月: 2021年12月

「歩兵第11連隊の太平洋戦争」を見た

 2021/12/19のBS1スペシャルで見た。歩兵第11連隊は1875(明治8)年に広島で編成された由緒正しい、しかも精強な連隊であったが、マレー半島での華僑粛清(1942/3 民間人の華僑殺害)と病院船橘丸問題(1945/8/3に病院船に偽装乗船した第一、第二大隊に属する1500人以上の将兵がアメリカ軍の捕虜となる)で、汚点を記すこととなった。実に日中戦争以来5年にわたる転戦の挙げ句のことであった。

 ただ救いは、第三大隊長の市川正少佐のように華僑を粛清したとのニセ報告で済ませた軍人もいたことである。さらに華僑進出を快く思っていなかったマレー人たちもそれなりにいたようで、問題はやはりここでも単純ではない。番組ではこのあたり若干弱い表現だった。

 私は出身が広島であり、叔父の一人がノモンハン事件(1939年)で戦死しているので、興味をもって視聴したのだが、叔父は小松原師団長指揮下の第23師団隷下に急遽編成された練度不足の歩兵第71連隊所属だったので、第11連隊とは一応無関係である。

 とまれ、戦後、平和都市として宣伝している広島が実は軍都として戦前には名を馳せていた事実は明確に認識すべきであろう。併せて、華僑粛清や病院船橘丸問題での命令指揮の責任問題があやふやな中で推移したことは、いつものことながら、なんとも歯がゆいことだ。

 もちろんNHKデマンドで見ることできる。

マレー戦での銀輪部隊

【追記】NHKアーカイブに2009/11/28放映のこんな番組も。「証言記録 兵士たちの戦争:偽装病院船 捕虜となった精鋭部隊:広島県・歩兵第11連隊」(https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210034_00000)。そこからより詳しく赤裸々な兵士個々人の証言をたくさん、なぜか無料で見ることできた。そして今回の放映はこれの手直し・再放送だったことを知った。

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「関口宏のもう一度!近現代史」

 2021/12/18:第110回「昭和21年昭和天皇 全国巡幸へ」を、寝起きに途中から偶然みたのだが、なかなかよかった。民放でこんな良質な番組が2019/10/12からあったことを、今まで知らなかったのは迂闊だった。とはいえ、ちょっとは見ていたような。どっかでまとめて見直せたらうれしいのだが。

 その中で保阪正康が平和憲法草案作成について「いまとちがって代議士たちも真面目に検討しているので、それを押し付け憲法といっているのはおかしい」旨の発言をしていてなるほどと思わされたし、東京裁判での死刑判決についてもドイツのニュルンベルク裁判方式を持ち込むことは「状況が違うので最初から無理があった」とか、犯罪人の処罰も色々思惑あって、と核心をついた指摘がされていた。

 それもまあすべてGHQのご威光のもとでの演出といってもいいわけではあるが、そのあたりの熱気とか臨在感覚が失われるにつけ、「押し付け憲法」的な解釈がまかり通りだしたのだろうが、そのあたりの実際のバランスはどうだったのだろうか。

 そうこう考えていたら、予約番組のNHK BSPで「英雄たちの選択スペシャル・大奥贈答品日記」の再放送が始まった。大奥最後の御年寄・瀧山の幕末10年間の直筆日記が出てきたわけだが、司会の磯田道史が、史料がないからこれまで当時女性は政治的に無力だったと考えられていたが、実際はそうでもなかったことになると述べていたのは印象的だった。

 まあ彼女の職分が女性がらみの大奥のこととはいえ、大火の後始末や和宮降稼において彼女が最高責任者だったことが判明しただけでなく、裏のみならず表でも重要な役回り(暗躍)を演じていたという姿が浮彫になったわけで、徳川幕府が徳川家のファミリー支配体制であったということを強調していた点ともども、たいへん勉強になった。

 あれれ、これで京都での学会に参加するのを忘れちゃったぞ。困ったものだ。

【追記】一週間後の12/25の第111回を見て、驚いた。ニュルンベルク裁判での被告24名中死刑判決は12名だったが、その他、裁判抜きを含めて、欧米各国(イスラエルを含む)で大勢の人がリンチで処刑されていたのだ。レジスタンスの報復なのだろうが、フランスなんてひどいものだ。そして実際に多々あった連合軍側の戦争犯罪のほうは免責されてしまう。

 知ればそんなことありえますねというわけであるが、多くの今日に至る情報伝達が恣意的である、ということでもある。詳細をこそ知る必要がある。

 

 

 

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ミルウィウス橋コインまた出たけど、さて

 以前紹介したことのある330年打刻のコンスタンティノポリス記念コイン、またCNGのオークションに出ていた。今回は、業者想定価格$200のところ、あと19日間あるのにすでに$225がついている。さてもう、このあたりできまりかな。

 お品書きには「コンスタンティノープル造幣局、第11オフィキナ打刻」、すなわち裏面の数字を「IA」と読んでいるが、しかし、私には「A」としか見えない。https://www.koji007.tokyo/pdf/atelier/constantinus_1700.pdfでの「IA」を見ても両文字の間隔はかなり開いている打刻なので(01、12、17)、ここは素直に「A」、すなわち第一工房ととるべきだろうと思うのだが。

【追記】3日後にみてみると、10 Bidsでなんと$325に高騰していた! この程度の不鮮明で稚拙な刻印のコインだったら私なら購入しないのだが。年を越して覗いて見たら、13 Bidsで$400になっていた。

 

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イギリスで磔刑の証拠が出土!

 2021/12/8 ケンブリッジシャーのHuntingdon近くのFenstanton村で2017年に、新住宅開発地からローマ時代の紀元4世紀の5つの墓地が発見され、そこから大人40人と子供5人の遺体が出てきていたが、遺骨をラボで洗浄していて、一人の遺骨のかかとに釘が刺されていたことが判明した。その遺体は25-35歳の男性で、身長は当時の平均の5フィート7インチだった。放射性炭素年代測定法によると、彼はAD130からAD360の間に死亡した。磔刑=十字架刑に処された遺体とすると、もちろんイギリスでは初出である。

 磔刑の証拠は残りにくい状況にあるが(普通、共同墓地にちゃんとした埋葬はされなかった、等)、今回は一般の墓地に埋葬され、その遺骸は12の釘に囲まれ、13番目の鉄釘が右脚の踵の骨の中に5cm水平に打ち込まれて残っていたので、それと判明したわけ。彼は刑の執行直前に手荒く扱われたようで肋骨は6本折れていたし、脛の骨が細くなっていたので長期間拘束されていたと考えられている。

https://www.bbc.com/news/uk-england-cambridgeshire-59569629

 磔刑の証拠とすると、私が知る4番目の考古学的遺物である。その1番目のものには、以前以下で触れたことがあるが、それは1968年にイスラエルからのものだった。「ローマ時代の落書きが語る人間模様」上智大学文学部史学科編『歴史科の散歩道』上智大学出版、2008年、pp.292-295.。他は、イタリアのガベロGavelloにあるラ・ラルダ La Lardaで発見されたもの、エジプトのメンデスMendesで発見されたもので、これらにも機会があれば触れたいと思っている。

 フェンストンは、趣のある歴史的な街道沿いの村で、ハイストリートはローマ時代の町ケンブリッジとゴッドマンチェスターを結んでいたVia Devanaのルートに沿っている。この集落は、旅人にサービスを提供するための道路沿いの正式な停留所として維持されていた可能性があり、村はその周辺で発展し、十字路で発展したことを示唆するいくつかの証拠がある。

 骨格の古代DNA調査では、多くの人が親戚関係にあると思われる小さな田舎の集落であるにもかかわらず、2つの家族グループしか確認できなかった。磔刑の彼のDNAはそのいずれとも無関係だった。

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「写真家ユージン・スミス」を見た

 BS1スペシャルで「写真家ユージン・スミス」(2018/12/29:https://www.dailymotion.com/video/x6zpevi)の再放送を見た。彼は1943年24歳の時に従軍記者となり、サイパン、硫黄島、沖縄などに派遣され、『ライフ』などに写真を提供したが、徐々に戦争に捲き込まれた日本人庶民に目が向き始める。軍の機密保持のための検閲は厳しく、彼の撮影した写真の9割は公開禁止となった由。こういう人もいたのだということを我々は知らなければならない。ひるがえって同時代の日本人報道人にこんな人がいたことを私は知らない。

William Eugene Smith:1918-78

 彼の晩年の1971年からは水俣だった。そしてあろうことか、1972年1月には千葉県市原市五井のチッソ五井工場で社員から暴行を受け、片目を失う。彼の波乱に富んだ生涯は59年だった(https://a-graph.jp/2021/08/14/45678)。

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世界キリスト教情報第1612信:2021/12/13;クリスマス準備整えたヴァティカン

 最近この同報メールが遅れたりこなかったり不調である。ひょっとして管理者がお疲れなのだろうか。今回まだこないので、そういう場合、私はこちらを見る。http://www.kohara.ac/news/

 それによると今回のニュースは次の通り。

  • 教皇、ロシア訪問の用意示す=ギリシャ訪問の帰途の機中記者会見
  • 教皇、キプロス・ギリシャ訪問報告、「ヨセフ年」終了告げる
  • バチカン恒例のツリー点灯 コロナ禍2度目のクリスマス
  • 「サンタは実在しない」と司祭が子どもに伝え、物議
  • アラビア半島最大キリスト教会がバーレーンに誕生

  今日は3番目を紹介しておく。私の在伊中にもせっかく成長した巨大な樹木をこのためだけに切り倒す事への批判があったので、事後の有効利用が広報されていた記憶がある。そのツリーの下には巨大なプレゼピオが毎年飾られていて、底冷えの夜、通りすがりに眺めるのが楽しみだったのを思い出す。

 クリスマス・カードと年賀状代わりです。皆さんも、よきクリスマスと新年をお迎えください。Ti auguro di passare un buon Natale e un felice Anno Nuovo!

◎バチカン恒例のツリー点灯 コロナ禍2度目のクリスマス

 【CJC】バチカンのサンピエトロ広場で12月10日、毎年恒例となっているクリスマスツリーの電飾の点灯式が行われた。新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)が始まってから2度目のクリスマスシーズン。バチカン・ニュースなどによって紹介する。
 雨の中、設置作業を終えたツリーがサンピエトロ大聖堂を背に輝くと、傘を差したマスク姿の人々から歓声が上がった。このツリーは、高さ28メートルのオウシュウトウヒで、イタリア北部トレンティーノ・アルト・アディジェ州トレント県アンダロの森から11月23日届けられたもの。ツリーは、トレンティーノ地域のPEFC森林認証プログラムによる持続可能な森林管理の証明を得ている。
 キリスト降臨の場面を再現した模型「プレゼピオ」(イエスの降誕を再現した馬小屋の模型)は今年、ペルーの芸術家たちが制作したといい、アンデス山脈のコンドルやラマも登場。ツリーと共に、「主の洗礼」を祝う2022年1月9日まで、広場を彩る。

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ナパーム弾を浴びた日本占領地と、戦争博物館

 2021/12/12 NHK BS1 スペシャル「空の証言者:ガンカメラが見た太平洋戦争の真実」の内容は、私にとってこれまでまったくの盲点だった。日本の占領地で米軍は容赦ない空襲をおこなっていた。その記録を他ならぬ米軍機に設置されていたガンカメラが撮っていたのである。番組では、当然のこと現地の住民をも襲っていたと表現していた。こういう映像資料が保存され、公開されているのは驚きである(その中に、以前見た海中で発見された沖縄特攻機がらみの映像も出てきていた)。

 中でも、アジアの密林ですでに米軍がナパーム弾を多用していたこと、しかもそれは、ナパーム剤の粉末とナフサを戦地まで別々に輸送し、使用直前に両者を混ぜ合わせ、間に合わせのドラム缶に充填したものなどもあって、火炎放射器もその応用だった、日本本土での敵前上陸に備え、台湾などで空襲実験もしていた、ということには衝撃を受けた。

 ベトナム戦争で多用されたのはその改良型だったわけだが、それの祖型が太平洋戦争で本土のみならず、現地住民を捲き込んで、焼夷弾として投入されていたのである。

 このあと、日をまたいでの深夜、日テレのNNNドキュメント‘21「ふれてください、戦争に、伝えて下さい、未来に」(https://www.fbs.co.jp/journal/highlight/1710.html0)をみた。たった20分の番組だったが、戦時中の庶民の生活資料を収集・展示してきた福岡と群馬・前橋の私設博物館の活動が紹介されていた。それらの大きな特徴は実際に手で触れることができるということだったのだが、後者は主催者が高齢となり市に移管され、しかし展示物に触れることできなくなった。前者は70歳を越えた息子が父と母の遺志を継いでいるものの、さて10年後はどうなるだろう、というわけである。

 それを見ていて思い出したことがある。実物に触れることでの一種の感動である。

 私の広島の実家の2階の屋根裏部屋は、中高校生だった私の探険の場だった。積年の塵ゴミで鼻の穴を真っ黒にしながら、ときどき潜り込んでいた。そこには、昭和6年に家が建って以来の一種の蔵のような場所で、書物書籍書簡のみならず、戦時中のものとおぼしき銃剣術用の木刀や鉄兜、弓矢一式すら出てきたし、ノモンハンで戦死した叔父の軍用行李(中から勲章や遺品や葬儀時のあれこれが出てきた)も、天井の垂木の裏からは敗戦まで客間の鴨居を飾っていて敗戦後隠された長短の槍すら出てきたのである。

 それとは別に仏壇下引き出しからは、浅野家の下級武士だったご先祖様が維新後一旦つぶれたときに辛うじて残していた江戸時代の参勤交代の断簡や、明治の士族没落期の再興の試みだったのだろう、台湾征伐の建白書なんかもみつけたのだが、こういう体験がある意味私の過去への思いを強く誘ったように思える。

 すべては父が死んで家を建て替えたときに母が独断でほとんど古道具屋に処分してしまった(チンケな新家屋では置き場もなかったのだが)。文書だけでも残してほしかったのだが、今となっては悔やまれる。

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戦争は誰が始めたのか、そして、また始めるのか

 今から10年前のNHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったか」をNHK総合で再放送している。仏印進駐がアメリカの全面禁輸という強硬姿勢をもたらした契機となった。日本側はそれを全く予想していなかった。見逃されるだろうとの安易な逃げ場所がむしろ墓穴を掘った。誰がみてもアメリカとの戦争は勝つ見込みはまったくない。これは陸海軍を含めての共通認識だった。しかし、負ける、この一言を自分が言うと弱腰ととられる、だから誰か言ってくれ。リーダーたちの間でなすり合いが始まった。首相近衛必死の日米首脳会談もご破算となる。先に戦争回避を言い出そうとはしないリーダーたち。そして東條が虎穴の虎児として登場する。陸軍を押さえる役割が期待されていたのだ。

 判断先送りの挙げ句、11/27に厳しいハル・ノートが出てきたのだが【これが結果的に、ルーズベルトが米国民に選挙公約していた非戦を反古にして、ヨーロッパ戦線に参戦するための口実に利用されることになる】、それ以前に手を打つべきだったのに、責任とりたくない合議が時を失わせたのだ。ある意味、当時の日本は独裁でなかったからずるずると戦争に引きずり込まれてしまったともいえる。天皇が、首相が、陸相が、海相が公式の会議の場で「負けます」といえば別の道が開けたのかも知れない。その勇気が誰にもなかった。これが今に通じる我が日本組織人の通弊なのである。

 そしてメディアの責任も大きかった。威勢のいい記事を書けば発行部数が伸びる。経営的には万々歳だ。だから戦争協力し、そういう紙面を作って国民を煽る。ナチスが大いに利用したラジオも然り。戦争で窮乏が進む民衆の不満は手っ取り早く分かりやすい責任を英米に着せる方向に向かう。そしてそれをメディアが誘導していく。それがリーダーにも跳ね返り、世論が求めていることに迎合せざるをえなくなる。本当のことを言い出せなくなって追い込まれてゆく。

 誰も戦争したくなかったのに、真の勇気をリーダーが発揮しなかった。無知なる民衆は勝手に、いやそう誘導されて煮詰まって暴論に走る。そして現在、まったく変わらない我が国、我がリーダー、我が国民がいる。以上が10年前の主張だった。これを衆愚政治という。

 現代、すでに若者たちは新聞を読まないしテレビも見ない。ラジオも聞かない。ついでにいうと学校でも昭和史は蔑ろだ。彼らが日々、いや時々刻々もっぱらチェックするのはSNSだ。そこでのフェイク・ニュースで左右される恐ろしさはもはや現実である。それが世論を動かすとなると大問題だ。流言飛語が飛び交う、武器を使わないIT戦争はすでに始まっている(アメリカ大統領選しかり、新コロナ騒動しかり・・・)。だから情報統制を強力におこなう独裁者の登場が期待され始める。そのほうが幻想に過ぎないとしても、意志決定が早く対応でき傷が小さいからだ。愚民には知らしめるべからず、依らしむべし、なのだ。

 これは既視感のあるどこかでみた風景だ。またそれを繰り返す愚を犯すのであろうか。たぶん性懲りもなくそうなるのであろう。それが、学ばない連中への歴史の唯一確かな教訓,しっぺ返しなのだから。

【追記】2021/12/11NHK総合で「昭和天皇が語る開戦への道」では、上記とかなりニュアンスの違う従来説的な味付けで放映中。戦後の田島道治「拝謁記」と新発見の戦時中の「百武三郎日記」で述べられている天皇の言動をどう判断するのか、という問題はもちろん百武に依るべきだろう。史料の読み方で私は10年前のほうが均斉がとれているように思うが、百武の新情報で天皇は及川海相の言により開戦に傾いていたとあるのは、やはり無視しがたい。80年という歳月がこの史料を世に出すことにもなった、と改めて思う。よく天皇は本心では開戦に反対だったとして御前会議で明治天皇御製の和歌「四方の海・・・」を読んだ、とこれまで主張されてきていたが、実際には明治天皇以来宣戦布告において「万やむを得ず開戦に至った」ことを示す常套句にすぎない、という解釈に連動していくわけである。

 この放送の中でおやと思ったのは、最初ルーズベルトは4/16の日米諒解案で満州国の承認と引き換えに中国からの撤兵を提案した、それはこの段階では米大統領はヨーロッパ戦線参戦を前提に、対日政策を荒立てず三国同盟の骨抜きを図っていたのだろうとしている点である。これは結局チャーチルと蒋介石の反対で廃棄されたらしいが、この日本にとってこの上もなく有難い妥協的内容にハルがタガをはめるべく四原則を付記していたのに、それを野村は本国に添付しなかった件は番組では触れられておらず、このあたりの交渉ごとの複雑怪奇さには驚かされる。


 私的にはこれらから学んで、古代ローマ史研究に資することなのであるが、さてできるかな。

 偶然以下を見つけた。「ラジオと「戦争展」」(https://japanradio-museum.note.jp/n/ndd86fb7a8573)

 2021/12/22 NHK総合「新・映像の世紀」3・「時代は独裁者を求めた」:実はアメリカの大企業はナチスへの投資で儲けていていた。自動車王ヘンリー・フォードはナチスに軍用車を大量に売りつけ、空の英雄リンドバーグは、ヒトラーと手を組むことが世界を平和に導くと信じ、アウシュビッツ収容所の大量の囚人管理を可能にしたのは、IBMが開発したパンチカードシステムだった。だからドイツと戦争すると投資資金が回収できなくなる。ドイツとの戦争に反対していたアメリカの資本家たちが、日本との参戦に賛成したのは、そういう事情があった。アメリカとソ連は、占領地で科学者とスパイたちを獲得し戦犯容疑を免除し、ヒトラーの遺産で戦後の軍拡をおこなったのだ。・・・だがこんな視点、世界史の教科書に書かれているのだろうか。いや、教師は教えてきたのだろうか。

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戦前の「空気」の押さえ方

 テレビのドキュメンタリーは1時間といった限られた時間内で新見解を盛り込むので編集が大変だろうなと想像するのだが、これは落としてほしくないという視点もあって、それ抜きで本日の主題に入っていく例が目立つと、やっぱり説得力に欠けてくる。例えば1930年代当時はようやく25歳以上の成人男性のみに選挙権が認められ出したに過ぎなかったし、政党がどうあれ首相任命は藩閥の取引で天皇勅許によるものだった。そして財閥や地主と庶民の格差は今では想像できないほど隔絶していたので、労働争議も熾烈だった。

 開戦時の様相では、私のようなど素人でもおかしいな、と気になる疑問が幾つもある。陸軍秋丸機関の調査報告の扱いなどその最たるものである。彼我の生産力の違いは歴然としており陸海軍でも常識だったが、だったら戦争やめようということになりそうなものだが、そうはならなくて、ならどうすれば勝てるのかに関心が向いていたのだそうだ。これ、分からんでもない論理の流れだ。石油、石油というのであれば、供給国をアメリカから移す算段とれなかったのだろうか、たとえ南方で油田押さえても海上輸送は万全だったのだろうか、と。

 ここまで書いて、NHK「歴史探偵」で出撃3週間前に航空兵たちが鹿屋の高級料亭翠光園で寛いで宴会している写真を見たのだが、ほとんどが今だと高校生かと思うほどの若者たちなのだ。その彼らが第一線で闘った戦闘要員だったのである。それが軍服や搭乗服を着ての記念撮影になると構えたポーズと相まって大人びて見えるし、映画になるとその時代の看板俳優が当たり前のように主役として登場し、すなわち30代以上のおじさんたちがいいところを演じるので、私はだいぶそのあたりで間違ったイメージをもたされてきた感じがする。所詮、映画は虚構に過ぎないのだが、史実をなぞっているような題材の場合、間違えやすくなるわけである。画像の与える影響は強い。私の出身中高はかつての海軍士官の制服を擬していたので、なんだか同窓会に紛れ込んだような気さえする(ここには写ってないが写真左右にちょっと年長者がいてボタンなしの士官服が見える)。

彼らが下士官航空兵として実際に出撃した(白黒写真をカラー化したもの:番組画面から撮影)

 真珠湾攻撃では総数354機が出撃し、29機55名が帰らなかった。別の番組で4年後の敗戦までに真珠湾に参戦した航空兵の8割が死亡したと言っていた。ぬべなるかな。上記写真には13名写っているが、うち10名は戦死した確率になる。文字通り消耗品だったのだ。

 陸軍省幕僚で、宮城事件首謀者の一人だった畑中健二少佐は、8/15自殺時に33歳だった。

 そしてこれは戦いの相手の米軍においても同様だったはずだ。

 

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小型パン焼き窯の所在:Ostia謎めぐり(18)

 これは謎ではないが、オスティア遺跡を他と比べての特徴の一つとして、私は奴隷用の雑穀パンの大量生産用の大型窯をあげておいたが、遺跡内には後世のものと思しき小型の釜(ピザ屋レベル)が幾つか存在していたようである。

 ここではさしあたり、それらしき痕跡を提示しておこう。まず第一に、場所は、III.14.1で、アントニヌス・ピウスの時代に建てられ住居兼商業施設と想定されているが、後世の改造後の用途は明らかでない。その中に小型のオーブンらしき遺物が残っている。以下がその写真である。

 もうひとつは写真はないが、Caserma dei Vigili (II,V,1-2) で、Ostia:Harbour City of Ancient Romeのホームページでの説明では、後の段階においてこの兵舎の北東部に小さなオーブン(単数)を備えた部屋(複数)が作られた(In a late phase some rooms with a small oven were created in the north-east part of the building (52-54))とあるが、その文章の意味が不分明で、平面図見てもそれらしき痕跡は見当たらず、知らずに現地を歩いたとき何も気がつかなかったので、さてどう理解したらいいものか。55は水槽である。念のため。

 さらにもう一つは、Terme della Trinacria (III,XVI,7) で、これには写真があるが、Ostia:Harbour City of Ancient Romeのホームページでの説明では(https://www.ostia-antica.org/regio3/16/16-7.htm)単なる炉furnaceという表示であるが。

                 平面図の番号「11」

 最後に、Sinagoga (IV,XVII,1)付設のもの。このユダヤ教会堂は後1世紀中頃建てられて、後4世紀に大規模改修されているが、その台所に小型オーブンが設置されている。これはおそらくユダヤ教の清浄食物規定がらみの宗教目的専用だった、私は考えている。

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