月: 2022年7月

世界キリスト教情報第1643信:2022/7/18:バチカン新メンバーに女性登用

≪ 目 次 ≫
▽教皇、司教省の新メンバー中に女性3人を任命
▽教皇=「教会の召命、教会の喜びは、宣教にある」
▽米・パレスチナ=首脳会談で「2国家解決」協議
▽中南米大学ランキング上位10校中7校がブラジル勢
▽ブラジル・サンパウロで大火災発生=伝統ある教会など被害に

 今回は最初の件を紹介する。
◎教皇、司教省の新メンバー中に女性3人を任命
【CJC】教皇フランシスコは7月13日、教皇庁司教省の新メンバーらを発表、この中で女性3人(修道女2人・信徒1人)を任命された。

 教皇がこのたび同省のメンバーとして任命された女性たちは、ラファエラ・ペトリーニ修道女(バチカン市国行政庁次官・聖体のフランシスコ修道女会)、イヴォンヌ・ランゴア修道女(サレジアンシスターズ前総長)、マリア・リア・ゼルビーノ氏(世界カトリック女性団体連盟会長)。

 教皇は、ロイター通信のジャーナリスト 、フィリップ・プレッラ氏によるインタビューの中で、教皇庁の要職における女性の積極的な登用に言及していた。

 これにより、司教省が取り扱う、教区に新しい司教を選ぶプロセスに、女性たちも加わることになる。

 教皇は、教皇庁司教省の他のメンバーとして、アンデルス・アルボレリウス枢機卿(スウェーデン・ストックホルム司教)、ホセ・アドビンクラ枢機卿(フィリピン・マニラ大司教)、ジョゼ・トレンティーノ・デ・メンドンサ枢機卿(バチカン図書館・総館長)、マリオ・グレック枢機卿(シノドス事務局・事務局長)の4人の枢機卿を任命した。

 また、アーサー・ロシュ大司教(典礼秘跡省長官)、兪興植(ユ・フンシク)大司教(聖職者省長官)、ジャン-マルク・アベリーヌ大司教(仏・マルセイユ大司教)、オスカル・カントーニ司教(伊・コモ司教)ら、8月末の公開枢機卿会議で新たに枢機卿に叙任される大司教・司教4人、さらに3名の聖職者3人を任命した。□
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広島の季節の味、小イワシの刺身

 帰省のたびに食べたいと思っているのだが、メニューに書いてあっても「ありません」、はては「今禁漁の時期でして」と言われ続けてきて、はて、大昔小イワシに禁漁の時期なんかあったっけ、と。全部母任せだったし、大昔は草津からおばちゃんが箱車を押して行商でやって来て、竹べらをU字にしてその場でしごうして(さばいて)くれてたよね。だけどそれは本当に大昔のこと、僕が10台のころまでだったっけ。最近はもっぱらスーパーで買う。

 確かちょっと前だと、産地を見たら三重だとか富山とか書かれていたので、海流が北上して広島では取れなくなったのかと思っていたのだが。ところで小イワシはいわゆるカタクチイワシのことで、足が早いので普通は煮干しにしちゃうのだけど、なぜか広島では刺身なのである(天ぷらもあるが)。栄養豊富でよそより大きくなるのだそうだ。

 で、6月10日が漁解禁日とかで(https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/174677)、わたしゃ前回の帰省が6/9までだったので、意図せず食いっぱぐれたのだが、さて今回はと勇んでさっそく近所のスーパーに行ってみたら・・・、山ほどあった!

 ただし、どっさりと見えたのは未加工のもので、こっちは100gあたり98円とお手軽な値段なんだけど、刺身用に3枚にしごうして(おろして)あるほうは、なぜか正味量は不記載で(どうみても100gかな)価格は税込みで430円と・・・。かなり手間賃とられている感じがしてしまうが、しょうがない。1パック買って、あとは鯛のあら炊きも1パック買って帰る。これが今晩のおかず、というより酒の肴。

 昔だと青臭さがちょっと残っていて、それが季節の味だったような気がするのだが。ま、昔を思い出して、遠い記憶を食しているようなものだが、とにかく今年も無事食べることできた(次回帰省予定は9月下旬なのでもう終わってるはず)。さて来年はあるのだろうか。

 みなさん安いの買って自分でさばくのだろうか。かなり油がつくので、よほどのお年寄りでないとしないような気がする。ひょっとして翌日には「小イワシの天ぷら」に変身して総菜売り場に再登場するのかな。

 上記を書いた後、今年の3/10にもこれに触れていたことを思い出した。そこでの写真は10年前のものだが、地場ものは380円だったようなので、まあそう値上がりしたわけではないようだ(とはいえ量は少なくなっているような)。

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ウクライナ人は、庶民もしたたか

 以前、大統領が戦争で馬鹿儲けしているという情報を紹介したことがあるが、その前にもウクライナに出稼ぎに来ていた外国人労働者が、難民を装ってドイツなんかに入り込むいいチャンスとやっている、という情報もあった。

 今回は、日本に難民としてわずか20名くらい来た中から、すでに行方不明者が出ている、彼女らはどうやら観光目的だったらしい、というニュースが。「「ウクライナ避難民」2人が群馬の滞在先から失踪 支援制度悪用か」(https://mainichi.jp/articles/20220714/k00/00m/040/152000c)。

 そう、ウクライナ人は、上から下までみなさんガッツあるんですね。

 ちゃんと身元調査もせず、渡航費なんかも負担して、やっぱり日本人って世間知らずのお人好し、なんですね。

【追記】7/18に以下のニュースが流れた。

【7月18日 AFP】(https://news.yahoo.co.jp/pickup/6432903)

ウクライナ大統領、検事総長ら解任

 ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー(記事&category%5B%5D=ワールドカップ&category%5B%5D=五輪”>SBU)トップを解任したことを明らかにした。

 解任されたのはイリーナ・ベネディクトワ(記事&category%5B%5D=ワールドカップ&category%5B%5D=五輪”>Ivan Bakanov)SBU長官。

 ゼレンスキー氏は国民向けの演説で、国家反逆行為を働き、ロシアに協力している疑いがある当局者650人以上について捜査を進めているとし、そのうち60人はロシアの占領地域にとどまり、「わが国に背く活動をしている」と語った。

 その上で、対ロシア協力者が多数に上っているのを受け、「国家安全保障の根幹に背く犯罪が相次ぎ、ウクライナの法執行当局者とロシアの情報関係者が関係を構築していることで、責任者には重大な疑義が生じている」と解任理由を説明した。(c)AFP

 私のような素人からすると、政権側が公表しての戦時中の検事総長や保安局の粛清はただ事ではない気がする。いずれにせよまず眞相が明らかにされることはないだろう。今、日テレの「深層ニュース」を見ているが、いつものメンバーで、男性コメンテータを除いて相変わらず「身びいき」がすぎるように思う。

 4日遅れで毎日新聞も報じている、ただし露軍の停滞を並記しつつだが。「ウクライナ、隣にいる“敵”:情報機関幹部が内通「衝撃の成果」」(https://mainichi.jp/articles/20220722/k00/00m/030/219000c?cx_fm=mailasa&cx_ml=article&cx_mdate=20220723)

高島康司

5/22発信:「「ウクライナ勝ち確」は本当か?日本メディアが報じない、海外専門家3名が語る戦況」(https://www.mag2.com/p/money/1190398)

6/4発信:「ウクライナの敗色濃厚?欧米メディアは掌返し、日本では報道されない本当の戦況とロシアの勝利条件」(https://www.mag2.com/p/money/1195362)

島田久仁彦「欧州で加速するウクライナ“忘れ”の現実。なぜ熱狂は一気に覚めたのか」(https://www.mag2.com/p/news/544800?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000001_mon&utm_campaign=mag_9999_0711&trflg=1)

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テヴェレ川の戦略地点を探る

 今、法事絡みでちょっと早めに帰省している。ヒマというわけではないが、実家に置いてあるiMacのデスクトップをいじっていると、以前の仕事で集めたけど忘れ果てていた史資料が埋もれていて、なんだかもったいないネタがあれこれ転がっていたりする。研究雑誌には野放図に画像を掲載できない事情があるが、その落ち穂拾いで論文に掲載したかったものを、ひとつ紹介したい。

 以前『軍事史学』第54−2、2018年に、「三一二年のコンスタンティヌス軍」を書いたことがあった。その時の私の論述のキモのひとつは、312年10月28日のミルウィウス橋決戦において、迎え撃つマクセンティウス側にとってテヴェレ川の蛇行が重要な防衛拠点になっていたはず、という着想にあった。私は幾度か現地を訪れ、最終的には歩道のない自動車道をひやひやしながら歩き通して自分なりの確信をえた(せめて自転車で軽快に移動したかったのだが、実際にそんなことしたら車が文字通り疾駆しているので危険きわまりない冒険になっていただろう)。論考では地図でそれを簡単に示しておいたが、今般その時のGoogle Earth画像が出てきたので、それを開示する。ただし2013年段階の画像なので(我ながらこのネタ長く寝せていたんだなあ)、現在のそれとは表示が異なっていることをお断りしておく。どなたでもグーグルで距離も測ったりして追体験できるので、実際に試して頂ければと思う。

 フラミニウス街道Via Flaminia を一路南下してきたコンスタンティヌス軍は、決戦を前に帝都から20キロ直前のMalborghetto付近の丘陵地に数日間滞留していたが、28日早朝に進軍を開始する。直線で約6km緩い坂を下ったところで、かつてのアウグストゥスの皇后リウィアの別荘に至るのだが、ここまでくるとそれまで左手に見え隠れしていたテヴェレの流れをようやく手近に見ることができたはずだ。この別荘は舌状台地の南端に位置していて、そこを下る街道は現在でもやたら狭い切り通しで(だから自動車道は東でトンネルにもぐっている)、その真下がPrima Portaであり(このあたりのことは、このPHでの、「【余滴】コンスタンティヌス大帝1700周年記念関連貨幣・切手資料紹介:今年は何の年?」、p.16-17;上記『軍事史学』の画像補遺、p.7-10に、かつて書いた)、そこにはテヴェレ川に注ぐ支流が西から流れてきていて、現在の鉄道ノルド線のプリマ・ポルタ駅はその上をまたいでいる。実際にはおそらく前日までにそこまで進出してきていたマクセンティウス軍はコンスタンティヌス軍進発に呼応してその台地を急登し、現在の大ローマ市民墓地Cimitero付近で東西に展開して布陣し、コンスタンティヌス軍を待ち受けていたと考えられる。テヴェレ川はこのあたりで大きく東側に蛇行しているので、マクセンティウス軍からみて右には広い空間が開けていたことになる。但し当時は遊水池の河原の不毛の湿地帯だったかもしれないが(当然、往時に川筋が今のままだったと考える必要はないが、今と似たようなものだったと想定しての話である。以下同様)。

中央やや左に見える眼鏡状の自動車道の立体交差(その北の先ですぐにトンネルにもぐっていることにも注意)のすぐ左上が別荘、その左にPrima Portaのアーチ遺跡がある。

 その後テヴェレ川の川筋は西に動き、フラミニア街道に接してくる。そして、街道と川筋が最も接近する箇所が下図付近。現在は両脇を自動車道で挟まれて鉄道線路も平行しているが、昔の街道筋がどちらにあったのかは不分明だが、いずれにせよ、西側はちょっとした崖なので、川筋と街道はかなり接近していたことは確か。そこで私はマクセンティウス軍の防御線がここに置かれたと想定した。崖から川まで最短で40mほどしかない。そしてその手前(南)にはやはり蛇行しての若干の空き地があるので、そこにそれなりの軍勢を待機させることも可能だったはず。

右の写真の自動車道は2車線ずつ左右に見えるが、その左にさらに鉄道線路ともう一つ道路が平行して走っている

 この防御線から南に直線で約270mの地点でテヴェル川はまたもや右に急激に蛇行し始め、現況では約110mを経てまた戻って来る。この北側の隘路を採るか南側を採るかが問題だが、私は背後の空き地に部隊を配置することできるので、北側に防御線を張ったのではないかと想定してみたが(川まで260m)、どうだろう。南側も場所によっては西を塞ぐ丘もあって北側に比べると60mは幅が短くなっているのだが。

 ところで、Aurelius Victor,40.23には以下のようなくだりがある。マクセンティウスは「首都からサクサ・ルブラへと9ローマ・マイルほど辛うじて進んだところで、戦列がacie 粉砕され caesa」た、と。ここでのSaxa Rubraとは元来このあたりを示す地名と考えられているので(現在のノルド線の駅名と合致しているわけではない。また上記【余滴】で触れたピウス10世による顕彰ラテン語碑文設置場所はプリマ・ポルタ駅近くなのだ)、一説にはマクセンティウスはこのあたりで敗北を喫したとされる場合もあるが、地形的に決定的戦場とは思われない。

 その防御線を突破されたとき、帝都ローマの城壁以前の最後の守りはいうまでもなくテヴェレ川を渡河するミルウィウス橋ということになるが、そこに至るまでにテヴェル川はまたもや大きく東側に蛇行して、ローマ・オリンピックの時に陸上競技場などが設置された広大な平地を提供している。ここは現在Tor di Quito公園となっていて、古来幾度か戦場となった場所である。コンスタンティヌス軍とマクセンティウス軍が激突した主戦場がここだったと考える研究者もいるほどなのだが、私はむしろマクセンティウス軍壊滅の場所だったのではと考えている。その後のミルウィウス橋の戦闘とは、潰走するマクセンティウス軍を追撃するコンスタンティヌス軍の掃討戦にすぎない。とはいえ敵将マクセンティウスをそこで溺れ死にさせたという記念すべき戦場ではあった。

フラミニウス街道はローマ市内から北上し、左隅でミルウィウス橋(赤丸1つのほう)を渡り、一旦北上したあと右折して川筋にいたる

 というのは、これは論文に書いていないのだが、コンスタンティヌスはプリマ・ポルタ攻防戦のあと、自軍の出血を避ける手立てとして、マクセンティウス軍がフラミニウス街道に幾重も仕掛けた防御線を迂回すべく、軽騎兵連隊を放って西側の間道を疾駆させ敵の背後をついて、一挙にこのTor di Quito地区に殺到させ、いち早くミルウィウス橋を渡河して対岸に達しせしめたのではと密かに思っているからだ(それをうかがわせる文書史料など一切ないが、マクセンティウス側の内通者の存在は別途指摘しておいた:たぶん彼らが詳細な間道情報をコンスタンティヌス側に漏らしたのでは:「裏切り者は誰だ!――コンスタンティヌス勝利のゲスな真実――」『地中海学会月報』389, 2016/4)。こんな突飛とも思われかねない仮説を本気で考えざるを得なかったのは、コンスタンティヌスのアーチ門の南面右のレリーフ右端で、合図のラッパを吹いているあの二人の兵士をどう解釈すべきか、に関わっての想定なのである。あれはどう見てもコンスタンティヌス側の進軍ラッパである。それが橋を潰走するマクセンティウス軍より先に渡河しているのだから、奇妙なわけなのである。

 このような私の間道仮説の当否は別にして、テヴェレ川の複雑な蛇行を利してのマクセンティウス軍の防御線構築論は納得頂けたであろうか。

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金子史朗を読む

 といっても私はそんなに熱心な読者ではない。かつて旧約や新約に出てくる大災害に触れた聖書関係や、専門に関わる『ポンペイの滅んだ日』(1988)や『レバノン杉のたどった道』(1990)をざっと読んだことあるくらいで、まあ内容が内容だけに、天変地異をテーマにした一種のきわものを扱う理系の人、といった印象だった。

 最近になって、ポンペイがらみでウェスウィウス火山についてちょっと知りたくなって文献検索していたら、氏の『火山大災害』古今書院、2000年、がヒットし、我が図書館の所蔵を借り出したかったけど、返却日失念しての罰則期間だったりして(最近これ多くなってまして (^^ゞ:連絡ないので一ヶ月も放り投げてた)、関係箇所(第1,2章)だけコピーしてこのところ読んでいる。そして、誠に遅ればせながら、おやっと思ったのである。

 改めて著者紹介を眺めた。1929年東京都生まれ、東京文理科大学地学科卒業、都立高校教師の後、科学ジャーナリストに転身、これまで実に多くの著作を書いている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%8F%B2%E6%9C%97)。

 ご存命とすれば93歳、書かれた最近のものは2004年のようだ。そしてHP「金子史朗の足跡」(http://wwwc.dcns.ne.jp/~dende/top.html)もみつけたが、表紙だけの作成でおわってしまったようで、残念至極。その更新履歴は2009/1/19となっている。80歳でHP作成を思い立ったその気概には敬服する。出版社が本を出してくれなくなった(これまでの編集者もリタイアするし)、本が売れなくなったというような事情もあったのかもしれない。

 HP掲載のお写真

 氏が東京教育大学出身というのはなんとなく記憶があったのだが(実は何を隠そう、はるか昔そこの受験を考えたこともあったりしまして)、卒業学科が地学科というのはまったく失念していた。今回業績一覧を拝見すると、30台半ばからの論考類はあたりまえのことだが地理や地質学的な内容で、最初の著作も『構造地形学』(古今書院、1967)であった。業績リストに「1962 北海道大学提出学位請求論文」とあったので、気になって北海道大学で調べたら「理学博士(旧制)、学位授与年度1961」とあって(主査はたぶん火山学の大家・横山泉氏だったのだろう)、だけど彼は著作の履歴にそれを全然書いていない。体制順応型の私など、そこから氏の在野研究者としての反骨気質を感じてしまう。提出したらくれるというから出しただけで、だからどうなのさ、というような。

 それはともあれ、『火山大災害』を読んでいると彼の専門分野が遺憾なく発揮され、歴史系の私にとって重箱の隅で若干引っかかる箇所がなきにしもあらずとはいえ(p.71以降で、ポッツオリの遺跡を「セラピス神殿」としているが、あれは正確には神殿ではなく「市場」macellumとすべき;p.73の「ベスゼオ」って誤植?)、たいへん勉強になった。というよりも、第2章でカムピ・フレグレイに関して邦語でこれほど紹介しているのは、彼が初めてではないか。後進としてはあらかた書かれてしまった感じで、今後、火山学・地質学的な知見では隅の親石と定めざるをえないだろう(ま、年月経ているので研究の進展はあるだろうが)。

 ところでカンピ・フレグレイをググっていたら、以下の記事をみつけた。「超巨大火山に噴火の兆候、イタリア:イタリア国立地球物理学研究所が発表」(https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/122700499/)。この記事の発信は2016年12月28日である。あれから5年半。何も起こっていない(Solfataraで家族3名が転落事故死したのは翌年の9月だったが)。火山学にはこのような間尺が長く時間的偏差がつきもので、となると非科学的とのレッテルも貼られやすくなる。一方で気を緩めていると福島原発みたいに「想定内」だった津波に襲われて大惨事となるわけで、万一をおもんばかって警告は発しないといけないし、狼少年になりかねないし、難しいところだ。

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安倍晋三の毀誉褒貶

 私から見て面白い記事に出会った。登録すれば無料で読めるはずだ。

谷口智彦「安倍元首相のスピーチライターが見た「アベノミクスの光芒と無念」」(https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00030/071100398/)

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世界キリスト教情報第1642信:2022/7/11

≪ 目 次 ≫
▽教皇、安倍元首相死去に深い哀悼の意
▽教皇、ウクライナとロシア訪問を依然計画
▽教皇、カンタベリー大主教、スコットランド教会議長がコンゴと南スーダン訪問延期で釈明
▽ロシアのウクライナ侵攻、正確な死者数をBBCが分析
▽舌禍の駐ドイツ大使ら5人解任=ウクライナ大統領
▽米独立記念日パレードで銃撃、6人死亡、20人以上負傷=シカゴ郊外ハイランドパーク
▽国連、北朝鮮人権状況特別報告者にサルモン氏任命
▽苫小牧で外国人船員支えた36年、「キリスト教船員奉仕会」解散

  今回は毛色の変わった情報を紹介しておこう。

◎舌禍の駐ドイツ大使ら5人解任=ウクライナ大統領
【CJC】ベルリン発時事通信によると、ウクライナのゼレンスキー大統領は7月9日、ドイツ政府への過激な批判などで物議を醸してきたメルニク駐独大使を解任した。チェコ、ハンガリー、ノルウェー、インドに駐在する各大使も解任した。

 ゼレンスキー氏はビデオ声明で、大使交代を「通常の外交業務」と説明したが、解任の理由には触れなかった。後任人事の準備を進めているという。
 メルニク氏は、ウクライナへの姿勢をめぐりドイツ政府や当局者を頻繁に非
難。ショルツ独首相を、ドイツ語で理由もなく不機嫌になった人を意味する「気を悪くしたレバーソーセージ」と表現した。□

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選挙資格の確認って

 先日、当日不在ではないのだが不在者投票に行ってきた。休日にわざわざ投票所に行くのではなく、自分の都合で町に出たとき区役所に行って終えることできるのが魅力なのだ。

 ただ、受付でおやっと思わされたことがある。郵送で送られて来た用紙の裏にあらかじめ住所とかを書き入れて係に提示すると、何も聞かれず求められず、投票用紙を渡されるのだ。これではなりすましも可能じゃないか。

 それで思いだしたことがある。以前、マイカードの更新にやっぱり区役所に行ったとき、ちょうど投票することがあって(たしか区長や都議の選挙だったような)例の投票関係の用紙を持参していたのだが、だけど身分証明書を持っていなかったので、マイカードの窓口に投票用紙を見せたのだが、全然受け付けてもらえず、更新の方は出直した嫌な体験をしたことがあった。当方としては、投票用紙なんだから国籍も住所も明記された完璧な身分証明書でしょ、という理屈だったのだが。

 その時思ったこと、区役所のお役人自身が投票関係の書類を身分証明書としては不備であると認識している、しかし投票にはそれでいいとわざと「見逃している」のでは、と。これで実際に利益を得ているという認識を保守的党派が持っているというわけだろう。

 私からすると、なんと投票行為には不正が内在しているやり方がずっと継承されているのである。おかしな話だが、それでよしとしている勢力が裏に控えているような気がしてきたのである。これちょうど、新コロナ給付対策費とおんなじ構図かも。

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攻勢をかける田中氏、でも勇み足では

 このところ田中宇氏が有料記事を次々に無料で配布し出して、「ロシア勝利」で攻勢をかけてるなあと私は思わざるをえないのだが、7/8付の「英ジョンソン首相辞任の意味」(https://tanakanews.com/220708boris.htm)を読んで、あれれと。

 最後の段落で、「(ロシアへの再接近への)安倍の動きを阻止するため、米諜報界が死客【ママ】を奈良に放ち、7月8日に演説中の安倍を銃撃したのでないか」と余分なこと書いていて、これはまったくの空振りだ、と私は思う。

 佐藤暗殺犯が、佐藤の政治信条に対する敵意でなく、ある特定の「宗教団体」云々といっていたという捜査関係者情報は、それ以上述べていない。現在参院選の終盤で母親の多額の寄付で家庭崩壊になったことへの怨みとされて困る(はずな)のは、自民党公認奈良県参議院候補者・佐藤啓の応援演説がらみで、もうひとつの推薦政党の名前が出ることで、だからそれを「忖度」せざるを得なかったのかもしれない。佐藤が来るのだから推薦している某政党(=某宗教団体)からも幹部が来るに違いない、と思い込んで行ってみたが、いなかった(キョロキョロしていたのはそのせいか)。党首が来ていたら一番よかったのだが、だったらまあ第二案の佐藤でがまんするか、という思考の流れであったのだろう、と私は推理する。彼の狙いは、母を巡る騒動での某宗教団体の地元幹部への怨みにあったのであって、佐藤に固着していたわけではないはずだ。

 もう一つの仮説は、以前安倍がご挨拶する画像が流れた韓国系の宗教団体であるが、選挙演説の場での犯行に結びつけるには弱いと感じがする。

 もちろん、私ごときど素人が思いつくくらいだから、政界の皆様は先刻ご承知で(より具体的な警察情報もすでに握っているはずだし)、しかしそれには口をつぐんで「民主主義を破壊する暴挙」などと明後日の方向で非難なさっているようにしか私には思えない。

 田中氏のような「専門家」の陥り易い通弊は、自己の論理におぼれてしまうことだ。だから私は「専門家」をめったに信用しないし、専門家にならないように、常に素人で在り続けたいと思っている。国際政治が専門でない私の素人読みがあたっているかどうか、これは週刊誌の次号で決着つくはずだ。こっちも勇み足かな。

【追記】小澤一郎の発言が飛び込んできた。「日本の国のゆがみや権力の腐敗がこのような事件を導いた。安倍長期政権が政治不信を招いた」(https://www.nikkansports.com/general/news/202207080000897.html?cx_testId=162&cx_testVariant=cx_undefined&cx_artPos=3#cxrecs_s)。公人がここまで言ってしまうのはどうかと思うが。ま、今回の事例は、天下国家への不信ではないようであるし。いや、個人的怨念が、一挙にそこに言ってしまうのかもしれないが。

【追記2】外信ではすでにその団体が統一教会で、その分派で本家と争っているサンクチュアリ教会に犯人が加入していたことがある、と名指しで報道されている(https://www.theglobeandmail.com/world/article-tetsuya-yamagami-japan-prime-minister-shinzo-abe/;https://nfyukon.com/new-details-emerge-about-the-man-who-killed-former-japanese-prime-minister-shinzo-abe-killed/)。そこではサンクチュアリ教会について「The Pennsylvania-based World Peace and Unification Sanctuary Church — also known as the Rod of Iron Ministries — is notorious for its attachment to guns, with members taking part in religious ceremonies holding assault weapons」とさえ書かれていた。犯人が敵意を持っていた宗教団体が正確にはどちらであったのか、現段階では不分明ではあるにしても(犯人の標的が、ちょうど来日中のサンクチュアリ教会のトップ文享進であったとする見方もあるようだ)、国内と外信のこの情報の流れの違いは、今に始まったことではないが。私は安倍とこういった組織の関係はとおりいっぺんの集票団体的にとらえていて、祖父・父以来のそんなに強い紐帯があったことなど迂闊にも知らなかった。

 ところでこんな記事が載った。「安倍元首相銃撃は「民主主義への挑戦」なのか 参院選にどう臨む」(https://mainichi.jp/articles/20220709/k00/00m/010/218000c?cx_fm=mailasa&cx_ml=article&cx_mdate=20220710)。識者二名の発言はいずれも正論だと思う。

【追記3】田中宇氏が以下を公表した。「安倍元首相殺害の深層」(https://tanakanews.com/220710abe.htm)

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古代ローマ史最新情報

 久々に気持ち的に余裕が生じたので「The History Blog」に行ってみたら面白いニュースが色々あった。色々ありすぎて時間をかなりとられてしまった。

ここでは、ポンペイ遺跡から発掘された亀と、ローマでの新たな観光バスの話を紹介しておく。

 まず、2022/6/24発信の亀の死骸。これまでもポンペイからは亀は発見されてきたが、それらは金持ちの家や庭からで、後79年での死亡だった。今回紹介する亀は後62年の地震と後79年の破壊までの間に自然死し、スタビア浴場の発掘で出土したものである。これはどういう意味を持つのか。

 発掘場所は、地震で倒壊した建物が整地され浴場付属の店舗として再建された、その店の南西の角で、地震にも耐えた四角い水盤の奥から、考古学者が雌の遺骨を発見した。彼女は卵を産むために安全な場所を探して、トンネルを掘って部屋に侵入したのだが、難産になり、そこで死んでしまったのだろう。卵を産み落とさない限り(あるいは人の手で取り除かない限り)、動物は死んでしまう。成体の甲羅は8〜10センチ程度であるが、この個体の甲羅の長さはわずか5.5インチで、まだ未熟であることがわかる。この若さが卵を産めなかった一因かもしれない。卵は甲羅と一緒に取り出された。

 この亀の発見は、震災で瓦礫と化した街の中心部の家屋が、すぐに再建されたわけではないことを示すという意味で重要だ。今の福島と同じく、人影のない廃墟と化し、野生動物が住み着くようになった。そして店舗が再建されたとき、その隅にいた亀の死骸に誰も気づかず、床を高くする工事の盛り土の中に埋もれてしまった、というわけ。

 次に、6/23発信の「VRバスで古代ローマにタイムスリップ」

 ローマで、バーチャル・リアリティ・バスがデビューした。トラヤヌスの円柱からフォーラム、コロッセオ、パラティーノ、チルコ・マッシモ、マルケルス劇場まで、古代ローマの最も重要な場所を最大14人の乗客で30分かけて周遊する小型完全電気バス。車で移動中、VRの魔法で乗客はタイムスリップし、遺跡が遺跡である以前の街の様子を見ることができる。

 各窓の前には透明な4K有機ELスクリーンが、スクリーンと窓の間には電動カーテンが設置されている。乗客は、古代ローマのモニュメントを見たいときはカーテンを上げ、現在の姿を見たいときはカーテンを下げる。

 遺跡に同期しての画像はもちろん、香りを放出する「フレグランスデリバリーシステム」も予定されている由。すなわちバスが神殿や広場、コロッセオ、チルコ・マッシモのそばを通るとき、古代ローマの香りを呼び起こすため、神々に捧げられた供物や乳香、没薬などの香料、闘技場で使われた様々な香料など、その場所に合った香りが通過するたびに放たれる、と。

 バスは午後4時20分から午後7時40分まで40分間隔で運行。英語での案内は5:00、6:20、7:40のバスのみで、他はすべてイタリア語。通常チケットは16ユーロで、オンラインまたはトラヤヌスの円柱のチケット売り場で購入できる。 6歳以下のお子様は無料でご乗車いただけます、とのこと。

 私が毎年通っていたころは「アルケオ・ブス」が走っていた。これはアッピア街道あたりの要所を走っていて、途中下車・乗車が可能だったので、遺跡めぐりには大変便利だったのでよく使ったのだが、間引き運転もよくあったりして、このあたりはいかにもイタリアだなと。それがいつの間にかなくなってしまい、大変がっかりしたものだ。だから、今回の試みはかなり複雑な構造なので、さていつまで続くのかはなはだ疑問だが、なくなるまでに一度は乗ってみたいものだ。来年までもってほしいものだ。

 以下、余りに豊富な情報なので、題目をリストアップするだけにとどめる。興味ある人は「The History Blog」に行ってみてください。

7/5:「カラカラ浴場地下に埋没していたドムスのフレスコ画が公開」

7/1:「トルコ出土のローマ時代石棺から切り落とされたエロス頭部をイギリスが返還」

6/22:「アンティキティラ島のヘラクレスの頭部が胴体から120年後に発見された」

6/21:「オランダで1世紀のローマ時代の聖域が発見」:ファルスも出ている

6/19:「ポンペイ、「ケレスの家」と出土馬骨格が再公開」

6/10:「ガロ・ローマ時代の聖域でブロンズの鷲と稲妻のカップが発見」:把手のユピテルのアトリビュートの雷鳴が興味深い

6/6:「フランスのル・マンのローマ時代の城壁」

6/4:「出土品の再生鋳造工場Fonderia Chiurazziのコレクション1650以上がポンペイ遺跡公園に寄贈さる」

6/1:「イギリスのケント付近からファルス出土」

5/23:「サルデーニャのPorto Torres出土のローマ後期夫婦の葬祭用モザイク画が復元展示」

5/21:「2018年コモ出土の水差し内からちょうど1000枚の金貨、その他出土」:これの重要性は、金貨の発行年代が後395−476年であり、うち744枚が455年以降(西部帝国滅亡末期)の打刻、という点にある。

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