エルコラーノの遺跡に関して、パッカード財団の資金援助で海岸からパピルス荘まで約2,000メートルの調査が計画されているが、その一環で40年前に発掘された約300体の遺体の再調査から、新たな「事実」が明らかになったと、エルコラーノ遺跡管理事務所が2021/5/12に公表した。
それは、往年の浜辺で1980年代の発掘で発見されNo.26と番号が付された遺体が、これまで単に兵士とされてきたのだが、今般の再調査で武具の品質や背中にしょっていた袋の中身との関連から、彼は平の兵士ではなく、被災地に救助に向かった近衛兵praetorianないし高級技術将校ではないかと再評価されたからである。もとより近衛兵がエルコラーノに駐留していたはずはないので、ミセーノの海軍基地から救助に向かった艦隊司令長官・大プリニウスと関連付けて、にわかにクローズアップされることになったわけである。
私的にはかなり強引な仮説と思わざるをえないが、現場責任者のFrancesco Siranoによると、大略以下のようになる。第一に、この遺体は40-45歳の健康な男性で、彼の腰には金銀の板で豪華に装飾された革ベルトがあり、それには貴重な象牙の柄がついた長剣グラドゥスが装着され、反対側には同様に高価な短剣があっただけでなく、死体の横から銀貨12枚、金貨2枚が見つかったが、それは当時の近衛兵の給料に相当する額であった、と。しかし、だからといってローマ皇帝直属の近衛兵が海軍に同行していたというのは、かなり無理があるので、ここは海軍高級将校としておいたほうが無難だと私は思うのだが。
第二に、彼が背中に背負っていた肩掛けバッグの中身はこれまで調査されてなかったが(なんという手抜き!Viva Italia!)、今回の調査で小型の大工道具が入っていた由で(私はそれらしきものを見つけえていないが、ひょっとして上左の写真の手前のもの?)、特殊任務をもって派遣されていた技術将校と想定されている。また彼は小型軍船(現在それは、遺跡公園内の沈船博物館に保存されている)の残骸の近くで発見されてもいた。とはいえこの軍船、漕ぎ手は左右各々3名配置の小規模な艦船なのだが・・・。それに彼が高級将校であったなら、そばに従者や奴隷たちもいたはずで、果たして彼自身が荷物を背負ったりしただろうか・・・。
いずれにせよ、彼も他の300人の避難民と同様にサージで瞬殺されたのであろう(駄弁を弄しておくが、遺跡南端崖下の船舶繋留倉庫で現在一般公開されている遺骸の山は,実はレプリカである)。そして、私には初見の情報で詳しくは未確認だが、1900年にポンペイのポッターロBottaro地区でたいへんよく似た豪華な装備が発掘されている由で、ひょっとしてそれは大プリニウスのそれだったかも、などと私などとうてい納得しがたい大胆な仮説さえ提示なさっているのである。あれれ、彼の死没地はスタビア付近のはずだし、彼の遺骸はそのまま収容されてミセーノへ運ばれたはずなのだが(小プリニウス『書簡集』V.16:死没時56歳)。このあたり、話を盛り上げてしまういかにもイタリア的な大風呂敷に思えるのだが、どうだろう。
それから、大プリニウスは大著『博物誌』で高校世界史の教科書にも登場する著名人であり、その甥で養子となった小プリニウスが元老院議員だったこともあって、叔父(養父)も元老院身分と誤解されやすいが、大プリニウスは艦隊司令長官という職名(騎士身分担当職)が明確に示しているように、生涯、騎士身分での国家奉職であったことを付け加えておこう。
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