囚人の落書き?:オスティア謎めぐり(11)

 あれはいつのことだったか、例年恒例になっていた夏のオスティア遺跡調査での現地遺跡管理事務所との打ち合わせの時、たぶん落書き調査で奥山君が加わったせいか、あちら側から「実は、ここは昔監獄になっていて、その時の囚人の落書きも残っている」という話が出た。え、監獄?、囚人の落書き?

 そのときは、あれやこれやの断片情報で、オスティア・アンティカ遺跡に書き込まれた落書きとなんとなく思い込んでいたのだが、偶然目にした断片情報からどうやらそうではなく、オスティア・アンティカ遺跡発掘に投入されていた囚人たちが、遺跡から東に徒歩10分のボルゴ(新オスティアの集落)に併設されていた教皇ユリウス2世が枢機卿時代に創建した砦に収容されていて、そこに落書きを残していたということらしい。時代はまだこの遺跡の所有者がバチカンだった19世紀のこと。ローマ教皇ピウス7世(1800年~1823年)やピウス9世(1846年~1878年)の時代に、古代オスティアの遺跡発掘のために強制労働を強いられた囚人たちの宿舎としてこの砦は使用されていた、ということがわかった(cf.,

https://www.ia-ostiaantica.org/news/il-castello-di-giulio-ii/)。当時バチカンは一丁前に領土国家だったから、罪人も普通にいたわけである(ま、現在でも枢機卿なんかの高位聖職者で裁判沙汰の御仁もいらっしゃるのだから、驚いてはおれません)。そして1915年から1918年にかけての第一次世界大戦中には、ローマ-オスティア間の鉄道工事に使用されたオーストリア・ハンガリー帝国とスラブ人の捕虜が、この城に収容されていたらしい。なので落書き解読はかなりややこしいことになる、はず、だよね。

その一例

【余談】この城にはやっぱり古代ローマ時代以来の伝統的な形態のトイレがあるらしい(とはいえ、木製便座はなんとなく怪しいけど)。

床が、水場用のヘリンボーンとなっているのがもっともらしい
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