投稿者: k.toyota

先達の足跡:(2) 水川温二

 エウセビオスの叙述について、戦前に以下のものがある。私的には、エウセビオスに対し温かい視線で、中庸を保ち落ち着いた論調で読ませる内容、と感じている(但し、註記によるとNPNF版(1890)の英訳に依拠)。とまれ、これまでエウセビオス関係の個別論文で私が見つけえた我が国最古のものである(それ以前に『教会史』の翻訳、鑓田研一訳『ユウセビウス信仰史』前後篇[賀川豊彦監修『信仰古典叢書』]、警醒社書店、1925年、が出版されてはいるが)。

 水川温二「教会史家ユウゼビウスの『コンスタンティヌス大帝伝』執筆の動機に就いて」京都帝國大學文学部西洋史研究室編『西洋史説苑:時野谷先生獻呈論文集』第1輯、目黒書店、1941年。

 しかし、戦後の研究者で彼のこの文献を引用する人を私はこれまで知らない。後述の弓削氏も引いていないと記憶する。

 ウェブで調べてみると、第八高等学校教授から名古屋大学文学部史学科教授になった人らしい(生没年不明:名古屋大学には彼の情報があるはずだ)。京都大学から1962年2月13日付けで学位が授与されている。ちなみに論題は『ローマの平和とキリスト教との接觸面に関する一考察』。知ることできた論文は以下で列挙しておくが、なんと『警友あいち』71号、1955年にも「イェズス・キリストの刑死」を書いていて(古書店から入手予定)、この表記の癖からひょっとしたらカトリック系だったのかもしれない(聖書の『共同訳』までカトリックは「イエズス」表記だった)。

「ユダス・マカベウスの叛乱」『史林』18-2、1933年

「セバステに於て殉教せる四十人の軍人に対する崇敬の歴史」『史林』23-1、1938年

「キリスト教迫害と父祖の道(MOS MAJORUM)」『名古屋大学文学部研究論集』2、1952年

「福音史家聖ルカの史観について:ユデア人の納税とイエズスの宗教運動」『名古屋大学文学部研究論集』5、1953

「ローマの支配を諷示する新約聖書の語について」『名古屋大学文学部研究論集』8、1954

「エフェゾ書に関する一考察」『名古屋大学文学部研究論集』14、1956

「小ブリニウスのビティニア総督としての使命について」『名古屋大学文学部研究論集』17、1957

「平和(PAX)と協調(CONCORDEA):キリスト教に於けるローマ的伝統に関する考察」『名古屋大学文学部十周年記念論集』1958年 

 このほかにも、子供向けの古代ギリシアの読み物もあるようだし、長谷川博隆氏が「カエサルの寛恕(clementia Caesaris)」『名古屋大学文学部研究論集』110、1991年、p.97で、「先師」と最大級?の敬意を表して、「ユリウス・カエサルの寛容とキケロ:ローマ帝政初期の仁政思想研究への序説」同『論集』32、 1964年;「カエサルの寛容とその帝国政策」同『論集』41、1966年、を引用されている。このように、きっと他にも業績があるに違いない。ご存知寄りの方からの情報がほしいところである。

 この時期のキリスト教迫害史研究の第1世代には、近山金次(1907-1975:慶應義塾大)、半田元夫(1915-1977:東京帝大)、秀村欣二(1912-1997:東京帝大)らがいる。こうした先達・先師の諸業績、忘れないようにしたいものである。

 エウセビオス研究については、彼の後は、25歳で以下を公表した弓削達(1924-2006:東京商科大)氏の破竹の独壇場となる。但し、『教会史』より『コンスタンティヌス大帝伝』のほうに重心がかかっていたが。

「ヘレニズム期アレクサンドリアにおける文獻考證學の性格について:基督教歴史學成立史研究の一部(その序)」『青山経済論集』1-1、1949年、pp.81-98.

 参考までに付言しておく。その後以下が出るが、これでこのテーマは終わってしまい、続稿は出なかった。

 「最近に於けるホメーロス研究の一傾向:『統一性の牧者』によるアレクサンドリア批判学者の断罪」『史学雑誌』60-7, 1951, pp.50-66.

【追補】ウェブで『名古屋大学文学部研究論集』の以下のリストを見つけた。http://www.nul.nagoya-u.ac.jp/let/publications-contents/1951-2017_publications_contents.pdf

 その44、1967年の巻頭に水川氏の「略歴・主要論文」がみえた。彼の退官がその前年だったのだろう。そして泰斗・長谷川氏の論考が見え始めるのは65、1975年からである。こうした一覧表を眺めていると、著名な研究者の意外な経歴とか、すでに鬼籍に入られた存じ上げのお名前が散見されて、意想外に懐かしく楽しい。そういえば、以下のようないい導きの本もあった。土肥恒之『西洋史学の先駆者たち』中公叢書、2012年。これには、明治から敗戦までの私関係の広島大学、上智大学関係者も登場していて、よくぞ言及して下さったとその目配りに敬服したものである。

【追記1】日本における初期キリスト教史は、キリスト教神学から派生してきたといっていい。その嚆矢は、波多野精一(1877-1950:京都帝大)で、その弟子に東京帝大史学科から哲学科に転じた石原謙(1882-1976)や、京都帝大での後継者に有賀鐵太郞(1899-1977:同志社大)もいた。その後、史学からの人材が出てくるわけであるが、上記以外にも、キリスト教信者ばかりの中で、浄土真宗僧侶という異色の井上智勇(1906-1984:京都帝大)にも『初期キリスト教とローマ帝国』(1973)がある(レベル的にはそう高くないが)。後期ローマ帝国史を切り拓いた長友栄三郎(1911-?:慶應義塾大)も忘れてはならない。その第2世代に前出の弓削の他、その友人のマルキスト土井正興(1924-1993:東京帝大)が、1966年に書いた『イエス・キリスト』も忘れがたい。そして新田一郎(1932-2007:熊本大・京大院)もいた。それにしても、新田氏の没年は南川高志教授に問い聞きしてのことで、長友氏同様、ウェブ検索でヒットしないという、お寒い現実もある。翻って、冒頭の翻訳者鑓田研一については、十分な情報が書き込まれていた。賀川豊彦に師事し、ちなみに生没年は、1892-1969。

 話は変わるが、最近女性研究者が増えたせいか、奥付著者紹介に生年が記載されないことが多くなっていて、研究世代確認には不便なことだ。出版社の自主規制と想像しているが、こういう誤った女権はやめてほしいと思う。

【追記2】『警友あいち』71号、1955年が届いた。それによると、その冒頭で水川温二は旧制高等学校の生徒だった時、キリスト教の洗礼を受けたと書いているが、それ以上のことは分からなかった。

【追記3】エウセビオス研究としては、迂闊にもこれまで射程に入ってこなかったものに、石本東生氏の以下がある。

「エウセビオスの『教会史』における自然環境」『奈良大地理』8, 2002, pp.1-11;「エウセビオスの『教会史』における宗教的環境とその特徴」『明治学院大学キリスト教研究所紀要』35, 2002, pp.123-185;「エウセビオスの『教会史』に見る歴史観と環境観:コンスタンティノス1世を通しての一考察」『國學院雑誌』103-4, 2002, pp.17-29;「«Ουράνιες δυνάμεις» και «Φώς» στα Τρία Τελευταία Βιβλία της Εκκλησιαστικής Ιστορίας τον Ευσεβίου Καισαρείας:エウセビオスの『教会史』における《天の諸力》と《光》の意味」『プロピレア』(日本ギリシア語ギリシア文学会:広島大学)15, 2003, pp.1-14;「ヨセフスとエウセビオスの環境観と歴史観の相違:『ユダヤ戦記』と『教会史』における一比較研究」『明治学院大学キリスト教研究所紀要』36, 2004, pp.75-144 . なお、同著者の以下は残念ながら未入手。「エウセビオスとフィロストルギオス:『教会史』における環境観の相違」『エーゲ海学会誌』15, 2001, pp.84-99. この一連の論文はおそらく後述の学位論文からの抜粋と思われる。『エウセビオス(カイザリア)の『教会史』(Ⅷ巻からⅩ巻)における自然・人間的・宗教的環境』(アテネ大学博士論文,ギリシャ語,単著)1999年11月。ちなみに2004年以降は観光学の分野に研究対象を移動されたようである。

ここで一言蕪辞を述べるとすれば、エウセビオスには『オノマスティコン』というパレスティナの地誌をまとめた一書がある。氏のような関心であれば、それを射程に入れて扱うのが常道と思われるのだが。

【追記4】2019/11/05に、なんと水川氏のお孫さんの淳さんからメールをいただいた。それで以下、付加訂正しておく。まずお名前だが「みずかわ」と読む(以下、敬称略)。

 温二は、岡山出身の水川復太の次男として、明治36年10月4日に生まれた。父・復太は、明治28年東京帝国大学法学部卒業生の一人で、「二八会」(https://ja.wikipedia.org/wiki/二八会)というその後の著名人が並ぶ同窓会の一員だったり、岡山県人会の学生会館である「精義塾(http://www.seigijuku.org/history.php)」の創始者でもあった。

 温二は、前述のごとく学生時代にカトリックの洗礼を受けていて(奥さまも息子さんも洗礼を受けていた由)、昭和41年頃名古屋大学を退官、昭和43年10月19日に亡くなられ、名古屋市天白区八事の墓地に十字架が刻んである墓に眠っておられるとのこと。わざわざ情報をお寄せいただいたお孫さんの水川淳氏には、深く感謝したい。

 戦前はもとより戦後の初期キリスト教史研究でもプロテスタント史家が主流であった中で、文面からそれとはひと味違うニュアンスを感じていた私の直感は、今回は当たっていたようだ。

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ペルペトゥア・メモ(1):鞭打ちと磔刑

VI.3:滅多にないことだが、他で読んでいる文献から関連記事がみつかった。フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ戦記』II.9.308:翻訳第一分冊、p.325。

   その日フルロスはかつて誰もしたことのない大胆な所業、つまり、騎士階級に属する者たちを審判の座の前で鞭打ちし、十字架に釘打ちするという所業をやってのけたからである。たとえ生まれがユダヤ人だったとしても、少なくともローマ人としての地位のある者たちをである。

 ヨセフスは、ここでのユダヤ総督フロルスGessius Florus (在職64-66年)を第一次ユダヤ戦争勃発を目論んだ張本人として描いている。

http://jewishencyclopedia.com/articles/12376-procurators

 その140年後、場所は北アフリカで、ペルペトゥアの父はアフリカ総督代理のHilarianusによって鞭打たれている。この総督代理の臨時職は、正規のアフリカ執政官格属州総督proconsul(アシア州と同格で元老院選出属州総督の筆頭ランク)のMinucius Timinianus(ギリシア語訳での表記のほうがより正しいとされているが、さてどうだろうか:「Mινουκίου Ὀππιανοῦ」= Oppianus ≒ Opimianus = PIR5 M 622,1983:ca.186 consul)の在任中の死亡によるもので、北アフリカのいずこか(おそらく州都カルタゴ周辺)の皇帝直轄所領の財務管理官procuratorだったヒラリアヌスは、後継の正規の総督が派遣されるまでのつなぎだったと思われる。こういった財務管理官の出自は、身分的には元老院身分に次ぐ騎士身分にランクされてはいても、おおよそ皇帝の宮廷における私的雇用人(奴隷、解放奴隷)であったから、姓名表記もここでのように個人名のみとなることが多い(ローマ市民が2つの姓名で表示される場合は、個人名・家系名で、今の場合、ミヌキウス・ティミニアヌスは、ca.123のアフリカ総督のT.Salvius Rufinus Minicius Opimianus,[PIR5 M623]が祖先と考えられるので、Minucius Opimianusと修正されているが、さて)。

【追伸】まったく別の話題ですが、磔刑つながりで。以前学生向けの論文集に磔刑がらみの事を書いた(「ローマ時代の落書きが語る人間模様」『歴史家の散歩道』上智大学出版、2008)。そこで十字架刑を体験した唯一の出土物を紹介したことがあったが、二番目ないし三番目の例として2000年前のイタリア出土の骨が2018年に公表されていた。いずれ再検討したいテーマであるが、なにせ先のない身なので、ここに明記しておきます。志ある人を求めています。https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/05/extremely-rare-evidence-of-roman.html#EKZb2MUx2dCPG5RE.97

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なぜ幕末・維新?:飛耳長目(5)

 いつごろからか、なんでNHK大河ドラマで幕末・維新がよく採りあげられるのか、と疑問に思うようになった。最近だと、言うまでもなく2018年度の「最後うどん」、もとえ「西郷どん」だろう。なんだかなという思いがどこかにあったのだろう、全然みることないうちに終わってくれた。代わりといってはなんだが、朝ドラの「まんぷく」のほうは妻が必ず見て出勤していたので(私はなぜか福子役のデレ〜とした印象が感覚的に好きでないので、朝から見るのはちょっと勘弁なのだが:桃井Kも駄目です、はい)、かなりつきあわされて見せられた気がするのだが、この間ググってみたら主人公の百福氏は台湾人だったことを初めて知った。朝ドラの中ではそれ言ってたっけ。特高の拷問、GHQの逮捕のウラにはもっと複雑ななにかしらのワケがあったはずだ。すべてに寛容なわが妻は「だってどうせ、ドラマでしょ」の一言ですましてしまうが、それでいいのか。たぶん台湾関係者はこの表面的流れに不満なんじゃないかなと、引っかかるのである。

 で、幕末・維新の話に返るが、結局、現在の日本の体制を造り上げたという認識の反芻なのであろう。問題は、肝腎の「影」(暗黒面)の部分は伏せて、もっぱら光だけにスポットライトを当てての、成功物語として仕立てた国策・国民教育なんじゃないか、だから繰り返し演じられるわけじゃないかな、と。さすが国営放送、というわけだ。教科書叙述だって表面的ですましているし(ま、庶民大衆がこういった成功物語を好むという側面も無視できないが。忠臣蔵明治版か)。

 最近ひょんなことで拝読した講演録(磯浦康二「昭和初期は特異な時代だった:日本であって日本でなかった時代」神田雑学大学定例講座No.464 平成21年7月10日)に触発されて、2冊の本に興味を持った。そのひとつ、大学図書館で借りて読んだのが、金子仁洋『政官攻防史』文春新書027、H.11年、である。出版されて20年経っているが、新書だけに(ここ皮肉です)初版本なのに新刊書の新しさで、学生さんにまったく読まれていないこと歴然であるが、明治以降のどろどろの日本の政界・官界の癒着が歯切れよく書かれていた。明治の元勲たちの実像を改めて知って、「どいつもこいつも」といささか辟易ぎみである。

 もう一つは、『統帥綱領・統帥参考』(昭和3年・7年)。これがわが大学図書館にはない。司馬遼太郎『この国のかたち』が口を極めて痛罵しているのだそうだ。「日本の古本屋」には、肝腎の箇所を抹消している田中書店版(1983年)しか出物がなかったが、幸いアマゾンで忠実な復刻の偕行社版(1962年)を見つけることできたので、若干高価だったが勢いで購入することにした。いずれわが図書館に寄贈しようと思う。この本を検索していたら、ウェブで東大法学部出身の弁護士さんの解説に出会った。司馬は小説家なので、こういう専門家的な言説があるのはありがたい(司馬の転写ミスがさっそく指摘されている)。いずれ比較検討する機会を持ちたいものだ。http://donttreadonme.blog.jp/archives/1000685083.html

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『ペルペトゥア殉教伝』読書会参加者募集中!

 2019年度春季の上智大学公開学習センターで以下を開講予定で、現在募集中です。10名の受講者があれば開催されますが、苦戦中です。これが本当に最後かな。連絡先は、03−3238−3552。

 「女性史からみたキリスト教殉教:『ペルペトゥア殉教者伝』をめぐって」

 水曜日 午後7時10分〜8時40分

 開催日:4/24、5/15、5/22、6/5、6/12、6/26、7/3、7/10 の8回

 ジョイス・E・ソールズベリ『ペルペトゥアの殉教:ローマ帝国に生きた若き女性の死とその記憶』白水社、2018年、¥5200+税

【後記】締め切り日までの申込み人数2名につき、開催不能となりました。別途、読書会を開催しますので、そちらにご連絡ください。

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我孫子街歩き

 3/8、我孫子の街歩き「その1」をしました。参加者は読書会メンバーのうち8名。  
 晴天に恵まれ、ときどき風が強かったですが、太陽は暖かく、空気は清明で、街歩きにはいいコンディションでした。日頃の運動不足を解消せんものと頑張りました。  
 我孫子駅南口を出発点に、手賀沼北岸の「はけの道」(丘陵がもとの沼に落ち込んでいる山麓沿い)をたどって、杉村楚人冠記念館、志賀直哉邸跡(我孫子が白樺派の拠点だとは知りませんでした)、旧村川(堅固・健太郎)別荘、と歩き、昼食は2時間ゆったりとイタリア・トラットリア「ジュリエッタ」で過ごしました。すでに田起こしされた水田を沼の手前にみながら、なにもかも美味しかったのですが、地元産の季節の野菜の新鮮さを満喫しました。  

 そこから丘の上に登り、前方後円墳、高野山桃山公園、鳥の博物館を見学して、水の館の道の駅で買い物をし(私は菜の花と、関東では珍しい丸もちを購入)、手賀沼公園を抜けて帰着。水鳥もいっぱいいましたね。  
 諸所で地元のメンバーの解説を聞きながら、梅や椿や早咲きの「河津桜」を愛でながらの半日でした。これからはまず桜並木、そして藤の花もきれいなのだそうです。  
 個人的には、新しく立派で個性的な住宅をそこかしこで拝見できたことも、住宅街で多くの小学生に遭遇したことも、思わぬ収穫でした。さて、30年後はどうなっているのでしょう。  
 私のケータイの万歩計では、なんと2万2千歩弱となってまして、さて足腰大丈夫かなと(実際に疲れが出るのは中二日後でしょうが)、少々心配です。  

 これでも手賀沼界隈の半分の行程だったとか。今度は桜か藤の時期にお願いしたいものと念じております。
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達磨になった私:痴呆への一里塚(5)

 今日もほとんど歩かなかった。

 これでいいわけはないが、歩くのがおっくうな現実がある。パソコン依存症とでもいうか、パソコンの前に座らないと何も進まない。ま、座りっぱなしで、じゃあ能率上がってますか、といわれると、そんなこともないので返答に困るが。

 「まるで、だるまさん」と君がいったから、3月3日はダイエット記念日

 面白い事に気付いた。椅子に座ったままうとうとすることが日に1、2回はあるのだが、さてあれは何年前のことだったか、うとうとしていて食卓の椅子から床に昏倒していた時期があった。こりゃいづれ家具に頭をぶつけて下手したら、と思っていたのだが、どういう加減か、いつのまにか昏倒しなくなった私がいる。さて、これは喜んでいいのか、どうか。

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ピュイ・デュ・フー:もうひとつのフランス革命論:飛耳長目(4)

 またまた偶然だが、BS4Kで、「体感世界最大級のスペクタクル劇」の再放送をみた。フランスの西端でナントに近いPuy du Fouでのテーマ・パークの紹介で、フランスではディズニーランド以上に好評を博している由。ヨーロッパの歴史を再現するという触れ込みで、古代ローマの戦車競技の再現など、見所が多いようで、全部見るなら3日間は必要らしい。

 実は、それ以上に私の興味を引いたのは、多数の地元民ボランティア出演による1793年の「ヴァンデ戦争」再現劇のほうだった。フランス革命で宗教弾圧に反対して決起した民衆・農民の反乱に対して、革命政府軍が無差別殺戮をした。革命とは、いわれているほど理想的でも立派なことでもない、という当たり前のことを堂々とイベントにして、自説を主張する心意気に感じるものがあったからである。

 かつて「フランス革命」を理想化する言説が世の中に溢れていた昭和30年代に高校世界史を学んだ私は、わが名物教師(故)西尾先生が「今でも革命記念日にブルボン王家の白百合旗を掲げるフランス人がいるんだ、そもそも三色旗だって白が真ん中にちゃんとあるでしょ」と時流と相容れない、刺激的な情報をさりげなく告げられたことがあって、ある意味強引に、世の中を相対的に見ることの大切さを学んだ気がする。本当にそうなのか、確かめてみたい、これが私の道を決めたと今でもそう思っている。

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カトリックの、悲惨な現実を直視しよう

 昨日送られてきた「世界キリスト教情報」は、聖職者の性のオンパレードでして (^^ゞ  本当に根深い問題で。以前にも欧米でのこの類いの情報で溢れていた時がありました。私はこの類いは話半分と捉えることにしておりますが、それにしても多い。ちょっと前には修道女への男子聖職者のちょっかいも出てきてました。キリスト教研究はこの現実から出発すべきだと思うのですが、どなたもそうせず、臭いものには蓋をしてヴァーチャル世界で遊んでいらっしゃるようにしか思えません。それでいいのか。
 光と闇の間にみえ隠れする虚実の解明こそ、歴史学の醍醐味だと思います。
 今週の情報の中での割合を確認していただくために「目次」も載せておきます。

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(c)世界キリスト教情報  連絡先:ckoriyama@gmail.com         
(ご連絡の際は「@」を半角にしてください)
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(週刊)  2019年2月18日(月)  第1465信 
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= 目 次 =  
▼「バチカン聖職者の8割は同性愛者」=仏社会学者が新著  
▼性的虐待疑惑で米マカリック名誉大司教の聖職剥奪=バチカン発表  
▼性的虐待疑いの聖職者189人公開=米ニュージャージー州5カトリック教区  
▼バチカン大使に性的暴行疑惑、フランス検察が捜査  
▼教皇、ベネズエラのマドゥロ大統領に書簡=条件付きで仲裁も  
▼ペンス米副大統領がアウシュビッツを訪問  
▼台湾基督長老教会牧師・高俊明さん死去 
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◎「バチカン聖職者の8割は同性愛者」=仏社会学者が新著  
 【CJC】バチカン(ローマ教皇庁)の聖職者層に同性愛が広がっており、このことが「あらゆる側面から教会をゆがめている」、と論じる新刊書が2月20日、欧米など各国で発売される。  
 フランス人のジャーナリストで社会学者フレデリック・マルテル氏が新著『バチカンのクローゼットで』(仮訳)のため、4年がかりで1500人への聞き取り調査を実施した。枢機卿41人、司教・モンシニョール(高位聖職者)52人、大使・使節45人も含まれる。  
 調査の結果、バチカンの聖職者の8割は同性愛者と判断した。  
 マルテル氏はAFP通信に、「バチカンのほとんどが同性愛者だという事実を取り巻いている秘密主義の文化」は、教会が過去50年間に取ってきた「道徳上の立場」の大部分を読み解くカギであるとともに、「教会をあらゆる側面からゆがめている原因」だと指摘する。「教皇フランシスコは教会の中心にうそ、二重生活、偽善があるようになってしまったと言ったが、私はどうしてそうなったのか解明しようと試みた」と説明、また、こうした教会の体質が、家族計画への反対から児童虐待まで「重大な結果を招いている」との見解を示した。  
 聖職者による性的虐待と隠ぺい問題への対応を協議するため、教皇が全世界の司教協議会会長を招集する会議が、21日から24日まで、バチカンで開かれる。  
 マルテル氏の新著は、会議直前の20日、英語など8言語版が20カ国で出版される。

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◎性的虐待疑惑で米マカリック名誉大司教の聖職剥奪=バチカン発表  
 【CJC】バチカン(ローマ教皇庁)は2月16日、教皇フランシスコが、性的虐待疑惑を持たれていた米国人のセオドア・マカリック米ワシントン名誉大司教(88)の聖職を剥奪した、と発表した。AFP=時事通信が報じた。  
 マカリック氏は2018年7月、聖職者としての活動を禁止され、バチカンの枢機卿会を辞任。今年1月にバチカンの法廷で10代の未成年への性的虐待の罪により有罪とされ、2月には教皇もその判決を認めた。  
 マカリック氏は「職権を濫用し、未成年および成人と第6戒(姦淫してはならない)を破る罪」を犯したという。同氏は現在、米カンザス州に居住している。 

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◎性的虐待疑いの聖職者189人公開=米ニュージャージー州5カトリック教区  
 【CJC】米ニュージャージー州内の5カトリック教区は2月13日、少年少女らに性的虐待を加えた疑いのある元聖職者のリストを一斉に公開した。  
 現地邦字紙『デイリー・サン』によると、同州内にある全5教区がそれぞれのリストを公開、合計で189人に上ったている。司祭とこれに次ぐ助祭の名前、出生年と執務に当たった教会名の他、告発の数が複数あったかどうかを一覧できる。リスト内の全員が教会執務を退いているか、既に死亡している。  
 5教区のうち最多の63人の聖職者を公開したのは、州最大の都市にあるニューアーク教区。ジョセフ・トービン枢機卿は「この開示が、人生を深く傷つけられた人を癒す一助になればと心から願う」との声明を発表。「カトリック教会の運営への信頼を取り戻す1歩になってほしい」と述べた。  
 他の4教区のリストに記載された聖職者は、カムデン教区57人。州都トレントンの教区30人、パターソン教区28人、メアチェン教区11人。  
 ガーバー・グレウォル司法長官はリスト公開を「全容解明につながる第1歩」として歓迎。刑事処分も視野に、捜査の結論を出す意向を明かした。

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◎バチカン大使に性的暴行疑惑、フランス検察が捜査  
 【CJC】フランス検察当局は2月15日、バチカン(ローマ教皇庁)の駐仏大使ルイジ・ベントゥーラ大司教(74)による性的暴行疑惑を捜査していることを明らかにした。AFP通信が報じた。  
 ベントゥーラ大司教は1月17日、パリのアンヌ・イダルゴ市長が市庁舎で外交官や宗教指導者、市民団体関係者らに対し行った新年の挨拶の場で、男性職員に対し痴漢行為に及んだ疑いが持たれている。  
 カトリック紙『ラクロワ』は15日、教会に関係する他の若い男性らもベントゥーラ大司教から体を触られたと証言したことを伝えた。  
 同大司教は、2009年から駐仏教皇大使を務め、外交特権で保護されている。

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【追伸1】別件で過去のメールを探していたら、ついみつけてしまったので、転載します。2/11配信?
[SKJ]■世界キリスト教情報■第1464信より

◎聖職者が今も修道女を「性奴隷」のように扱う可能性  
 【CJC】教皇フランシスコが2月5日、聖職者が修道女を「性奴隷」のように扱い、それが今も続いている可能性があると公に認めた。  
 修道女の性奴隷問題は、バチカン(ローマ教皇庁)の月刊誌『女性・教会・ 世界』が取り上げた。同誌のルチェッタ・スカラフィア編集長は6日、AFP 通信の取材に、「教皇だけではなく、教会が組織的に、そのような虐待が起きていることを公に認めたのはこれが初めてで、非常に重要な意味を持つ」と語った。  
 バチカンは5日、教皇は「性奴隷」という言葉を使ったが、これは「一種の権力を乱用した操り行為で、性的虐待も含まれる」という意味だったと説明している。  
 一方、教皇は、教会は「聖職者数人を停職にしており」、バチカンはこの問題について「長期にわたり取り組んでいる」「(虐待は)自然に消えてしまうような問題ではなく、現在も進行中だ」と語った。  
 教皇の発言は、『女性・教会・世界』が1月末、修道女に対するレイプについて異例の抗議を掲載したのを受けたもの。レイプの被害を受けた修道女らは、人工妊娠中絶をするか、さもなければ父親である聖職者が認めようとはしない子どもの養育を強要させられているように感じているという。  
 スカラフィア編集長は、「多数がバチカンに訴えているが、調査はされていない」として「調査委員会が設置され、この問題を専門とする修道女も調査に加わることを期待している」と述べた。  
 聖職者による修道女の虐待は世界的な問題となっているが、特にアフリカ、アジア、中南米でまん延しているという。  
 聖職者は、修道女の務めや給与などすべてを管理しており、「教会内における修道女の従属的な地位に根差した問題で、解決は非常に難しい。修道女は平等な存在だとは認められていない」とスカラフィア編集長は言う。  
 教皇が問題を認めたこと自体は「教会のイメージにとってさらなる打撃となるが、変化が起きていることを示す絶好のチャンスでもある」とスカラフィア氏。問題解決の鍵は、「聖職者が権力者のように振る舞うのをやめさせることだ。そのような振る舞いがこの問題を引き起こしているのだから」と語った。h

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【追伸2】BBC News 2019年2月26日

ヴァチカン高官、児童への性的暴行で有罪評決 これまでで最高位今度はオーストラリアの枢機卿で、バチカンNo.3。 http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15481

【追伸3】以下は某美術史研究者の女性に宛てたメールである。

 私よりちょっとだけ若い男性の著名な西洋中世史研究者が、「最近の女性研究者ってキリスト教をありがたがってあがめるばっかりで、いつまでそのレベルなんだろうか、それでいいはずないのに」と私にまくし立てたことありました。私は全く同感で、「ま、キリスト教の実態を知らない人が観念論で知ってるつもりで言っているのでしょうが」と返事したのですが、よく考えたら信者でも、男性でも、研究者ってそういう人ばっかりなので、なんのため歴史学やっているのか疑問に思うことあります。まあ綺麗な世界を妄想して、それで自分も綺麗だと誤解したいのかな。  
 そこで目覚めてしまった者は、学界の継子にならざるを得ません。  
 その上、美術史という分野はパトロンとかの上流階級の取り澄ました世界ですから(私は、どんなに屁理屈捏ねても、そこに庶民が入り込む余地などなかった、今もないだろ、と断じてます)、ますます臭いものには蓋、となるでしょう。  
 しかしそういう視角を頭の隅に置いておくと、色んなところでひと味違った見方(叙述)ができるのでは、と信じております。  
 頑張って下さい。

2019/02/21 カトリック教会の性的虐待スキャンダル、法王はどうする バチカンで会議始まる https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-47315445

2019/02/06 ローマ法王、フランスの司祭が修道女を性奴隷にしていたと認める
https://www.bbc.com/japanese/47140076
【追伸4】2019年4月8日付けの[SKJ]■世界キリスト教情報■第1472信に以下の記事が掲載されている。
 「聖職者の性的虐待、日本カトリック司教協議会も調査へ」
 それによると、そのきっかけとなったのは、児童養護施設のサレジオ学園でドイツ人神父から性的虐待を受けていた62歳の男性からの告発。その後の司教へのアンケートでは5件の被害申告が把握された。日本カトリック司教協議会会長の高見三明・長崎大司教は、カトリック教会の不十分な対応を謝罪した。

【追伸5】2019/7/15付けに、以下の記事が。
 バチカンが性的暴行の容疑巡り駐仏大使の特権放棄  
  【CJC】バチカン(ローマ教皇庁)は、駐フランス大使が、会合で応対したパリ市の男性職員の体を数回なで回したとして性的暴行の容疑でフランス当局の捜査の対象となったことに関し、同大使が逮捕や起訴を免れる外交特権を放棄する、とフランス側に伝えたことが明らかになった。  
 大使は70代の男性でイタリア出身。今年1月、パリのアンヌ・イダルゴ市長の新年賀詞交換会で、30歳前後の国際担当職員の尻などを触ったとされる。職員は上司に報告し、市当局が検察当局に通報した。

【追伸6】『文藝春秋』97-3、2019/3に以下の記事が。広野真嗣「”バチカンの悪夢”」が日本でもあった! カトリック神父『小児性的虐待』を実名告発する」;さらに同時期以下も出た。ダニエル・ピッテ(古川学訳)『神父さま、あなたをゆるします』フリープレス、2019/2。

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偶然も強い意志がもたらす必然である:飛耳長目(3)

 先日、NHKスペシャル「平成史」第5回「“ノーベル賞会社員”~科学技術立国の苦闘~」で、田中耕一氏のノーベル賞受賞以降の苦悩と新境地開拓が放映された。https://news.nicovideo.jp/watch/nw4851000

 標記はそこで彼が言った言葉である。ノーベル賞級の発明発見の半分は偶然に見つけられたということで、それの意味することはこれまでもさまざまに表現されてきた(ルイ・パストゥール「幸運は用意された心のみに宿る」le hasard ne favorise que les esprits préparés)。今風に若干格好つけた表現をするなら「セレンディピティ」Serendipityということになろうか。

 我々のような文系の輸入研究分野(紹介史学)にひきつけてみると、まあ欧米の研究成果の横文字を縦にする世界は、多少の和製のこねくり回しをほどこしたところで、所詮猿まね、縮小再生産で終わってしまうこと必定なのだが、そこでセレンディピティ創出をめざすならどうしたらいいのかと考える時、これはもうひたすら原典史料の読破しかない、と私は思わざるをえない。理系の実験は何万通りの組み合わせを一つ一つ潰していって、しかし多くの場合は実験者の事前想定などいとも簡単に覆して、最初の想定だと失敗のはずの試みから偶然に発見されることがあるわけだが、それと同様の苦闘を、我々はギリシア語・ラテン語の原典との対峙の中でしなければならない、はずなのだ。この営みはオリジナルの成果などいつみつかるかわからないのだが(しかし、体験的に必ず新発見があることも確か、なのである:鶴岡一人曰く「グラウンドにゼニが落ちている」)、それが我々にとっての何万通りの実験なのである。上記放映で若手研究者が「研究者生命をかけ」て命じられた実験に向かっている姿があったが、はたして文系の我々はそれほどの覚悟をもってやっているのだろうか。

 とはいえ、人間相手の人文学は理系と違って実験はなかなか難しい。しかも、「ミネルヴァのふくろうは夕暮れに飛び立つ」(G.W.F.ヘーゲル『法哲学』序文)とはよく言ったもので、すでに終わってしまった人生でようやく初めて見えてくるものがある、と思うのは私だけであろうか。若手にはそれまでなんとか生き延びてもらいたいと思うと同時に、なぜか職を得た途端に研究を止めてしまうあられもない現実を見るにつけ、なんだかなと思わざるを得ない私である。そっから先がまさしく正念場だろうに。

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はたして歴史的「事実」など存在するのか

 昔も読んだはずだったが忘れ果てていて、最近また読み直していてこんな文章に出会った。

  「私が学部生だった頃、歴史学の教授たちは、客観的な歴史は存在しない、と教えた。フォン・ランケ(Von Ranke)は死んだ。ランケの研究法もまた過去のものとなった。「起こった事をその通りに」見出す方法はない。歴史家たちは彼等自身の目的のために、彼等自身の偏見と立場から記述した。客観性を装っている者によって騙されるよりも、臆面もなく偏向している歴史家を読む方がましである、と教授たちはいった。」(モーリーン・A.ティリー「第39章 ペルペトゥアとフェリシティの受難」『聖典の探索へ:フェミニスト聖書注解』日本キリスト教団出版局、2002[原著1994]、p.621)。

 これでようやく納得したことがある。フェミニズムないしジェンダー史学華やかりし頃、学位を取って売り出し中のアメリカ系女性研究者たちの、私見ではやたら主観に走った論述に辟易した記憶があったからだが、彼女らの理解だとアメリカでは当時「臆面もなく偏向」した歴史が推奨されていたらしいことがようやくわかり、腑に落ちるものがあったからである(誤解なきよう付言しておく。これはティリー女史をあげつらってのことではない。私は彼女の論文を若干読んでいて、かねてその視角や論点に親近感をもっていた[もちろん批判点もあるが]。今回ウェブ検索し直してみると、彼女は1948年生まれで私より1歳若く、そして2016年4月に脾臓ガンですでに死亡していた。合掌)。

2013年のTV出演時

 確かに人は「真実」(truth)を追求しがちである。「真実」とは、「事実」(fact)に直観による信念を加えたものである。究極的な「事実」は一つでも、「真実」は主観的で人の数だけある。なるほど世間にはもっともらしく「客観性を装っている」研究があふれていることも確かである。しかしだからといって私は「事実」追求の矛先を緩めていいとは思わない。いわんや「臆面もなく偏向」していていいわけはない、はずである。それはむしろ歴史小説のジャンルだろう。しかし、歴史研究者にはほとんどの場合、歴史小説を書く文才はない。

 ただ客観的「事実」といえども唯一ではない。たとえばA地点で武力衝突が生じても、2、3ブロック離れたB地点は平穏そのものであれば、事件の評価にA地点とB地点の証言で温度差が生じるのは当たり前で、だが史料的にBしか残っていない場合、それが客観的「事実」になっていいはずはないからである。「事実」の認定には諸状況を勘案しての史料批判が必要で、しかしその検証を経たところで絶対的に正しい「事実」と断定できるわけでもない、と歯切れは悪くとも相対的位置づけに留めることは重要であろう。その意味ではじめて、たとえ真摯な研究者の立論といえども「独断と偏見」にすぎない、といえるのである。

【追伸】後付けではなく、歴史の瞬間瞬間には別の選択の可能性があったということを日本現代史で追体験したい向きは、以下をご一読されることをお勧めする(なに、私も教えてもらったのだが)。半藤一利他『大人のための昭和史入門』文春新書、2015年。こういった検証は現代史だから可能だと思わざるをえないが(しかし多くの人はすでにその可能性の存在を忘却している)、平行史料が消え去ってしまった古代史の場合、その存在を意図的に視野に入れて残存史料を相対化することが必要と考える。だが、どれほどの研究者がそれを行っているか、はなはだ疑問である。

【追記】こういう視点もおもしろい、というか本音だろう。「歴史」はどこまで遡るべきか

2020年01月15日):http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/52265903.html

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