世界キリスト教情報第1616信:2021/1/10

= 目 次 =
▼教皇、1月の祈りの意向「人類の真の友愛」
▼ペットを子どもの代わりにしている人は「わがまま」と教皇
▼主の公現=教皇説教「礼拝は心の謙遜から」
▼十字架めがけて冷たい水の中へ東欧各地で公現祭

 今回はニュースの冬枯れだったのかめぼしいものはなかったが、なんとカトリック新聞がHP作ったらしく掲示されていたので、プロテスタントのそれらともども周知しておく。

カトリック新聞(1月9日=年末年始休刊)=http://www.cwjpn.com/cwjpn/
KiriShin(1月1日・年末年始休刊)=http://www.kirishin.com
クリスチャン新聞(1月2日・9日年末年始休刊)=http://クリスチャン新聞.com
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保阪正康「世代の昭和史」を全部読みたい

 毎日新聞でずっと保阪正康氏執筆で特集「世代の昭和史」が書かれていることを初めて知ったが、これが素人の私にはなかなか読み応えある内容である。ぐぐってみても、今日現在なぜか48回から57回までしか読めないが(ちなみに有料です)、1/7付のその最新号の題は「戦後民主主義の弱点:「良心派」の狡猾な生き方について」だった。ほんと生きていくのはしんどいことだ。

【追記】これが2022/4/30に『世代の昭和史:戦争要員とされた世代』毎日新聞出版、で公刊予定とのこと。さっそく予約発注したのは言うまでもない。これと平行してBS-TBSで放映されていた「関口宏のもう一度!近現代史」が3/22で最終回を迎えた(こっちは、『関口宏・保阪正康の もう一度! 近現代史:明治のニッポン』講談社、2020、同『戦争の時代へ』2021が、すでに出ている)。それも途中から視聴していて勉強になった。来週からは日本古代史が始まる由。

 以下余談だが、それ読んで私は昔古書で手に入れたはずの某書で、戦前と戦後での知識人の変節を対照的に書いたものを読んだ記憶が甦った。まあ一種の暴露本めいた本だったが。書架をざっと見てみたが見当たらず、どうせどっかに埋もれているのだろう、たぶん。ググってみたが、西義之『変節の知識人たち』PHP研究所、1979、が類似本としてヒット。しかし、津田左右吉と文化大革命関係でのそれだったので、私の見たものとは異なっている。・・・さらにタームを変えてぐぐったら、ヒットした。

 『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』全貌社、1957年。それの初版は、全貌社全貌編集部編『学者先生戦前戦後言質集』全貌社、1954年、とのこと。古書店にも現在出品がないが(出てもいまや3万円以上の値がつくらしい)、所蔵検索してみたら、なぜか112におよぶ大学図書館が持っていた(我が図書館にはない)。その目次は以下でみることできる(http://go-home-quickly.seesaa.net/article/390953969.html)。なんと「序」を小汀利得(「おばま・としえ」なのだが、「りとく」と読んでしまってた)が書いている、といっても今となっては彼を知る人も少なくなっただろうが、さる時期は毎日曜日に「時事放談」(世評では、冗談だろうが「じじい放談」と聞き取られていた由)で細川隆元と文字通り毒舌・放言していたのを私は「へぇ〜」と驚きながら聞いていたものだ(https://www.nikkei.co.jp/nikkeiinfo/about/ourhistory/archives/post.html)。

 この本にはたとえばこんな私でも名前だけは知っている戦後の著名人たちがやり玉にあがっている。

清水幾太郎(学習院大学教授)―戦争と言論統制を謳歌した平和教祖

吉野源三郎(岩波書店「世界」編集長)―進歩的文化人のプロデューサー

羽仁説子(自由学園教授)―女性の犠牲心を説いた婦人評論家

末川博(立命館大学学長)―学徒出陣を堂々と強調

出隆(元東大教授・日本共産党員)―女流防火群を叱咤する隣組長

国分一太郎(教育評論家・日本共産党員)―支那民衆の辣腕家

蜷川虎三(元京大教授・京都府知事)―北洋漁業を守れの声、今はなし

 広大関係者としては、おいおいちょっと待って、という感じで2名が登場している。

今中次麿―日本資本主義萬歳というマルキスト

長田新(広島大学名誉教授)―「醜の御楯」論から絶対平和論

 その右翼的筆法への反論めいた言説もあって、それは、以下参照(https://note.com/hashida_toyoya/n/n163d5a6855e6)。その書き手によると、上記匿名筆者は、生え抜きの内調所属の志垣民郎氏だったらしい。その彼のメモが最近公表された。岸俊光編『内閣調査室秘録:戦後思想を動かした男』文春新書、2019。その宣伝文句に曰く「志垣氏の主な仕事とは、優秀な学者・研究者に委託費を渡して、レポートを書かせ、それを政策に反映させることだった。・・・本書には、接触した学者・研究者全員の名前と渡した委託費、研究させた内容、さらには会合を開いた日時、場所、食べたもの、会合の後に出かけたバーやクラブの名前……すべてが明記されている」。彼が特に取り込みに尽力したのが藤原弘達だった由。女性がらみで無様な姿をさらしているのが林健太郎だったりする。ならば読まねばなるまい(https://mainichi.jp/articles/20200629/ddm/005/070/027000c;https://yokoblueplanet.blog.fc2.com/blog-entry-9385.html;https://pdmagazine.jp/today-book/book-review-630/)。

志垣民郎(1912-2020/5/4:享年97歳)

 新書としてはぶ厚い上記の本が届いたので速読して、驚いた。pp.313-4に、あの出陣学徒壮行会の「日本ニュース」第177号に志垣青年が登場していたと書かれていたからだ。さっそくYouTubeで確かめようとしたが行進の先頭が東京帝大にしても「前から7番目の列」が判然とせず、確認できなかった(以下がもっとも鮮明な画像だが短すぎる:https://www.youtube.com/watch?v=VghcG8Ih7Q4;一番長いのはこれだがやたら不鮮明すぎる:https://www.youtube.com/watch?v=cGDN8LBawoM;中くらいはこれか:https://www.youtube.com/watch?v=iGGWQloCH2g)。

 目論みはずれて無理矢理召集され、戦意高揚の儀式に強制参加させられての、どことなく虚ろな目線が印象的だ。ナチス張りのメディア宣伝、軍楽は人間の情感に訴えようとするので、行進曲の勇壮さ・悲壮さにごまかされてはならない。彼らの表情から生の声を探り出すべし。彼らの心中は宣伝映画とは別物であったはずだ。「意気盛んていうようなね印象は残ってないね」:昭和館オーラルヒストリー「大学生活と学徒出陣:川島東さんの体験談 」(https://www.youtube.com/watch?v=xFHd_KXSSeE)。

 というのは、同世代の半数が大学進学する現在だと誤認されやすいので付言するが、当時大学生等は同世代の1%程度の超エリートで(専門学校・旧制高校を含むと5%程度)、もともと26歳まで徴兵を猶予される特権階級だったから、召集逃れの合法的抜け道として大学進学が利用されており(不逞の異国宗教団体創立の上智など当時の4流校の学生はおおかたがその類いの受け皿だったはず:1932年の上智大生靖国神社参拝拒否事件、参照)、またいよいよ戦局悪化で1943(1944)年にはその特権が20(19)歳以上の文系学生から奪われると、やはり徴兵逃れで理系に適性かまわず進学する輩も続出していたし、体制批判や共産化ももっぱら知識人予備軍の文系大学生だったから、軍事教練の配属現役将校からすれば「軟弱で、たるんどる!」ということになり、軍部としては恰好の処分抹殺対象だったはずだ。論より証拠、特攻隊員の8割が学徒兵から選抜される「不公平」もまかり通っていた(https://www.youtube.com/watch?v=AgjSopyx92g)。逆に親が有力者だと徴兵されないという不平等も明々白日にまかり通っていた。だが、そもそもすでに一般庶民はみな召集されていたし(実に馬鹿げているが兵器製作の熟練工まで戦地に送り、穴は未熟な動員学徒が埋めていたので必然的に不良品ばかり、となる)、メンタル的に軍隊志願者は海軍兵学校や陸軍士官学校のみならず14歳で少年兵として募集されていたのであって、学徒出陣とは徴兵猶予の特権が剥奪されただけのこと、ということは忘れてはならないと思う(https://www.youtube.com/watch?v=A72d_aiQECo)。

東京では先頭が東京帝大文学部だった。どおりで体躯貧弱、鍛錬不足でピシッとしておらず精悍さに欠けてるわけだ:http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/gakuto/sub_gakuto.html
くだんの志垣君はこのあたりかもと

 だが、よく訓練され面構えが凜々しい学生たちもいたことが後続の映像で覗える(https://www.youtube.com/watch?v=GzxGnKvwIW8;https://www.youtube.com/watch?v=qKOxKAekv5Q)。長いフィルムを見ていると、行進曲や画像が編集されていることがよくわかる。ラジオの実況放送も聞くに値する(https://www.youtube.com/watch?v=DHbXuxOWOb4)。以下、陸軍観兵式画像(https://www.youtube.com/watch?v=IPQcmJL7Kto&list=RDCMUCz_pj-ly2Ponw-cxo7LvxrQ&start_radio=1&rv=iLoHouBKpRQ)。あえて言おう。この高揚感、甲子園の高校野球大会と同列である。朝ドラ「エール」の古関裕而君、君も大いに寄与していたわけだ。

 周辺の画像から、あの「陸軍分列行進曲(抜刀隊・扶桑歌)」(https://www.youtube.com/watch?v=Azh9bhQNiyk)が今日でも陸上自衛隊や警視庁の観閲式で演奏されていることを初めて知った。どうも日本ではそういう形で海軍マーチともども(密やかに連綿と?)旧体制が受け継がれているようだ。ドイツでは、法律で「ナチスを象徴する旗、記章、制服、敬礼、スローガン、その他」を国内で普及等する者は3年以下の投獄または罰金でこれを罰する、とされているのだが、この違いにはいささか驚かされ考えさせられる。

 いずれにせよ、軍事パレードは彼我においても同様に戦意高揚・国威発揚をねらったものであり、私は中共や北朝鮮での軍事パレードを連想せざるを得なかった。彼らとて空腹をかかえつつ、否かかえていたからこそ高揚を求めていたのだろう、と。

 しかし、旧軍を称揚する人たちは内務班の理不尽な暴力的リンチをどう考えているのだろうか、聞いてみたい気がする。今(2022/1/19)、映画「日本海大海戦:海ゆかば」(1983年・東映)をやっていて、垂れ流しで聞いているが、勇壮な将軍たちの戦記物というよりも貧困層の庶民水兵の目線で描いていて(よって三笠の被弾と惨劇も遠慮会釈なく描かれている:実際、右舷側に40、左に8個被弾し、113名死亡している)、そこでも制裁や男色などの日本軍の恥部も余すところなく封入されていて、その志や雄たるものあり。

【追記】「日本の古書店」に探求書の届けを登録していたら、1/27に入荷連絡があった。本体価格¥8800とのこと。風説よりはたいへん安いが・・・ やっぱり私には高すぎるので諦めることにした。

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庶民の近藤さんを探す

 NHK BS1スペシャルで「近藤さんのよせ書き フィリピン戦場で拾われた記録」の再放送を見た。ルソン島でアメリカ軍兵士が持ち帰った80ページの寄せ書きの持ち主「近藤」さんをわずかな証言をもとに探索、北海道出身で、中島飛行機製図課から出征した「近藤迪泰(ただやす)」野戦重砲第22連隊兵長にたどり着くまでの、苦心のドキュメンタリー(https://www.nhk.jp/p/bs1sp/ts/YMKV7LM62W/episode/te/G5826J4PXQ/)。それにしてもよく見つけたものだ。

近藤迪泰さん:映像から

 かくの如く、一庶民の記憶など、あれこれ資料が多いはずの現代であっても、親戚筋ですら3世代くらいまでで、あとは絶えてゆくのである。彼の場合は、なんと寄せ書き帳補強のため貼られていたテープを剥がした下から読み取れた部隊名断片と、彼が戦死者だったので靖国神社の名簿に記載されていたのが突破口となった。

 庶民の生存記録などあとは戸籍簿くらいだろうが、平成22(2010)年に保存期間が改正されて、「除籍と改製原戸籍には保存期間が定められています。以前は80年でしたが、平成22年(2010年)に見直しがされ、一気に150年まで延長されました。起算となる年は、除籍となった年度の翌年からということになっています。保存期間が過ぎてしまえば廃棄されるのが原則なのですが、実際には廃棄されずに保管している自治体が多いようです。ただ、保管されていても除籍謄本の写しの発行に応じてくれないこともあるので、認識しておいた方がいいでしょう」ということらしい(https://ka-ju.co.jp/column/retention_period)。昔、保存期間すぎたら廃棄していいという決定がなされて、日本史関係者が撤回を求めていた記事を読んだ記憶がある。ことが部落問題などと関わっていたので難しいなあと思っていたが、延長されたとは知らなかった。

 試しに今レポート作成でたまたま我が家に寝泊まりしている19歳の孫娘に、私の誕生日を知っているかと聞くと即座に「知らない」と。妻のそれは「1月?」と辛うじて答えた。わたしゃ8/9で妻は1/12であるが、すでに私は生きながら忘却の運命にあるとみた。

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タイムマシーンに乗って、「主祷文」を唱えてみる

 今ザッと読んでいる以下の書にこんな件があった。デイヴィッド・W.・アンソニー(東郷えりか訳)『馬・車輪・言語』上、筑摩書房、2018年(原著、2007)、p.41.

 タイムマシーンで、西暦1400年のロンドンに降りたときに、最初に口にする言葉として理解されやすいのは「主の祈り」、すなわち「主祷文」かも知れない。現代英語だと「Our Father, who is in heaven, blessed be your name」(「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように」新共同訳)であるが、それがチョーサーの時代だと「Oure fadir that art in heuenes, halwid be thy name」だった。さらに400年後の1000年だと、古英語、つまりアングロ・サクソン語でこう言ったはずだ。「Faeder ure thu the eart on heofonum, si thin nama gehalgod」。1000年の歳月を経るうちに、これほど話し言葉は変化するのである、と。

 これに蛇足を加えるなら、より古いラテン語だとこうなる。「Pater noster, qui es in caelis, Sanctificetur nomen tuum」。さらにこの文言を掲載している「マタイ福音書」6.9はもともとギリシア語で書かれているが(Πάτερ ἡμῶν ὁ ἐν τοῖς οὐρανοῖς· ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου:Pater hēmōn, ho en tois ouranois hagiasthētō to onoma sou)、実際にイエスが話したのはアラム語だったはずなのだ。が、さすがにそこまで私は手が伸びない (^^ゞ

 実は、日本のカトリック教会で2000年までミサ聖祭の中で長らく使われていた「主祷文」の日本語訳は「天にましますわれらの父よ、願わくは御名の尊まれんことを」だった。私など簡潔でリズム感あるこっちのほうが身に染みこんでいて、新共同訳なんかの現代翻訳にはなじめない。

  私がとりあえずここで言いたいのは、1000年後といわず、600年後でもこれだけ違っているのだが、それを古代ローマに当てはめてみるとき、ラテン語の表記がそう変わっていないようにみえるのはなぜか、ということである。具体例を挙げると、カエサルを読む時と同じ羅和ないし羅英辞典をエウトロピウスでも使っていささかも怪しまないのは、なぜ、と。彼らの間にはゆうに400年の時間の流れと、ラテン語圏のローマとギリシア語圏のコンスタンティノポリスという地理的隔たりがあるのにも関わらず、なのだが。我が国に当てはめてみると、たとえば「信長公記」を読解するときに三省堂の国語辞典利用はありえないわけで、逆に古語辞典を現代語に使うのは到底無理でしょう。教会典礼の場合はたしかに言語の固定化がなされたにしても、同じような固定化が書き言葉でもめざされた(擬古文)、それだけ庶民の話し言葉とは異なっていた、ということなのだろうか。言語学の専門家のご意見をいただきたいところであるが、意外とこういうことには触れてくれてないのだ。

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ローマでテラコッタ製の犬の置物出土

 タイムリー的に今年が戌年でないのが残念である。今回の置物を年賀状に利用するにはあと8年待たねばならないが、果たして生きているだろうか。無理だろう。

 2022/1/1発信:ローマではよくあることだが、アウレリアヌス城壁のポルタ・ラティーナ門から南に1マイルのルイジ・トスティ通りVia Luigi Tostiで、電力会社Acea社のパイプ敷設工事中に、地表からたった50cm掘ったところから、2,000年前に建てられた葬祭施設に属する3つの構造物が発見され、考古学調査がおこなわれた。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2022/01/work-on-romes-water-system-uncovers.html

 これらの墓は、紀元前1世紀から紀元後100年の間に、ローマ最古の道路の1つであるラティーナ通りVia Latinaに沿って建てられていたが、現代の遺跡保存の法律が登場する前の地下公共工事によって損傷を受けていた由。

Via Luigi TostiとVia Latinaの交差点付近にある発掘現場

 3つの墓はいずれもコンクリートの土台の上に建てられている。1つは黄色凝灰岩の壁、2つ目は網目状opus reticulatum(菱形の凝灰岩のレンガ)の構造で、3つ目の墓は火災の痕跡がある基部だけが残っていたという。

 また興味深い出土品として、骨片と犬の頭のテラコッタの置物が入った無傷の陶器の骨壷を発見した。手のひらに収まるほどの小さな犬の胸像は、ドムスのアトリウムの天井部分のcompluviumに設置された吐水口の装飾部品に似ているが、水を通す穴が開いていないので、純粋に美的な目的のために作られたものだと思われる。なにぶん小型なので、犬種を特定するには至らなかったようだが、ローマ人はペットとして、また財産や家畜を守るために犬を飼っており、人気のある犬種の一つに古代ギリシアから来た大型犬のモロシアンハウンドがある。また、アイリッシュ・ウルフハウンド、グレイハウンド、ラーチャー、マルチーズなど、現代の犬に似た外見の犬も飼っていたらしい。

これが今回出土の塑像
吐水口に使用された場合はこんな感じ:後1世紀初期

 その他に、大量の色のついた石膏の破片や、近くから地面に埋まっていたと思われる若い男性の遺体も発見されたとのこと。都市郊外の街道沿いといえば墓地群なのに、墓地に埋葬されていないとすればなぜなのか、否応なしに想像力が刺激される。犯罪の被害者か、それとも奴隷だったのか。

 ところで、ポンペイ遺跡からは番犬のモザイクが出土し、そこに「cave canem」(猛犬注意)というキャプションが埋め込まれていたりするが、この警告は、実際には訪問者のため(あるいは歓迎されない者への抑止力として)ではなく、足元で危険にさらされる可能性のあるデリケートな小型犬を守るためのものだったのではないかと主張する学者もいる由だが、下図のような獰猛そうなモザイクを見る限り、私を納得させることはできそうもない。

しかし、ポンペイのCaecilius Iucundusの家(V.1.26)の犬ならありかも:「cave canem」の警告はないが暗黙の内に「おとなしい犬がいますのでご注意くださいね」という表示にはなっていたかも。

https://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-10364395/Archaeology-Funerary-complex-dating-2-000-years-dug-Rome-included-dog-statue.html

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Meta Sudansの3D

 他をググっていたら、もっともらしい復元想像図を見つけてしまったので、紛れて失念しないうちにアップしておきます。新味は噴水として水の流れがちゃんと表現されていることで、3Dも年々もっともらしくなりますね。

https://gigazine.net/gsc_news/en/20210203-rome-in-3d/

 以下、参照。「太陽神としてのネロ貨幣」(2020年4月11日)

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古代ローマ船着き場の秘密・係留装置:オスティア謎めぐり(19)

 厳密にはオスティアでは未だ見つかっていないのだが、忘れないうちに。

 現在、ローマのカピトリーニ博物館で修復完了展示会がおこなわれている「トルロニア大理石」展であるが、以下はトルロニア博物館所蔵の「Portus 風景のレリーフ」。色々と謎に包まれた意味深な作品であるが(たとえば、今まさに港内に到着した左の大きな船と、うり二つの右の接岸して帆を下ろしたやや小ぶりな船は遠近表現による同一の船と考えられる、等々など:これもいずれ触れたかったテーマだ)、今はその右下隅にご注目いただきたい。

左のレリーフの欠損部分を付加補正した図が右画像である。

  右隅に四角の石(補正図では平たい丸石に変じているが)に丸い穴がみえるだろう。今日はこれが課題である。実は同様のものがポンペイやPortusで見つかっているのだ。

が、ポンペイのマリーナ門外浴場の西に広がる風景、はポルトゥスからの出土物

 レリーフの石も、これら長方形に丸穴のものも同一で、特にポンペイの段丘状の構造物はずらりと並んでいて、そこがかつての船着き場で、そこまで海が接してきていたわけである。で、あの石と穴は要するに接岸した船の係留装置ということになる。私は他に、帝都ローマのテヴェレ川左岸のEmporiumやリビアのLeptis Magnaで同様のものを目撃している。

Roma, Emporium ここを歩く時は女性は一人を避けたほうがいい:https://exhibits.stanford.edu/nash/catalog/ry842qz2076
Libya, Leptis Magna こっちは珍しくたて穴だ:https://www.ancientportsantiques.com/a-few-ports/leptis-magna/

  ポンペイのようにずらりと並んでいる様子から、当時の接岸方法は現在のように横付けではなく、船の先端部で係留されていたと想像するのが自然かと。その場合、船尾からは錨が海に投げ落とされたはずである(もちろん横付けしてその近くの係留装置にロープで固定する可能性も否定できはしないが)。

Leptis Magnaの港の想像図:船舶は船首か船尾かはともかく、横付けされていない

 従って埠頭に横付けした以下のような復元図は一般論としては疑問となる。この図では、右端にみえる件の係留装置はもっともらしく小舟用として描かれているが、これでは小舟からの人員や物資の荷揚げなどどうしていたというのだろうか。かくのごとく二次元だとなんでも可能となるが。

THROCKMORTON, P. (1987). The Sea Remembers: From Homer’s Greece to the Rediscovery of the Titanic. London.

 この接岸について実際にはどうかというと、当時の画像諸資料ではどうやら船首での接岸だったようで、そこに移動式と思しきタラップが描かれている。次のヴァティカン博物館所蔵のフレスコ画では船首からの荷揚げ作業を描いている。

 以下は、Portus出土のレリーフで、これまたTorlonia博物館所蔵。左に見えている帆の形から、コビタ船の船首部分のフォアマスト(アーテモン)と想定していいと判断してなのだが、いかが。

https://www.ostia-antica.org/vmuseum/marble_reliefs.htm

 他にも、トラヤヌス円柱のレリーフとかシケリアのウィッラ・アドリアーナのモザイクとかで同様の描写を得ることができるだろう(もちろん、船尾からと描かれている事例も混じっているが)。この悉皆調査ももう若い人にお任せせざるを得ないが。

【補論】ポンペイのPorta Marina近くの係留石群については、最近の研究であそこが港ではない、という見解も出ていることを知った。じゃあ、なんなんだあれは。後日より詳しく触れることできればと思う。cf., Descoeudres, J.P, The  so-called quay wall north-west of Pompeii’s Porta Marina, Rivista di Studi Pompeiani, 9, 1998, pp.210-217.

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