マスコミはいつの間にこんなに迎合姿勢になったのか:遅報(32)

 A日新聞の系列でウェブ情報の「論座」というのがある。今回別件をググっていたら、旧聞に属するが、某ノンフィクションライターが書いた「なぜファンは進次郎氏を見捨てたのか」(2019/10/11)がたまたま目にとまった:https://webronza.asahi.com/national/articles/2019100800002.html。かのライターはその中で、人気が急激に凋落した小泉進次郎代議士に関して、「以前から報道関係者たちは、進次郎氏の政治家としての実力に疑問をもっていた」、だが彼は当時女性の人気が高かったので「この層はマジョリティであり、政治家だけではなく、メディアも無視できない。彼女たちが拒否する情報は報道できなかった」、「メディアは読者や視聴者の欲望に応えていく」ものだから、「今現在、小泉進次郎への批判的な報道を求める人が増えているから、そこに向けて、記事を提供している」としている。

 本音を書いているといえばそうなんだろうが、私のような旧人類からすると「なんとまあ、ぬけぬけとお書きになっていることだ」という印象なのである。私は建て前を滔々と述べる姿勢も嫌いだがしかし、かつて報道関係は「社会の木鐸」といわれてきたが(表向き言われているだけで、実態はそんな立派なものではない、という思いもあるが)、これではまるで、ひたすら売らんかなの、大衆迎合的な悪しきポピュリズムの走狗ではないかっ。まさにマスゴミ、語るに落ちた劣化である。

【追記】昨晩読んだ本、田原総一朗『大宰相田中角栄:ロッキード裁判は無罪だった』講談社+α文庫、2016年;初版、2002年)の、「文庫版あとがき」に以下の下りがあった。田中の権力の源泉はカネであることを知っていながら、どの新聞も追究できずにいた。そうしたときに、『文藝春秋』でフリーランスの立花隆と児玉隆也が書いて、田中を失脚させた。「圧倒的な取材力を持ったメディアがフリーのジャーナリストの後塵を拝したことで、新聞もテレビも相当に苛立っていた。苛立ちが極限まで来ていたために、すべてのメディアがロッキード事件では全面的に田中角栄を叩いた。悪の元凶であると、これでもかこれでもかと新聞もテレビも、毎日のように大々的に報道し、田中に十字架砲を浴びせかけた」(p.603-4)。いつものように吠えまくる田原節の炸裂だが、知ってても沈黙していて、ずっと前からメディアは権力の補完にすぎなかったわけだ。古くは戦時中のA日新聞社の大本営べったり報道もあったし。その彼が提唱したアメリカ謀略説を「噴飯もの」「ガセネタ」と一蹴するのが立花『政治と情念:権力・カネ・女』文春文庫、2005年(原著『「田中真紀子」研究』文藝春秋社、2002年)p.370-377)だが、まあなかなかの説得力で、その後、6歳年長の田原は反論も自説撤回もしていない。となると、この二人、場外乱闘もありみたいな。

 とはいえ、圧倒的な優位にあった新聞にすでに昔日の面影なく、テレビもアホなバラエティばっかで、私のような無告の民は文春爆弾や、ネット情報に期待したくなるのである。ま、そこはそこで玉石混交ではあるが。

【追記2】私が納得できる新聞社の落とし穴への論評が出た。「文春砲と新聞社、決定的違いは「ニュース感覚」:業界内の「特ダネ」競争から抜け出せない新聞社の体質」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60744?page=1)。私的にいうと、柳田邦男氏がくり返していた「調査報道」の軽視が新聞凋落のボディブローになったと思う。そういう心意気を持つ記者が少なくなり、それを評価する上長が少なくなり・・・、ということだろうと思う。

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