ナパーム弾を浴びた日本占領地と、戦争博物館

 2021/12/12 NHK BS1 スペシャル「空の証言者:ガンカメラが見た太平洋戦争の真実」の内容は、私にとってこれまでまったくの盲点だった。日本の占領地で米軍は容赦ない空襲をおこなっていた。その記録を他ならぬ米軍機に設置されていたガンカメラが撮っていたのである。番組では、当然のこと現地の住民をも襲っていたと表現していた。こういう映像資料が保存され、公開されているのは驚きである(その中に、以前見た海中で発見された沖縄特攻機がらみの映像も出てきていた)。

 中でも、アジアの密林ですでに米軍がナパーム弾を多用していたこと、しかもそれは、ナパーム剤の粉末とナフサを戦地まで別々に輸送し、使用直前に両者を混ぜ合わせ、間に合わせのドラム缶に充填したものなどもあって、火炎放射器もその応用だった、日本本土での敵前上陸に備え、台湾などで空襲実験もしていた、ということには衝撃を受けた。

 ベトナム戦争で多用されたのはその改良型だったわけだが、それの祖型が太平洋戦争で本土のみならず、現地住民を捲き込んで、焼夷弾として投入されていたのである。

 このあと、日をまたいでの深夜、日テレのNNNドキュメント‘21「ふれてください、戦争に、伝えて下さい、未来に」(https://www.fbs.co.jp/journal/highlight/1710.html0)をみた。たった20分の番組だったが、戦時中の庶民の生活資料を収集・展示してきた福岡と群馬・前橋の私設博物館の活動が紹介されていた。それらの大きな特徴は実際に手で触れることができるということだったのだが、後者は主催者が高齢となり市に移管され、しかし展示物に触れることできなくなった。前者は70歳を越えた息子が父と母の遺志を継いでいるものの、さて10年後はどうなるだろう、というわけである。

 それを見ていて思い出したことがある。実物に触れることでの一種の感動である。

 私の広島の実家の2階の屋根裏部屋は、中高校生だった私の探険の場だった。積年の塵ゴミで鼻の穴を真っ黒にしながら、ときどき潜り込んでいた。そこには、昭和6年に家が建って以来の一種の蔵のような場所で、書物書籍書簡のみならず、戦時中のものとおぼしき銃剣術用の木刀や鉄兜、弓矢一式すら出てきたし、ノモンハンで戦死した叔父の軍用行李(中から勲章や遺品や葬儀時のあれこれが出てきた)も、天井の垂木の裏からは敗戦まで客間の鴨居を飾っていて敗戦後隠された長短の槍すら出てきたのである。

 それとは別に仏壇下引き出しからは、浅野家の下級武士だったご先祖様が維新後一旦つぶれたときに辛うじて残していた江戸時代の参勤交代の断簡や、明治の士族没落期の再興の試みだったのだろう、台湾征伐の建白書なんかもみつけたのだが、こういう体験がある意味私の過去への思いを強く誘ったように思える。

 すべては父が死んで家を建て替えたときに母が独断でほとんど古道具屋に処分してしまった(チンケな新家屋では置き場もなかったのだが)。文書だけでも残してほしかったのだが、今となっては悔やまれる。

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