相も変わらず危機管理だめな我が祖国:飛耳長目(54)

 以下を読んだ。高野孟「安倍首相に「8月24日辞任説」なぜ美しい国、日本がコロナ蔓延国に?」(https://www.mag2.com/p/news/462632?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000001_tue&utm_campaign=mag_9999_0818&trflg=1)。

 今般の件で、「専門家」の提言と、為政者の「決断」の絡みがうまく機能していなかったことは明らかであるが、それと比べて相対的に、「民度」が高く従順な国民はそれなりに賢明に振る舞ったということであろうか。アメリカの色んなパニック映画で、専門家の提言を無視する無能政治家、段取りを無視して英断を下す有能な政治家、学界から追放されていた専門家が突然引き上げられて大活躍、といった「半沢直樹」的図式がよく登場する。そんなこと現実には起こることはないからこそ、ドラマなのだが、その場合、一般大衆はいつも右往左往する無知な群れとして描かれている。我が日本では政治家はもとより一般大衆も、これまでの負の実績で政権に近い専門家を信じることができなくなっているのはいうまでもないが、では誰を信じればいいというのか。選択肢は我にある、と言い切るわけにいかない現実がある。

 それでつい思い出してしまうのは、現在、終戦記念日がらみでいっぱい流されている戦争中の軍人たちの暴挙・無策情報である。彼らは軍事の専門家のはずだった。古くは元大本営参謀堀栄三とか山本七平、それに佐々淳行などが、国難に直面しての「正確な情報」「危機管理」の必要性を口を酸っぱくして言ってきたが、以来20〜50年、国家レベルで何ひとつできていないわけだ。なーなーの仲間意識のなか、目先の党派的利害と希望的観測で突っ走り、正論を厭って排除する。これが我が農耕的国民性の拭い去りがたいサガ、とでもいいたくもなる。とはいえ、完璧な人間などいやしない。上に挙げた3名にしても、「思い込み」とか誤認、さらには自己顕示欲だって否めないだろう。干されておればなおさらだ。そのうえ、上記3名、若干おっちょこちょいのところもあったようだ。そこが難しいところである。

堀栄三(1913-1995年)

 スペイン・フランコ政権が情勢の変化を見ながら英米仏と独伊の狭間を泳ぎ切ったように、日本の開戦決定がもう半年遅れていたら、1941年での国際情勢と異なった判断や結果もあり得た、という意見もあるようだが、果断に決断できるトップとスタッフに人物を得なければ無理なわけで、日本でそれは望むべくもなかったというべきか。しかも、戦争においてすべては結果論にすぎず、誰もプロセスでは多くの間違いを犯しているが、勝てばすべて許されちゃうのも、また問題ではある。

【追記】以下の本を手に入れた。岡部伸『「諜報の神様」と呼ばれた男:連合国が恐れた情報士官・小野寺信の流儀』PHP、2014年。

【追記2】この本も面白いらしい。戸高 一成・大木毅『帝国軍人:公文書、私文書、オーラルヒストリーからみる』角川新書、2020/7/10。

 戦史そのものが当事者たちによって捏造されていた、というお話もあって、身も蓋もない。アマゾン・コムの読者たちの書き込みも熱気を帯びている。

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