戦前の「空気」の押さえ方

 テレビのドキュメンタリーは1時間といった限られた時間内で新見解を盛り込むので編集が大変だろうなと想像するのだが、これは落としてほしくないという視点もあって、それ抜きで本日の主題に入っていく例が目立つと、やっぱり説得力に欠けてくる。例えば1930年代当時はようやく25歳以上の成人男性のみに選挙権が認められ出したに過ぎなかったし、政党がどうあれ首相任命は藩閥の取引で天皇勅許によるものだった。そして財閥や地主と庶民の格差は今では想像できないほど隔絶していたので、労働争議も熾烈だった。

 開戦時の様相では、私のようなど素人でもおかしいな、と気になる疑問が幾つもある。陸軍秋丸機関の調査報告の扱いなどその最たるものである。彼我の生産力の違いは歴然としており陸海軍でも常識だったが、だったら戦争やめようということになりそうなものだが、そうはならなくて、ならどうすれば勝てるのかに関心が向いていたのだそうだ。これ、分からんでもない論理の流れだ。石油、石油というのであれば、供給国をアメリカから移す算段とれなかったのだろうか、たとえ南方で油田押さえても海上輸送は万全だったのだろうか、と。

 ここまで書いて、NHK「歴史探偵」で出撃3週間前に航空兵たちが鹿屋の高級料亭翠光園で寛いで宴会している写真を見たのだが、ほとんどが今だと高校生かと思うほどの若者たちなのだ。その彼らが第一線で闘った戦闘要員だったのである。それが軍服や搭乗服を着ての記念撮影になると構えたポーズと相まって大人びて見えるし、映画になるとその時代の看板俳優が当たり前のように主役として登場し、すなわち30代以上のおじさんたちがいいところを演じるので、私はだいぶそのあたりで間違ったイメージをもたされてきた感じがする。所詮、映画は虚構に過ぎないのだが、史実をなぞっているような題材の場合、間違えやすくなるわけである。画像の与える影響は強い。私の出身中高はかつての海軍士官の制服を擬していたので、なんだか同窓会に紛れ込んだような気さえする(ここには写ってないが写真左右にちょっと年長者がいてボタンなしの士官服が見える)。

彼らが下士官航空兵として実際に出撃した(白黒写真をカラー化したもの:番組画面から撮影)

 真珠湾攻撃では総数354機が出撃し、29機55名が帰らなかった。別の番組で4年後の敗戦までに真珠湾に参戦した航空兵の8割が死亡したと言っていた。ぬべなるかな。上記写真には13名写っているが、うち10名は戦死した確率になる。文字通り消耗品だったのだ。

 陸軍省幕僚で、宮城事件首謀者の一人だった畑中健二少佐は、8/15自殺時に33歳だった。

 そしてこれは戦いの相手の米軍においても同様だったはずだ。

 

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