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世界キリスト教情報第1600信:2021/9/20

= 目 次 =
▼教皇、スロバキア訪問終了、ローマ帰着
▼教皇、「自由を証しし、創造性と対話ある教会を」要望
▼教皇、ロマ共同体と交流、「偏見から対話へ、閉鎖から融合へ」
▼十字架称賛の祝日に教皇「十字架を見つめ、証しする」
▼バチカンがブラジルの宣教会『福音の使者』に寄宿学校閉鎖を指示
▼ニューヨーク州のワクチン接種、宗教上免除主張で義務化停止
▼ワクチン接種しないと誓った米保守系ラジオ司会者、コロナ合併症で死去
▼スイス政府、妊婦へのワクチン接種を勧告
▼マカオの聖ポール大学跡で人工穴遺跡が一般公開
▼汝矣島純福音教会を創設した趙牧師死去

 今日は、2番目を紹介しよう。
◎教皇、「自由を証しし、創造性と対話ある教会を」要望

【CJC】教皇フランシスコはの欧州訪問の2日目の9月13日、スロバキアの首都ブラチスラヴァ市内の大統領官邸で歓迎式典に臨み、チャプトヴァー大統領や各界代表と会見。続いて、カテドラルで教会関係者とたちと会われた。

 この日、ゴシック様式の聖堂内には、スロバキア各地から司教・司祭・修道者・神学生・カテキスタたちが集まった。スロバキアのカトリック信者は、約339万人、全人口のおよそ73・7%を占める。国内には12の教区がある。

 教皇は参加者への言葉で、ブラチスラバの美しい城に触れつつ、しかしながら教会は高い場所から世界を見下ろす砦のようなものであってはならない、と説かれた。
 教会は福音の喜びを通して人々をキリストへと惹きつけることを願う共同体、と教皇は述べ、世俗的な偉大さへの誘惑に陥ることがないように、と注意された。
 世界や生活から距離を置くことなくその中に住む教会、分かち合い、共に歩み、人々の問いや希望に耳を傾ける教会の姿を示された教皇は、「教会の心は、教会ではない」と話された。
 そして、教皇はスロバキアの教会が、自由を証しし、創造性をもって、対話のうちに歩むことを希望された。

 教皇は、同日午後、神の愛の宣教者会の支援センター訪問、またブラチスラバ市内のホロコースト犠牲者追悼モニュメントの前で、ユダヤ人共同体との出会いを持ち、ホロコーストの犠牲者を思い起こした。
 このモニュメントは、「ショア」(ユダヤ人大虐殺)の犠牲となったスロバキア出身の10万5000人以上のユダヤ人たちを記憶にとどめるために、かつてのシナゴーグがあった場所に建立された。シナゴーグは1969年、共産政権によって取り壊された。

 ブラチスラバは、世紀にわたりユダヤ人の生活の重要な中心地であった。しかし、1940年、ブラチスラバに約1万5000人住んでいたユダヤ人のうち、ホロコーストを生き延びた人々はわずか約3500人だった。
 この集いでは、ホロコーストの生存者1人が、家族と共に体験した恐ろしい悲劇を振り返ると同時に、当時、いかなる政治家でさえも政権に表立った批判ができなかった中で、バチカンの外交官が反ユダヤ政策を止めようと尽力していた、と証言した。
 また聖ウルスラ修道会の修道女は、迫害のさなか、同修道会はユダヤ人の子どもたちをかくまい、国外に逃がしていたことが、生存者たちの証言によって明らかにされた、と語った。

 教皇は、歴史と記憶の場所、苦しみの場所に「触れると共に、心に触れられるために」「巡礼者」として訪れた、と述べた。
 集いの終わりに、ユダヤ教の祈りが唱えられる中、ホロコーストの犠牲者を思い起こすためにろうそくに火が灯された。□
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オスティアって実は季節労働だった、はず:オスティア謎めぐり(12)

 以下で触れる件は、一般向けのカルチャでは話してきたが、これまで秘中の秘として温めてきた構想である。文献的に見落としあれば、ご連絡いただけると幸甚である。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

 帝都ローマの外港オスティアのことを調べていると、私は思考の落とし穴のひとつに、古代地中海世界の船舶航行にとって航行可能期間が春から夏にかけてと限られていたという指摘から、あることに気付いてしまった(やっぱ、才能は隠せんものじゃの〜 (^^ゞ)。それは、当時の港湾労働のかなりの部分が人力に頼っていたという当たり前の事実から、当時の人力の最大の供給源は奴隷だったはずで、ここまではそれぞれ従来から普通に言われていたことであったが、ちょっと待てよと。

 前段と後段を繫いで、はたと気付いたのが、じゃあ航海不能の期間に奴隷たちはどうしていたのか、ということだった。奴隷の所有者は無駄飯を食わせていなかったはずだ。これを別視点から見てみると、港湾労働が季節労働だったということであり、具体的には繁忙期は3月から9月までで、10月から翌年の3月までの実に半年が、毎年決まったように港での仕事閑散期となるのであれば、私が奴隷所有者であれば当然、労働力の有効活用の途を探ったに違いないはずなのだが、というわけである。

 奴隷労働の季節的転用といっても、なにしろ本邦どころか管見の限りとはいえ欧米研究者の文献中にも具体的に触れているものにお目にかかったことがなく、データ的に若干間遠いけれどようやく見つけえたのが以下の図33と解説だった。K.グリーン『ローマ経済の考古学』白水社、1999年、p.191、図33.

 

この図をじっくり拝見していて、なんと都合いいことに、地中海世界では港湾作業の閑散期が農繁期にあたり、とりわけオリーブ収穫期に集約的な労働力が必要とされていた、すなわちおそらく春先から港湾労働に投入されていた奴隷たちは、秋以降はオリーブの、そして穀物やブドウの手入れや収穫作業へと就業場所を移動していたのでは、との想定が可能になったのではと思う。

 私は、後四世紀の北アフリカの初期キリスト教運動でのドナティストの一派、キルクムケリオーネスを久々に思い出してしまった。彼らは、属州の現地人なので、いかにカラカッラ帝以降とはいえローマ市民権保持者として遇せられていたとは思えないが、奴隷ではなく、季節労働に従事する無産階層、いわば現代のフリーターだった(厳然と存在していたいわゆる下級市民humiliores:別件だが、池袋での運転ミスした現代の上級市民honestioresさん、当然のことながら処罰されてよかったと思う。でも収監はされないのだろうけど。同様にサクラ問題の最上級市民に対しても厳正にやってほしいと思うのが私のような庶民感情なのだが、ま、政権に媚びるどっかの国レベルの我が国司法体制ではだめでしょうね、残念ながら)。

 引き続いて次に湧いて出る疑問、ではオスティアでの半年間の港湾労働従事中、奴隷はどこに宿泊していたのか、という問題が出てこざるをえない。果たして港湾労働に従事していた奴隷たちはあの立派な集合住宅内に居住していたのであろうか。そんなことはありえない(家内奴隷でも一室を与えられたかどうか不明だし)。冬が雨期で春から夏は乾期の地中海気候を考慮にいれるなら、臨時宿舎としてせいぜいテント生活していたのでは、との可能性を指摘したくなるのである。そのほうが昼間の熱がこもっている石やレンガ作りの家屋内で過ごすより、はるかに快適という事実がある(私はそれをローマ滞在中や、サンチャゴ巡礼中の巡礼宿で目撃・体験した。日本と違いなぜか蚊が出てこないので、野外での夜のほうがすがすがしい)。奴隷の逃亡を防ぎ、管理しやすい区画が奴隷用にオスティアのどこかに割り当てられていたのではないか、というわけである。雨期には使い物にならな単なる野っ原だったらなおさらいいはずのその場所がどこだったのか、が当面の課題となろう(現段階で私は、川向こう、とりわけ当時存在していたテヴェレ川の大湾曲部分が最適ではと密かに思っている)。

 また、先行研究者たちによってオスティアの集合住宅から居住者数が想定されてきているのだが、このような諸事情を勘案するなら、奴隷以外の、解放奴隷やローマ人たち、それに貿易に従事して地中海各地から往来していた非ローマ人たちの滞在状況も、現代の海岸のリド・ディ・オスティアでの観察から、ヴァカンツァ期の夏以外多くの集合住宅が無人化し、スーパーも休業して街自体が閑散化していることから連想して、貿易商はもとより、役人・商人たちも同様に相当規模で年中行事的にローマや本拠地とオスティア間を人口移動していた、と想定してもあながち間違ってはいないような気がする。要するに立派な居住家屋も季節使用されていたに過ぎなかったのでは、というわけである。

 そこからさらに、オスティアでの社会インフラ、とりわけ特徴的な多数存在する公共浴場や大規模な製パン工房なども、繁忙期を想定してのそれであって、閑散期にはその多くが店じまいしていたはずという結論が容易に導かれるのであ〜る。

 ただし、そもそもオスティアは創建以来状況の変化の中で都市機能的にずいぶんと変容してきた挙げ句、最後は大理石やトラヴァーチン、ついでにおそらく焼成レンガなどの建築資材の石切場・採掘場となる運命を辿っているからには、二〇世紀における発掘状況で姿を現したその都市景観はその最終段階の姿に他ならないわけで、要するに転用や放棄・破壊を蒙ったあとの景観から、往時を再現しようとするには慎重な配慮が必要とされねばならない。たとえば私など実は、オスティアはポンペイに比べてバール関係がやたら少ないことに不審を覚えたものであるが、それも5,6世紀の都市凋落期の姿とすればなんとなく納得できるような気がしないでもないのである。それにしてもあまりに少ない気がするので、別の仮説を加味すべきだと思っている:現段階では、オスティアは基本的な都市機能が一般市民を前提とした消費都市ではなく、なによりも特殊港湾都市であり、そこに集住していた主要構成員が奴隷であるという特異事情、すなわち、基本的に廉価な賄いで養われていた身分層からなっていたせいでは、と考えている。奴隷には身銭を切っての購買能力が、お目こぼし程度にはあったにしても、基本的に備わっていないはずと考えるからである。

 サァテかくのごとき珍説、いつものことながら、はたしていつになったら真面目に取り上げられることになるのやら、もって瞑すべし。

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政局の真の黒幕は誰だ:飛耳長目(93)

 予想通り新コロナ対策など吹き飛んでしまう形での総裁選一色のマスコミ報道になってしまった感じだが、このところの感染者数減少を一番残念に思っているのはガースー(すでに元)首相ではなかろうか、つくづくツキに見放されている、と。

 ところで派閥が首班候補を出せなくなったとかしがましいが、それもこれも小選挙区制(1996年導入)・政党交付金制度(1994年成立:年間総額で317億円強)が遠因になっていることに違いない。派閥の親分から選挙資金を札束でもらう儀式も必要なくなってきたのだから(とはいえ、政権派閥が交付金の流れを左右できるわけで、それが今回の二階降ろしに連動しているのだろう)。

 むしろ決定権をにぎっているのは、相変わらず合衆国(現在は民主党政権の)という、このあたりの見立てはどうなのであろうか、と思っていたら、案の定出てきた:高島康司「「新首相は河野太郎」バイデン政権から圧力?ジャパンハンドラーは対中強硬しか認めない」(https://www.mag2.com/p/money/1099801?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000115_sat&utm_campaign=mag_9999_0918&trflg=1)。

 没落大国とはいえ相も変わらず属領ニッポンへの操作構造は健在ということなのであろうが、ま、我が国のアフガン撤退のお粗末さを考えるにつけ、属国傀儡国家という認識を残念ながら否定できない体たらくなのだから仕方がない。

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その昔、山本七平がいた:先達の足跡(7)

 最近、研究者仲間から「いまどきの学生は映画ベン・ハーもしりませんから」と聞いた。今でも時折放映されているにもかかわらず、そうなのだそうだ。私が幾度となく見てきたそれは、3度目の映画化のもので1959年製作だったので、もう60年も前、私も多感な?中学生だったころになる。

 蛇足ながら、今やそれとだいぶおもむきの違う新作も登場しているが、それすら若い人がどれほどみていることやら:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC_(2016%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)。

 だから、生涯が1921年から1991年(享年69歳)だった山本七平を知る人も少なくなってきているのも当然だろう。その彼を最近私はしばしば思い出している。それは彼が『空気の研究』という小論を1977年に文藝春秋から出していたからだ。私はこれを読んで(出版後かなりたってのことだったと思う:手元には1983年発行の文春文庫版があるがこれとて古本入手だった可能性がある)、日本人は回りの空気に影響されて行動してきたし、これからもそうするはずだ、ということを勉強したのだが、最近ウェブ情報でこの「空気」という表現によくお目にかかるような気がしてならない。たとえば今日、こんなインタビュー記事があった。「自民党総裁選で見えるもの:社会の空気一変の怖さ」:(https://mainichi.jp/articles/20210917/dde/012/010/019000c?cx_fm=maildigital&cx_ml=article&cx_mdate=20210919)。

 あの文庫本の解説で日下公人は、山本の手で「戦中戦前の日本人の思想様式や行動様式が今も変わっていない」ことが提示され、「大正族や昭和ヒトケタ族にはその伸縮しない物差しの重要性と必要性はよくわかるのである。その世代は理由がよく分からない戦争に捲き込まれて、ひどい苦労をさせられたからである」と喝破している。昭和ヒトケタ世代すら消え去ろうとしている昨今、大多数を占めるに到った戦争体験のない国民に、どれほどの説得力があるか不明であるが。一抹の不安を感じざるをえない私である。いや私も昭和22年生まれの戦後族だが、池田内閣以前はまだなんとなく戦前・戦中を引きずっていた気配があった。なにせ復員軍人が社会の主要生産世代だったのだから。

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地球温暖化って:「極地大冒険」前編を見た

 2021/9/15のNHK BSプレミアム「コズミックフロント:氷から見える地球史前編」を見た。そこで遅ればせながら、地球の過去5億年の歴史のうち、現在のような寒冷な気候は全体の25%を占めてきたに過ぎないことを知った。逆にいえば、南極にも北極にも氷がない温暖な時期が4分の3を占めてきたわけである。

放映画面から

 となると、世間を騒がせている温暖化なる現象は、地球規模ではむしろ常態に帰りつつあるということになる。草食性恐竜なんかは温暖化で豊かな植物が旺盛に繁茂した中で、巨大化できていたようである。

 こうなると、このところの二酸化炭素削減なんかで一体何を騒いでいるのか、愚鈍な私には理解できなくなる。人間が身勝手にだだこねているようにしか思えないのだが。要するに、人類は寒冷化のもとで適応的にこの地球上で存在できるに過ぎない、ということなのだろう。温暖化の促進は恐竜時代を再現するだけのことなのかも知れない。他の生物にとって迷惑でお騒がせの現生人類など滅亡したっていい。何百万年後にさて地球の王者として君臨しているのはどんな生物なのだろう。

 こういう問題は、どのように時代を区切ってもっともらしく数字を提示して主張するかということ、すなわち、以下の図を見せられたとき、普通の人だったら危機感を抱くだろう。だけどその数字は1950年で区切ってのことなのである。

 歴史を見るのも同様な落とし穴がある。気をつけねばと思う。

【追記】以下をみつけた。永井俊哉「地球温暖化論争の三つの争点」(https://www.nagaitoshiya.com/ja/2007/global-warming-three-issues/)

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最近のあれこれ:飛耳長目(92)

 ちょっと間遠いような気もするが、しばし留まってじっくり考えてみるのもいいかも。


◎田中宇「中国を社会主義に戻す習近平」:http://tanakanews.com/210908china.php

◎林奈緒美「国や専門家が認めないコロナ「空気感染」は不都合な真実か」:https://mainichi.jp/articles/20210910/k00/00m/040/354000c?cx_fm=mailcp&cx_ml=article&cx_mdate=20210915

◎「安倍晋三、統一教会との蜜月を笑顔でカミングアウト」:https://www.mag2.com/p/news/511216

◎池口恵観「中国やアフガニスタンで民主主義が不可能なわけ:歴史の教訓:人は宗教、法律、武力のいずれかで統治される」:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66888

◎横山恭三「韓国に「恥辱」と呼ばれたアフガン撤退作戦が示す課題:致命的な決断の遅れ、大使の早すぎる退避、法整備・・・」:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66920?utm_source=editor&utm_medium=mail&utm_campaign=link&utm_content=top

◎今市太郎「菅首相「今さら訪米」で持ち帰る中国包囲網参加と戦費負担の置き土産。卒業旅行のツケはすべて国民に」:https://www.mag2.com/p/money/1100515?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000204_tue&utm_campaign=mag_9999_0914&trflg=1

◎和田秀樹「尾身会長の病院も。補助金まる儲けで患者を見捨てる医師たちのコロナ太り」:https://www.mag2.com/p/news/511328?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000001_tue&utm_campaign=mag_9999_0914&trflg=1

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世界キリスト教情報第1599信:2021/9/13

 なぜかこれまで送られてこない状況が数回続いたのだが(以下から転載していた:http://www.kohara.ac/news/)、なぜか本日3週間分がまとめて送られて来た。

= 目 次 =
▼教皇、環境保護を訴える共同メッセージ
▼教皇、ハンガリーとスロバキアに霊的巡礼へ
▼教皇、ハンガリーの首都ブダペストを訪問
▼教皇、ハンガリーを後に、スロバキア到着
▼教皇、武漢新司教に崔司祭指名
▼セルビア正教会の新府主教就任で大規模デモ=モンテネグロ
▼パラリンピック参加のアフガニスタン2選手は6日出国

 今回は中国問題を紹介する。

◎教皇、武漢新司教に崔司祭指名
【CJC】教皇フランシスコは、中国における教会指導者任命に関する暫定協定に基づき、湖北省武漢の新司教にフランチェスコ・崔慶?司祭(フランシスコ会=57)を任命した。宗教専門RNS通信などが報じた。

 バチカンのマッテオ・ブルーニ報道官は、9月8日、バチカンの記者団に対し、「中国の司教任命に関する暫定協定の枠組みの中で任命され、叙任された6人目の中国人司教」と述べた。

 同報道官によると、教皇は6月23日に同司祭を選出しており、司教叙階は9月1日付け。□
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アフガンで何が、なぜ起きたか

  上記について、毎日新聞で、2021/9/6の夕刊がかなり刺激的な記事を掲載していた(但し、有料):「アフガン政権崩壊 田中浩一郎・慶大教授と読み解く 米のおごりが招いた」(https://mainichi.jp/articles/20210906/dde/012/030/010000c?cx_fm=maildigital&cx_ml=article&cx_mdate=20210912)。

 ここでは、いつものように米国政府の世論操作を鵜吞みにしてしまった、調査報道抜きの我が国マスメディアが全然触れようとしない、米国政府の失策に関連しての田中教授の見解に言及しておきたい。「イラクと同様、アフガンでも米軍は傍若無人に振る舞った。現地の人々が強く反発し、政治家も苦り切っていることを米国は理解せず、理解しようともしなかった。これは個人的資質というより、米国の世界観に流れているある種のおごりの問題と言える」。教授の見解では今後のタリバンの政治方向は旧態への復帰以外にない、という。20年間のお仕着せの民主主義と女性解放のつけは現地のアフガン人がこれから自らの血で支払っていくわけである。

 私はそれを読んで、既視感にとらわれてしまった。ずぶずぶ中国大陸に足を取られていった日本軍とその政府の体たらく、である。その敗戦の分析はアメリカと比較しての後進性という視点からこれまでなされてきたが、そうしてみると、戦後のアメリカの世界警察のお役目は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イ・イ戦争、アフガン戦争と失敗の連続だったように思えてきて、要するに自分に都合のいい情報分析という落とし穴に、かつての日本と結局は同じ道を歩んでいたのでは、と。とまあこう考えると、理知的で分析的なアメリカ軍というイメージもかなり鍍金が剥がれて、陰陽でいうと、アメリカにも相当陰があった、という事実はそれとしてきちんと認識すべきであろう。

【追記1】こんな後追い記事がようやく出だしているが、遅きに失している。あれもこれもアメリカ寄りの情報依存のせいであろう。「アフガン撤退が炙り出した「米国は正義の味方」時代の完全なる終焉」(https://mail.nifty.com/mailer/pro/mailview.html)。

 今日も今日とて、「映像の世紀プレミアム」で第6集「アジア 自由への戦い」を見て、声高に民主主義を説教なさっている米英の欺瞞を再認識させられた。再度言っておこう。民主主義を踏みにじってきた歴史で原資蓄積してきたヨーロッパ先進国の「あんたに言われたくない」。

【追記2】朝日新聞がたった一人脱出し、パキスタンで取材を継続している安井浩美さんの連続記事を掲載し出したようだ(但し、有料:「ジャーナリストの安井浩美さん(前編) 【連載】特集「アフガニスタンを思う」(全8回)のうち最初の2回予定らしい:https://digital.asahi.com/articles/ASP9D1FCDP97UHBI01J.html?ref=mor_mail_topix1)。ここでは有料部分から以下のみ引用しておく。

 「でも今回、強い違和感を覚えたのは、世の中にウソが増えたっていうことやね。世論誘導のためにネット上にデマを流すようになった。SNSを駆使して反タリバン勢力を追い詰めていくプロパガンダの戦争が始まっている。そういうことへの不信も募っている」

 日本の政府もマスメディアも、そのウソを真に受けてきたわけである。やはり現地情報は蔑ろにできない。

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フォロ・ロマーノの「黄金の里程標」って何なのさ?

 エウトロピウスのラテン語訳を見直していたら、いまさらながらであるが、翻訳仲間からの指摘で妙なことに気がついた。ローマ皇帝たちの治世年月日の表記が基数と序数のごった混ぜが普通に登場することである(詳細は後日予定)。その流れで気になったのは、I.4.1 に2つ初出の「里程標」miliariumである(全10巻中に他に、I.5.2, 8.3, 15.2, 17.1, 19.2, 20.3, II.5, 8.1, 12.1, III.14.1, VI.6.3, 13, VII.15.1, VIII.8.4, IX.2.3)。ちなみにこっちの場合はいずれも序数(第〇〇番目)で表記されているのが特徴なのだが・・・。

 アッピウス軍道の第一里程標は、フォロ・ロマーノの基点から1480mのはずのところ、現在、3世紀後半創建のアウレリアヌス城壁に組込まれているPorta Appia(現サン・セバスティアーノ門)を出てすぐの所に設置されていたと想定されているが(但し、現在そこの民家の壁に塡め込まれる形で設置されているのはレプリカで、現物はミケランジェロによってカンピドリオ丘の再整備時に移設されている:ちゃんとレプリカ円柱の右隣の柄付碑銘板tabula ansata にイタリア語で由来が書かれているのを見逃すことなかれ)、ちょっと気になったのでフォルムからの直線距離をGoogleで確認してみたら、2960mもあった。逆に現在アウレリアヌス城壁付近から1ローマ・マイルの距離を遡ってみるとカラカッラ浴場を通り過ぎて大競技場手前止まり、という結果になった。

、白丸から白丸への黄線がアッピウス軍道の1ローマ・マイルに相当;、第一里程標のレプリカ;、カンピドリオの坂から正面向かって右にある本物
 同様に,北に伸びるフラミニウス軍道はほとんど直線なのでもっと分かりやすいはずだ。ミルウィウス橋は第三里程標とされているが、この橋から直線で4440m遡ってみると、ヴェネツィア広場手前付近で尽きてしまう。要するに、いずれもフォロ・ロマーノには行きつけなかった。あれれ、これは一体どうしたことか。
 この数字をみて、フォロ・ロマーノには「黄金の里程標」Miliarium Aureum なる里程標基準点があって(これは俗称で、「帝都里程標(基準点)」Miliarium Urbis が正式名称だった由)、ロストラ(演説台)の左側に位置しているという私のこれまでの常識が揺らいでしまったのだ(なお、対照的にロストラの右側には「帝都ローマ基準点」Umbilicus Urbis Romae があった:これも里程標基準点とよく誤解されているのでご注意ください)。

 いったいどういうことなんだと、逆走しての到達点、ヴェネツィア広場と大競技場手前をしばし眺めているうちに ・・・ おおひょっとしたら、と思いついたのがRomaのpomerium、具体的には前6〜4世紀初頭にかけて建築されたセルウィウス王のそれじゃないかと。で、それを地図で重ねてみると、あ〜ら不思議、まさしく合致しちゃったのであった。
「13」がPorta Fontinalis、「6」がPorta Capena
 フラミニウス軍道だとPorta Fontinalis、アッピウス軍道だとPorta Capenaからに相当するわけだ(但し、両門とも今は姿形もなく消えてしまった)。要するに里程標表示は、フォロの基点からではなくて、セルウィウス城壁・城門から先の距離だったわけで、日本語ウィキペディア掲載の「黄金の里程標」の説明の最後にそういう説もあると付け足しで述べられているが、そのほうが断然正しかったわけである。なお、あとからググって存在を知ったが、以下参照。3年前にすでに正確な情報をアップしていて、書き手のTatsuoさんの慧眼には敬服:http://roman-ruins.com/milestone/

 これは私にとって恥かきのとんだ落とし穴だったわけだが、じゃあフォロで見つかったという黄金の里程標って一体なんだったんだ?と。余計な知識があってそのせいで安直に考えて間違っていたわけで。諸説あるものの、どうやらそれは、前20年にアウグストゥスが軍道監理官curator viarumになったことを記念して創建されたもののようで(Dio, LIV.8.4)、大理石を金メッキされた青銅で被い、各々の軍道が始まる城門から重要都市に至る里程が記されたものだったようで、少なくともそこが軍道の基点になっていたわけではなかった、という事情が判明(ここでは一応「基準点」と表記しておくが)。
 いずれにせよ、私のように文字情報に踊らされて分かった気になるのではなく、やっぱり具体的に実地に数字化して確認してみるものである、こらお前、これでプロといえるか、と今さらの如く反省した次第。

 以下参照:https://penelope.uchicago.edu/~grout/encyclopaedia_romana/romanforum/milliariumaureum.html;https://it.wikipedia.org/wiki/Miliario_aureo
、フォロ・ロマーノ西端のロストラを挟んでの両基準点の位置;、帝都ローマ基準点跡、本来円錐形だったらしい。背景はセプティミウス・セウェルスのアーチ門(下の左の写真でそのアーチ門左にもっともらしく円錐形の先端が描かれている)
、里程標基準点の復元想像図(里程標の形式を取っていた);、その残存遺物

【付記1】今読んでいるユウェナリス『サトゥラェ』III.10に「水の滴るカペーナ(の門)の古いアーチのところで」との文言をみつけた。ユウェナリスは後60-120年の人なので、当時すでに古色蒼然としていても不思議ではない。

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