イギリス出土の拘束具付き骸骨をめぐって

 2021/6/4研究雑誌Britannia情報:

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/06/unique-burial-thought-to-be-rare-direct.html;an-unusual-roman-fettered-burial-from-great-casterton-rutland.pdf

 イギリスのラトランドRutland州グレート・キャスタートンGreat Castertonで、2015年に民家の改築工事中に骸骨が発見され、放射性炭素年代測定の結果、遺骨は男性で、後226年から427年と判明したが、この遺体の両足首には鉄製の足かせが付けられていたので、俄然研究者の注目を浴び、MOLA(Museum of London Archaeology)の詳細な調査が行われてきた。

イギリスとフランスでの奴隷用足枷出土地点と、グレート・キャスタートン
発掘地点と、発掘状況(頭部はない)
件の遺骨と足枷

 この男性は遺骨に残されていた痕跡から生前苛酷な労働に従事していたこと、またほんの60m先にローマ時代の墓地があったにもかかわらず、その外のしかも溝に斜めに埋葬されていた。

 古代ローマ時代の鉄製の足枷は数多く発掘されていて、当時の奴隷の拘束具だったと考えられているが、遺骨に装着されての出土はイギリスでは今回のものが初めてではとはMOLAの研究者の見立て。

はレントゲン写真で鍵の部分が詳細に見えてる感じで興味深い
たぶんこのような鍵構造だったのだろう:A pair of slave shackles linked by a padlock bar, on display in Norwich Castle Museum (image: Murdilka)

 とはいうものの、イタリアと違いさすがイギリスの研究者、なかなか慎重で、こういった拘束具付きでの埋葬は、奴隷に限らず死者を侮蔑したり、死後の霊魂を縛る目的でのものもあるので、一概に奴隷とは考えられないとの見解も示している(が、結論的には奴隷だったとにおわしているが)。それにDNA鑑定で、意外と遠隔地からの訪問者も確認された。北アフリカや中近東出身者である。

 この情報に接して思い出すのは、京都の古代学協会によるポンペイのいわゆる「カプア門」付近の発掘調査の最終段階の2002年に、北側城壁から約20m外側で、火砕流で流されてきた男性遺骨二体が、地表下7mから発見され(第一報の新聞報道では一人は少女とされていた)、男性は身長170cmで(もう一体は150cm)、彼の足首にやはり鉄製の足枷が付けられていたので、おそらくウェスウィオス山の裾野の農業ウィッラで労働・拘束されていた農業奴隷だったのだろうと結論された事例である(https://www.kodaigaku.org/study/study.html)。この発見はそれまで獣骨やゴミ出土ばかりだったので、「最後の最後に人骨が」と古代学協会の皆さん大変喜んでいたのを懐かしく思い出す。それにしても、もう20年も昔になるのか・・・

【補足】2020/6/12の報道によると、フランスのサントSaintesの円形闘技場は18000人収容できる現在フランスに残る最大のものであるが、その西250mの建築現場から後1-2世紀の墓地が発掘された。

サントと、円形闘技場の位置
サント円形闘技場の現況と想像図

 そして、約300の墓地の中から鎖で繫がれたままの大人四人、子供一人の骸骨が出土した。大人の三人は足首を鉄の鎖で縛られ、四人目は首に首輪も、子供は手首に鎖が付けられ、溝の中に互い違いに埋葬されていた。それで彼らは奴隷身分で、この墓地は、おそらく闘技場で処刑された人々の墓地だったのかもと想定されている。

、拡大頭部の首輪;、同じ人物の足枷にも注目

 だが、2005年にはイギリスのヨークで、大腿骨に野獣に噛まれた跡のあるのがDriffield Terraceで出土していた由で、それは野獣刑で犠牲になった者と想定されているし、同時に両足首に足枷嵌められた遺骸も出土しているようで(しかも頭部が切断されているのがここの特色とか)、そうなるとグレート・キャスタートンのものが最初という言説は成り立たないような気がするがどうだろう(https://www.theguardian.com/science/2010/jun/07/york-gladiator-graveyard;https://static1.squarespace.com/static/5c62d8bb809d8e27588adcc0/t/5d0779edfb33ed00011bbe70/1560771061518/Driffield-Terrace.pdf)。

、ヨーク西南の墓地地帯の地図、川向こうの北東隅に軍団駐屯地;、野獣の咬み跡
件の遺骸と、両足首の足枷

 しかもである。ブリテン島には、Isca Augusta(Caerleon)、Deva(Chester)、そしてEboracum(York)にローマ軍団が常駐していた歴史があり(Viroconium(Wroxeter)にも一時:今は補助軍には触れない)、上記2箇所には当然のように円形闘技場遺跡が確認されるにもかかわらず(ブリタンニア全体では都合15)、ヨークだけは未だその場所が不明とされ、現地ではその発見が話題となっていて、古代ローマ史ハンターたちの格好の調査対象となっている由。現在のヨーク大学構内の地下駐車場の下ではとか、セント・メアリーズ修道院構内地下じゃなかろうかとか・・・。

、軍団駐留地;、円形闘技場遺跡

 と、まあこのようにこの分野の研究はそれなりのエビデンス(えー、わざと使ってます)の蓄積あるので、研究対象になり得るとは、若いの誰かやらんかいという、老爺のお節介です。

 ただ、コンスタンティヌス大帝がご当地軍団によって皇帝歓呼されたと想定されているのは現在のミンスター教会で、そこはかつての軍団駐屯地だったから納得できても、円形闘技場の候補地に想定されているセント・メアリーズ修道院もヨーク大学もその区画、ということは、今般の遺骸出土地とはウーズ川を挟んで1.5km離れていることになり、この距離はちょっとありすぎのような気がしてならない。むしろ、墓地に近い川の南側に想定すべきではと愚考したくなるのである。

、中央から右側がDriffield Terrace
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「ダウントン・アビー」で学んだこと

 遅ればせながら5/23に掲載したことある「ダウントン・アビー」であるが、魅せられてこのところ昼から午後にかけて時間があれば、ま、いつも時間はあるので見ている(シリーズ4,5をやっていた)。

 そこで学んだことがある。時代錯誤といわれるだろうが、イギリス貴族の館で働く使用人たちって、古代ローマ時代の隷属民を彷彿させる立ち振る舞いなのである。もちろん転職の自由とか結婚の自由はあるのでかつての奴隷身分とはいえないが、一九二〇年ごろも厳然とした身分的に越えられない階級差が色々あったことが、赤裸々に示されている。

 私が中学で英語を学び始めたころ、当時はイギリス英語だったので、日本との違いで、日本語で「一階」が英語だと「ground floor」で、二階が「first floor」となると教えられた。それらしく訳すと「地階」と「一階」である。その理由を先生が教えてくれたかどうか、その記憶はない。そして「ダウントン・アビー」で、「上に行く」とか「下に行く」という言葉が多発されていて、「下」とは使用人たちの仕事場を専ら意味しており、ご主人様一家は上階を居住空間として使っているわけである(これはイタリアでも同様といっていい、いやそっちこそが本家というべきだろう)。

 で、具体的に、Downton Abbeyのロケ場所のイングランドに実在するHighclere Castleの構造がどうなっているのかを知ろうとかなりググったが、明確な平面図は地階のみしか見つけえなかった(それはほとんどご主人様一家が昼間利用する部屋で、彼らが目覚める前に使用人たちは早起きして暖炉に火を入れたりして、彼らの姿や労働が目につかないようにしていたのが印象的)。写真で見る限り基本構造として地上3階建て(塔部分で一部4、5階建て)なのだが、すべての平面図は公表されていないような。

では、右側が正面玄関;では、下側中央が正面玄関

 ドラマでの放送内容から、使用人たちの作業場、特に厨房は「地下」で、そのくせ彼らの寝室はどうやら最上階にあり、主人たち貴族一家は、昼間は「地階」(日本での一階)で過ごし、寝室は「一階」(日本での二階)のようだということがわかったごろに、以下の分解図を見つけたのだが、それでもそこに描かれていないように見える「二階」(日本での三階)には、おそらく使用人たちの寝室(そこを下図では「Servants’ Corridor」と表現している)以外になにがあったのか、私には分からないままなのである。ないし、下図での塔の描き方からすると、ご主人たちの寝室は日本での三階にあって、使用人の寝室は屋上にあったのであろうか、そうすると二階はどうなっているのか・・・、いずれにせよどうも合点がいかないままである(ご存知よりの方からご教示願いたい:k-toyota@ca2.so-net.ne.jp)。

正面玄関は、右側

 とまれ、古代ローマの富裕層が住んだ邸宅domus型において、「地階」は主として奴隷からなる使用人たちの作業場、客間、それ関係のご主人様一家の昼間の居場所からなっていて、「上階」(日本での二階)は専らご主人様一家の寝室が占めていたと確信している私には、たいへん興味深い居住空間の棲み分けではあった。

 ↑来客空間   ↑ここに上階部分     ↑ 家人たちの昼間の居場所 

 ところで奴隷がどこに寝ていたのか、実はこれがまったく明確ではない、というか作業場は確認されていても彼ら用の寝室などといった洒落た個室は確認されていない。おそらく夜間使用されない廊下とかの空間にゴザなど敷いてごろ寝していたと思われる。ご主人様付き奴隷なんかは、ご主人様の寝室の隅の壁の凹みで寝ていた、という話を九大の堀先生から聞いた記憶がある。

 こういうのって、江戸時代から昭和にかけての大店の丁稚などの使用人たちが昼間の売り場の板の間なんかで雑魚寝していたのと同様だったかもなのである(映画なんかでの描き方とは違って:私のこういう雑学は、実体験者の語り部・赤松啓介大先生からのものである。ま、彼の『夜這いの民俗学、夜這いの性愛論』【1994年初版】ちくま学芸文庫、2004年、の彼の辛辣な、世情庶民の生き様にうとく何も知らない学者先生批判も併せて、熟読・玩味をお勧めする)。

赤松啓介(1909-2000年:91歳)
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アメリカでのアジア系の現実:飛耳長目(87)

https://wedge.ismedia.jp/preview/81c1bd8f7c22bed8bff26dce35447ff081c2f1ea

 読んで印象深かった一節を引用しておきたい。

 「私たちは地位を築いたと思われており、法を守りながらこの国の記憶喪失の霧へと消えていく。我々は権力になれない代わりに、権力に吸い上げられる。白人の権力を分け与えられないどころか、我々の先祖を搾取してきた白人のイデオロギーの引き立て役にすぎない。  この国は、人種上のアイデンティティーは重要じゃないと言う。いじめも昇進も、私たちが何か話すたびに言葉を遮られるのも、人種とは関係ないそうだ。私たちという人種はこの国とは何ら関係がないから、我々はよく統計で「その他」にされる。人種分析でも、レイプや職場内差別、DVで我々のことは議題に上がってこない」

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世界キリスト教情報第1585信:2021/6/7

= 目 次 =
▼カナダの先住民寄宿学校跡で215人の遺体=支援団体は「全国的な捜索」要求
▼遺体が発見された子どもたちを追悼しオレンジ色のシャツ並ぶ
▼教皇、教会法を改正、聖職者の児童性的虐待に処罰
▼ミュンヘンのラインハルト・マルクス枢機卿が早期辞任を教皇に要請
▼「国連生態系回復の10年」の開始に教皇メッセージ
▼香港から消える「天安門」の歴史=米紙報道
▼韓国仏教「曹渓宗」関係者、“釈迦誕生日”行事妨害した「プロテスタント信者」を「告訴」
▼イスラエル南部のヘロデ王時代の遺跡公開、大理石の柱や劇場も

 今回は最後の件だけというわけにはいかない。ちょっと長くなるが。どうしてこんなことが。しかもカトリック教会が加担していたとは。私は無知なので知らなかった。

◎カナダの先住民寄宿学校跡で215人の遺体=支援団体は「全国的な捜索」要求
【CJC】カナダで先住民同化政策の寄宿学校跡地から未成年215人の遺体が発見された問題を受け、同国の先住民支援団体「ファースト・ネイションズ連合」は5月31日、犠牲者の集団墓地がほかにもないか全国で捜索するよう政府に要求した。英BBC放送が伝えた。
 カナダでは19世紀から20世紀にかけ、政府とカトリック教会当局が先住民寄宿学校を運営し、同化政策を行っていた。カナダ政府は2008年、この同化政策について正式に先住民に謝罪している。
 5月27日に遺体が発見されたのは、西部ブリティッシュ・コロンビア州カムループスの先住民寄宿学校の跡地。遺体の中には3歳児も含まれていた。
 同校は1890年にカトリック教会の運営で開校し、1950年代には最大500人もの生徒が入学していた。1969年には中央政府が運営するようになり、78年に閉鎖されるまで地元学生の学生寮として続いた。
 ジャスティン・トルドー首相は記者会見で、「父親として、子どもを無理やり取り上げられたらどう感じるのか、想像すらできない」と話した。その上で、「首相として、先住民の子供をコミュニティーから奪い引き離すなどという、恥ずべき政策にショックを受けている」と説明。支援と「確固とした措置」を行うと述べたものの、詳細は語らなかった。
 プリンス・エドワード島のシャーロットタウンでは今回の発見を受け、カナダの初代首相ジョン・A・マクドナルドの銅像が撤去された。マクドナルドは、同化政策や寄宿学校の設立で大きな役目を果たしたため、抗議者の標的になっている。□
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◎遺体が発見された子どもたちを追悼しオレンジ色のシャツ並ぶ
【CJC】バンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)近くの道路に215枚のオレンジ色のシャツが並べられている。同州カムループスの先住民族寄宿学校の跡地で遺体が発見された215人の子どもたちへの追悼の意が込められている、と周辺のニュース報道に特化する「バンクーバー経済新聞」(日本語)が6月6日報じた。
 カナダでは先住民族の人々に対する同化政策の元、1880年代から1990年代まで各地で主にカトリック教会が寄宿学校を運営。15万人以上の子どもたちが家族と離れての生活を強制された。寄宿学校在籍中に行方がわからなくなった子どもについては記録もなく不明とされてきたが、先住民族の人々は校内での死亡事例も含めて調査を求めていた。今後、全国にある寄宿学校跡地での調査が進めばさらに遺体が見つかる可能性もあるという。
 オレンジ色のシャツを着ることはカナダで寄宿学校に対しての意識を高めるための方法とされており、「オレンジシャツ・デー」は、1973年に寄宿学校に入学したフィリス・ウェブスタッドさんが着ていたお気に入りのシャツを記念して名付けられた。□
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◎教皇、教会法を改正、聖職者の児童性的虐待に処罰  
【CJC】教皇フランシスコは6月1日、「教会法典」を改正し、活動家が長年求めてきた聖職者による未成年者性的虐待への処罰指示を盛り込んだ。バチカン・ニュースなどが報じた。改正の目的は「正義の回復と加害者の更生、そして汚名をそそぐこと」としている。改正法は12月に施行される。  
 教皇は2013年の就任以来、世界各地で数十年に及ぶ聖職者の性的虐待問題の解決に向けて積極的に取り組んできた。  
 バチカンが近年、聖職者による虐待の根絶と透明性の向上を図る施策を講じているが、子どもを守るには不十分だとの指摘も一部の被害者から上がっている、とAFP通信報道。□
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◎ミュンヘンのラインハルト・マルクス枢機卿が早期辞任を教皇に要請  
【CJC】カトリック教会首脳の中で注目される1人、教皇にもっとも近く、また影響力も強いと見られていたミュンヘンとフライシンク大司教のラインハルト・マルクス枢機卿が6月4日、教皇フランシスコに、辞任を認めてほしい、と要請した。独立カトリック日刊紙「ラ・クロワ」が報じている。  
 マルクス枢機卿は67歳で、退任が通例とされている75歳にはまだ8年ほどある。  
 彼はバチカンが聖職者の性的虐待問題に取り組むために時間と資源を割くように仕向ける原動力の1人だった。  
 以前から、教会の利益やイメージを守ることよりも、被害者のニーズに焦点を当てることを提唱、内外の教会が勇気を持って教会内の性的虐待に対処するように務めた、率直で優れた司教の1人だった。  
 バチカンが3月15日、同性婚を祝福することはできず、司祭による祝福は無効との公式見解を発表した。  
 教皇の最高顧問の役割にあるマルクス枢機卿など2人の高位聖職者が「素朴 な」祝福に賛意を示していたことなどに、ドイツの保守派カトリック教徒の警戒が強まり、今回の「早すぎる辞任」につながった可能性もある。□
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◎イスラエル南部のヘロデ王時代の遺跡公開、大理石の柱や劇場も  
【CJC】イスラエル考古学庁(IAA)は、イスラエル南部の都市アシュケロンにある、2000年前の遺跡を公開した。この遺跡は、エルサレムを支配し、聖書にも登場するヘロデ王の時代のもので、バシリカ(法廷や市場などが入った建物)とされる。    
 遺跡の発掘をしている考古学者らによると、バシリカには高さ13メートルの大理石の柱に囲まれたメインホールや、劇場があった。□

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ローマ時代の磔刑についての新説

 2021/6/2付でのBiblical Archaeology Societyから送られて来た情報「Roman Crucifixion Methods Reveal the History of Crucifixion」が興味深い。読者のコメントもすでに69に及んでいる。要するに1985年に提出されたローマ時代の磔刑の実際に対する批判に基づく新説で、端的にいうと、以下の図の左から右への変化である。

 私は以前の小稿(「ローマ時代の落書きが語る人間模様」上智大学文学部史学科編『歴史家の散歩道』上智大学出版、2008/3/31、pp.283-300)で、付帯的にではあるが、いわゆる旧説を紹介したことがある。新説のキモは、以前の唯一の出土諸資料(骨、木片、釘)の再検討によって、両手首は釘で打ち付けられてない、諸足首が一本の釘で打ち付けられていない、という点にある。

ひとつだけ付言しておく。よく巡礼たちがエルサレムでイエスの真似事やっていて、via Dolorosaで片々とした十字架を軽々と担いで錬り回していたりしているが、あれはカトリック教会堂内の「十字架の道行き」via crucis なんかの影響での誤ったイメージで、実際は、処刑場には縦棒が常設されているので、死刑囚は横棒だけ両手にくくりつけられて運ばされ、処刑場に着くと横棒ごと縦棒にひっかけ上げ下ろしさられていたらしい(ヴァリエーションは各種あるだろうが)。

 詳しくは上記のデータをググれば容易に英語原文に行きつけるので、それをDeepLなどの翻訳ソフトにかければ簡単に邦訳できるから、是非試してほしい。私が最近煩瑣に新情報を掲載できているのもそのお陰である。いちいち辞書ひかなくていいし、翻訳文を打ち込まなくていいので、楽である。

 だけど、修業時代の若い人に真似してもらいたくないような気もしているが、労力削減には目のない彼らのことだ、演習などでもう十二分に活用しているに違いない。だったら大量読破でより角度と内容のある卒論・レポートの量産に励んでほしいと私など思ってしまうが、何のための労量軽減かというと彼らの目的はそこにあろうはずもないのだから、実力の低下は目に見えているだろう。ああ。

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呪詛が刻まれた2300年前の壺発掘

 とうとう成果公表にいたらずに終わりそうな私の呪詛板研究であるが、2021/6/1付情報で、アテナイのアゴラ出土の壺が公表された。かつて職人たちが働いていたアテナイのアゴラの商業ビルの床下から、出てきた今から2300年前のその壺には、鉄の釘や貨幣、それにまだ幼いニワトリの頭部と下肢の骨が入っていて、壺の表面には55名以上の名前が刻まれ、鉛板の呪詛板の場合と同様、釘で突き刺された穴も残っていた。

 研究者はそれを、未だ自分を守れないニワトリの無力さを呪いの対象にし、頭部と下肢にあいた穴は55人の呪われた人々に対応する体の部位に同様の影響を与えるべく呪ったのだと説明している。

 いつの世も、呪いたくなる対象がいるのが人生なのである。

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スペイン・メリダからモザイク舗床出土

 私が一度だけ訪問したことのあるメリダMéridaからの2021/5/13情報。ベニート・トレサノBenito Toresano通りでのガス工事中に、紀元3世紀末から4世紀初めの幾何学モチーフのモザイク群が発見された。専門家は古代ローマのヴィッラのものと考え、民家の下にまで伸びていて、自治体はさらに範囲を拡大して調査する予定。

 メリダでは1978年に同じ通りで「猪と犬のモザイク」が、この3月末には4世紀の金庫が発見された、というようにやはり前25年のアウグストゥス時代にローマ都市として機能し始めていたこの町に話題は尽きない。博物館はとりわけ素晴らしかった。私は訪問時の記念として古物商からコイン一つを購入したことを思い出す。

 上述の「猪と犬のモザイク」って、これだろうか。犬が見えないようだが。

【閑話休題】写真で見るとせいぜい数十センチの深さで出てきているから、これまでの建物や地下工事でも実は見つかっていたはずと思う。これは首都ローマも同様の状況である。東京だって江戸末期の遺物は同様で、有り体に言えば文化財調査員に見つからなければ壊してでも工事の納期を護りたいというのが、施主側の本音であろう。

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オスティアに円形闘技場?:Ostia謎めぐり(9)

 オスティア関係でググっていて以下を偶然見つけた。「Ostia at Tulane」(https://ostiaattulane.wordpress.com)。最初はTulaneの正体がわからず、アメリカかどっかのOstiaという別名の町なんだろうと思ってパスしていたが、検索していくうちに、Pinterestがらみでイタリアの我らのOstiaの画像が引っかかりだして、要するにアメリカのルイジアナ州ニューオーリンズにある私立大学で、そこでの2017年度の秋学期の「Roman Ostia」セミナー(Allison Emmerson Assistant Professor指導)の参加学生が調査研究した内容の一部を2017/9-12にかけてウェブ化したものだったこと、が分かってきた。

A.Emmerson女史(2013年にU.of Cincinnatiで博士号取得);右は2020年にOxford UP出版の主著

 なんと学生2名づつのたった3グループでの成果のように表記されているが、その内容たるや完全に愛すべき我が国の学部レベルのレポート水準を越えていて、驚嘆ものなのはどうしたことか。

 今はその詳細な紹介は省いて、私的にもっともビックリした件にだけここで触れておきたい。そこは第5地区のこれまで私の盲点だった場所である。というのは、そこは東西大通りデクマヌス・マキシムスの東端であるローマ門から西に少し歩いた左手(南)の、Google Earthで見ても未発掘の(あるいは、埋め戻された)単なる野っ原にしか見えず、東西大通りからは樹木でその向こう側(南)を見通せないし、これまで足を踏み入れたことがないからである。次回に訪問の機会があれば実際に現地を訪れてつぶさに確かめてみたいと思う。

               ここの空間にあった?

 彼らのレポートによると、このスペースは元々倉庫だったが、オスティアが衰退していく中でスペースが余ってきたのを利用して、そこに円形闘技場が建設されたと。辛うじて北西に楕円の痕跡が残っている由(cf., https://brewminate.com/store-buildings-of-ancient-ostia/)。縮尺によると長径は80mほどの規模だったようだ。またその存在の傍証に、浴場、特にネプチューンの浴場で発見された舗床モザイクに(下記【付言】の12)、円形闘技場の存在を裏付ける証拠も記されている、と。本当にそう言えるのであろうか。舗床モザイクに多く見受けられるのは、円形闘技場に特化した剣闘士競技ではなく、むしろボクシング、レスリング、それに統合格闘技パンクラティオンといった競技なのだが。ただ、場所的には、真正面の北側には先ほど触れたネプチューンの浴場付設の運動場palaestraや関連モザイクも遺存しているし、さらに西に少し歩けばローマ式劇場も設置されている、という土地柄ではある。

 これが本当だとすると、典型的ローマ都市の定番公共施設として、こうしてオスティアに欠けているのは(ないし今現在未発掘なのは)競技場くらいになるわけである。

 これまで私はこの地域では、Southampton大学のSimon Keay教授を発掘責任者としてPortusで2007年から3年間で発掘された円形闘技場しか知らなかったので、Ostiaにもそれがあったという想定はまったくの不意打ちであった。ポルトゥスのそれは後2世紀後半から3世紀前半にかけて、皇帝宮殿の東側ファサードと北側の領域に囲まれた、42m×38mの楕円形の空間だった。遺存する土台部分からすると一見半円形で劇場にみえるが、それは後世になって道路が作られて破壊されてしまったせいだとのこと。ポルトゥスのこの闘技場は、皇帝主催で客人を招いて行われる個人的使用のためのもの、とどこかで読んだ記憶がある。

、円形闘技場発掘地点;、3Dモデル

【付言】上記のネプチューンの浴場に私は積年のつのる思いがある。それは下図の2の部屋がらみのことである。その部屋は現地の説明板にも「トイレlatrine」と表記されているのだが、見学に入れない。私も外から覗ける色々の角度で内部観察を試みてきたのだが、かなり床が掘られているようでもあり、倉庫になっているようでもありで、よく分からないのである。なんとも隔靴掻痒状態なのである。ただこの区画にはまったく反対側の角の14に、明々白々な公共トイレが公開されている。同様なことはポンペイでもあって、VII.5の南端にもともとトイレがあったのだが、現在そこは遺跡内レストランと売店となっている。また、II.711、すなわち円形闘技場の西側に隣接した大運動場の南端にひっそりと大型トイレがあるのだが(下記平面図11)、ここも倉庫となっていて公開されていない。どうもトイレはこのように転用の受難を受けやすいようだ。

、Terme di Nettuno (II,IV,2)の平面図;、Pompeii,VII.5現況
、大運動場南端入口と、壁越しに奥まって位置しているトイレの建物
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未成年者に危険な?バチカン:遅報(75)

 詳しくは2021/5/29発信の、カトリック教会の宿痾に触れた以下をお読みいただくとして(http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/cat_50020859.html)、意味深な最後の一節だけ引用しておこう。

 「ヨハネ・パウロ2世暗殺未遂事件から40年が過ぎる。イエスの再臨を恐れてきた「この世の神」は、ファティマの「第3の予言」内容をヨハネ・パウロ2世の暗殺未遂事件であったと受け取らせることで、「イエス再臨の時」の知らせを封印させたのではないか。」

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新コロナ米中合作説:飛耳長目(86)

 例のお騒がせ「陰謀論」者・田中宇氏が以下を公表したのでお伝えする。「米中共同開発の生物兵器が漏洩して新型コロナに?」(http://tanakanews.com/210604corona.htm)。

 私はど素人だが、これまで洩れ承ってきた数々の仮説が、それぞれ絡み合っていて一応辻褄があうような気がする。現実の前にはもっともらしいイデオロギーや体制の壁は存在しないのが常識ではある。

 うちの妻はかねて「新型コロナはなかなか巧妙な生物兵器」とのたもうていた。

 我が愛すべき祖国も今般のような状況を予見すべく、しかるべき生物兵器対抗策を独自に構築すべきではないかと思わざるを得ない。いうまでもなくそれは生物兵器開発と裏腹の関係にあるわけで、よってそれを論外として葬りさる主張も当然あるが、そんな反論は意図的に片目をつむった偏狭思想に過ぎない。モリカケ問題の、後者の深淵は実はそこに関わっていたのではないか。某評論家が言っていた、ウイルス問題は人間対象の医者よりも獣医師のほうが実は専門家なのだと。

【追記】今日のBS日テレ「深層ニュース」でまさにこの話題が取り上げられていた。以前ニュースとして伝えられたがトランプ政権の時「陰謀論」でアメリカのメディアが取り上げなかった公開情報が、今見直されている、という流れのようだ。アメリカの公的資金が最高責任者のファウチからダザック某なる人物を経由して武漢のウイルス研究所に流れた金額も具体的に60万ドルと出てきていて、おもしろい、というか俄然信憑性が・・・。

【追記2】我が国がほんと遅ればせながら、動き始めることにしたようだが、さて・・・、どこまで本気なのやら。「司令塔不在、日本のワクチン製造・開発」(https://wedge.ismedia.jp/articles/-/23217?utm_source=newsletter&utm_medium=email&utm_campaign=20210610)

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