投稿者: k.toyota

今週の世界キリスト教情報より(2019/8/26)

 以前報告したオーストラリアの、バチカンの前財務長官だった枢機卿について続報があった。第1492信:https://cjcskj.exblog.jp/

▼豪の州最高裁、児童性的虐待でペル枢機卿の控訴棄却:メルボルン地裁の陪審団は昨年12月、ペル枢機卿は、メルボルン大司教に就任した1996年、セント・パトリック大聖堂内でミサの後、当時13歳だった聖歌隊の少年2人に性的暴行を働いたとして有罪評決を下し、今年3月に6年の禁錮刑を言い渡していた。

 彼が上級審に控訴しなかった場合、仮釈放が認められる2022年10月まで服役することになる由。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

 だがしかし、たとえ裁判で有罪になったとしても、本当に犯罪を犯していたのか、という見方も必要な気がしてならない。いつの世でもどんな場合でも、便乗組が跋扈するのが人間社会なのだから。

Filed under: ブログ

世代論:8/15前後のテレビを見ていて:飛耳長目(13)

 例年のことだが、8/15前後に戦争や敗戦関係の放送が多くなる。それを見るともなく見ながら、いまさらだがやっと気付いたことがある。まあ専門家はとっくの昔にご存知のはず。

 例えば、今年の目玉でNHKが2つの特集を組んだ。一つが二・二六事件で新たに出てきた海軍軍令部の極秘文書(敗戦時にミズーリ上での降伏文書調印に立ち会った海軍軍令部長の富岡定俊少将が保管)、もう一つが初代宮内庁長官田島道治の「拝謁記」(遺族が保管)である。そこで、たとえば二・二六事件のとき昭和天皇が34才(開戦時は40才、敗戦時は44才)だったことに、うかつながらやっと思いが至った次第。私が生まれ育った時期、天皇はすでに立派な壮年だったので、思わず知らずそれ以前の彼の言動もその印象を引きずって捉えがちだった、のである。

 それがどうしたというと、1901年生まれの天皇を取り巻いていた軍人たちは、いずれも彼よりはるかに年上だった、ということなのだ。調べてみると、陸軍関係で荒木貞夫や真崎甚三郎は24、5才も年上で、東条英機は17才、石原莞爾でも12才年上だった。そこに若輩の天皇を「玉」として祭り上げて操作しようとする驕りが果たして彼らになかったと言えるであろうか、というわけだ。それでなくとも彼は麻雀やゴルフにうつつを抜かす軟弱者で、代わりは他にもいるぞという考え方が、当時の軍部にあったらしいので、何をか言わんやだ。

 しかも戦後の退位問題までずっとくすぶり続ける弟宮たちとの関係も年齢的に微妙であった(14才違いの三笠宮は論外にしても、秩父宮とは1才違い、高松宮とは4才)。君側の奸はいつの世でも彼らの回りに蝟集して、あわよくばと計略をめぐらせるものだからである。こうなると男系が多いのも考えものである。これは、私の研究対象のコンスタンティヌス一族を考えてみれば自明である。

1921年撮影、左端が後の昭和天皇、右から秩父宮、高松宮、三笠宮

 関連でちょっと調べてみた。明治維新直前の1867年1月に、孝明天皇が35才で急死すると(死因は天然痘となっているが、微妙な時期だっただけに当然暗殺説も浮上する。その場合の黒幕は言うまでもなく岩倉具視)、14才で践祚したのが明治天皇だった。こうして神輿に担ぎやすい若年の天皇の時に、側近たちは明治維新を着々と実行していくわけである。ちなみに日清戦争は天皇はすでに42才、日露戦争は52才のときのことだった。

 大正天皇の践祚は33才で、病弱のため皇太子が摂政となったのは,天皇42才、皇太子20歳の時のこと(1921年末)。5年後に天皇崩御さる。

【追記】今読んでいる礫川全次『独学で歴史家になる方法』に興味深い関連記事が。それは伏せ字を論じた第10講に出てくる。2・26事件の5年後に復刊が出された改造文庫版福地桜痴『懐往事談』で、1894年の初版ではなかった伏せ字だらけなのはなぜか、という考察箇所。

Filed under: ブログ

最後の被爆者:いつかニュースで:飛耳長目(12)

 2019/8/17深夜、とんでもない朗読を聞いてしまった。私としたことが、本当におくればせもいいところだが(なんせ、原爆投下2年後の1947/8/9広島市生まれの原爆二世)。NHK Eテレ特集「少女たちがみつめた長崎」で、知った(再放送は8/21深夜予定)。林京子『やすらかに今はねむり給え』(講談社、1990年)の、「あとがき」にあるらしい。著者は1930-2017年、86歳で死没。

左写真:長崎県長崎高等女学校3年(14才)で学徒動員中、三菱兵器工場で被爆

   「今日、広島・長崎の、最後の被爆者が死にました」。二十一世紀のいつの日か、こういう記事が、新聞の隅に載ることでしょう。見出しが大きくとも、小さくとも、その日が平和であるのを願うのみです。

【追記】林京子がその作品中でなんども引用している「工場日記」2冊は、高女の引率教員3人が書いていて、その一人角田京子の遺族が保管。それが長崎原爆資料館に寄贈されたのは、2017年9月のこと。林京子は彼女の教え子だったので、それ以前にそれを見せてもらっていて作品中に参照引用していたことになり、創作でなかったことが判明。【同様に、文中で引用されていた同学年生だった山口美代子と吉永正子らの手記も、実在していて、テレビでも紹介されていた:参考せよ https://mainichi.jp/articles/20190809/k00/00m/040/334000c】

 生前、福島原発事故に際し、林京子は「日本人は結局なにも学んでいなかったのではないか」といい、彼女の思いを継承しようとしている作家・青来有一が「書いたものを読んでくれるのは、被爆についてすでによく知っている人たちで、でも、本当に読んでほしい若い人たちは、またあの話かと、なかなか読んでくれない」現実があると言っていたのが、実に示唆的だった。

 そう、歴史から誰も学んでくれないのだ、普通。

 8/16深夜には、後半だけだが、映画「ひろしま」を見た。戦後7年目に当時の日教組が製作したもので、一種の臭さと群像を多用するわざとらしさが漂っていたが、まあ収容施設での被爆者のぼろぼろの姿なんかはリアルなんだろうな、と思いながらみた。許せなかったのは、登場人物がそろいもそろって東京弁だったことだ。きつく響くその違和感はいかんともしがたい。

こんなに顔がきれいなわけもなし。髪も逆立っていた、いや燃えていたはず

【追記2】埋もれてきた戦争孤児たちの戦後史(2017/8/13):https://www.youtube.com/watch?v=L0A1i1ddSlY;https://digital.asahi.com/articles/ASK7Z4CHWK7ZULZU006.html

 そういえば、NHK総合の朝の連続小説「なつぞら」もそれ扱ってましたね。厚生省あたりの統計では12万3千となっているが、それは生き残った数にすぎない気がする。おそらく誰からも見捨てられて餓死した孤児たちはその数倍はいたのでは。石井光太『浮浪児1945:戦争が生んだ子どもたち』新潮文庫、 2017年、を読んでみよう。

【追記3】「74年目の東京大空襲(28) 戦争孤児は何人? 政府のずさんな実態調査」(https://mainichi.jp/articles/20200429/k00/00m/040/088000c);「うちに来る?「駅の子」育てたママの記録 びっしり245人、よみがえる戦争孤児」(https://mainichi.jp/articles/20201206/k00/00m/040/196000c);「74年目の東京大空襲(25) 戦災孤児、生きるために売春婦に 高校生が当時の聞き取りを読み解く」(https://mainichi.jp/articles/20200408/k00/00m/040/260000c)

Filed under: ブログ

ローマ地下鉄C線工事現場からローマ軍兵舎、部隊本部出土:遅報(12)

 2018/3/7発信情報:首都ローマでの地下鉄C線工事は、考古学的視点からすると見逃せない大チャンスである(いわずもがな同時に、遺跡破壊という側面もあわせ持つが)。2年ほど前に、Amba Aradam駅の工事現場の地下15mからトラヤヌスないしハドリアヌス帝時代の兵舎が出てきていた。今回はそれに接続して指揮官用邸宅ないし部隊本部とおぼしき建物が発掘された。真ん中に噴水を備えた中庭があり、周囲を14の部屋が取り巻き、地下暖房の設備を有した浴場も備えた300㎡の構造の由。このあたりは、私が以前ちょっとだけ触れたことのある4世紀初頭のEquites singulares Augustiの兵舎(現サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂)の隣接地区で、大聖堂から南西500mの場所に位置している。そこから逆方向の西北西500mにはミトラス神殿の上に立つSanto Stefano Rotondo教会もあって、その意味でも興味深い。

 やはりローマはとんでもない考古学の宝庫である。研究者としては、これを見逃す手はないはずなのだが・・・。北斎「天我をして十年の命を長らわしめば」といい暫くして更に言いて曰く「天我をして五年の命を保たしめば・・・」と言吃りて死す。誰かやらんかい。

https://www.wantedinrome.com/news/rome-metro-c-works-uncover-second-century-military-home.html; https://www.lostateminor.com/2018/03/12/rome-construction-workers-dig-ancient-military-barracks/ ;https://www.realmofhistory.com/2018/03/07/rome-metro-ancient-roman-domus/ 【動画有り】

これは兵卒用兵舎でしょう

【追記】今日偶然見つけた。それによると兵士の遺骸も出てきたことになっているが、さて。https://karapaia.com/archives/52255237.html

Filed under: ブログ

入魂を忘れた仏師は仏師といえるのか:庶民史への誘い

 早いものでもう4年近く前になるが、我が国で初めて呪詛板の研究書が邦訳された。ジョン・G・ゲイジャー編(志内一興訳)『古代世界の呪詛板と呪縛呪文 』(京都大学学術出版会、2015年)である。その第一章の表題は「競技呪詛板:劇場や競走場で」とあって、要するにとりわけ戦車競技での御者や馬に対する呪詛に触れられている。ファンは賭けの配当金を求めて、魔術に手を染めた。「彼らがクラッシュしますように、彼らが(地面を)引きずられますように、彼らが破滅しますように・・・」といった文言を刻んだ鉛板を呪詛の対象者(馬)のできるだけ近くの壁や木の隙間に、そっと埋め込んでおくわけである。私が注目するのは、ここでは当然のことのように観衆は「賭け」をしていたことになっていることである。

カルタゴの競技場出土呪詛板。ご丁寧に釘が打ち込まれている:Gager,p.19(翻訳p.27)

 ところが、話変わって、世のいわゆる古代ローマ史研究者の皆さんの叙述をみてみると、まったく様子が違うのである。こちらで触れられることが多いのは、競馬ではなくて、剣闘士競技のせいかもしれないが(そんなはずありはしないが、反論を予想して一応書いておく)、見世物に観衆が熱狂していたと言及されていても、その熱狂の根源がなんであったのかについては一言も触れられていない。

 一例を挙げるなら、百年に亘る剣闘士競技研究を俯瞰した梶田知志(以下、敬称略)は、文字史料に加え、考古学、社会・心性史、さらには文化人類学・民俗学の成果を加味すべきこと、視点的には、主催者、剣闘士、観衆の三側面で分析すべきと指摘しつつ(これらの指摘そのものは正しい)、観衆を「目眩く見世物に驚嘆、熱狂する」存在としてのみ記述し、それより先に思考をめぐらせてはいない(「Homo Pugnans」『地中海研究所紀要』7、2009、p.33-4;「剣闘士闘技(munera gladiatoria)研究百年史」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第4分冊、2007、p.21-29)。ただこれは彼だけではなく、あたかも古代ローマ史研究者の通弊のようで、比佐篤も概論叙述の中で、観客の「エリートたちも剣闘士の試合を熱心に観戦していた」「剣闘士に魅せられる女性もいた」と指摘するにとどまっている(「テーマ史2 剣闘士とローマ帝国」上田耕造他編著『西洋の歴史を読み解く』晃洋書房、2013、p.33-39)。今、出先なので確認できないが、あとはこれを正面から研究テーマに設定していた本村凌二、佐野光宜あたりの業績をチェックすれば事足りるだろうが、もっともらしく種々の社会構造論的な知見を開陳・駆使して、あれこれ舞台装置の分析に走る研究では、当時生きていた生身の庶民たちがなにゆえ度しがたく熱狂していたのか、熱狂せざるをえなかったのか、という肝心要の核心に少しも切迫することはできないはずで、まあいわば姿形ばかり作って入魂に失敗しているのでは、と言いたくもなる。ただ、これは欧米の研究者の体たらくをそのまま邦訳して輸入しているということでもあるのだが。

 しかし、ウィキペディア(但し英文:邦語は誤訳が多すぎる)のような若干くだけた叙述では、むしろ当然のごとく「there was widespread betting among spectators.[40][41][42] 」「Seats in the Circus were free for the poor, ・・・. The wealthy ・・・ probably also spent much of their times betting on the races」と喝破されているのだが。

 要するに、原因は表面的には簡単な理由、採用している史資料群の違いなのである。呪詛板のような庶民感覚に近い史資料の中には当然のように出てくる文言が、ハイソのエリート層の手になる文言ではいっかな登場しない(事実は、彼らとて賭けにうつつを抜かしていたのであるが:競馬や剣闘士競技と明言されてはいない[ここにすでにある秘密が隠されている、と思うのだ]が、スエトニウスによるアウグストゥスが無類の賭博好きだったとの叙述参照;お、我らがアウレリウス・ウィクトルもそうだった)。だから凡庸に史資料を扱えば、そうなっちゃうわけであるが、書き手の上品ぶった社会的立場とかを思い切りひっぺ返してみると、あられもない素顔がようやく出てくる(はず)、なのである。いうなれば庶民史を掘り起こそうとすれば、「家政婦は見た!」(市原悦子さん、合掌)という少々えげつない視点が求められているのである。大邸宅を通りから溜め息つきつつ仰ぎ見ているだけではだめなのだ。

 ローマ法的に言えば、元老院身分の者は地主として農業経営に従事するよう規定されていて、商業活動などという下賤な生業に携わってはいけなかった、ことになっていた。実際には、子飼いの有能な解放奴隷たち(ご主人様がローマ市民権保有者にして育てあげ、中には騎士身分にまで成り上がれた者もいただろう)を通じて、隠然・公然と儲け話に乗ってやっていたのであり、現代風に言えば、元老院身分の皆様は、腹心の子分たちに資金提供して、体のいいマネー・ロンダリングで洗浄された水揚げをしっかりと横領・着服していたはずなのである。そんな史資料は残っていない、見当たらない、のではなく、残存史資料をそこまで読み破っていない(読み破ろうとしていない)だけのことなのだっ、と私は言いたいのである。すぐにばれるような形で誰が証拠を残すものか。

 しかし、私とて偉そうにあまり大口はたたけない。私自身、五賢帝(この命名は実態に照らして持ち上げすぎなので、変更すべきである)がなぜ養子でつないでいったか、ということの真相(ハドリアヌスはもちろんのこと、ことにトラヤヌスについて)は、ウィキペディアでの一文でようやく悟ったようなことだからである。そういう意味で、庶民史探訪のためには、ウィキペディアといえども、片隅に追いやっていいというわけにはいかないような気がする。その多くを、学究ではなくて庶民が書いているのだから。

【補遺】中島みゆきに「地上の星」という歌がある(公式チャンネル:https://www.youtube.com/watch?v=v2SlpjCz7uE)。かつてのNHK総合「プロジェクトX挑戦者たち」のオープニングの主題歌である。この歌の歌詞はちょっとあざといが、ビデオの映像がとてつもなくいい。2018年の日本西洋史学会大会(広島)の小シンポ「『見えざる人びと』の探し方:庶民史構築のために」での冒頭で、冗談でなくこれを音声と映像両方でガンガン流したかった。・・・が、しなかった (^^ゞ。同番組のエンディング「ヘッドライト・テールライト」もいい(こっちは、ひで&たまさんのカバーがいいす:https://www.youtube.com/watch?v=IavVBp2mTL4)。働きづめの昭和への郷愁とは思いたくない。

【追記】家に帰りついて、もう20年以上昔になる本村氏の『ポンペイ・グラフィティ』中公新書、をざっと読み直したが(特に、第3章「民衆は見世物を熱望する」)、p.97に「最後に、われわれには次のような疑問が残る。なぜローマ人はあれほど剣闘士試合に熱中したのであろうか」と自問し、「その答えの一部は、古代の人々の宗教観に求めることができる」と、他の研究者と同レベルで自答している。「一部」としているからには、別の部分についても触れているかと期待したのだが、未だ発見できないでいる。

Filed under: ブログ

今週の世界キリスト教情報(2019/8/12)

 今回の第1490信には以下の記事が掲載されている。

             = 目 次 =      
▼教皇、ヨーロッパ情勢や移民問題について伊紙に語る      
▼教皇、天皇陛下の即位の儀に枢機卿を派遣      
▼レデンプトリス・マーテル神学校、9月にマカオで開校      
▼2年以内に「家庭教会」の根絶目指す?中国共産党      
▼エジプトの洞窟教会を「屋外聖書」に=使命に生きるポーランド人彫刻家      
▼ウクライナのゼレンスキー大統領がトルコ公式訪問へ

 私がとりあえず注目したのは、3番目である。それによると、「バチカン(ローマ教皇庁)福音宣教省が、有力信徒団体『新求道共同体の道 』に設置を委ね、当初は、東京に開校するとの話もあったが、その後立ち消えになっていた。同省長官のフェルナンド・フィローニ枢機卿が6月29日に教皇フランシスコと接見、同意を得たという」。

 えっ、「立ち消え」? そういえば、日本での『新求道共同体の道 』のスポークスマン的存在である谷口神父のブログ(http://blog.goo.ne.jp/john-1939)には、それについて何も触れられていないのも、奇妙である。さて何があったのやら。

Filed under: ブログ

17才で夭逝した研究者、宮内和也君:遅報(11)

 昼ご飯でチャンネル変えていると飛び込んだNHK BS4の、「これが恐竜王国ニッポンだ」の再放送の後半をちょい見。8日にも再放送ありとか。

 何に感動したかって、8才のとき小児ガンを告知された岸和田の宮内和也君が、限られた人生の中で目標を近くで発掘されたモササウルスに絞り、闘病しながら画期的な成果をあげたこと。だが、彼は古生物学会で発表の数ヶ月後の2007年に17才で死亡した。

 画期的な発見とは、彼が中学から高校生になるころ、その骨格模型を木製で自作するなかで、モササウルスが獲物を大量に丸呑みするために大きな水流を起こす顎の仕組みを解明したこと。私が思うに、これは、彼が模型を自作する中でこそ初めて気付くことできたのではなかろうか、と。

中央の少年が宮内君。その左奧にみえるのが自作模型の発展形かと。隣はお父さん:http://geoca.org/2005geo-mosasaurusu.htm

 大人の研究者は自作なんかしないで、出土品の設計図(2次元)を下請け業者に出して、もっともらしい復元像ができてめでたしめでたしと終わりにするところを、いかにも10代の生徒らしく模型作っちゃろ(3次元)、と木製であれこれやっているうちに、顎が開く仕組みに気付くことできたのでしょう(https://kishibura.jp/blog/umeda/2010/12/post-181.html)。

 以下に、モササウルスの想像図(https://www.nhk.or.jp/vr/AR/mosa/3D.html;https://www.gibe-on.info/entry/mosasaurus/)

 そういえば、研究者たちこれまで恐竜化石の骨格ばかりに目が奪われていて、骨格の中に埋っていた夾雑物は捨てていたが、待てよと思ったある研究者がそのまま透視してみたら、そっから内臓とか胎児の化石がみつかった、という、なんともあんぽんたんな話も最近どこかのテレビで見た記憶が。これじゃないけど→:https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/4717/;https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/021600057/

 初心に還る、べし。  ところで教育って、なんなんでしょうね。以下、引用です。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

岸和田の「高校生にして研究者」との出逢い(2016年02月13日):https://www.r-ac.jp/campus/osaka/blog/cat/jtakeuchi/2489.html

 「その高校生の名は、宮内和也くん。小学生の頃から化石の研究に目覚め、科学者としての道を歩み始めていました。が、10年間に及ぶ闘病生活と研究生活が同時進行し、2007年に17歳の若さで夭折されました。限られた時間の中、彼は絶滅した大型爬虫類の モササウルス(名前に反して恐竜でない)の研究、特に骨格標本を基にした古生態学的な研究活動に邁進し、彼が駆け抜けて行った人生を懐い、今からの混迷の時代を生き抜く高校生諸君の指針にさせて戴きたく以下、彼の遺志を取り継ぐ気持ちでいます。

 彼の足跡は、きしわだ自然資料館の2階にモササウルスの常設コーナにありました。私も早期に科学研究に目覚めた方ですが、それでも中学に入ってからのことです。それゆえ日本の学校敎育で自分で好きなコトを貫き通すことのシンドさはイヤという程、経験してきました。明らかに学校が求める学力と研究者としての能力との間に乖離があるからです。これは、成績を上げて大学進学を決めてきた偏差値秀才の方には理解が及ばない苦難です。そこを、宮内くんは迷わずわが道を歩みました。私はそれが痛いほど分かります。」

^^^^^^^^^^^^^^^^

 このコメントの後半には大いに共感するものがあると同時に、ひょっとして人間っておおざっぱにいって平等なんじゃないかと妄想もしてしまう。平々凡々と生きてしまう、いや生きざるを得ない、そのように生きることを期待されている一応五体満足な、圧倒的に多数を占める我ら凡人は、いわば日常的業務にいそしむ没個性的な働き蟻で、大きな流れの維持に貢献しているとはいえ、歴史にこれといっためざましい爪痕も残すことなく、マスの一員としてあえなく忘却の彼方に消えてゆくのだ。

 ダ・ヴィンチについての医学的新知見(ADHD=注意欠陥多動性障害、読字障害、斜視)なんかをみてると、さながら障害のオンパレードで(https://www.carenet.com/news/general/hdn/48125)、「天才」「才能」とは、非日常的な規格外の「異人」「異能」に通じているような気がし出す。ごく限られた少数派にすぎない彼らにとって、自分の宿命との対決が常人には想像を絶する壁となっていたはずで、それに打ち勝ってこそ名を残し得たのであろう。障害とか劣等感に苛まれるのではなく、それをかけがえのない自分だけの個性として生かす道を探ること、が閉塞状況からの打開策になるはずであろう。

 ちょっと論点がずれるかもしれないが、最近その存在が確認された働かない蟻=フリーライダーの存在に注目していきたい(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48850;https://ja.wikipedia.org/wiki/働きアリの法則)。

【追記】2019/8/27-8の深夜、福山雅治主演の「ガリレオ」(2013年 第11話「聖女の救済」)を見ることなしに聞いていたら、「今から13年前、それまで無駄なものとして捨てていた恐竜の骨格内部の土をそのままCTスキャンしてみたら、3次元画像で心臓そのものが出てきた」と。私の情報源はどうやらこれだったようだ。(^^ゞ

【追記2】「注目の人 古生物学者/佐藤 たまきさん:気が付いたら恐竜が好き。首長竜(くびながりゅう)の研究で猿橋(さるはし)賞を受賞」(https://www.wendy-net.com/nw/person/335.html)

 文系だったのに、子供の頃から好きだった恐竜研究をしたくて、理学部に入るために苦手の数学をなんとか克服し、夢をかなえることができた頑張り屋サン。

 私はいま、ピーター・ラーソン、クリスティン・ドナン著 (池田比佐子訳)『スー:史上最大のティラノサウルス発掘』朝日新聞社、2005年、を読んでるが、ググっていて佐藤さんのこと知りました。https://digital.asahi.com/articles/ASN7Z5DCZN7KUEHF00H.html?iref=com_alist_8_08(2020年8月1日:但し、有料)

 こんな記事も:「高校生が見つけた「恐竜」、名字が学名に:50年の歩み」(https://digital.asahi.com/articles/ASL7N46DZL7NUGTB00G.html?iref=pc_rellink_01)。

Filed under: ブログ

オランダで新約聖書関連の新銘文発見?:cohors II Italica

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2019/07/inscribed-roman-road-marker-found-in.html#Tl8zOm57yVzwEmEp.97

 昨年の9月に、オランダのLeiden・Katwijk間をつなぐRijnland Route自動車道路工事中にValkenburg近くで125mのローマ道が発掘され、そこから合計470本の木材の柱が出てきたが、そのひとつから「COH II CR」と彫られた銘文が発見され、このたび公表された。

(https://www.dutchnews.nl/news/2018/09/roman-road-artifacts-found-during-digging-for-a-new-motorway/)

 年代は後125年頃の由。発掘者によってこの銘文は「Cohors II Italica Civium Romanorum」(ローマ市民たちのイタリア第2大隊)を示していると考えられているようである。碑文ではVoluntariorumが付く場合もあるので、「志願者のローマ市民たちのイタリア第2大隊」というのが正式名称というべきか。とはいえ部隊名確定のポイントとなる「Italica」が今回の場合ないので、さて。cohorsは一般的に500人強の規模だったようなので、ここでは「大隊」という訳を当てておこう。

 なぜこれが話題になるかというと、キリスト教がらみだからである。新約聖書の「使徒行伝」10.1に「カイサレイアにコルネリオスという名前の男がいた。イタリア隊と呼ばれた部隊の百人隊長である」(1)とあるからに他ならない。この部隊についてはこれまで色々論じられてきたが、一般にこれまで安直にそう想定されてきたローマ正規軍たる軍団legioについての通説(共和政的イタリア半島的視点)とは異なって、帝国東部では、ユリウス・クラウディウス朝期からすでに必ずしもローマ市民権を持つ兵士によって構成されていたわけではなかったと考えられている。ちょっと考えてみれば当然のこと、東部にローマ市民権保有者は少なかったのだし、まあ江戸時代の旗本株を購入して、といった裏技もあっただろうし。すなわち、部隊の主体兵士は属州で徴募され、であれば今の事例も正規軍団の分遣隊と解することも、補助軍auxiliaであった可能性も生じてくるはずだ。要するに、帝国東部では一般軍団兵士はローマ市民権を保有していない属州民、とりわけ社会的上昇に意欲的だった解放奴隷からなっていたのが現実と思われるが(私は西部でも、市民権の売買や養子といった抜け道もあって、いかにもイタリア的に大いに活用されていたと想像している)、また補助軍の場合、おそらく指揮官や上級将校には正規軍団あがりの退役兵(ローマ市民権保有者)が再就職していたかもで、もしそうだったとしたら現代と通底する実情となっていて面白い。逆に、イエスの生涯などを描いた映画では、えてしてローマ正規軍団兵として登場している在ユダヤ・ローマ軍分遣隊の実態は、この補助軍だったと考えるのも一興であろう。ま、だからこそ本来非軍団駐留属州のユダヤの地にコルネリオスがいることができたわけである(cf., ヨセフス『ユダヤ戦記』II.13.7:カイサレイアの地の部隊の大半はシリアから徴募した者たちだった)。

 というのも、ヘロデ大王以後第一次ユダヤ戦争にいたるまでに、カイサレイアのユダヤ駐留ローマ軍部隊は、シリア駐在のローマ軍団の分遣隊で、具体的には一騎兵大隊(ala I Sebastenorum)と5歩兵大隊(少なくともその1つがcohors I Sebastenorum)の総勢三千で構成されていたようだからだ(ヨセフス『ユダヤ戦記』II.3.4)。これについてはやはり新約聖書に平行記事がある。それが「使徒行伝」27.1で、イタリアに出航するとき、パウロとほか何人かの囚人がセバステ部隊の百人隊長でユリウスという名の人物に委ねられた(2)。しかし逆にそれを補助軍からの分遣隊と見ることも可能のはずである。上記2史料でシリアとセバステと異なった地名・名称が登場しているが、整合性をとる立場からすると、シリアで徴募され大隊名がセバステ[このギリシア語はラテン語のAugustaの翻訳とみる説と、サマリアの地名セバステとする説があるようだ;但し、その語源はご同様にアウグストゥスではあるが]だったと考えておこう。いずれにせよ当然その運用指揮権は実質的にユダヤ総督が持っていたはずである。

 もしこの新約聖書での部隊が今回出土銘文のそれと同一だとするなら、大変貴重な発見で、同時に彼らの移動距離が従来よりも相当広範だったことになるが(たいたいが、シリア方面だったが、オーストリア東端のカルヌントゥムから碑文が出土している(3))、しかし、今回出土の銘文は単に「COH II CR」なので、新約聖書の部隊と同一と考えていいのか、現段階ではやはりちょっと首をかしげておいたほうが無難なのかも知れない。続報を期待しつつ、ここにも宝が埋もれている予感がするが、私は老い先短いがゆえに、これ以上深入りするのはどなたか興味を持たれる後進にお任せしたいと思う。

(1) Ἀνὴρ δέ τις ἐν Καισαρείᾳ ὀνόματι Κορνήλιος, ἑκατοντάρχης ἐκ σπείρης τῆς καλουμένης Ἰταλικῆς

(2) εἰς τὴν Ἰταλίαν, παρεδίδουν τόν τε Παῦλον καί τινας ἑτέρους δεσμώτας ἑκατοντάρχῃ ὀνόματι Ἰουλίῳ σπείρης Σεβαστῆς.

(3) CIL III.13483a(cf.p.2328,32), ILS 9168. cf., Michael P.Speidel, The Roman Army in Judaea under the Procurators:The Italian and the Augustan Cohort in the Acts of the Apostles, Ancient Society, 13/14, 1982/3, pp.233-240.

Filed under: ブログ

映画:バイキング:飛耳長目(11)

 チャンネル回したらやっていたので、いつも途中からで3度目くらいだが、見ている。「VIKING バイキング:誇り高き戦士たち」(2016,ロシア映画) 。

 題名とはうらはらに、キエフ公国興隆のきっかけをなしたウラジーミル1世(10-11世紀)の前半生の話で、しかしまあ彼が親族争いからスカンジナビアに逃れて、そこの傭兵(ノルマン人だったらしい)と共に帰国して兄を破ってキエフ大公になったという経緯があるのでバイキングなんだろう、か。

 これを見ていて興味深く学んだのは、権力と結びついた支配者の守護神の件である。まあこのテーマそのものは陳腐な話にすぎないかもしれないが、映画では、野蛮な父の神を埋めて新たな守護神を建てた兄、その彼を殺して父の神を復活させたものの、正嫡でない負い目の中で生き残るために、南から進出してきたビザンツ帝国と同盟する中でキリスト教を受け入れるという、そのプロセスが、きれい事ではなく,私にはなかなか説得的に表現されているように思えたことである。同様の視点で、フランク族のクローヴィス改宗など見直すべきなのは常道だろう。

 こうしてウラジミールはキリスト教会で後世、聖人と讃えられることになる。権力者で生き残るためにはより大きな権力への忠誠の証しとしてその守護神を受け入れるという段取が不可欠であることが、後進の未開のロシア側からの視点から描かれているからの見どころである(この点、勝利者キリスト教側から描かれるとどうしても視点が大甘になる)。

 また、当時の軍隊の実態が、実質的に報酬目当ての傭兵集団であって、だから勝利の見込みが薄れると当然のように去っていくわけで、それをつなぎ止めているのが文字通り金だったあたりも説得的に描かれていて、まあこのあたりが、古代のそれに、現代の軍隊制度を刷り込み勝ちな私には重い教訓としなければならないところであろう。

Filed under: ブログ