タイムマシーンに乗って、「主祷文」を唱えてみる

 今ザッと読んでいる以下の書にこんな件があった。デイヴィッド・W.・アンソニー(東郷えりか訳)『馬・車輪・言語』上、筑摩書房、2018年(原著、2007)、p.41.

 タイムマシーンで、西暦1400年のロンドンに降りたときに、最初に口にする言葉として理解されやすいのは「主の祈り」、すなわち「主祷文」かも知れない。現代英語だと「Our Father, who is in heaven, blessed be your name」(「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように」新共同訳)であるが、それがチョーサーの時代だと「Oure fadir that art in heuenes, halwid be thy name」だった。さらに400年後の1000年だと、古英語、つまりアングロ・サクソン語でこう言ったはずだ。「Faeder ure thu the eart on heofonum, si thin nama gehalgod」。1000年の歳月を経るうちに、これほど話し言葉は変化するのである、と。

 これに蛇足を加えるなら、より古いラテン語だとこうなる。「Pater noster, qui es in caelis, Sanctificetur nomen tuum」。さらにこの文言を掲載している「マタイ福音書」6.9はもともとギリシア語で書かれているが(Πάτερ ἡμῶν ὁ ἐν τοῖς οὐρανοῖς· ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου:Pater hēmōn, ho en tois ouranois hagiasthētō to onoma sou)、実際にイエスが話したのはアラム語だったはずなのだ。が、さすがにそこまで私は手が伸びない (^^ゞ

 実は、日本のカトリック教会で2000年までミサ聖祭の中で長らく使われていた「主祷文」の日本語訳は「天にましますわれらの父よ、願わくは御名の尊まれんことを」だった。私など簡潔でリズム感あるこっちのほうが身に染みこんでいて、新共同訳なんかの現代翻訳にはなじめない。

  私がとりあえずここで言いたいのは、1000年後といわず、600年後でもこれだけ違っているのだが、それを古代ローマに当てはめてみるとき、ラテン語の表記がそう変わっていないようにみえるのはなぜか、ということである。具体例を挙げると、カエサルを読む時と同じ羅和ないし羅英辞典をエウトロピウスでも使っていささかも怪しまないのは、なぜ、と。彼らの間にはゆうに400年の時間の流れと、ラテン語圏のローマとギリシア語圏のコンスタンティノポリスという地理的隔たりがあるのにも関わらず、なのだが。我が国に当てはめてみると、たとえば「信長公記」を読解するときに三省堂の国語辞典利用はありえないわけで、逆に古語辞典を現代語に使うのは到底無理でしょう。教会典礼の場合はたしかに言語の固定化がなされたにしても、同じような固定化が書き言葉でもめざされた(擬古文)、それだけ庶民の話し言葉とは異なっていた、ということなのだろうか。言語学の専門家のご意見をいただきたいところであるが、意外とこういうことには触れてくれてないのだ。

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