死んだら消え去るということ:痴呆への一里塚(49)

 立花隆の死が最近公になった(1940-2021年4月30日:享年80歳:https://digital.asahi.com/articles/ASP6R33CPP6RULBJ001.html)。お父さんは活水女学校の先生だったので、彼もプロテスタントの洗礼を受けていたらしい(https://digital.asahi.com/articles/ASK2K6RQ4K2KTOLB014.html?iref=pc_rellink_03)。それで臨死体験なんかへのある種唐突な視野の広がりも私的には納得できる。

死の2年前の写真らしい

 毎日のようにペーパードリップでコーヒーを入れていて、思い出すことがある。義弟が60台前半で死亡した後、家の整理をしたのだが、当然のこと、それ以降の生活を予想して色々と残っていた物を処理したなかで、未使用のペーパードリップは我が家(といっても広島の実家だが)に持ち帰らせてもらった。

 練馬の我が家にもそういった備蓄はある。通販でまとめて購入しているからまだまだ備蓄十分なのだが、それを一日1枚利用するたびに、実は義弟のことを思いだしてしまう。いつかなくなる、いや果たして使い切るだろうか、いやいややっぱり使い残しが出てしまうのだよな、それが人生、と。

 このところ読書会準備で、昔手がけたキリスト教大迫害関係を復習していて、あれれあの史料どこにいったのかなと、探したのだがまだ見つからない(ま、こんなことはいつものことだが)。それでも出てきた昔のものを引っ張り出していて、否応なく一種の感慨に耽ってしまった。

 論文に書いたことなど氷山の一角にすぎない。海面下に埋もれた膨大な根(寝)知識や、もっと軽く、だけど本音を直截にカルチャーで話したことなど、紙に残していないけど、だけど私の研究がらみで根幹となった肝心な部分は、跡形もなく消えてしまうのだなあ、と。紙に書いたものだって読まれなければ同じことだし、未来永劫というわけでないのは言うまでもないが。

 だからなのか、そのくせなのか、これだけはと思うものについては書き記しておきたい、という気持ちが湧いてくる。実はそれすら妄執だということはわかっているのだが。

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