広島平和記念資料館はなぜ「原爆」資料館ではないのだろうか:遅報(80)

 皆さんお気づきだろうか。広島人は通称としての「広島原爆資料館」に馴染んでいるので、むしろ盲点となっているのだが、平成14(2002)年に創立された「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」にしても、「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」(平成15年開館)にしても、長崎市立の「長崎原爆資料館」(1956年開館)にしても「原爆」がちゃんと入っているが、実は丹下健三設計のあの資料館の正式名称は「広島平和記念資料館」Hiroshima Peace Memorial Museum なのである。実は、私も気付いていなかった。

 私は当時幼かったので記憶していなかったが、原爆市長として1947年から1967年にかけて不動の広島市長と思っていた濱井信三であるが、実は3期目を目指した1955年に一期4年間落選していた。あまりに理想的な復興計画、それに当時の収入役や市議会議長の収賄逮捕への市民のベトーで、わずか1557票差で保守系の対立候補渡邊忠雄に敗れたのだそうだ。とはいえ、中島町に広島平和記念公園、さらに中心部を貫通する百メートル道路と、現在の街並みの基礎を造っただけでなく、広島平和祭と慰霊祭実施、平和宣言を発表するなど、その功績は大きい。しかし、渡邊も基町アパート群、広島市民球場、広島城復興、広島バスセンター整備など、今に残る施設整備を一期在任中に行っている(その後の選挙は連戦連敗)。

左、濱井信三(1905-1968年);右、渡邊忠雄(1898-1980年)

 「資料館」の前身を調べてみた。以下は、越前俊也「長岡省吾による被爆資料の収集・公開・展示:広島平和記念資料館開館前後の状況について」『人文学』(同志社大学人文学会)、200号、2017,1-67ページ(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006460272/)を参考にした。なお本論文は佐藤裕明氏のご教示により知った。記して謝意を表する。

 昭和24(1949)年9月29日の中国新聞に「眼みはる原爆資料:基町中央公民館に見学客おしかく」の見出しで「原爆参考資料陳列室」開設が報じられた。展示物数700。

 その11か月後、中央公民館に増設された「原爆記念館」の竣工日は1950年8月6日だった。展示物数は倍加したようだ。この時、あくまで中央公民館敷設施設だったが、本館とは別に出入口をもち「原爆記念館」Atomic Bomb Memorial Hallという看板も掲げていた。この様子は、『廣島:戦争と都市』岩波写真文庫72、1952年掲載の写真4枚が残されている。

 そしていよいよ、1955年8月24日の中国新聞朝刊に「きょう開館 平和記念公園内に原爆資料館」の見出しで「去る六日原爆十周年を期してフタあけした広島市中島町平和記念公園内の原爆資料館」という書き出しの記事が掲載された。正式名称は「広島平和記念資料館」のはずのところ、新聞記事でのこの表記は既設「原爆記念館」からの流れで呼び慣わされたせいであろうか。初代館長には最初から一貫して資料収集に尽力してきていた長岡省吾が就任した(館長:1955-1962年)。さて、その「原爆記念館」が付設されていた基町中央公民館の敷地は、広島市民球場建設予定地となり、1957年1月に立ち退き工事が始まったので、諸資料はすべて広島平和記念資料館に移動された(こんなところで旧市民球場が登場するとは思わなかった)。

左、建設途中の資料館;右、長岡省吾(1901-
1973年)

 広島市民も馴染んでいた通称「原爆資料館」がなぜ「原爆」を落とした「広島平和記念資料館」となったのだろうか。上記論文はそれについて触れてはいない。色々な紆余曲折があったものと想像される。構想時と開設時で市長が替わっていたこと(担当は助役だったらしい)、アメリカ占領軍への忖度(原子力の平和利用についても、アメリカからの提供で展示されていた由)、そして一貫して中心的役割を果たしてきていた長岡省吾の意図が奈辺にあったのか、などなど。連想するに、これまでも物議を醸してきた原爆死没者慰霊碑での「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」(広島大学教授の雑賀忠義が濱井市長の依頼を受けて提案、揮毫し、1952年8月6日除幕:http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=18205)の表現とも通底しているような気がするが、考えすぎであろうか。

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