投稿者: k.toyota

原爆死の兄をみつける:閲覧注意

 今日は長崎原爆忌。その2年後に広島で生まれた私の75歳の誕生日でもある。

 朝は映画「原爆の子」(1952年:96分)を再見した。そこで原爆ドームの落書きが出ているという情報あって、それを撮りたかったからだ。全部見直したのだが、唯一冒頭の字幕の背景がそれだったようだ。

 映画を見直していて気になったのは、最初、主演の乙羽信子は東京弁で、おやおやここでもかとがっかりしたのだが(監督の新藤兼人は市内から山一つ越えた石内出身の地元民だったので)、あとからちょこちょこ広島弁も使うようになったのはなぜ。

 日本映画専門チャンネルでは、今年、この映画の再放送を5回予定している。8/14(15:10-)、8/15(11:15-)、8/27(06:50-)、 9/1(07:00-)、9/13(07:00-):未見だったら是非ご覧下さい。ともかく被爆後7年目の広島が視認できる。

 そのあと、メールをチェックしていたら、色々収穫があったのでかなり時間を取ることになったのだが、その最後が朝日新聞の特集「核といのちを考える」第5回「そっと骨つぼに納めた写真:タブーだった兄と70年後の「再会」」(2022/8/9:https://digital.asahi.com/articles/ASQ813CLRQ7WPTIL014.html)だった。全文は有料。

 長崎のあの有名な黒焦げ少年の死体の身元が、2015年にこれまでにない大写しの写真をみた親族の妹たちによって兄ではと届出あり、翌年、専門家の復元調査によって可能性ありと鑑定された、というお話。私はこれまでそんなこと知らなかった。

谷崎昭治君 13歳で原爆死

【関連資料】こっちは広島。

 2022/7/29「兄に背負われた3歳の少年、77年越しの告白:「この写真は私です」」(https://digital.asahi.com/articles/ASQ7W6GBYQ7TPITB00Y.html):全文は有料・関連写真多数。これまで沈黙していた人がようやく口を開く。

広島市大手町で被爆:兄定男(11歳)さんに背負われた3歳の竹本秀雄さん

 RCC(中国放送)テレビ: 2022/8/6放映「それでも核兵器要りますか」(https://rcc.jp/peace/tv/index.php):

その冒頭と最後(44分40秒 から3分間)【見逃し配信期間:2022年8月6日 ~ 2023年8月31日】

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世界キリスト教情報第1645信:2022/8/1:カナダ先住民虐待問題

 なんだか一週間遅れのようだが。

目次

▽教皇、カナダ先住民が受けた苦しみに赦し乞う訪問=総集報道

◎教皇、カナダ先住民が受けた苦しみに赦し乞う訪問=総集報道

◎教皇、カナダからの帰国便機内で記者団と対話

◎兵士の葬儀中、ウクライナ人司祭にロシア人司祭が「十字架」で殴りかかる

◎ヨルダン国王、イスラエル首相とパレスチナ国創設の見込みについて意見交換

 今回は最初の記事をアップしてみる。ちょっと長文だが。

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◎教皇、カナダ先住民が受けた苦しみに赦し乞う訪問=総集報道  

【CJC】バチカン・ニュース(日本語版)によると、教皇フランシスコは 、カナダ到着翌日の7月25日、エドモントンから70キロ南方のマスクワシ スを訪れ、今回訪問の主目的である先住民の人々との出会いを開始した。  

 マスクワシスのエルミネスキン地区には、カナダの過去の同化政策下で先住 民児童対象の寄宿学校の中でも最大のものの一つ、『エルミネスキン・レジデ ンシャル・スクール』があった。『真理と和解のための国立センター』によれ ば、ここでは多くの子どもたちが、過密状態と病気を原因に亡くなったという 。  

 エルミネスキン地区の先住民の墓地に車椅子で向かわれた教皇は、立ち並ぶ 木の十字架の墓標の間で、沈黙のうちに祈りを捧げられた。  

 そして、教皇は『聖母の七つの御悲しみ』教会で、各地の寄宿学校で亡くな った子どもたちの名が記された長い横断幕に接吻し、祈られた。  

 教皇は途中、先住民、ファースト・ネイション、メティス、イヌイットの代 表者らに迎えられつつ、寄宿学校の子どもたちを思い起こすためのテント形の モニュメントの前で車椅子を止め、ここでも頭を垂れて祈られた。  

 次いで、教皇はベア・パーク・パウワウ・グラウンドで、カナダ全土から訪 れた先住民の使節とお会いになった。会場には、サイモン総督とトルドー首相 の姿も見られた。  

 教皇は先住民の人々への言葉で、「今日、わたしは、古い記憶と共にいまだ 開いた傷を持ったこの地にやって来ました。この『悔悛の巡礼』の最初の一歩 として、今皆さんの間にいるのは、赦しを乞い、わたしの深い悲しみを伝える ためです」と話した。  

 ここで教皇は、多くのキリスト教徒たちが様々な形で、先住民の人々を抑圧 した権力者たちの植民地主義的なメンタリティーを支持したこと、中でもカト リック教会や修道会のメンバーが、無関心をも含めた態度をもって、当時の政 府による文化の破壊と、寄宿学校制度を頂点とする強制的な同化政策に協力し たことに対し、赦しを願った。  

 たとえキリスト教的慈愛や子どもたちに対する模範的な献身が少なからずあ ったとしても、寄宿学校政策がもたらしたものは総合的に大変悲惨なものであ り、キリスト教信仰から見て、それはイエス・キリストの福音とは相容れない 破滅的な過ちだった、と教皇は話した。  

 謝罪は終着点ではなく、出発点に過ぎない、と述べた教皇は、赦しを乞い、 その被害を補おうとしても、それが決して十分ではないことは理解している、 と語った。  

 その一方で、未来を見つめる時、このような状況を繰り返さないだけでなく 、完全になくすことを可能とする文化を築くために、尽力することは決して無 駄ではない、とも話された。  

 こうした中、教皇は過去の真実の解明と、寄宿学校の元生徒らが受けたトラ ウマを克服するためのプロセスの必要を示した。  

 また、カナダのキリスト教信者と社会が、先住民の人々のアイデンティティ ーと経験を受け入れ尊重することにおいて成長し、皆で共に歩みながら、それ を知り認める道を見出して欲しいと望まれた。  

 そして、この数日間の巡礼ですべての場所を訪れることはできないが、この 悔悛の巡礼で述べた言葉は、先住民のすべての人・共同体に向けられ、心から 彼らを抱擁するものである、と教皇は話された。  

 「いやしと和解のためには、わたしたちの力だけでは足りません。神の恵み が必要です」と述べた教皇は、「神こそがわたしたちの手を取り、わたしたち を共に歩ませてくださいます」と強調された。

          ◇  

 教皇フランシスコは、訪問2日目の7月25日午後、エドモントンの教会で 先住民や小教区の信者らとの集いを持たれた。  会場となった『ファーストピープルズの聖心教会』は、1913年に建設さ れた、エドモントン市内で最も古い教会の一つ。この小教区は、1991年、 カナダのファースト・ネイション、メティス、イヌイットのための教会となっ た。  

 教皇は人々のへの挨拶で、この教会にファースト・ネイション、メティス、 イヌイットの人々と共に、先住民ではない地域の人々や、出身も様々な移民た ちが共に集う様子を喜ばれ、開かれた受容性ある皆の家、これこそ神の家族、 教会のあるべき姿である、と話された。  

 使徒聖パウロは、イエスは二つのものを一つのもの、一つの民に造りあげる と言うが、それは何を通してだろうか、それは「十字架を通して」である。イ エスはわたしたちを十字架上で、いのちの木の上で和解させられる、と説かれ た。  

 また、聖パウロはイエスは十字架を通してわたしたちを一つの体として和解 させると説明するが、その体とはなんであろうか、それは教会のことである、 と指摘。  

 教会は和解のための生きた体であるべきにも関わらず、まさにその教会が関 係した場所で人々が消しがたい苦しみを体験したことに、怒りと恥を覚える、 と教皇は表明した。  

 人が神に近づくことを可能にするより、人に神を押し付ける方が簡単に思わ れるが、それは決してうまくいかない、と教皇は述べ、なぜなら、神は強制や 抑圧はせず、常に人を愛し、解放し、自由にされるからである、と話した。  

 教皇は、神ご自身が望まれるようにイエスが自由と慈愛のうちに告げられ、 わたしたちが出会う苦しむ人々を、解決すべき件ではなく、愛するべき兄弟姉 妹として認めることができるように、そして、キリストの体である教会が、和 解のための生きた体となるようにと祈られた。  

 この後、教皇は参加者らと交流され、北米の先住民で初めて列聖された聖カ テリ・テカクウィタ(1656~1680)の像を祝別された。

          ◇  

 教皇フランシスコは7月26日午前、エドモントンで、ミサを行った。会場 となった市内のコモンウェルス・スタジアムには、およそ5万人の信者が詰め かけた。  

 教会の暦は、この日、おとめマリアの両親、イエスの祖父母、聖ヨアキムと 聖アンナを祝った。  

 教皇は説教で、ヨアキムとアンナの家で、幼きイエスは祖父母と触れ合い、 その寄り添いや優しさ、賢明さを体験したと語り、それぞれが祖父母たちとの 絆を改めて見直すよう招かれた。  

 「わたしたちは守るべき歴史の子である。わたしたちは孤立した存在ではな い。誰一人、世界と切り離されて生まれる人はいない。わたしたちが生まれた 時に受け取ったルーツと愛、わたしたちが育った家庭は、ただ一つしかない歴 史の一部である。それはわたしたちが受けた恵み、守るようにと召された恵み である」と教皇は話した。  

 また、教皇は、「わたしたちがここにいるのは、両親のおかげであると同時 に、祖父母のおかげでもある。祖父母たちはわたしたちが生まれたことの喜び を伝えてくれ、多くの場合、何も見返りを求めず、わたしたちを心から愛して くれる」、「祖父母から教わった善と優しさと知恵は、人類の堅固なルーツで ある。祖父母の家でわたしたちは福音の香りを吸い込み、家庭的な信仰の力を 味わった」と語った。  

 さらに、教皇は、わたしたちは「歴史を守る子ら」となるだけでなく、「歴 史の作り手」となっていく必要をも指摘した。  

 祖父母や先人たちが伝えた情熱や希望を生き生きと保ち、正義と兄弟愛、連 帯に満ちた世界への彼らの夢を受け継ぎ、先人たちの根に支えられて、花を咲 かせ、実をつけ、歴史の中に新しい種を蒔くのは、今やわたしたちの役割であ る、と教皇は信者たちに呼びかけた。

     ◇  

 教皇は、エドモントンから西方72キロにあるラック・サンタンヌへの巡礼 に参加、同地でみことばの祭儀を行われた。  

 ラック・サンタンヌは、アルバータ州の中北部の湖で、19世紀よりカトリ ック信者たちの巡礼先となった。  

 水深の浅いこの湖は、代々の先住民たちからいやしの場所として知られ、「 神の湖」「霊の湖」と呼ばれていた。1842年、アルバータに初めて定住し た宣教師、ジャン・バティスト・ティボー神父が、この湖をラック・サンタン ヌ(「聖アンナ湖)の意)と名付けた。  

 1844年、最初の教会が築かれ、1852年、オブレート会の宣教師たち が活動を開始。1889年7月、同会によって最初の巡礼が企画され、400 人あまりが参加した。  

 以来、毎年7月26日、おとめマリアの母でイエスの祖母、聖アンナの祝日 の週に巡礼が行われるようになり、やがて北米で最も重要な巡礼の一つとなっ た。  

 青空が広がったこの日、湖にほど近い小教区(教会)から、教皇は数人の先 住民たちに伴われ、湖畔に車椅子で向かった。湖への道が続く緑地公園には、 多くの巡礼者たちが集い、教皇を歓迎した。  

 水際に到着した教皇は、しばし祈りの時を持った後、大きなガラスの鉢に入 った湖の水を祝別。そして、巡礼者たちに向け灌水棒で散水を行われた。  

 続いて、教皇は緑地帯に設けられた集会所で、巡礼者らと共にみことばの祭 儀を行われた。  この中で、教皇は、すべての人が、魂とからだの医者であるイエスのいやし を必要としている、と述べた。  

 そして、教皇は、特に「先住民の兄弟姉妹が受けた暴力のトラウマ」と、「 植民地主義の恐ろしい結果」、「多くの家族の消し難い苦しみ」からのいやし を神に祈り求めた。  

 これらの傷のいやしには、わたしたちの具体的な努力が必要だが、それだけ では足りない、と話す教皇は、主の助けを願い、イエスの母聖マリアと、祖母 聖アンナの取次ぎを熱心に祈られた。

     ◇  

 7月27日午前、空路エドモントンを発った教皇は、同日午後ケベック・シ ティ国際空港に到着、地元の代表らに迎えられた。  

 同市の「要塞シタデル」にある総督公邸にメアリー・サイモン総督を表敬訪 問した教皇は、公邸の中庭で行われた歓迎式に臨んだ。  

 この後、教皇は公邸内でサイモン総督と会談。続いて、ジャスティン・トル ドー首相とも会談を行った。  この表敬訪問で、公邸の芳名帳に記帳された教皇は、「海から海へと続くこ の地、カナダの巡礼者として、この偉大な国が、未来の構築において常に模範 となり、特に先住民たちのルーツを守り、価値づけながら、すべての人々の受 容的な家となるよう神に祈ります」と記された。  

 次いで、教皇は、カナダの各界要人、先住民代表、駐在外交団との会見を行 われた。

     ◇  

 教皇は7月28日午前、ケベック・シティーから30キロの近郊、サンタン ヌ・ド・ボープレの巡礼聖堂でミサを行われた。  

 ケベック州の保護者、聖アンナの名を冠したサンタンヌ・ド・ボープレは、 北米で最も古い巡礼地として知られ、カナダの国定聖地となっている。165 8年に、最初の教会が、人々の信心を集めていた木製の聖アンナ像を安置する ために建設された。  

 その際、脊椎側弯症のために松葉杖の補助なしでは歩行できなかった一人の 信者がこの建設に加わったところ、礎石を据えた段階でいやされ、杖なしで歩 けるようになった。その後、何度か再建され、1923年に建設された今日見 る大聖堂に至っている。  

 ミサの説教で教皇は、ルカ福音書の「エマオの旅人」のエピソードを観想。 エマオへの道のりで、イエスに出会った弟子たちの歩みを、一人ひとりの歩み 、また教会の歩みと重ねられた。  

 教皇は、この福音のエピソードは、悪の暴力や恥や罪の意識にぼうぜんとし 、わたしたちの人生が罪や失敗によって干上がり、何もかも失ったと思われる 時こそ、まさにその落胆と苦しみの中に、主が近づき、共に歩いてくださるこ とを教えている、と語った。  

 一方で、教皇は、失望の中で襲われる「逃げたいという誘惑」に打ち勝つこ との大切さをも強調した。  

 エマオに向かう弟子たちにも、エルサレムで見たイエスの受難から遠く離れ 、「静かな場所」を求めたいという気持ちがあっただろう、と述べつつ、人生 の失敗において、立ち向かわずに逃げ出すことは最悪であり、その敵の誘惑は 、わたしたちの霊的歩みや、教会の歩みを脅かすもの、と注意を促した。  

 教皇は「わたしたちの道、力、慰めである主イエス」に、エマオの弟子たち のように「一緒にお泊りください」と願い、「人生の苦しみの闇が朝の輝きに 変わり」、「新しいいのちの希望が開けるよう」、「共に歩いてください」と 主に祈ろう、と呼びかけた。  

 教皇は、28日午後、ケベック大司教区の司教座聖堂、ノートルダム・ド・ ケベック大聖堂で、カナダのカトリック教会関係者たちと夕べの祈りを行った 。  

 同大聖堂には、カナダの司教、司祭、助祭、修道者、神学生、そして司牧活 動にたずさわる信者たちが集まった。  説教で、「わたしたちはキリストのしるしである」と述べた教皇は、「使徒 ペトロは、羊たちの世話をし、導き、あなたがたが自分たちのことで頭がいっ ぱいである間に、羊たちが道に迷わないように留意しなさい、とわたしたちに 呼びかけている」と話した。  

 教皇は司牧者らに、信者たちの世話に献身と優しさをもって取り組むよう願 うと同時に、それを義務や役所の仕事のように行うのではなく、牧者の心をも って情熱的に行うようにと励ました。  

 「信仰の喜びを今日の人々に与えるために、福音を告げなくてはならない」 と述べた教皇は、そのために努力すべき一つの挑戦を示された。  

 教皇は、その一つとして、霊的砂漠である今日に、司牧的創造性をもって「 イエスを知らせる」道を探求するよう望まれた。  

 また、福音を告げるには、「信頼性ある証し」が必要、と指摘。教皇は、未 成年虐待をはじめ、カナダの教会が犯した悪を見つめ、同国の教会関係者と共 にすべての被害者に赦しを乞われた。  

 カナダの教会の先住民の人々とのいやしと和解の歩みを思いながら、教皇は 、キリスト教共同体が二度と文化的な優越思想に巻き込まれることがないよう に、と説かれた。  

 最後に、教皇は教会内の「兄弟愛」の大切さに触れ、兄弟愛を育ててこそ、 キリスト教共同体は、兄弟姉妹として互いにいたわり合い、一緒に共通善のた めに働く場として、人間性の学び舎となることができるだろう、と話された。

     ◇  

 教皇のカナダ訪問は7月29日、実質的な最終日を迎えた。教皇は、カナダ 訪問の最後の目的地イカルイトに向かう前、ケベック・シティの大司教館に様 々な地方から集った先住民の代表たちに「友人・兄弟・巡礼者として」挨拶し た。  

 この席で、教皇は、「わたしはカナダに友人としてやって来きました。それ は皆さんと出会い、耳を傾け、この国の先住民の人々の生き方を学び、尊重す るためです。わたしは兄弟としてやって来ました。それは地元のカトリック教 会のメンバーたちがもたらした、良い実と悪い実を見出すためです。わたしは 悔悛の精神のうちにやって来ました。それは少なからぬカトリック信者が抑圧 的で不当な政策に協力したことで、皆さんに与えた苦しみに対して、心に抱え る悲しみを伝えるためです」と話した。  

 さらに、教皇は、「わたしは巡礼者としてやって来ました。それは、体力的 な限界はあっても、皆さんと共に、皆さんのために、さらなる一歩を進めるた めです。そして、真理を追求し、いやしと和解のプロセスを推進するため、兄 弟愛と調和のもとに共存を望む、先住民とそうでない人々の未来の世代のため に希望の種をまき続けるためです」と述べた。  

 教皇は、「まもなくこの中身の濃い巡礼を終えるにあたり、ある意味で自分 自身も皆さんの家族の一員のように感じ、それを光栄に思っています」と語り 、特に「世代も様々な多くの先住民の家族と共に聖アンナの祝日をすごしたこ とは、わたしの心に忘れがたい思い出として残るでしょう」と振り返った。

     ◇  

 教皇は7月29日早朝、ケベックでカナダにおけるイエズス会会員たちと会 見した。  

 「チビルタ・カットリカ」誌の編集長、イエズス会員アントニオ・スパダー ロ神父によれば、ケベック大司教区の大司教館で行われたこの出会いには、教 皇庁総合人間開発庁長官マイケル・チェルニー枢機卿を含め、15人のイエズ ス会会員が参加した。  

 約1時間にわたる非常に自由で率直な対話を通し、教皇はカトリック教会の 一般的テーマ、また今回の訪問の目的など、カナダの教会をめぐる様々なテー マについて、話されたという。

     ◇  

 教皇は7月29日、最後の訪問先、ヌナブト準州のイカルイトに向かわれた 。ヌナブトはカナダ最北部にあるイヌイットの自治準州で、イカルイトを準州 都とする。  

 ケベックから空路でイカルイトに到着した教皇は、教会関係者や地域の代表 者らに迎えられた。  

 教皇は市内の小学校で、カナダのかつての先住民同化政策下で運営されてい たカトリック系の寄宿学校の元生徒たちと会われた。  

 この出会いは私的な性格を持つものとして非公開で1時間近くにわたり行わ れた。  

 続いて、教皇は小学校の校庭で若者や高齢者たちとの集いを持たれた。この 集いでは民族衣装をまとった家族が、伝統の歌と舞踊を紹介した。  

 教皇はこの席で、寄宿学校の元生徒たちが勇気をもって、想像もつかないほ どの大きな苦しみを分かち合ってくれたことに、深い感謝を述べられた。  

 そして、「鳥たちがさえずる春に、突然冬が降りてきた」という、寄宿学校 に調和ある家族生活を引き裂かれた先住民のお年寄りの言葉を胸に、教皇は少 なからぬカトリック信者が同化政策に関わり先住民に与えた苦しみに対し、改 めて赦しを乞われた。  

 教皇はいやしと和解の歩みを共に歩む意志を表明しつつ、創造主なる神の助 けをもって、起きたことに対する真実を明らかにし、この過去の闇を超えるこ とができるようにと祈った。  

 こうした中、イヌイットの人々が長い冬の夜に灯す石ランプを、夜の闇に負 けない人生の素晴らしいシンボルとして示された教皇は、誰も決して消すこと のできないいのちの光をこれからも証し続けてほしいと願われた。  

 カナダでの公式行事を終了された教皇は、送別式の行われるイカルイト空港 へと向かった。

     ◇  

 教皇は、カナダ司牧訪問を終え、7月29日午後、最北部ヌナブト準州のイ カルイト空港での送別式を経て、ローマへの帰路についた。  同空港で教皇は、各地での公式行事に付き添ったメアリー・サイモン総督を はじめ、地元の人々の見送りを受けられた。  

 そして、特別機でカナダを後にされた教皇は7月30日午前8時過ぎ、ロー マに到着した。  

 ローマ到着後、教皇は市内の聖マリア大聖堂に立ち寄り、聖母子画「サルス ・ポプリ・ロマーニ」(「ローマ人の救い」の意味)の礼拝堂で、カナダ訪問 の終了にあたり、感謝の祈りを捧げた。□

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各国トイレ噺

Quoraで「今まで見た中で衝撃的だったトイレの画像を見せてください?」というお題が出たら、次々に投稿されて、2022/8/8現在で、回答数43が寄せられているようだ。

 ここでは、不快感なしの画像だけど、出るものも引っ込みかねない事例、と思しきものをご覧にいれます。

那智 桐 :ロシアのウラジオストク市内で使用した公衆トイレ。

掃除最優先のフルメタル便器です。5月上旬に旅行したのですが朝晩の気温は2〜3度!もちろん便座はキンキンに冷えていて心臓止まるかと思いました。冬は皆どうやって使っているのか本当に謎です。

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接種4回目

 根が小心者の私は、接種の手紙が区から来たのをしばらく放置していたが、やっぱり対面でやっている読書会の皆様にご迷惑をかけないため、予約して昨日その接種があった。

 朝9-11時までに来るようにということで、早朝5時からのダブルヘッダーで今日もさえない大谷君を1時間見たあと、妻に9時に起こしてもらい、いつもは昼頃起きるので、ぐずぐずと風呂に入ったり書類を書いたりしているうちに10時が過ぎていた。10時半に家を出て、なんとか医院に滑り込んだが、待合室には誰もおらず(列をなしていた1回目とは雲泥の差だ)、接種後の15分間の待機部屋に行ってみると先客が4人いた。事務室からは電話で「今日の接種予約されていますが、11時までにおいで下さい」と連絡している声が複数回は聞こえていた。

 夕食後にうたた寝して目が覚めたら接種した左腕が早くも痛い。今のところそれだけだが、さて明日はどういうことになっているのやら。

【追記】接種して、丸一日たったが、昨日は体がだるくて、一日中うとうとしていた。クリニックまで歩いて行ったせいか足腰も痛い。

 なんだか熱っぽいので、額と手首で体温を計ったら、それぞれ37度5分、36度9分という数値が出た。こりゃやっぱり接種の副反応だろう。

 接種2日目の目覚めはまず爽快。検温してみると、額で36.5度、手首で36.2だった。どうやら常態に返ったようだ。

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男性用携帯尿瓶、のお話

 遅ればせですが・・・、2016年情報です。「渋滞で尿意!でも大丈夫:息子スティックに取り付けるだけで尿をストックすることができる携帯尿瓶」(https://karapaia.com/archives/52218291.html)。

 以下がその紹介動画:https://www.youtube.com/watch?v=NP6_c4sJ8T4&t=11s

 以下がメーカーの動画:どうやら英国製で、一組£98.50もするが、洗浄して何回も利用できるらしい。登山家はじめ長時間トイレに行けない場合に便利です、という触れ込み。以前女性立ち小便を紹介したが、改造すればそちらにも試用可能かと。

https://www.customdivers.com/hewee-go-urination-systems-for-men-712-p.asp

 まず左写真のように着装し(大小で3組選択できる由)、次いで右写真のように、その先にホースを接続して太ももに固定したバッグに尿を溜める仕組みのようだ。

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ヒロシマとローマ関係落書き談議4題

冒頭の出演者テロップ部分

 私にとって、以下に共通するのは「落書き」なのである。①と④はそのものずばりだが、②と③はその映像の中で原爆ドームが出てきて、まだドームの廃墟の中に入れた時代に、訪れた観光客(アメリカ兵によるものが大半かと)によって多くの落書きが書かれていた画面が出てきている。そう、かつてそこでヒバクシャが自分を見世物にしていたり、商売をしていたのだった。

① 2022/8/4「ローマ、パンテオンの壁に「エイリアンは存在する」何者かが落書き」(https://karapaia.com/archives/52314873.html)

 パンテオン正面向かって右の壁に青いスプレーで「ALIENS EXIST」という文字と楕円形の物体2つが、7月末に書かれていた。これはどうやら当局により直ちに除去されたらしい。

左が落書き、右が消去作業中

② 2022/8/5:NHK BS1「イサム・ノグチ 幻の原爆慰霊碑」(https://artexhibition.jp/topics/news/20220805-AEJ922719/)

NHK BS1より:ノグチの背後の壁の落書きの全部が戦勝国米軍兵士のもののようだ

  8/6 9/00-9:50 再放送あり:戦前日本では異質な合いの子と蔑まれ、米国では敵性外人として遇され、戦後ニッポンでは何を好んでアメリカ人に慰霊碑作らせてたまるかと忌避されて・・・

③ 2022/8/9 11:10-(96分)日本映画専門チャンネル「原爆の子」(https://www.nihon-eiga.com/program/detail/nh00008058_0001.html)より 

冒頭の出演者テロップ:この画像は、後出の岩波写真文庫と同じ箇所
協力出演:賛美歌の場面でケロイドのある若い被爆女性も出演している

④ 2018/10/16:広島の平和公園付近での落書き事件:「原爆ドーム周辺、3カ所に落書き 器物損壊の疑いで捜査」(https://www.asahi.com/articles/ASLBJ33XXLBJPITB004.html)

 これはいずれも日本公演に訪れていた「ブルガリア国立歌劇団」の技術スタッフ2名が、キリル文字でブルガリアのサッカーチーム名などをスプレーで書いたものと判明。

左は工事中のフェンス、画面左中央に慰霊碑;中は石のベンチ、背景に原爆ドーム;右は韓国人慰霊碑付近のゴミ集積所

 それ以前も、それ以後も原爆ドームや慰霊碑等への落書きや毀損事件は絶えない(http://masuda901.web.fc2.com/page2ay22.html;https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=106106)。

中国新聞 2021/6/25朝刊掲載

 それをググっているうちに、以下に行き当たった:http://nofootynolife.blog.fc2.com/blog-entry-3635.html。その中の書き込みで、場所はローマのコロッセオ。

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バンクシーはアーティスト集団か

2022/8/4「バンクシーはなぜ誰にも見つからず作品を仕上げることができるのか?」(https://karapaia.com/archives/52314897.html)

 未だ正体が暴露されずに覆面ストリート・アート活動している落書き家バンクシー。いかにもイギリスらしい悪戯っぽい活動だが、模倣犯も出現しだしているらしい、その秘密の一端。白の大型キャンピングカーが目撃され、ドローンも投入しての、個人ではなくおとりの陽動グループを含めての集団での活動では、というわけだ。

 私が見て、ミニチュア庭園「Merrivale Model VIllage」(https://www.edp24.co.uk/news/business/yarmouth-merrivale-model-village-sold-8785008)に出現した「Banksy」「Go BIG OR GO HOME」という文字は、ネズミの絵を別にするとらしくないのだが、大型キャンピングカーが出没する動画がそれを立証している形ではある。

ネズミは、右端下の車輪の上に描かれている
庭園手前の道路に白色キャンピングカー

別件で、小学生に向けた以下の文言を今回みつけた。2016/6/6「Remember – Its always easier to get or giveness than permission.」(憶えておいて、いつだって(先に)許可もらうより、(後から)許してもらう方が簡単だってことを):https://karapaia.com/archives/52219274.html。

 画像掲載で呻吟しているお仲間への、私の助言でもあるのだが。さて最後まで逃げおおせるのだろうか。

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キリスト教とカネの問題

 叙述内容に若干問題があるが(「免罪符」というのは神学的に間違った表現:カトリックでは犯した罪による罰を赦すという意味で、「贖宥状」という:ただ庶民が理解したところでは同じことだったろうが)、先般触れた太平洋戦争と同様な「教会ビジネス」を指摘している記事がおもしろい。少なくともキリスト教の「正史」でそれは触れられていない。

 2022/8/3 大村大次郎「「天国に行きたくば金払え」統一教会と変わらぬキリスト教の過去」(https://www.mag2.com/p/news/547449/1)

 この記事の興味深いところは、キリスト教の布教活動の内実を10分の1税の徴収権を軸にみているところだ。

【追記】現代の普通のプロテスタント信者佐藤優氏が、献金について言及しているのをみつけた。

 「信教の自由と献金」(https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20220801/pol/00m/010/003000c)

 宗教法人の内実についてふれているのが、2022/8/30 神樹兵輔「統一教会問題で注目。神様仏様が聞いて呆れる「宗教とカネ」驚きの実態」(https://www.mag2.com/p/news/549934?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000001_tue&utm_campaign=mag_9999_0830&trflg=1)

 そこで金集めが新宗教の方がうまい、という叙述があるが、それだけではない。既成の大教団は大なり小なり伝統的に確保している信者からの宗教行事での経費や維持費によって労せずに集金されるシステムが構築されていて、それがすべてとはいわないが、それで多くの場合なりたつことができる。新宗教の場合は、新規に信者獲得せざるをえないのだが、そのため布教を強力に推進しなければならないが、その時の武器が人間誰しももっている精神的不安や不満から救われたいという弱みを突く言説、現代風にいうなら、心理学的療法を応用駆使して、人間の弱みにつけ込むわけである。

 私が上智大学に赴任してちょっと驚いたのは、学内に「心理学に素人の教員は悩んでいる学生の指導をしないで、専門家がいる学生相談室に行くように指導して下さい」という文書が配布されたことだった。これは直截にいえば、イエズス会神父の教員が学生にみだりに助言しないでください、ということで、これはそれまで当然のように宗教活動の一環で神父が信者や求道者の悩みにアドバイスしてきていたわけであるが、メンタル的に病んでいる学生にひたすら「頑張りなさい」などと励ましたり説教したりして、一層症状を悪化させる事例があったかららしい。もちろん神父さんやシスターで心理学やカウンセリングを修めた人もいたのだが、今から30年前ではそう多くなかったわけである。

 要するに、神学を学んだ宗教者では悩みを抱えた人間精神を立ち直させる効果的カウンセルができない、現代の臨床心理学からみて間違った対処をしている場合すらある、というわけで、私はこれじゃあ神父さん神学で人間を救えないじゃないですか、なんのための宗教者なんでしょうか、と心密かに思ったことだ。

 とまあこんなことやってるようでは、新宗教では遣い物にならないわけである。神学の学位はなくとも、新宗教のほうが人間の根源的な悩みに対して効果的な対処療法を実践している、という現実があるのである。そしてとにかく救済されたという体験をした者は、よろこんで感謝の念を示すわけである。

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アルカイダ指導者殺害発表のアメリカの在り方

2022/8/2発表(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN020F30S2A800C2000000/?n_cid=NMAIL007_20220802_H)。

 いかにもアメリカらしく、西部劇的に無邪気なまでに分かりやすい解決策で、テロ対策の一環だろうが、民主主義国家としてこういった乱暴な介入がいつも正しい行為とはいえないはずなのだが、さて腑抜けのマスコミは今回もコメントを差し控えるのだろうか。

 こういうのを大統領が自ら発表するというのも、秋の中間選挙がらみの思惑が透けて見えていて、なんだかなと思わざるを得ない。以下参照、2022/2/6:佐々木伸「IS指導者クライシ氏壮絶自爆:米特殊部隊急襲の全貌」(https://wedge.ismedia.jp/articles/-/25659)。

 82歳になる筋金入りのペロシ下院議長の台湾訪問も、彼女の唐突な単独行動を演出しながらその実、大統領との打ち合わせ済みの行動だと、私は思っている。アメリカの対台湾政策はどう見たって二枚舌にしか思えないからには、中間選挙を念頭に「強いアメリカ」を演出する必要があったからの危険な賭だったはずだ。こういった言動がこれからも続くはずなので、強権国家の近隣諸国にとってやっかいなことだ(ただ、今般の日本政府の平静な対応を眺めていると、事前に非公式な事情説明がなされていたのかも知れない)。

 思い起こせば、ウクライナ戦争開始直前にバイデン大統領が「軍事介入はしない」と言わずもがなのひと言を発した件も、世間ではボケ大統領の失言ととらえている(振りをしている)が、プーチンに侵攻を決断させるための罠だった、と私は考えている。いずれにせよ、こういったことに単純明快なアメリカのことだから、でっち上げの大量破壊兵器問題のイラクの場合と同様に(http://www.asahi.com/special/iraqrecovery/TKY200407090425.html)、いずれ一件落着したあと事実が明らかにされるだろう(日本だとこうはいかない)。

【追記】2022/8/5

 逆に、米中は「妖婆」ペロシ訪問問題を事前協議していたという見立てもある。これももちろん有りだろう。外交を内政に互いが利用しあうわけだ。「超弩級・ペロシ台風が去った後の台湾状勢と米中関係:“キューバ危機”を事前に回避したバイデン・習近平の「密約」」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71237)。

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NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」

 2022年の今年も8月に入って敗戦記念日がらみの放送が始まる。NHK総合でも夜中の1時頃からを含めて数回の放送が予定されている。

 表記の番組は2022/8/2早朝の3時16分からの1時間番組だった。副題は「果てしない戦線拡大の悲劇」。アナウンサーに松平定知が登場していることからもわかるように、2011年1月に放映されたものの再放送と思われるが、未だ一見の価値ある内容に感じた。私はこういう番組は11年前にも見逃さず見たはずなのだが、まったくその記憶がないのはどうしたことか。

 今回、私的にもっとも興味深かったのは、大陸(陸軍)や南方(海軍)への戦線拡大を、日本の企業はビジネスチャンスととらえていて、占領地が利権の狩り場となり、有象無象の輩が中央官庁・軍部はもとより、現地占領軍でも「つて」をたどって跳梁跋扈していたこと、軍部もそこできちんと利害調整するよりも、「あそこはすでに〇〇が入り込んでいるから、××占領の際に△△鉱山を任すからどうだ」と、さらなる無謀な戦線拡大に向かうこととなった、という指摘であった。

 通常の敗戦論では、軍部上層の無定見な戦争指揮ばかり指摘されてきた印象が強いが、新利権に群がって沸き立っていた政商や山師たちと出先軍部の結託(なんと、海軍と陸軍で占領地での利権の区割りがなされていたとは:軍部にとっては、目先の上納金以外にも、天下り先の確保という意味もあった)、というまあ現代でも絶えることなく生じ続けている、いつに変わらぬ政・官・民の談合・癒着体質そのままだったようで、国を挙げて戦争継続・拡大に暴走していった挙げ句の敗戦だった、という点を正しく認識し強調した制作で、勉強になった。

 なお、この放送内容に関して書籍がNHK出版から出版されている。私は古書で廉価の新潮文庫の3冊本を入手し、今夏の読書にしようと思っている。

NHKスペシャル取材班編著『日本人はなぜ戦争へと向かったのか:果てしなき戦線拡大編』新潮文庫, 2015, p.47.

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