なぜか一週間遅れの日付であるが・・・。
= 目 次 =
▼戦車を止めようとしたウクライナ正教会司祭射殺=英メディア「BBC」
▼ロシアがウクライナ侵攻作戦の重心を南東部へ
▼バチカン改革へ教皇フランシスコが待望の文書に署名
▼韓国の絵本作家イ・スジ、「児童文学界のノーベル賞」国際アンデルセン賞受賞
▼女性初の米国務長官オルブライト氏死去
今回は、最初の記事を紹介する。
【CJC】ウクライナのイリーナ・ウェネディクトワ検事総長は、3月23日現在、同検察官事務所が記録した事件は2472件にのぼるとして、それらの事件をどのように扱っているか、概要を内外のメディアに説明した。
そして「ウクライナの司法権が有効で、犯罪加害者が物理的にウクライナにいる場合、私たちが取る戦略は一つだ。それがウクライナで成功しないとわかれば、国際刑事裁判所(IOC)に訴え、特定の人物、個人が処罰されるようにする」と述べた。
英メディア「BBC」は、ウクライナで戦争犯罪の疑いがあるとして記録されている事件について、目撃証言などを集めた。
その一つは次のようなものだった。ロシアがウクライナに侵攻して1週間余りの頃に起こったもの。首都キエフの西40キロにある小さな村ヤスノホロッカでは、隣人や友人たちか集まる有志グループが、コミュニティーの入り口を守る検問所で配置についていた。
3月5日午後、同村の司祭のロスティスラフ・ドゥダレンコさん(45)は、検問所にいた。ドゥダレンコ司祭の役割は、近づいてくる車をチェックすることだった。その時、同司祭は私服だった。
何が起こったのか、正確に立証することはできないが、攻撃の生存者の1人、ユヒムさん(仮名)はBBCに、ドゥダレンコ司祭を含む十数人と検問所を守っていたところ、3台のロシア戦車が村を通過したと知らされたのだと話した。そこで一行は森の中に隠れ、必要なら戦車に立ち向かおうと決めたのだという。
検問所に近づくと、ロシア軍は「四方八方へ発砲」し始めたと、ユヒムさんはBBCに語った。「私たちが草むらに隠れているとわかると、戦車で私たちをひき殺すために道路から外れ出した」。
戦車が道路まで戻ってきたとき、ドゥダレンコ司祭さんは姿を現そうと決めたのだと、ユヒムさんは話した。
「司祭が十字架を頭上に掲げ、隠れ場所から立ち上がり、何かを叫びながら戦車に向かって歩いて行くのを見た。ロシア軍を制止したかったのかもしれない。私は司祭に声をかけようとした」
すると、司祭の方向へ発砲があった。ユヒムさんの位置からは、直接ドゥダレンコ司祭に向かって撃ったように見えたと言う。「それでおしまいだった。彼は2,3歩歩いただけで倒れた」。
ユヒムさんもこの攻撃で撃たれてけがを負った。その時点でウクライナ軍が到着してロシア軍を後退させなければ、その場のにいた全員が殺されていただろうと、ユヒムさんは思っている。
ドゥダレンコさんが所属していた有志グループは、軍とは無関係だった。同じグループのエドゥアルドさん(仮名)によると、軍事訓練を受けていたのは数人で、東部ドンバスでロシアと長年続く紛争で戦闘を経験した人たちだという。ほとんどは50歳以上だという。
エドゥアルドさんは当時、別の検問所を担当していた。エドゥアルドさんが到着した時にはロシア軍戦車は撤退した後で、道路には遺体が散らばっていた。その中にはドゥダレンコさんや、やはり丸腰だった輔祭、別の防衛志願者2人、そして見知らぬ人物が1人含まれていた。
ドゥダレンコさんの母ナディイアさんは、一人息子は自分の役割を果たそうとしていたと語った。「息子はみんなを守れるようになりたいと思っていた」と、ナディイアさんはBBCに話した。
「説得してやめさせようとしたけれど、反論できなかった」
一行は猟銃に加え、少ないながらロシア軍のカラシニコフを所持していた。防弾チョッキはグループ全体に3着だけだった。しかし、ドゥダレンコさんは司祭として武器を持つことを拒否していたと、友人で同じく司祭のセルヒイ・ツォマさんがBBCに語った。
ドゥダレンコさんがいざ戦車と対決しようと決めた時、撃たれればひとたまりもなかった。しかし、目撃者のユヒムさんによれば、こうした行動がドゥダレンコさんの本質だったという。□
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