投稿者: k.toyota

猿まねヨーロッパ:飛耳長目(34)

 BS4K「コズミックフロントNEXT」で3/3に、「知られざるイスラム天文学」の再放送をやっていて、面白かった。https://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2020-02-25&ch=44&eid=06458&f=5162

 「占星術と共に発展しコペルニクスの地動説誕生に大きく貢献した「イスラム天文学」。精度が極めて高く今から600年前には1年の長さがほぼ正確に観測から割り出されていた

 占星術とともに発展しコペルニクスの地動説誕生に大きく貢献した「イスラム天文学」の知られざる栄光に迫る。中世のイスラム世界では人々が礼拝に必要な時間と方角を知るため天文学を学んだ。また航海や砂漠での旅に必要な情報を得るためにアストロラーベという精密な観測機器を発明した。今から600年前、ウズベキスタンの天文台では1年の長さを「365日5時間49分15秒」とほぼ正確に観測から割り出した。」

 中世イスラムの科学が西欧を凌駕していたことの一般論は知っていたが、それを地動説に焦点をあてて、13世紀のイスラム天文学者ナスィールッディーン・トゥースィの天文学が先駆となり、14世紀のシリアのイブン・シャーティルに伝来し、それからどうやら学んだのが16世紀のコペルニクス、という話で、この系譜とかはウィキペディアにもちゃんと書かれていた。番組の味付けとしては、それが16世紀以降イスラムが衰退していくとともに忘れさられ、西欧文化の成果とされてしまった、というところにあるわけ。

 これからの世界情勢の見どころは、西欧に学んだイスラム圏がどう巻き返していくか、にあるが、そこにかつて栄光の中国も絡んできている現在、アメリカなど意図的に妨害策謀を凝らしているわけで、なかなか多事多難なことである。

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ペルペトゥア・メモ:(9)埋葬場所について

 480年代著作の、Victor Vitensis, Persecutionis Africanae Provinciae, I.3 (9), in:MGH, AA, Tom.III, Pars 1, 1879 (rep.1961), p.3に、以下の文言が残っている。「そして必須の事どもを述べるなら、彼ら(ヴァンダル人たち)は、聖殉教者たちペルペトゥア、かつそしてフェリキタスの遺体が埋葬されたMaior(先人たち)の教会、Celerinaの(教会)、またScillitaniの(教会)、そして彼らが破壊しなかった他(の諸教会)を、彼ら(アレイオス派)の宗教へ暴君的な許可により引き渡したのだ」Et ut de necessaires loquar, basilicam maiorem, ubi corpora sanctum martyrum Perpetuae atque Felicitatis sepulta sunt, Celerinae vel Scillitanorum et alias, quas non destruxerant, suae religioni licentia tyrannia mancipaverunt.

 要するに、二世紀後の情報としてペルペトゥアたちの埋葬地が「Basilica Majorum」だ、と断言されている。実際には彼女らが葬られた墓所の上に後にキリスト教会の殉教者巡礼教会が建てられ、それが段々と拡張されていった、ということだったのだろう。それが50年前にアレイオス派のヴァンダル人に占拠され果たして無事に保存されていたのかどうか、Victorは何も述べていない。だがその後、7世紀後半にイスラームによりこの地が征服されていることを考慮にいれると、たとえ聖遺物が公然・非公然にキリスト教徒たちによって持ち出されたとしても、それは長い年月の間に霧散して、やっぱり消滅してしまう運命に遭ったのでは。まあ偽物はもちろん出回るだろうが(後述、およびペルペトゥア・メモ(8)参照)。

図の最上部(北端)中央がBasilica Majorum
Basilica Majorumの空撮写真:高台の遺跡平地中央の建物は1929年に聖遺物室confessio跡に建てられたが、現在は土台のみ古代ローマさながらの廃墟と化している

 いわずもがな、7世紀以来ムスリム化されていたこの地に、キリスト教が再進出する契機となったのは、19世紀半ば以降、1881年から1956年までのフランス保護領下のことであった。

今は昔、90年間の時は流れて:左写真の左端の立像はアウグスティヌス像、往事ここでカトリックの大集会が催されていた

 最初にこの地を発掘してBasilica Majorumと断定したのは、アフリカにおけるキリスト教宣教を目的に、1868年にアルジェ大司教によって創設された「白衣宣教師会」Pères Blancs(ドミニコ会系らしい:Ch.-R.アージュロン[私市正年・中島節子訳]『アルジェリア近現代史』クセジュ文庫、白水社、2002年[初版1964, 11e édition, 1999]、 p.87)に所属していたAlfred-Louis Delattre師(1850-1932年)で、早くも1907年4月にペルペトゥアらの墓碑発見を報告している(A.-L.Delattre, Lettre à M.Héron de Villefosse, sur l’inscription des martyrs de Carthage, sainte Perpétue, sainte Félicité et leurs compagnons, in:Comptes rendus des séances de l’académie des Inscriptions et Belles-Lettres, 51e année, N.4, 1907, pp.193-5)。この書簡の宛先の人物は、Antoine Héron de Villefosse(1845-1919年)で、当時フランスで著名な考古学者、とりわけラテン碑文学の権威で、言うまでもなく投稿先の l’Académie des inscriptions et belles-lettresの会員であった。

Alfred-Louis Delattre師        Antoine Héron de Villefosse
Delattre師によるBasilica Majorum平面図:教会堂中央が聖遺物室

 左端のアプシスと右端のAreaを除き、61m×45mの広さの長方形の教会堂の中央身廊の真ん中に3.7m×3.6mの、床モザイクが敷かれたアプシス付き礼拝堂が建てられており、その地下クリプトは聖遺物室となっていて、巡礼が両脇の階段で昇り降りできるようになっていたらしい。礼拝堂のアプシスが教会堂のそれと逆向きになっているので、おそらくAreaがもともと1,2世紀起源の異教墓地で、そこに最初殉教者たちが葬られていたのであろう。但し、Noël Duval, Études d’architecture chrétienne nord-africaine, in:Mélanges de l’École française de Rome, Antiquité, 84-2, 1972, p.1117のFig.19では、教会堂からAreaへの入り口を囲むように小アプシスが、そしてArea内の南側、即ち、聖遺物室のアプシスと同方向に大きなアプシスがそれぞれ描かれており、後者の方は「Abside trouvée en 1929」と表記されている(この二重アプシス構造は、とりわけ北アフリカの特徴のようだ:cf., N.Duval, Les Églises africaines à deux absides : recherches archéologiques sur la liturgie chrétienne en Afrique du Nord, 2vols., Roma, 1971,1973)。ローマ世界では2世紀末から3世紀初頭にかけて火葬(遺灰壺埋葬)から土葬(木・石棺埋葬)への移行期だったので、異教墓地のほうの主流は火葬墳墓だったはず。教会堂とAreaの東側にキリスト教徒の土葬墓が集中的に確認されている他、例外的に教会堂北東の壁沿いに5基が描かれている(以下の写真Fig.3 参照)。

発掘開始時の遺跡の状況
中央の構造物は、聖遺物室から見て北側の列柱付近から出たモザイク付き墳墓か
発掘された聖遺物室のニッチを北側から見る:Rivista di Archeologia Cristiana,7,1930,p.303
聖遺物室の直下に葬られた2つの土葬墓を南側から見る
若干分かりづらいが聖遺物室(手前がそれ)周辺の模式図:西から東方向を見る:上図2121が中央奥
教会敷地北東角の土葬墓写真:ここから最初に殉教者名を記した墓碑断片が出土した由

 そこからDelattre師が1906-8年に発掘した碑文断片は総数4000で、うち最も注目された大理石板の墓碑諸断片は全部で34で、以下上図が師によるその組み合わせ、下図の左が師によるその復元の読み,右がL.Ennabliの読みである。

左はDelattre師の、右はL.Ennabli, ICKart. II, 1982, p.35, n.1の読み

 Delattre師に依拠するなら以下のように読める。「ここに、殉教者たち、サトゥルス、サトゥルニヌス、レウォカトゥス、セクンドゥルス、フェリキタス、ペルペトゥアが、3月7日に受難し(て埋葬され)た。マイウルスは・・・」。興味深いのは殉教者の記載順で、サトゥルス以下四名の男性が列挙されたあとに、フェリキタス、そして最後がペルペトゥアとなっている。この点を突いてくるのが、J.Divjak-W.Wischmeyer, Perpetua felicitate oder Perpetua und Felicitas? Zu ICKarth 2,1, in:Wiener Studien, N.F., 114, 2001, pp.613-627、である。彼らは、この碑銘を男性殉教者のみを書いたものと考え、女性殉教者の名前を「豊穣が永遠(に続きますように)」と誓願定文として捕らえ直すのである。従って女性殉教者二名の記念碑は別の場所(そこが文書史料が触れているBasilica Maiorumということになる)というわけで、面白い指摘である。

 また碑銘の行の頭に✚印がついていて、これと字体をもって現在ではこの墓碑は、師が想定したような殉教直後のものではなく、ヴァンダル支配末期の6世紀初めの製作と考えられている(となると、ヴァンダル時代この聖所は保全されていたことになる、のかも)。

 ちなみに最後のマイウルスなる人物は、テルトゥリアヌス『スカプラへ』iiii.5に「Hadrumetum(現在のスース付近)のMaiulus」として登場しているほか、幾つかの殉教暦では殉教日が3月7日とされているが、 Kalendarium CarthaginensisMartyrologium Hieronymianumでは5月11日になっている。

 以下の石灰岩製の石板も出土している。場所は聖遺物室から南西に数歩のところの、数百の遺骨が埋まっていた深い井戸の中に混じっていたらしい。3世紀の字体で「Perpetuaに、最も甘美な娘に filie dulcissimae」と彫られているが、それが聖ペルペトゥア自身を示しているとしたら、この埋葬場所は彼女が出生したVibii家の所有する墓所だったのか(その場合、カルタゴ出身家系説が有力となる)、それとも処刑された娘のために新たに購入したのか(生地としてカルタゴの西53KmのThuburbo Minus説あり)、はたまた聖女の名前を霊名として頂戴した後世の、またはまったくの別人なのだろうか。私見では上記の新見解も踏まえ、最後の可能性が大と思われる。同様にこの井戸から、彼女と同家名、同名の銘文が他に3例出土しているが、これとて件のVibii家のものと速断するのは慎むべきであろう(cf., Delattre, Comptes rendus, 52-1, 1908, p.61ff.;E, F, G, H)。

 この発掘場所は、現在Mcidfaと呼ばれている場所で、奇しくも第2次世界大戦で戦死したアメリカ兵の広大な墓地が隣接し、また歩いていける距離で、音楽堂Odeon遺跡のそばには2004年に時の大統領Zine el-Abidine Ben Aliの名前の、堂々たるモスクも建設されている。しかし、2011年1月の「アラブの春」「ジャスミン革命」勃発で彼はサウジアラビアに亡命し、その地で2019年9月に死亡しているので、その後モスクはどうなったのだろうか。

手前は米兵墓地、立木の奥に見えるのがZine el-Abidineモスクのミナレット

 墓碑発見後すでに1世紀経過しているが、この墓碑を巡っての論義は活発とは言いがたいらしいが続いている。上記で触れたように、そもそもDelattre師の発掘地点が本当にVictorが述べているBasilica Majorumなのか、ということ自体に疑問があるし、Delattre師たちの発掘方法が問題視されたり(正直、次段落のモザイクの発掘地点がどこなのか、私にはよくわかっていない)、銘文の復元を巡っても異論が提出されている(cf., B.D.Shaw, The Passion of Perpetua, Past & Present, 139, 1993, p.42, n.88, 89)。おそらく聖書考古学での発掘にありがちな最初に結論ありきの決め打ち発掘や、強引な論証、さらには調査方法の杜撰さが指摘されているわけであるが、だがH・シュリーマンのトロイア発掘(1870年代)やH・カーターのツタンカーメン発見(1922年)でもそうだったように、調査方法がまだ手探りだった考古学黎明期では多かれ少なかれそれが普通のことだったというべきか。この件は、このブログでもポンペイでの最近の再調査でこれまでのロマンあふれる解釈がもろくも崩壊していることを考え合わせると納得していただけるかもしれない(2019/4/14)。それにしても、この問題をからめて集中的に掘り起こすと色々面白そうなテーマなので、誰かきちんとやってくれないかな、と思う。

 この遺跡からはキリスト教的モザイクも出土している。時間があればいずれ多少詳しく検討するに値すると思っているが、とりあえず白黒画像をアップしておこう。メダイオン内部の文字列とそとに描かれている鳥(鳩?)などの向きが逆なのが、ちょっと解せないが。ところでカラー版が見当たらない。ご存知寄りの方からの提供を期待している。

右が逆転写真:中段の鳥はブドウの房、下段左の鳥はオリーブの枝をくわえ、右は薔薇の中にいる

 関連で、さらに浴場近くのDermech地区の遺跡(le monastère de Saint-Étienne)からは、モザイクで描かれたメダイオンの中に、5+2名の聖人名が記されていたものが出土している。右端からSaturninusとSaturusの銘文が埋め込まれ、次いでSirica、Istefanus、Speratus、そしてかろうじてフェリキタスを予想させる「・・・TAS」が続き、となるとほとんど失われてしまった左端のメダイオンにはペルペトゥアが想定される一連の殉教者モザイクなのである。これは現在バルドー博物館に展示されている。これもカラー写真が見当たらない(中央部分の2つのは見つけた)。ご存知寄りの方からの提供を期待している。

出土状態:ペルペトゥアとフェリキタスが書かれている肝心の左2つの破損がひどい
左はバルドー博物館での修復後の展示状況,右はSperatusとIstefanusの部分

 ところで、ウェブ情報(https://www.wikiwand.com/fr/Perpétue_et_Félicité)で以下を知った。彼女の聖遺物は439年(ヴァンダル族のカルタゴ占領時)にローマに移動され、それから843年にBourges大司教Raoulにより、フランス中部のSaint-Georges-sur-la-PréeにあったDèvres (ないしDeuvre)大修道院に移され、そこが903年のノルマン人に掠奪された後に、926年に近隣のVierzonに移され、そこの現在の市庁舎に置かれていたが、1807年にNotre-Dame de Vierzon教会内に移葬され今に至っている由。以下の写真は、その教会内のもの。以上の聖遺物の移葬情報はベリー地方の伝承によるものなので、その真偽を問うのは野暮というものだろう。

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ペルペトゥア・メモ(8):聖遺物

 (9)の原稿を書いていて、待てよと思い付き、ググってみたら、なんと幾つかペルペトゥアとフェリキタスの聖遺物に行き当たった。最初の2つは、ドミニコ会O.P.所属のLawrence Lew修道士のウェブ写真の中にあった。残念ながら所蔵場所は不明である。

https://www.flickr.com/photos/paullew/6961176479
https://www.flickr.com/photos/paullew/6815062432/in/photostream/

 もう一つはフェリキタスで、University of Dayton所蔵の160を数える聖遺物の中にあった。大学だからもちろんちゃんとした鑑定書付きである。以下いずれもアメリカ合衆国の事例。

https://ecommons.udayton.edu/uscc_relics/37/

 他に大学関係では、University of Notre Dameにもペルペトゥアとフェリキタスの聖遺物がある由(http://faith.nd.edu/s/1210/faith/interior.aspx?sid=1210&gid=609&pgid=13647&cid=28385&ecid=28385&crid=0)。

 カトリック教会関係では、ミシガン州のKalamazooにあるSt Mary’s Catholic Church所蔵10数個の中にペルペトゥアもある。

 以前、フランシスコ・ザビエルがらみでイエズス会関係の聖遺物が出品されていたことを思い出したので、ebayのオークションも覗いてみた。あっけなくペルペトゥアとフェリキタスがらみで1件出ていた。しかしこっちは「Saints Perpetua and Felicity Kissing Reliquary」と表記されているように、聖遺物というよりは礼拝用の聖具のようで、価格は$1,125。他の多くが$300ー400なので、かなり高価で骨董的な価値があるのだろう。

 以下では、「ローマのフェリキタス」という165年頃の別の女性殉教者の聖遺物との触れ込みで$425で販売されていた(https://www.russianstore.com/en/online-store/catholic-reliquaries/item/1092-theca-housing-relics-of-saint-felicity-of-rome-martyr)他、フランシスコ・ザビエルなどのものも10以上販売中。他にも格安な聖遺物が以下で山ほど販売中。https://picclick.com/Antique-Reliquary-S-Felic-Can-Religious-283794401627.html

 ところでこの聖遺物調査をしていて気付いたのは、聖ペルペトゥアと聖フェリキタスの聖遺物は伝えられているのに、彼女たちと一緒に殉教したサトゥルスたち男性の聖遺物は見当たらなかった、という事実である。また、一見奇妙な事実にも気付かざるを得ないのは、彼女たちの故郷北アフリカで名のある教会で彼女たちにちなんで命名された教会が皆無であるという現象であろう(しかも、Basilica Majorumで発見された銘板だと、男性のほうが明らかに優位にある。参照、ペルペトゥア・メモ(9))。この逆転現象は興味深い。

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田中信彦氏の中国論:飛耳長目(33)

 コロナウイルス関係をググっていてひっかかった。著者は田中信彦氏で、中国通というお話。これまでも2018年頃から「スジの日本、量の中国」と題して書いておられたよう。今般は「中国に漂い始めた”戦勝”気分:民主国家日本との対応策の差が話題に」https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00123/00006/?P=1

 中国と日本の文明論に通じるところがあって面白かったが、日本なんか真正の西欧的な民主国家と私は思っていないので、比較論としては5割引して、もっぱら中国論として読ませていただいた。以前から「中国人とイタリア人はよく似ている」と言われてきたことと通底している(だから、ローマ史研究している人は田中氏を読むべきだ、と本気で思う)。要するに、日本人の考え方は世界標準ではないことをちゃんと認識しないと、というわけだ(島国的認識でローマ史論じてどうするのっ)。

 そもそも危機管理という認識そのものが、残念ながら島国日本には本性的に欠けている観念なので、今回のような事態に直面して指導力を発揮できない政権が民主的手続きなんかを口実にして、事態の悪化を拱手傍観していると、世界的には見られてしまってもしょうがない気がする。

 それにしても、あれからもう二ヶ月とか一ヶ月が過ぎた二月末だぜ。今回の断乎とした処置で乗り切れば、あれこれ取り沙汰されてきていた習近平の威信は盤石となるだろう。それに引き替え、なあなあの日本は、いつものように後手後手で、優秀な医療関係者・医療体制を豪語していたにもかかわらず、狭い島国にこのまま蔓延していけば、坂道を転げて没落に拍車がかかり、しゃれになりませんよね。学校だけ閉鎖してどうすんだ。仕事もっている親がこまるだけだろ。口先だけ,思い付きだけの安倍政権、親の仕事のほうもすべて止めるくらいの判断力と決断力がほしいところだ。

【余談】ま、確定申告納付期限が4/16まで延期されたのは,怠け者の私としては助かった(^^ゞ。

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ペルペトゥア・メモ:(7)天への梯子

 ペルペトゥアの夢の中に出てくる「天に向かう(ヤコブの)梯子」La scala del cielo(di Giacobbe)に関して、以下の文獻から首尾よくフレスコ画の出版当時の残存状況のカラー画が入手できたので衆知します。

Joseph Wilpert, Roma Sotterranea : Le pitture delle Catacombe romane, Roma, 1903, tavole, Tav.153 ; testo, p.445, Fig.43.
 
 残存フレスコ画(カラー)はTav.153、復元線描画はFig.43、です。後者で、左右の図柄が同じなのはなぜ、と思っていたが、この原画をみたらWilpertの想像ということが今回判明。中央のイエス像も光輪はなかったのでは。出土場所は、Henri Leclercqによると( par Le R.P.dom Fernand  Cabrol, Dictionnaire d’Archéologie Chrétienne et de Liturgie, Paris, II/1, 1910, col.151-2)、cimetière de Balbineとなっているが、Wilpertでは、arcosolio dei Santi Marco e Marcelliano。製作年代は四世紀末となっているよう。

 この本は、国内では京都大学のみが所蔵していたので、コピーを取り寄せましたが、さすが京大図書館職員で、註記にTav.153, 164が出ているが、と問い合わせがあり、そっちも送ってくださいとお願い。半分当たりで首尾よく上記のカラー版が得られました。古書検索したところ、約90万円で購入可能です。どなたか私、というよりも上智大学図書館に寄附していただけると有難いのですが(^^)。

 実は上智大学には、なぜか以下が所蔵されてます。20年ほど前にそれを見つけたとき狂喜しました。でも・・・ドイツ語とはいえ、出版年など書籍データがイタリア語版とかなり重複しているので、ひょっとして同内容? 明日調べてみましょう。
 Joseph Wilpert, Die Malereien der Katakomben Roms ; Textband, Tafelband, Freiburg, 1903.

 調べたら、構成的に同じでした。かなり痛んでいるので、貴重図書にでもしてほしいと思う。さて、どちらが原文なのでしょうか。ドイツ語版は他に、立教大学、早稲田大学、東芸大が所蔵してます。

 なお、Via Latinaのカタコンベには、320-350年頃の次のフレスコ画がある。

 また、スペインのブルゴスには、四世紀中頃の日付の、以下のような石棺がある。その中央に梯子が。私は20年前に2夏がかりでカミーノを全踏破した。ブルゴス、レオン、そしてアストルガを通過したが、一生の思い出である。こんな石棺のことなど知りもしなかった。も一度行きたいと思うが、歩きではもう無理なのが悔しい。

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映画「阿弥陀堂だより」:遅報(27)

 偶然BSプレミアムでやっているので見ている。2002年の映画。北村の婆さんはいうまでもなく、昨今の名優が目白押し出演で、じっくり見させてくれる(前半、夫役の寺尾のわざとらしい笑い顔が多少気になったが、それも演技のうちか。撮影当時43歳の樋口可南子が美しい)。さながら長野県のPR映像。登場する老人たちは昭和を生き抜き、死も目前の人たちばかり。そこで村の死者が祀られる阿弥陀堂が出てくるわけだが、教義とかの上から目線抜きで、死を迎えようとしている生者常民の日々の営みの中での輪廻信仰を見せてくれている。この農村共同体もすでに危機的状況にあるのだろうが。現代の都会の子にはたして実感持てるのだろうか。ま、無理だろうな。

 ググったら、この映画、YAHOO!映画なんかで3/31までレンタルでみることできるようだ。

 まあ私などこの歳になったから、こういう自然の四季(生)の移ろいをなぞるスローテンポも受け入れ可能なのかも。なぜか、2014/15年の「リトル・フォレスト 夏・秋」「冬・春」を思い出した。

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40年振りに再公開:ポンペイ「恋人たちの家」(I.x.11)

 時々覗いている「Archaeology News Network」(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2020/02/pompeii-house-of-lovers-reopens-to.html)に情報が。今度、渡伊したら必ず突入しなければ。

 場所はI.x.11の、Casa degli Amanti。1980年の地震による修復がようやく終わって、この火曜日(2/18)からの公開らしい。確かに以下の写真ではぼろぼろであった。https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R1/1%2010%2011.htm

 この家の名称は、以下の落書きに依っている(上図の部屋13の入り口南側に面した、列柱廊10東側の壁):“Amantes ut apes vitam mellita exigent.” :「恋人たちは、蜜蜂のように、蜜の(甘い)生活を営む」[CIL IV 8408a];この落書きの下に以下も見える。”Velle”:「そうあれかし」[CIL IV 8408b]

アヒルの下にも落書きがある。”・・・ Amantes cureges” [CIL IV 8408cでは、”Amantes Amantes cureges”と読んでいて、最後の単語は‘scil.curae egentes, vel egeni sunt’と注釈つき].「恋人たちは恋人たちの世話を焼きたがるものだ」といった類いの意味か。

 このフレスコ画の近くに、以下もあるらしい。”C(aius) Ann(a)eus / Capito / eq(ues) coh(ortis) X pr(aetoriae) / c(enturia) Grati”  [CIL IV 8405]:ガイウス・アンナエウス・カピト、第10近衛歩兵連隊騎士、グラトゥス中隊出身

【ついでに一言】ポンペイ関係でググっていたら、たぶん新顔で「Visitare Pompei」(http://www.visitarepompei.org/buy_now.php?order=23 )という画像解説に行き当たった。24時間使用で6ユーロ。かなり期待して試しに購入して見たが、まったくの期待外れだった。誰にもお勧めしません。金返せ〜。

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明治人の中国見聞録:飛耳長目(32);トイレ噺(13)

 偶然行きついた樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)の「明治の反知性主義が見た中国」がなかなか面白い。それを読んでいて廣島高等師範の学生を中心としての明治39年夏の朝鮮・満州方面への総勢600人余の修学旅行を記した「日露戦争の翌年、朝鮮半島、満州に修学旅行にでかけた高校生たち」https://wedge.ismedia.jp/articles/-/17644の中で、落書は本邦人の悪習と書いている箇所があって、おやおや、と。私も尚志会の会員なので、その原典『滿韓修學旅行記念録』(廣島高等師範學校 非賣品 明治40年)を探っていて、我が図書館に、小島晋治監修『幕末明治中国見聞録集成』全10巻、ゆまに書房、1997年、が所蔵されていることを知った。スケッチとかあるのではと、さっそく見てみようと思う。

 このシリーズが樋泉氏(なんと私と同い年)の種本かと思ったのだが、書き手の重複は10分の3を占めているだけだった。まあ、擬古文調の原文で難儀しなくてすむウェブをまずは読破しようと思うが、清朝末期の中国の有様は、私のもう一つの関心テーマの放尿・脱糞にも寄与せざることなしといええず、という感慨にとらわれてしまう内容が・・・。

 それにしてもたいした知識も語学力もない身で果敢に異境に飛び込んで、旺盛な知識欲を発揮していた明治人の気骨に触れ得たことは、一大収穫だった。記録には残らないのかもしれないが、今もそうだと思いたい。

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性的虐待、今度はボーイスカウト:遅報(26)

 今日のBSのワールドニュースで、アメリカのボーイスカウトの活動中での性的虐待問題が。72年間でリーダー格7800名が関与か。すでに裁判費用で破産説も。https://www.cnn.co.jp/usa/35136350.html;https://news.mynavi.jp/article/20190429-816559/

 ウェブによるとすでに2012年に報道が。https://www.afpbb.com/articles/-/2908157

 コーカソイド、否、アメリカはというべきか、どこもそこも、おいおい。

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アポリジニ天文学:遅報(25)

 今、偶然BSでやっているのを見た。「コズミックフロントNEXT:苛酷な大地が生んだアボリジニ天文学」。これまで天文学の主流だった北半球ではなく、南半球のアボリジニこそが人類最古の天文学者だった、という視点。星座の見え方が北半球とは違う、という視点が新鮮だった。2017/9/14放送。NHKアーカイブスが今メンテナンスで検索不能なので確認できないが、たぶんみることできるのでは。

 https://www.videomarket.jp/nod/title/230173/ARM:メソポタミアや古代ギリシアなど、主に北半球の国々で誕生し、発展したとされる天文学。驚くことに、南半球オーストラリアの先住民族アボリジニが「人類最古の天文学者」である可能性がでてきた。いったいなぜ文字を持たなかったアボリジニが、星空をカレンダーやカーナビとして使い、奇妙な壁画に残してきたのか。その秘密は、どこまでも続く荒涼とした大地に隠されていた。謎に満ちたアボリジニ天文学の姿に迫る。

 この特集のリストを見ていたら、こんなのもあった。これって、黒人女性に焦点をあてた映画「ドリーム」:https://ja.wikipedia.org/wiki/ドリーム_(2016年の映画)、とよく似た内容のような気が。

「コンピューターと呼ばれた女性たち」:マーキュリー計画やアポロ計画など、旧ソ連と宇宙開発競争を行っていたアメリカ。当時のNASAには「コンピューター」と呼ばれる女性たちが働いていた。男女格差があった当時、男性たちの指示のもとに動いていたが、やがてアメリカ初の宇宙飛行や月面着陸にも重要な役割を果たすようになった。「コンピューター」と呼ばれた彼女たちの知られざる活躍を、当時の関係者たちの証言から明らかにしていく。

 それで思い出したことが。一昔前、パピルスや羊皮紙の断片が発見されたら、たちどころにそれが聖書のどの箇所かを判定できる修道士や司祭がいて、という話があった。日本だと稗田阿礼といったところか。

【追伸】2/26朝、上記で書いた映画「ドリーム」の主人公の黒人数学者の死亡がニュースで流れた。

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