今日の「深層NEWS」:ヤマザキマリ論

 アルコール抜きだったのに夕食後うとうとしている内に視聴予約しているこの番組が始まってしまったので、最初を聞き逃してしまったのだが、キャスターの鈴木あづさがいつもより生き生きした感じで、その声に触発されて目が覚めて見たのだが面白かった。ゲストは養老孟司とヤマザキマリ。彼ら両名の対談が6月に出ていて、ということで、じゃあ購入してみようかな、と。

文藝春秋、2022、¥1650

 Amazonのカスタマーレビューで斉藤健志氏が指摘していたことだが、マリが「思想を言語化して発言しまくっている」イタリア人のような民族は、「活字化された言葉」に答を求める日本人が本に依存するような姿勢を持ち合わせていない、といった類いのことを本の中で言っているようで、これは確かになかなか含蓄に富む言葉だと思う(となると、イタリア人にとって文字化とはどういう意味を持つのかが逆に問われなければならないが)。

 また彼はマリの発言を「粗削り」と評しているが同感である。というよりも、彼女は体験に根ざした発言に終始しているので、そこに緻密な論理構成を求めるのはお門違いというべきだろう。

 しかし往年の「だから日本人はダメ」的な上から目線の塩野女史とくらべて、「それぞれの歴史がそうしかありえなかったのだから、そんなジャッジはおいそれとすべきではない」という立脚点は一層高く評価されてよい、と私は思う。

 だがしかし、となると彼女の言説を読まされる日本の読者は活字化された言語を喜んで受け入れる日本人の特性を助長はしていても、彼女を見習って性格改造するには結局至らないのだろうな、とも思ってしまう。そう、誰も自己変革などする気はないくせに、民族的な習性へ流れ込むことで、一種の安心立命を得て自己満足しているような気がする。

 そして思い至るのは、このブログもそうだが、文字化している私の営みの原動力や目的は何なのだろうか、という見返しである。

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