投票行為の裏側:「民主主義」なる建て前の内実:飛耳長目(9)

 今回は観光目的であるが、渡伊が目前となって、思いだしたことがある。それは民主主義における有権者の義務(の裏打ち)である。

 今を去る30年も前だっただろうか、ローマでよくお世話になっていたN氏の家にお邪魔したとき「ちょっと、ご一緒にどうですか」と、連れて行かれたのは、ご近所の選挙の投票所だった。そこで彼はやおら小さな身分証明書のような、小学生の夏休みのラジオ体操のハンコ帖みたいな升目がついている、ちょってくたびれた紙状のカードを取り出して、私を残して投票箱のほうに向かった。N氏がその時、「これにハンコを押してもらうと、あとあと色々のとき有効なのです」といわれて、なるほど公務員の採用試験の時なんかにちゃんと投票してますという身分証明になって、それなりに考慮される仕組みがあるらしいことを知った。こういう体験は、博識の専門家はともかくも、あちらで投票権ない一時滞在者には分からない面だったので、貴重だった。

 その時はそれ以上聞くこともなく「これがイタリアの投票行為か」くらいで終わったのだが、あとからふと思いついたことがあった。それは、有資格の市民がちゃんとその責任を果たしての民主主義なのだ、ということだ。そういえば、当時イタリアの投票率は驚くべきことに90%近くもあって(徐々に下がって今や7割あたりのようだが:ただしEU議員選挙の方はもっと低くて5割程度)、どこかの国と比べると格段に高い。あの自己中のイタリア人がどうしてと不思議に思っていたのだが、その裏打ちとして実はかの地は義務投票制だったのである。国によっては罰金なんかの罰則があるようだ。イタリアでは投票しなくても罰則がないのだそうだが、その裏で義務を果たしていることを評価する社会的仕組みがあれば、たしかに投票率は高くなるだろう。またそれ抜きでは、現実に「民主主義」は形骸化するだろう。どこかの国のように。

 それで思い出したのは、古代ギリシアでアテナイなど、投票日には国有奴隷だっけが墨が塗られた綱でアゴラにたむろしている市民どもを投票場に追い立てた、とどこかで読んだ記憶である(古代ローマだと、親分の意向で庇護民が投票するわけだから、これにはいうまでもなく庶民にとって無視できない実利が裏打ちになっている)。我が愛する祖国も、各自治体毎に、たとえば新宿や渋谷でたむろしている若者を追い込めばもちょっと高い投票率になるのだろうが、そんなことしたら保守票が低くなるわけで、まあ現政権にとってはへたに義務を組込まない現状がいいのだろうが。

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