第1485信:2019/7/8
今回の筆頭に「天主教愛国会への参加許可するが強制はしない、とバチカン新指針」との記事がでていた。昨年、バチカンと中国の間で「暫定合意」がなされて以来、混乱が続いている。当然、台湾や香港の高位聖職者からは決定に対して異論が出てきていた。どういう勝算があってバチカンはこのような行動に出たのか、果たして深謀遠慮あってのことなのか、私には未だ判然としない。暫定合意の核心は、中国側がすでに任命していた司教をバチカンが追認することにあった。ところで片手落ちにも、これまでバチカンに忠誠を誓ってきた地下教会やその聖職者に関しての取り決めの有無は今に至るまで明らかにされていない。だが、中国側がこれまでに倍して居丈高に地下教会に対して振る舞うのは当然で、混乱が生じないはずないことは事前に十分に予想されたはずである。それに対して今回バチカンは「良心に照らし合わせて、現状では愛国会に登録することができないと決断した者の選択を理解し、また尊重する。バチカンはこのような決断を下した者に今後も寄り添い、それぞれが試練に直面しているとしても、信仰における信者との交流をお守りするよう主に願う」と記している。同情と理解に満ちた言葉とは裏腹に、これまでの行きがかりを捨て、気持ちを整理して、早く愛国会に合流しなさい、と言っているようにしか思えないのだが。
司教叙任権問題なので、教会法的にみるときこの妥協に正統性があるようには到底思えないが、これが実は、その場その場での状況に合わせてきていた教会法の真の実態であった、と考えればいいだけなのかも知れない。汎用性のある、体制教会にとって都合のいい法文が収集され保存され教会法となり、後世の教会にとって都合の悪いものは意図的に忘却ないし抹殺されてきたというのが、実態だったのだろう(もし再発見されても、地方的決定に過ぎないとか、異端的で誤っている、として葬るわけ)。このダブルスタンダードを研究者は想定して立ち向かわなければ、まんまと制度教会の術中にはまることになるだろう。それにしても、これが266代目教皇フランシスコ下におけるいかなる新機軸になるのだろうか。
こういった視点から3、4世紀の北アフリカのキリスト教分裂を考え直してみると、さてどうなるのだろう。実はあの時の喫緊の課題は、これまで研究者がかかずらわってきている表側の神学的論義にあったのではなく、ローマ教会や有力信者が北アフリカに保有していた所領保全にあった、という見解に私は1票を投じているのだが(それが、前に触れた故M.A.Tilley女史の論文である:Theological Studies, 62-1, 2001, pp.3-22)、その時ローマ教会と大土地所有者側に立って現地で論陣を張ったのが、アウグスティヌスだった。あの時も地元のドナトゥス派のほうが圧倒的に優勢だった。中国でも目下圧倒的に有力なのは地元の天主教愛国会のほうなのだが、ローマのバチカンは今回、現地の誰の後ろ盾になって事態を乗り切ろうというのだろうか。現代の中国に、はたして劣勢を覆すアウグスティヌスがいるとでもいうのだろうか。
【追伸】2019/7/15発信の同情報によると、「カトリック天津教区の石洪禎司教、愛国教会不参加で司教の権利失う?」の記事。
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