天正遣欧少年使節とガラス玉:遅報(67)

 昨日、偶然見たテレビで天正遣欧少年使節の一人千々石ミゲルの墓発掘をやっていたので、ウィキペディアでググってみたら、彼の墓と思しき場所から、ロザリオ(材質ガラス玉)と「欧州産と見られるアルカリガラス板の破片」が出てきたそうです。これを根拠にこれまで転び伴天連とされてきた彼の名誉回復も諮られているようですが、さてどうでしょう。だって出土場所は正確には2番目の妻の墓穴のほうからのようですし。ロザリオにしては琥珀色玉の粒が小さ過ぎるので、私は山勘ですが、単なる南蛮土産の装身具ではと思ってます。

典拠:https://migel-project.jp/

 それを、イタリア在住でガラス研究の私の教え子にメールしたら、逆に、日 本スペイン外交関係樹立150周年記念ドラマ「天正遣欧少年使節 MAGI」(2018)を教えてくれました。これはうれしいことにAmazon Prime Videoでみることできますが (https://www.magi-boys.com)、全部で19話もあるようです(一話40分弱が多い)。私は契約していたので即無料でみることできました。なお、第1話はどなたも試聴できるようです。  

 まだ見ていらっしゃらなければ、意表をついてかなり面白い内容なのでお勧めしたいと思います。 私は第1話からぶっ続けで見終わりましたが、イエズス会のあられもない内紛や露骨な人種差別、日本人やモザンビーク出身の弥助ら黒人奴隷問題、少年たちの心の葛藤を、赤裸々に、いささか誇張気味ではありますが、正面から扱っていて、スコセッシ監督「サイレンス:沈黙」(原作は遠藤周作『沈黙』)なんかより数段いい出来で、思いのほか骨太で奥行きが深く重厚な作りでした。ただし、戦国時代なので冒頭で相当に残酷な場面も出てきて、時代背景的に伏線として必要なんだろうし、さもありなんとは思いつつも・・・。なぜか吉川晃司が信長、緖方直人が秀吉で、それぞれいい味を出していますが、実際の使節派遣の主役は大村純忠ら九州大名たちだったはずなのに、彼らは全然登場してきません。といったわけでまあ史実に基づいたフィクションといっていいですが、むしろその虚構設定で当時の風を我々ももろ感じられるわけです。

 私的には、ポルトガル人のイエズス会士コエリョ(日本準管区の初代の長:1581-1590)の行動に関心をもっています。彼は日本での軍事行動を前のめりで構想していましたが、このドラマではちょっと登場しただけでした。イエズス会としては、秀吉との相性で人をえていなかったというべきか(後述の若桑女史はオルガンティーノであったならと慨嘆している:p.247)。他方でわが日本は、下手をすると268年も前倒しでイスパニアの「黒船来寇」に見舞われていたかも知れなかったわけです。まだ全国統一以前の分裂時代の戦国時代でしたので、植民地化されやすかったから、やばかったことでしょうね。

 このドラマで、宣教師たちが英語で話しているのはちょっと違和感ありました。日本語字幕付きなのでたどたどしい日本語も理解しやすかったのも確かですが、それくらいならスペイン語(コスメ・デ・トルレス)、イタリア語(ヴァリニ ャーノ)、ポルトガル語(カブラル)とかでやってほしかった。現実問題としては、宣教師役の俳優さんたちが英語圏出身者だったからかな。というか、国際同時放映らしいので実際には吹き替えもありなんだろうと思うのですが。

 ひょっとしてこの原作は、若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ:天正少年使節と世界帝国』集英社、2003年、なのかもしれませんが(読み進めていくうちに微妙な味付けが違っている箇所に出会ったので、スペイン系かもしれない)、このとんでもないド迫力女史が(彼女は一流の研究者であると同時に、文字通り女傑でした (^^ゞ)、千葉大学学長に直訴して大学初のサバティカル休暇をもぎ取って、1995年にローマに滞在したとき、ちょうど私もサバティカルで、バチカンがらみで彼女と思わぬ遭遇をしたことを思い出してしまいます。彼女は信長の屏風発見を目論みあれこれ調査・画策してましたが、目的を達成できませんでした。バチカン宮殿の見学路になっている例の「地図の間」に飾られていたというこの屏風はたぶん乾燥の地中海性気候でとっくの昔におしゃかになってしまっているのでしょう(ポルトガルにあった屏風の下張り[野坂昭如『四畳半襖の下張』ではない、悪しからず]から400年前の貴重な文書が発見された件は、以下参照:伊藤玄二郎「『エヴォラ屏風下張り文書』修復記」『星槎大学紀要・共生科学研究』15, 2019, pp.60-73)。残念ですが。

 とまれ彼女がアルメイダからかの著を書き始めているのは慧眼というしかない。実は私もこのユダヤ系ポルトガル人の生き様に別の観点から注目していて、彼を深掘りすることで時代の風に息を吹き込むことできるとにらんでいる。いつかコエリョともども論じることできればと思っている。

1935-2007年:享年71歳

【追記】日本人奴隷の件を論じた増補新版が最近出たようなので紹介。からゆきさんどころではなくて、ポルトガルやメキシコでも足跡がたどれるのだとは、スペイン史の専門家、関哲行氏のお話でかなり以前にお聞きした情報でした。

 届いたので「増補新版 あとがき」を読んだところ。どうやらこの本はポルトガル人研究者ソウザの著書を元に妻の岡女史が手を入れたものらしい。上記あとがきによると、その時省略した部分を3年後に加えての今般の出版なのだが、世情がようやくそれを受け入れる状況になったので、前回割愛したイエズス会関係の部分を含めた由。一種の忖度をも予想させ、魑魅魍魎うごめく学界の闇をなんとなく推察させる筆致である。とまれ、普通に研究の対象になってきたことはいいことである。

【追記2:若桑女史について】彼女は、上記著作中で、自分はキリスト教徒ではないが、中学のときに聖書を学ぶ学校にいて、と幾度も書いていて、信者でなかったにしてはカトリックに対して見事なまでに偏見なくニュートラルな叙述に徹していたので(彼女は一貫して「教皇」と表記している。だったら「免罪符」は「贖宥状」としてほしかったが)、さてどこのミッションなのか、その中学のことを知りたいと思っていたが、それが書いてあるのを最近になってみつけた(https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28398.html)。玉川学園中等部だった。なぜ中学とのみしているのかも分かった。彼女は高等部には一学期だけ所属し、二学期からは都立駒場高校に編入したからである。それには書いてなかったが、ウィキペディアには葬儀場所は世田谷カトリック教会、喪主は長男、とあった。さて、どういう「つて」があったのだろうか。

 ところで若桑『クアトロ・ラガッツィ』で、古代ローマ関係で奇妙な箇所を見つけた。私の手元のものは2004年4月25日発行の第3刷である。

p.103「カトリック教会すなわちローマ教会は古代ローマの皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を国教と定めた三四五年以降、」:こんなこと書いているようでは上智の入試は落第ですよ、みどりさん。第一に、コンスタンティヌスは山川教科書的にもキリスト教を「公認」しただけである。第二に彼は三三七年に死亡している。息子の一人コンスタンティヌス二世にしても弟コンスタンス一世により三四〇年に殺害されている。これ以上跡づける必要はないだろうが、三世の在位は四〇七〜四一一年である。p.336でも、コンスタンティヌスが「国教」にしたと、同様の誤りを書いている。

p.132「キリスト教信者が伝道後数十年にして人口の三〇パーセントをこえる三十万に達したということは、」:この計算では、当時の日本の人口はたった100万人となってしまう。通説の人口1500万人とすれば、2%(以下参照、大橋幸泰「16-19世紀日本におけるキリシタンの受容・禁制・潜伏」『国文学研究資料館紀要 アーカイブズ研究篇』2016年、pp.123-134)。だから女史的には「3パーセント」の誤植か。

 なお、p.339下段に「教皇の秘密の愛人たち(男性形複数名詞)」と意味深に書いている。これは要するに男色のことであるから、ことさらの説明抜きでそう書くくらいなら、宣教師が日本にきて驚いたのが公然とした「男色」だったと最初の方で書いているのはちょっとどうかなと。現在ローマ・カトリック教会を揺るがしている聖職者による児童性的虐待問題は、万事用意周到な彼女の念頭にはなぜかまだ浮かんでいなかったようである。

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