しました。高橋さまとの往時のやり取りは「コメント」をご覧ください。

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広島平和記念資料館はなぜ「原爆」資料館ではないのだろうか:遅報(80)

 皆さんお気づきだろうか。広島人は通称としての「広島原爆資料館」に馴染んでいるので、むしろ盲点となっているのだが、平成14(2002)年に創立された「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」にしても、「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」(平成15年開館)にしても、長崎市立の「長崎原爆資料館」(1956年開館)にしても「原爆」がちゃんと入っているが、実は丹下健三設計のあの資料館の正式名称は「広島平和記念資料館」Hiroshima Peace Memorial Museum なのである。実は、私も気付いていなかった。

 私は当時幼かったので記憶していなかったが、原爆市長として1947年から1967年にかけて不動の広島市長と思っていた濱井信三であるが、実は3期目を目指した1955年に一期4年間落選していた。あまりに理想的な復興計画、それに当時の収入役や市議会議長の収賄逮捕への市民のベトーで、わずか1557票差で保守系の対立候補渡邊忠雄に敗れたのだそうだ。とはいえ、中島町に広島平和記念公園、さらに中心部を貫通する百メートル道路と、現在の街並みの基礎を造っただけでなく、広島平和祭と慰霊祭実施、平和宣言を発表するなど、その功績は大きい。しかし、渡邊も基町アパート群、広島市民球場、広島城復興、広島バスセンター整備など、今に残る施設整備を一期在任中に行っている(その後の選挙は連戦連敗)。

左、濱井信三(1905-1968年);右、渡邊忠雄(1898-1980年)

 「資料館」の前身を調べてみた。以下は、越前俊也「長岡省吾による被爆資料の収集・公開・展示:広島平和記念資料館開館前後の状況について」『人文学』(同志社大学人文学会)、200号、2017,1-67ページ(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006460272/)を参考にした。なお本論文は佐藤裕明氏のご教示により知った。記して謝意を表する。

 昭和24(1949)年9月29日の中国新聞に「眼みはる原爆資料:基町中央公民館に見学客おしかく」の見出しで「原爆参考資料陳列室」開設が報じられた。展示物数700。

 その11か月後、中央公民館に増設された「原爆記念館」の竣工日は1950年8月6日だった。展示物数は倍加したようだ。この時、あくまで中央公民館敷設施設だったが、本館とは別に出入口をもち「原爆記念館」Atomic Bomb Memorial Hallという看板も掲げていた。この様子は、『廣島:戦争と都市』岩波写真文庫72、1952年掲載の写真4枚が残されている。

 そしていよいよ、1955年8月24日の中国新聞朝刊に「きょう開館 平和記念公園内に原爆資料館」の見出しで「去る六日原爆十周年を期してフタあけした広島市中島町平和記念公園内の原爆資料館」という書き出しの記事が掲載された。正式名称は「広島平和記念資料館」のはずのところ、新聞記事でのこの表記は既設「原爆記念館」からの流れで呼び慣わされたせいであろうか。初代館長には最初から一貫して資料収集に尽力してきていた長岡省吾が就任した(館長:1955-1962年)。さて、その「原爆記念館」が付設されていた基町中央公民館の敷地は、広島市民球場建設予定地となり、1957年1月に立ち退き工事が始まったので、諸資料はすべて広島平和記念資料館に移動された(こんなところで旧市民球場が登場するとは思わなかった)。

左、建設途中の資料館;右、長岡省吾(1901-
1973年)

 広島市民も馴染んでいた通称「原爆資料館」がなぜ「原爆」を落とした「広島平和記念資料館」となったのだろうか。上記論文はそれについて触れてはいない。色々な紆余曲折があったものと想像される。構想時と開設時で市長が替わっていたこと(担当は助役だったらしい)、アメリカ占領軍への忖度(原子力の平和利用についても、アメリカからの提供で展示されていた由)、そして一貫して中心的役割を果たしてきていた長岡省吾の意図が奈辺にあったのか、などなど。連想するに、これまでも物議を醸してきた原爆死没者慰霊碑での「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」(広島大学教授の雑賀忠義が濱井市長の依頼を受けて提案、揮毫し、1952年8月6日除幕:http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=18205)の表現とも通底しているような気がするが、考えすぎであろうか。

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ナスジオでの剣闘士新見解

 『ナショナル・ジオグラフィック日本版』2021年 8月号の宣伝がメールで送られて来た。いつも突っ込みの甘さで騙されるので無視するのだが、特集のひとつが「グラディエーター」だったので今回は騙されたと思って、Kindle版を購入してみた。

 ま、そこでの売りは、ここ20年の新たな証拠を加味しつつ、実験考古学的に、実際に剣闘士の武具のレプリカを着装しての体験からの見解で、これはまあ我々がこれまで目にしてきた学者先生の机上の空論にはない、現実感があったので、1000円超の値段もよしとしよう、という気にさせられた。

 たとえば、レポーターが試しに被った青銅製の兜は6kgだったとか、別の箇所ではローマ兵との比較で、完全武装の兵士は25kgのところ、剣闘士は7-20kg(剣闘士の種目によって重量は異なってくる)だとか、ローマ兵の兜は厚さ1mmで2kg、それが魚兜闘士のものは厚さ2mmで重さ4kgで、視野も限られ音も聞こえにくかった、といった実体験が報告されていて、私にとってきわめて参考になる内容だった。

 その重装備を一つの根拠として(そのくせ、彼らが手にした獲物は多くの場合せいぜい30cmのナイフ:だけどこれでは絵にならないので復元想像図ではどうしても長めにグラディウスなんかとして描かれてしまう)、剣闘士競技では負傷はつきものだったにしても致命傷はまれで、おそらく10人に一人くらいだったのではないか、とか、もし死亡した場合、主催者は剣闘士のオーナーに補償せねばならなかった、とか、要するに現代のレスリングなどの格闘技と同じレベルの興行だった(ま、露骨にいうと八百長の、ショー・ビジネスだった)という方向で捉えるべきだ、というわけで、まずまず納得の結論といえよう。とはいえ、現代格闘技で10人に一人死んだらおおごとであるが。

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囚人の落書き?:オスティア謎めぐり(11)

 あれはいつのことだったか、例年恒例になっていた夏のオスティア遺跡調査での現地遺跡管理事務所との打ち合わせの時、たぶん落書き調査で奥山君が加わったせいか、あちら側から「実は、ここは昔監獄になっていて、その時の囚人の落書きも残っている」という話が出た。え、監獄?、囚人の落書き?

 そのときは、あれやこれやの断片情報で、オスティア・アンティカ遺跡に書き込まれた落書きとなんとなく思い込んでいたのだが、偶然目にした断片情報からどうやらそうではなく、オスティア・アンティカ遺跡発掘に投入されていた囚人たちが、遺跡から東に徒歩10分のボルゴ(新オスティアの集落)に併設されていた教皇ユリウス2世が枢機卿時代に創建した砦に収容されていて、そこに落書きを残していたということらしい。時代はまだこの遺跡の所有者がバチカンだった19世紀のこと。ローマ教皇ピウス7世(1800年~1823年)やピウス9世(1846年~1878年)の時代に、古代オスティアの遺跡発掘のために強制労働を強いられた囚人たちの宿舎としてこの砦は使用されていた、ということがわかった(cf.,

https://www.ia-ostiaantica.org/news/il-castello-di-giulio-ii/)。当時バチカンは一丁前に領土国家だったから、罪人も普通にいたわけである(ま、現在でも枢機卿なんかの高位聖職者で裁判沙汰の御仁もいらっしゃるのだから、驚いてはおれません)。そして1915年から1918年にかけての第一次世界大戦中には、ローマ-オスティア間の鉄道工事に使用されたオーストリア・ハンガリー帝国とスラブ人の捕虜が、この城に収容されていたらしい。なので落書き解読はかなりややこしいことになる、はず、だよね。

その一例

【余談】この城にはやっぱり古代ローマ時代以来の伝統的な形態のトイレがあるらしい(とはいえ、木製便座はなんとなく怪しいけど)。

床が、水場用のヘリンボーンとなっているのがもっともらしい
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原爆忌近し

 1988年放映のNHK「夏服の少女たち:ヒロシマ・昭和20年8月6日」を昨晩あたりから再放送している(https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010346_00000)。14歳で生涯を断ち切られた広島第一県女220名の爆死を扱ったもの。その中で挿話的に再現アニメが使用されていたり(後から知ったが別にアニメも作成されていた:以下参照)、見事なまでに忠実な広島弁だったので、私は最初今年の製作かと思ってみていたが、久し振りに見る昔の女性アナウンサーさんが朗読したり(広島出身とは初めて知った)、登場人物たちの年齢が合わない。よくよく画面を見て33年も前の製作だと知った。

 それにしてもあの時代、残された肉親の思いは今よりよほど深い気がする。その親たちもみなもう死に絶えてしまった、ことだろう。

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