太平洋戦争で、敗色が濃くなった日本で、カトリック教会の男子修道会イエズス会も疎開を開始していて、たとえば広島市観音町あたりに神学校が移動していた、らしい(上長のラサール神父にはイエズス会日本管区の広島移動の構想もあってのことだったらしい)。それ以前すでに1938年に長束に修練院も建立されていて、指導司祭たちと神学生の修練の場となっていた。また中国5県を網羅する広島教区のうち、広島・山口・島根3県はイエズス会神父が担当派遣される教区(当時はたしか代牧区)となっていたので、司教座聖堂の幟町教会もイエズス会神父が数名配置されていた。合計16名の関係イエズス会士のうち、修練長のスペイン人アルペ神父、それに神学生だった朝鮮人2名以外はすべてドイツ人だった。それとは別に、三篠教会併設の修道院には、日本人2人のほか、フランス3人、イタリア2人、アイルランド1人の煉獄援助修道女会のシスターがいたが、被爆後、P.コップ神父とともに長束に移動。これら外国人はすでに2005年までに全員死没している。http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=94336
先般、広島原爆忌にイエズス会神父、とりわけルーメル神父をめぐる話題を広島学院同窓会HPに送付した。
https://suiyukai.com/?p=2269 https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/54465
そのとき掲載し忘れた動画をここに追加しておく。提供は中国新聞社である。2020年の大沢美智子さんのYouTubeを探してみてください。
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?peacemovies=2020-13
ひとつ思いだしたので、余談を。私が20世紀末にローマに一年間いたとき、当時のグレゴリアナ神学大学長だったヨセフ(本当はジョッゼッペ)・ピタウ神父の斡旋で縁あってナヴォーナ広場の西側3階に住んだ。広場に面した4階にドイツ系の老シスターが二人で住んでいたが、渡伊して直後の4月の復活祭の時一席が設けられ懇談する機会があった。産毛なのだろうが髭にみえるほど伸びて魔法使いのような老シスターに、英語で「日本の広島から来た」と自己紹介した私は、「ラザロ神父を知っているか」と問われた。瞬間誰のことかぜんぜん分からず、イエスの時代の死者から復活したラザロではあるまいし、と「ラザロ、ラザロ」と何度も反芻し、ややあってはっと気付いたのが、「ラサール神父」であった。場所が異なれば発音も異なる、なるほどな、と。
彼は1948年に日本人に帰化して「愛宮真備」(えのみや・まきび)と称した。私も幟町教会で幾度か見かけたことがあるが、長身・痩躯・金髪の,回りから抜きん出た存在感で、隠修士的な近寄りがたい威厳が備わっていて(禅修行の導師だったし)、当時の多くの人々を引きつけた理由も理解できる、そんな存在であった。そして、とにもかくにも私にとってのイエズス会士とはドイツ人なのである。
No comment yet, add your voice below!