拍手するよりカネをくれ!

 世界中で、医療従事者や消防士たちの奮闘に対して拍手する動きが出ていて、美談となっている。しかし表だってマスコミが触れないテーマが、彼らの低賃金である。どうもマスコミとは、そういう差別から結果的に目をそらしているようだ。ま、書けば賃金差別、職業差別、人種差別なんかに触れざるを得ないからだろう。イギリスのジョンソン首相が退院時に感謝を表明した看護師2名もニュージーランドとポルトガル出身の移住者だった(https://www.bbc.com/japanese/52266017)。彼の場合たまたま白人看護師だったのだろうか。それにしても「純ナマ」のイギリス人看護師はどこにいるのだろうか。また医療現場には多くの非熟練者が必要なことも忘れてはならない。

 首相が単純労働者で英語のできない移民の排斥論者だったことを忘れてしまっていいのだろうか(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53584040Z11C19A2FF1000/)。彼の目には、最も感染の恐れの高い汚物処理に従事している移民労働者の姿は入っていたのだろうか。そんな従業員のいない、社会的成功者のみが享受できる病院だったのだろうか。誰も教えてくれないので、私は何も知らない。

 私が知っているのは、死んだ母がお世話になっていた施設で、朝のおしめ交換に従事している人が、ほんと短期間で替わっていったことだ。一度だけ若い男性(もちろん日本人)だったことがあるが、1週間後にはもう姿を見なかった。

 日本人は民度が高いらしいから杞憂だと思うが、誤読する人がいるかもなので、書いておく。私は医療従事者たちに拍手するのが偽善だからやめろ、と言っているのではない。拍手で終わっていいわけないでしょ、と言っているのである。それは今でも年金生活者には高額に思える「介護保険料」のさらなる負担につながるだろう(先日、区から届いた本年度の私の所得段階は「8」だった)。懐にこたえるが仕方ない、と思っている。以下も参照。https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2004/24/news024.html

1994年放映だから、もう26年前になるか
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歴史上の人物の実像:遅報(40)

 今から16年前の、2004年のNHK大河ドラマは三谷幸喜脚本の「新撰組!」で、主演の近藤勇に香取慎吾(当時27歳)、土方歳三に山本耕史(28歳)を配していた。私はどうしてこんな若僧が近藤や土方をやるのか最初全然理解できなかった。若いファンに媚びを売って視聴率を獲得する戦術なんだろうと思ったが、調べてみると、近藤は1834年生まれで満33歳で処刑死、土方は1835年生まれで34歳で戦死している。ついでに言うと、坂本龍馬は1836年生まれで31歳で暗殺されたが、これは知っていた(配役は37歳の江口洋介)。要するにそれまで年上の役者たち(片岡千恵蔵・嵐寛寿郎・三船敏郎・ビートたけしら、いずれもおおむね50歳以上:例外は栗塚旭29歳)が彼らを演じていたこと、それに近藤の恰幅のいい写真などの印象で、私のほうが誤ったイメージを持たされていたわけで、三谷の脚本が年齢という一点で史実に近いという斬新さに納得させられてしまった(勿論、他はフィクションだらけだったが)。

近藤32-4歳ごろ:土方33-4歳ごろ

 それで気になってちょっと彼らの身長をぐぐってみた。もちろん諸説ある。当時の日本男子の平均は158〜9cmのところ(どういう根拠で平均なのかは私には不明であるが)、近藤は164cm、土方は167cmで、平均よりはかなり高い。意外だったのが高杉晋作(1839年生まれ29歳で結核死)で、平均よりも小さかったようだ。どこかで読んだ記憶があるが、長い刀を引きずって歩いている感じだったらしい。下の左の写真でもつま先立ちで写っている。伊藤博文は158cmで、小柄とされていた勝海舟が156cm(別説では5尺=151.5cm:徳富蘇峰『蘇翁夢物語 わが交遊録』中公文庫;これじゃあ173.5 cmの福澤諭吉とははなからソリ合わないよね)。なので晋作もこのあたりかと。ただ、この数字、はたしてちょん髷での高さなのだろうか。そうだとすると、実際よりちょっとゲタ履かせていることになる。そして、高杉にしても勝にしても、目覚ましい胆力を発揮したのも小兵ゆえだったような気がしてくる。身体的劣等感をバネにして自分を大きく見せるためである。ちなみに、香取君は公称182cm、耕史君は179cm。

右の写真、中央が晋作、右が伊藤博文
咸臨丸乗船時:左から勝、赤松大三郎、小野友五郎

 いずれにせよ、こういったことが分かるのは近現代で写真や衣服といった身長想定が可能なブツが残っているからで、古代ローマ史となると、さてどうなることやら。ちなみにアウグストゥスは「背丈は低かった。もっとも解放奴隷で記録保管係ユリウス・マラトゥスは、5ペース9ウンキアあったと伝えているが」(スエトニウス「アウグストゥス」『ローマ皇帝伝』、II.79)との文書史料が残っている。即ち、公称で169.7cmということだが、どこまで信じていいのやらはなはだ心許ない。同書73ではご丁寧に「靴は実際よりも背を高く見せようと、心もち踵を高くしていた」とまで書かれているし。発掘結果から当時のゲルマン人の平均身長は172cmで、ローマ人のそれより約20cm高いという一般論を信じるなら、「背丈は低かった」とわざわざ明記されているので、せいぜい152cm程度の、そのうえ虚弱体質の持ち主だった(76-83)のが実際の所か。彼は、18歳でカエサル(54歳で暗殺死)の相続人・養子になったが、当時まったくの無名で、キケロ(62歳)やアントニヌス(38歳)たちに「小僧puer」「阿呆stupidus」呼ばわりされ相手にされず、またカエサルの遺産もアントニウスに奪取され、深く怨みを胸に刻み込み、のちにねちねちと冷酷な復讐に走る(10-16)。

若い時のアウグストゥス:いかにも神経質そうで根に持つタイプか

 他方でスッラやカエサルは180cmあったという数字もあるらしいが、私にはこっちも即座に同意しがたいのだ。後3世紀末の徴兵検査で、5ペース10ウンキア=172,3cmが記録されており、4・5世紀の徴兵検査でもそれが必要とされてたようだが(拙稿「<大迫害>直前のローマ帝国とキリスト教:殉教者伝叙述を中心として」『キリスト教史学』31, 1977, p.7)、この数字、私にはかなり高めの身長に思えてならない。ひょっとすると検査官がにたにた笑いながらこの数字を発することは「合格!」と同義語だったのかもしれないな、と最近考えるようになっている。

 日本人の某有名タレントは公称176cmだが、シークレットブーツ着用疑惑が囁かれ、並んだ写真の他との比較から168cmでは、との噂が絶えない(同じグループメンバーに、170mや165cmもいたのに、気にするのかあ)。あれだけ衆人環視の現代のタレントでさえ8cmさば読んで通用するのが事実なら、古代ローマ時代に兵士より頭ひとつ抜きんでた偉丈夫が英雄であれば、実際より大きな印象で捉えられることは十分ありえるからだ。

 実像と虚像、実際よりも大きく見せたい側と、そのウソを暴こうという側の攻防のはざまで、英雄という一点で思わず知らず虚像を受け入れて疑わないのが、私のような凡人の常であろう。現代の有権者は選挙で身長ある政治家を選ぶという一般論があるそうだ。興味ある人は以下をご覧あれ。ちなみに角栄は164cm。私にとって意外だったのは口をひん曲げてこましゃくれたイメージの麻生太郎が公称で175cmもあることでした(実際は4㎝短いという説あり)。https://ameblo.jp/take4648kish/entry-12397131197.html

 その後、山本五十六と米内光政がらみで面白いデータをみつけた。海軍士官は高身長でかっこいい人が多かったらしいが(狭い船内では短躯のほうがいいはずだが、士官は別か)、山本は159-160cmでそう高くなかった。米内は公称で180cmあったことになっているが、どうやら173cmくらいだったようだ。近衛文麿は180cm。

左、米内と山本;右、米内と中央が近衛
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世界キリスト教情報第1534信:2020/6/16

= 目 次 =      
▼米国務省が信教の自由に関する年次報告書、「中国の宗教弾圧激化」を批判      
▼米制服組トップが大統領の教会訪問同行を「間違いだった」と語る      
▼人種差別理由に『風と共に去りぬ』配信を米動画サービスが停止      
▼米抗議活動のメッセージ、収集する国立博物館学芸員      
▼ガーナ、国内制限緩和の第1段階開始      
▼フランシス・コリンズ氏にテンプルトン賞      
▼旧教徒らが聖書を教会スラヴ語からロシア語に初めて翻訳      
▼対ドイツ戦勝75年の祖国防衛たたえロシア軍主聖堂除幕      
▼コンピュータを聖書研究に使ったF・アンダースン氏死去

 時節柄、3番目を転載しておきます。

◎ 人種差別理由に『風と共に去りぬ』配信を米動画サービスが停止  
【CJC】世界各国で人種差別と警察の暴力に抗議するデモが拡大する中、動画配信サービス『HBOマックス』が6月9日、映画『風と共に去りぬ』をストリーミング配信のコンテンツから削除した、とAFP通信が取り上げている。  
 南北戦争を舞台にして1939年に公開された作品はアカデミー賞9部門を受賞した歴史的大作とされて来たが、奴隷が不満を言わず、また奴隷所有者が英雄のように描かれているという部分はこれまでも批判されてはいた。  
 『HBOマックス』は、歴史的背景に関する議論や説明を追加して配信を再開する予定だが、「差別は存在しなかった」と主張することになりかねない、と編集は行わない意向。□

 最近第2シリーズが始まったスーパー・ドラマTV「サバイバー:宿命の大統領」第3話で、奴隷制を容認した南部連合の英雄の銅像撤去問題で、黒人で長年人種差別と闘ってきた長老のデール牧師は、アメリカの暗黒の歴史を忘れるべきではないと、移動するのに反対する場面が。こうでなくちゃいけないよねと、懐の深さを感じさせてくれた意見だった。この第3回は、もう一つの話題で新型インフルエンザ発生も演じられ、なんだか予言めいた構成となって驚かされる。

 この番組、原題はDesignated Survivorで、直訳すると「指定生存者」。これは第1シリーズで劇中でそのままそう邦訳されていたが、題名ではどうして「宿命」になるのか、私には疑問。ラテン語で「consul designatus」というと、翌年執政官に就任が予定されている人物を意味していて、古代ローマ史ではまあ身近かな言葉なので、ちょっと気になっている。

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ツタンカーメン:遅報(39)

 専門外の著名な考古学的知見については、素人なので触れたくは無いのだが、先ほどBS4Kで「地球ドラマチック」「ツタンカーメン:財宝に刻まれたファラオの真実」(2018年フランス製作)の再放送をみて、びっくり。それよりちょっと前にこれも偶然見た再放送、たぶんBSプレミアムでの「探険!ツタンカーメン王墓」(2017/11/18放送)がCG技術を駆使して詳細に扱っていたのをみた後だったので、まあ、製作の時差が一年あるにしても、あれれと思わされてしまった。「探険!」の内容がもう古い感じなのだ。

王墓全体の透視CG画像

 核心はなにかというと、2018年のほうがなかなか興味深い話で、仏人研究者マルク・ガボルド博士の仮説に基づいて、これまでツタンカーメンのものと思われていた副葬品やあの黄金のマスクも別人用に作られていたことが、カルトゥーシュの書き変え痕跡から判明した、というもの。書き換えの事実は2015年頃にすでに判明していたようで、元の名前については諸説あったようだが(https://55096962.at.webry.info/201601/article_19.html)、2018年の番組ではイクナートンの四女だっけの「メリトアテン」で、どうやらツタンカーメンが大きくなるまでつなぎで女性ながらファラオをやっていたということらしい。以下の図の緑がツタンカーメンのカルトゥーシュで、赤の部分がそこに残されていた前の痕跡、それに基づいての復元例が黄色というわけ。

以下から拝借:https://55096962.at.webry.info/201601/article_19.html

 その説に基づいてのことかどうかは不明だが、最近の以下の論文でもツタンカーメン王墓内出土品に「メリトアテン」名が残っていると指摘されていて、これはもう定説となっているようで、素人にはたいへん興味深かった(野中亜紀「トゥトアンクアメン王墓出土のクラッパーに関する一考察」『貿易風 :中部大学国際関係学部論集 』第14号、2019)。

 ところでコロナ騒ぎで取り紛れ忘れていたが、私の余命はあと2610日。

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コロナ後の在宅勤務の陽と陰:飛耳長目(46)

 コロナ後の社会の変化が論じられ始めた昨今、しかし私には若干違和感がある。コロナ後に社会は元に戻るだけで、いわれるほどの変化は生じないだろう、特に日本では、と考えるからだ。たしかにテレワークが飛躍的に増加したかもしれないが、それは非常事態への臨時対応であって、平常に復せばやはり元の木阿弥になる可能性のほうが大きいはずだ、という直感によっている。

 しかし、一度味わった在宅勤務のうまみをサラリーマンは忘れることはできないのも確かだ(痛勤なし、不毛な人間関係の軋轢なし、マイペースでの勤務可等)。私にはサラリーマン体験がないので分からないところがあると思うが(大学教員など、どちらかというとこれまでも半分以上在宅勤務系だった)、在宅勤務を是として前に進めるためには国による「在宅勤務権」の法制化が絶対必要だと思う(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60324760S0A610C2MM8000/)。

 だが、例のごとくスローモーな我が国のこと、たぶんこの潮流には乗り遅れ、よって従来の勤務形態に復帰せざるを得ないだろう、それがさらに「衰退途上国」への流れを促進するはず、と私は読んでいる。ともかくすでに労働生産性において世界主要国中で最底辺の21位とか(あのイタリアよりもランクが低いとなれば、ここでも統計に不信感をいだかなければならないかもだが、今回の電通ではないが、大企業で生産活動しているわけではなく利ざやだけとり、実際の仕事は4次5次の下請けがしているというシステムが問題らしい)。学校関係での新学期9月移行が今回も流れてしまったのが象徴的である。私は密かに安倍政権の後先考えない独断専行をこの件についてはどこかで期待していたのだが(そこまで根性が座っていなかったわけ。ま、分かっていたことではあるが)。それで国際化が促進するなどと楽観論に組してのことではなく、単に入試時期を受験生に苛酷な季節から移動させたいと思ったからである。誤解なきよう付言しておく。新しい制度では新たな問題が生じる。このモグラ叩きに終わりはない。

 さて、なぜかバラ色で描かれ勝ちな「在宅勤務」であるが、当然マイナス面がある。それを週の7分の3は在宅だった私の体験から述べてみたい。まずは、痛勤がないので、運動不足となる。それは肥満体質の人には生活習慣病への突入を意味する。また真面目に研究をする大学教員は際限のない時間外労働に知らず知らずのうちに取り込まれてしまう。私も現役だった時は、それでも週の半分は授業や会議で登学しなければならないので、社会人としてまだまともだったと思いたいのだが(登学するだけで、それなりの運動となった)、リタイアしてからは完全に昼夜が逆転する不健全な生活の常態化となった。もちろん、老化による能率がた落ちという事情もあるし、切迫した日限もないので、ま、よろずマイペースとなり、これは精神的にはいいかもだが、明日がないくせに明日なろうと先送りしてしまう。

 要するに、体感的には、これまで以上に健康面での自己管理が必要となる。それができない私にもう先は見えているといっていいだろう。私は先のない老人だからいいとして(本当は、ぽっくり逝きたいので、いいはずはないが)、若い時からそうなっちゃったら、どうなるだろうか。考えるだけで恐ろしい。

【補遺】このところ興味深いコロナ関係の新聞ウェブ記事が連発されている。いずれもM日新聞であることはさすがだ。特に3番目の都市封鎖がやり過ぎだとの、いかにも関西的な率直な意見は読み応えあった。

日本の死者はなぜ少ない? コロナ諸説を探るhttp://nml.mainichi.jp/h/aczGa5hYgVoNigab

◎ 日本の奇跡は完全な虚構だ! 山梨大学長・島田眞路が怒りの告発:https://mainichi.jp/sunday/articles/20200609/org/00m/010/002000d

大阪モデルの「過剰な要請は不要」だった?http://nml.mainichi.jp/h/ac1sa5ig2TtX6pab

コロナと重なる「複合災害」時代の備えhttp://nml.mainichi.jp/h/ac1uayhnidaxwqab

 それにしても、人口数千万の主要国が10万、20万の感染者数なのに、かの中国は感染者数8万3千、死者4千600とは。

【追伸】ピンチはチャンス、と本当に思う。「テレワーク、憧れの書斎は1畳半 改装や郊外へ転居も」(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60504480Y0A610C2H11A00/)。テレワークへの対応で従来の住宅の部分的リフォーム需要。すばらしい着想だと思う。私は、よほどテレワークが浸透しない限り郊外への住み替えは生じないだろうと思ってきたが、リフォームのほうはありだと思う。いや、私自身が、同居人の生活音(テレビなんかも含む)や移動を妨げないようにしたいと思っているからだ。テント形式もあるが、音声遮断が必須だと思うので、やはりそれなりの改築となるだろう。

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横田さんの無念死:飛耳長目(45)

 私は、小学校3年から5年にかけて新潟市松波町に住んで関屋小学校に通っていた。日本海の浜辺がすぐ近くで、我が官舎のすぐ裏は県立新潟高校のグラウンドだった。で、小学校が引けると、ともだちと、あるいは一人で連日私は砂山をいくつも越えて浜辺に遊びに行って、日が暮れるまで遊びほうけていた。浜には当時警察の射撃場なんかもあって、網をくぐって侵入し薬莢をさがす大冒険もしていた。浜に自生していたグミをたらふく食べて衣服を染めてしまい怒られたこともあった。波打ち際で佐渡島を遠望しながら、左にいけば柏崎で、右は信濃川河口だよね、というわけで何度も河口のほうには歩いて行った記憶もある(さすが柏崎のほうは途中で引っ返したが)。河口手前でコンクリの測候所が海中に没して波に洗われていた荒涼たる光景も印象に残っている(https://moekire2.exblog.jp/12813485/:当時新潟市は天然ガス採掘で地盤沈下し、信濃川の洪水を防ぐため分水されたせいで浜は河口方向でひどく浸食されていた)。あとになって、横田めぐみさんが新潟市で拉致されたことを知り、とても他人事とは思えなかったのは、そんな経験からだ。私だったかもしれないのである。彼女が通っていたのが寄居中学校で、学校間は直線でたった1.5kmにすぎない(彼女は広島市から新潟に転勤してきたのだそうだが、これも奇縁か:ついでにいうと、日銀広島支所長のかつての官舎は我が家の斜め向かいにあった。豪邸だった)。

 そのお父さん滋さんが亡くなられ、またそんなことを思い返していた時に、以下のブログが飛び込んできた。高野孟「安倍首相の出世に拉致問題を利用された、横田めぐみさん父の無念」(https://www.mag2.com/p/news/454014?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000001_tue&utm_campaign=mag_9999_0609&trflg=1)。私は題目にいささか刺激的すぎる印象をもったのだが、読んでいくうち、拉致被害者の蓮池薫氏の実兄透氏が『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』講談社、2015年、というもっと過激な本を書いて、そのため家族会により「退会」させられたことを初めて知った(本当は「除名」というべきところ、なんだか姑息な表現だ)。

 昨今の安倍君の言動をみていると、どうしても高野氏に肩入れしたくなるが、真実は奈辺にあるのだろうか。滋氏たちと透氏はむしろ問題解決の両輪となり、別方向から互いに現実の壁と解決の道をさぐるための苦渋の選択をしたのではと思いをめぐらさざるを得ない。いずれにせよ、滋氏が無念の死を遂げられたのに変わりはない。

【追伸】https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20200617/pol/00m/010/003000c?cx_fm=mailpol&cx_ml=article&cx_mdate=20200621

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ポンペイ修復作業終了:遅報(38)

 ポンペイ遺跡は、それまでの遺跡保存管理が不十分だったこともあり、10年前頃から各所で遺構が倒壊した。そのためユネスコが世界遺産登録取り消しを警告したのをきっかけに、2014年からEUの支援を受けて修復作業に入っていたが、2020/2/18に終了が宣言された。かかった費用は約125億円。

 修復の一環で、ポンペイ発掘開始270周年を記念して第五地区の一部が新発掘され、すばらしい成果を上げているが、ここでは2019/10に公表された剣闘士競技のフレスコ画を紹介する。今回はさすがに遠慮して、小さな画像に留めるが、詳しくは下記の「Pompeiiinpictures」をご覧ください(YouTubeつき:それをみると規模的に小さく狭いことがわかる)。

 管理局はいつものように正確な番地を公表していないが(まだ未定なのかも)、「剣闘士たちの宿舎」 Caserma dei Gladiatori(V.v.3) 近く(?)の居酒屋(タベルナ)の二階への階段下で発見された(私には中二階にみえる。だったらそこは倉庫だった可能性もある:なお、ある記事で地下室とされているが誤訳:たぶんground floorがらみ?)。写真右側で勝負あった瞬間が描かれている。左側に下半身だけ一人描かれているが、その服装からすると審判員のようにみえるがどうだろう。このタベルナについて詳細な紹介が「PompeiiinPictures」のHPですでにアップされているのは、さすがだ。これをみただけで、誰もがおびただしい新発見に目を見張るはず(https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R5/5%2008%2000%20gladiatori.htm)。そこでは出土場所は「Termopolio con Gladiatori Combattenti : Bar with fresco of gladiatorial contest at crossroads between Vicolo delle Nozze d’Argento and Vicolo dei Balconi」と名付け、表現されている。

 ところで古代ローマ時代では、居酒屋といえば,酌婦は売春婦を兼ねていて(そのほとんどが女奴隷だった)、二階へとお客さんをいざなったり、だからそこにベッドがあるので簡易ホテルにもなっていた、そういう場所である。ただ、剣闘士が描かれているからといって、「剣闘士の宿舎」の住人たちがなじみ客だったと結びつけるのは私には疑問だ。二区画西のさらに北側なので隣接しているわけではないし、剣闘士が自由に居酒屋で飲食できていたとすると、私などカーク・ダグラス主演「スパルタカス」やラッセル・クロウ主演「グラディエータ」などで獲得した、従来のイメージを大幅に修正しなければならない(そもそも、目抜き通りの1つ「ノラ大通り」の真ん中に面して剣闘士宿舎があることすら、私には納得できないのである:剣闘士がらみの落書きがいかに多くあるにせよ、だ。むしろそこは興行主やパトロンの屋敷で、試合前夜に招かれ供応されてのそれら、と考えたいところである)。ポンペイの専門家たちはどういう根拠でそう言っているのだろうか。

【疑問】フレスコ画の右端の敗者がこちら向きだとして、右手の動きがよくわからない。兜を脱ごうとしているのか、顔を覆っているのか。左手の指を1本立てているのは「降参」のサインだろう。

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世界キリスト教情報第1533信:2020/6/8

= 目 次 =      
▼黒人男性の暴行死に全米で抗議デモ、トランプ大統領への批判も      
▼白人警官に暴行を受け死亡した黒人男性追悼集会      
▼米人権団体がトランプ氏ら提訴、ホワイトハウス前のデモ隊排除で      
▼ホワイトハウス前通りの一部を「黒人の命も大切」に名称変更      
▼ソウル首都圏に広がる教会発の集団感染、1カ月で70人近くも      
▼インドネシアで安全圏102地域、自治体に宗教施設など再開権限      
▼女性神学者がリヨン大司教になる日が来る?      
▼死海文書の由来は?「羊皮紙」のDNA調査で謎深まる

 最後の二点について。現代においてそんな制度があるとは知らなかったが、リヨン大司教に73歳の女性神学者が立候補したらしい。というか、問題提起のための勝手連的行動か。こういった聖職者人事は通常は、バチカンがその地域を熟知している聖職者たちにご下問して、その進言を勘案して決まる、らしい。日本の場合、だいぶ以前は、どうしても日本滞在歴のある欧米人聖職者(以前はスペイン人だったが、最近は知りません)が顧問格で諮問されていたと噂され、この件は日本人聖職者たちも十分知っていた。「彼好みでないと、だめなんだよね」と愚痴っていた?のを聞いたことがある。

 最後の「羊皮紙」の件は、「死海文書」の書紙材を分析したら、それまですべてヤギだと思われてきたが、牛とかヒツジが使われていたことが判明したが、となるとヤギ以外は発見地の砂漠由来のものではなくなる、ということで問題となっているらしい。たしかにすでに書籍になっている巻物が他からクムランに持ち込まれた場合もあるだろうが、でも私など、素材の段階で他から購入されてきた場合もあるだろうし、それがそんなに意味あることであるかどうかは、断片の分類とかさらに分析する必要があるような気がする。明らかに牛やヒツジのほうが上質だからだ(https://npobook.com/report/vol_66/vol66.pdf)。なお、この件は、以下でも6/2付けでレポートされている。https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2020/06/piecing-together-dead-sea-scrolls-with.html

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ふるさと、とは:痴呆への一里塚(24)

 「なんだか、母と同じことしてるな」。それがふるさと、というものか。

 母を東京に引き取ってまだ元気だった時は、1,2ヶ月ごとに私が同道して帰省していた。帰りたがったからである。帰ると、いそいそと朝早くから草取りを始める。そして散歩に行ってくると言って、ものの15分くらいして帰ってくる。たぶん存じ寄りのご町内をぐるりと歩いてきたのだろう。これが日課だった。東京でも散歩したらと私が言い、でも出ようとしないので(曰く、こわいのだそうだ)、私の孫が来たときいっしょに公園なんかに連れて行ったりしていたが、決して自発的ではなかった。だいぶ弱ってからは介護支援で散歩に連れ出していただいていた。歩行補助車も購入したが、自分の思い通りにならないのが腹立たしいらしく、使わなかった。さすがに杖は使っていた。認知症が進み、新幹線でトイレの鍵を閉めなかったり、東京駅から練馬までタクシーで移動中にトイレを要求するようになって、もう無理と判断して帰省はやめた。施設に入所することになったきっかけも、トイレの「大」の問題だった。

 一昨日、コロナ騒ぎで約3ヶ月ぶりに帰省した。私が乗車した新幹線のぞみ43号の4号車の乗車率はおおむね5分の1以下、降るとき8号車あたりまで通路を移動してみたが、段々密集度が高まって、最後あたりは5分の3くらいになっていた。今の感覚だと密集感あっていやだなと思ってしまう。広島駅新幹線構内の土産物屋は未だ全店お休みで、えっという感じだったが(私が常連の立ち食いそば屋も。夕食を期待していたので残念 (T_T))、ローカル線の方に出たら番線通路の商店は開いていた。こっちのほうがまだ客が多いということか。そこから西広島駅まで通勤・通学列車に乗ったが、19時半すぎで、昇降口付近に立ってる客も多いが数十センチの空間は保てる感じ。西広島駅は工事中で驚いた。改札が北に移動していた。これでやっとエレベータできるだろうな。広電宮島線はがら空き。高須駅周辺は一部を除いてコンビニも飲み屋も開いていた。我が家についてビックリした。植えてあったルッコラがびっくりするほど茂っていて、すぐに玄関に入れないくらいだったからである。なぜか青い茎や葉っぱは見えず、花びらと白骨化した枝ばかり。ほんとうにルッコラなのかああ?

到着時、無理矢理突破してドアを開け、翌朝撮影

 昨日は一日曇天、まずは、玄関前のルッコラを裁断し、草むしりをする。雑草は思いの外茂ってなかったのはどうしたことか。いつも帰省のたびに茫々たる様なのだが。そのあと、二号線方面に向けマスクを着装せずにぶら下げ、買い物と昼食ついでに歩く。二号線に出る手前の大きなドラッグ・ショップが店じまいになっていて、驚く。いつも刺身定食食べてた大型の割烹は閉店してからかなりたつがまだそのままだ。その隣が不動産屋なんだけどなあ。国道沿いのイオンは開いているし、二号線の車も普通通りかな。という感じでちょっと歩いて贔屓のそば屋「そば吉」に向かう。ここは980円でおなかいっぱいになる日替わり定食がお勧め。と、途中いつも使っていたもみじ銀行のカードボックスが3月で閉鎖したとの表示。銀行もやっぱりそうかと経済活動の縮小を感じてしまう。「そば吉」は開いていた。店内はカウンター風のところがアクリル板で隣と区切ってあったり、新聞置くのを止めたり、持ち帰りを始めていたりで、それなりの対策を講じていた。客は3人(組)くらいで問題ない。

 今朝は白雲はみえるが快晴で風が心地よい。今度は庚午公園の方に向かう。そこにはドラッグ・衣料雑貨店やスーパーがあって、色々買い物ができる。近所で活きのいい魚はここしかない(電車で一駅先にアバンセがあって、高めだけどさらに活きがいい。午後にでも散歩ついでに行ってみるか)。

 私が庚午で生まれたのは確かだが、父の転勤で3歳のときに離れ、広島に舞い戻ったのは中三の時のこと。そして就職で32歳のとき岡山県津山市に出て10 年後に上京し,以来練馬区の住人である。だから指折り数えてみると、庚午に住んだのは通算で28年くらい、すでに30年住んでいる東京のほうが長くなっている勘定だ。しかし、体感的に、ふるさとはあくまで庚午なのである。

 そして今日も買い物に出て歩きながら「おかしなものだ」と思ったのは、買い物は口実で、ご近所の様子を見て回っている自分に気づいたからだ。あの店がなくなっている、とか、あのお屋敷が更地になっちゃった、とか、まあ無意識のうちにチェックしているのである。しかも、ともかく妙なもので歩き回るのが苦痛ではない。たぶん母もそんな調子だったのだろう。昔、私が帰省すると母はアバンセまで歩いて魚を買いに行ってくれていた。いつの間にかそれをするのが私になっていたが。「もうあそこまで行くのはきつい」と。

 あんなそんなで、東京だとなぜか散歩に出る気にならない私も広島だとかなり歩くことになる。これがなじみの土地の持つ魅力なのかもしれない。このまましばらくいたら体重も減るだろうが、いかんせん2日後には帰京の予定で、ま、元の木阿弥なのだが(ところでなぜ火曜に帰京かというと、夕方ラテン語があるからだが、テレワークなのでこっちでやればいいことに、あと気づいた。次回は試すことにしよう)。さて、明日は室内のお掃除しないと。これも妙なもので、ヒトが住まない我が家は3ヶ月閉め切っていてもほこりが積もっていない感じで、私は掃除もせずそのまま生活して、帰るとき掃除する。人間が住むから汚れるのだろう(最初ごろは、餓死したゴキブリ見つけては喜んでいたが、最近はもう見なくなった)。ただゴミの分別収集にはてこずっている。2週間が一サイクルなので、出せないゴミが溜まるのだ。コンビニ、スーパーの資源回収箱がありがたい。が、生ゴミは駄目なんですねえ。

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続・コンスタンティヌスのアーチ門の太陽神について

 論じ残しているちょっとしたテーマに、ローマのコンスタンティヌスのアーチ門(凱旋門)上の東面に掲げられているトンド内の太陽神像があります。以下に、トンド全体像と太陽神拡大図を掲載してみます。

東面トンド

 何かお気づきのことありませんか。・・・ 私は以前からこの太陽神に違和感を感じてきました。らしくない、のです。まずなんとなく女性っぽい描き方なんですが、この点は西面の月神が明らかに女神として描かれているので、それとの対照により一応除外しておきます(顔つきは月神のほうがきつい感じすらします:太陽神のほうが摩滅しているせいかもしれません)。また、着衣が横皺が目立つトガのようにではなく、ギリシア風に見えるせいもあるでしょう。

 そんなこともあって、らしくない、そう、勇ましくないのです。これは不敗太陽神Sol Invictusとの対比からくるせいかもしれません。このHPの「実験工房」のほうで2018/5/20口頭発表「戦勝顕彰碑としてのコンスタンティヌスのアーチ門」を掲載してますが、その末尾近くでこのトンドについて「東に4頭立て戦車、クワドリガで今まさに海上から天空に浮かび上がってきた太陽神、それを導くアモル、海中でそれを眺めている海の神オケアノスが描かれています。なおここでの太陽神は、放射冠をかぶっていません」と触れていますが、端的に放射冠抜きなのです。となると、本当に太陽神なんだろうか・・・。先に触れた衣装からよりギリシア的にアポロ(ン)神的イメージが勝っているような気にもなってきます。そうは思いませんか。それでトンドに似たアポロンの彫像を見つけようと探したのですが、これがなかなか・・・。というのは神は完璧な肉体をお持ちなので、アポロン様はだいたいが裸でして・・・。そんな中、ようやく見つけることができたのが以下の右です。

左がよくある裸体像、右は竪琴がなければまさしくトンドのそれ:いずれもヴァチカン博物館所蔵

 ところが、アーチ門の東側廊での太陽神はかなり破壊が進んでいますが、斜めからの写真だと頭上に放射の鋭角の三角形が辛うじてわかります。またアーチ門上に複数刻まれている軍旗の竿頭飾りのそれでもちゃんと放射冠が確認できます。下に、ギリシア的なヘリオス神像を示しておきます。

左、東側廊の太陽神を左45度でみる;右、西面レリーフの太陽神:頭部の上枠にギザギザの刻み
前4世紀のものらしい

 こうして、同じアーチ門上で、東面トンドのそれと他の太陽神の表現が放射冠他に関して異なっていること、そして東面トンドのほうがとりわけ不敗太陽神Sol Invictusとしては特異な表示である、と指摘できるように思います。それが何を意味しているのかですが、ひょっとして、トンドのそれはギリシア的アポロン像風に描かれているのかも、と今現在考え直しております。

【追記1】このギリシア的表現は、西面のルナ女神でより一層指摘できるかもしれない。たとえば、彼女の後に羽衣風にたなびいているストール、それにどうやら片肌脱ぎで(ここでは左肩を)露出し、さらに彼女の頭上にかつては三日月があったらしい痕跡も認められ、さらに二頭立て二輪戦車bigaに騎乗していて、むしろギリシア神話のセレネの表象が勝っている印象なのである。

後3世紀作のセレネ:メトロポリタン美術館蔵

【追記2】ここまで書くと、どうしても私は以下の2点を思い出し、触れたくなる。一つは、ギリシアのパルテノン神殿東側ペディメント「アテナイの誕生」の両端彫像である。ここでは、復元修復したものを示す。

左が上昇するヘリオス、右が下降するセレネの戦車:この場合、両方とも四頭立てだが

 もう一つは、Prima Portaのアウグストゥス像の鎧上部のヘリオス神と四頭立て二輪戦車である。

ここでのヘリオス神の衣装はまさしくアーチ門のそれと類似:
中央上部は天空神ウラノス

 こうしてみると、アーチ門東西両トンドの神像は、どの神名をとるかはともかくギリシア的意匠に準拠している、すなわちヘリオス/アポロンとセレネで、それがローマ神話のアポロ/ソルとルナに横滑りし、さらにソルからソル・インウィクトゥスに特化していくプロセスが見てとれる、と考えた方がいいように思われる。コンスタンティヌスがアウグストゥスをも意識して視野に入れていたことは、アーチ門両面に掲げられた銘文から明白である。

【追記3】私は、コンスタンティヌスは彼の統治領域内では、そこ出身の自軍兵士たちの共感を得るためにまずケルト系の太陽神を自分の守護神に選んでいた、それを帝国中心部においては東方起源の同様な太陽神ないし古代ギリシア的なアポロン神・ローマ的なユピテル神に重ねることで汎地中海世界的な自己プロパガンダの基軸とした、との仮説を提示している。したがって、315年段階での本アーチ門での太陽神図像はあくまで首都ローマに寄り添ったものと理解することになる。その観点からすると、帝都ローマでのコンスタンティヌスのアーチ門の西面(出立図:Profectio)と、東面(入城図:Adventus)に描かれている鹵簿での皇帝臨座の馬車の車輪は意味深かもしれない。

西面:Quadrigaというよりも、四頭立て四輪馬車carrucaだったことがわかるが、馬車や人物像の描き方にかなり違和感がある
東面:こちらも玉座仕立ての四頭立て四輪馬車だが、納得できる描き方
20世紀初頭の復元図:かなり杜撰だが車輪はちゃんと描かれている

 なお、今や破壊されて跡かたもないが、同じく東西両面のトンド上の戦車にも車輪があった:現状で車軸のみ確認できる。

上図とここの典拠は以下:Salomon Reinach, Répertoire de Reliefs Grecs et Romains, Paris, 1909.

 生存中に改めて一文を草する余裕がないかもなので、他の気付きもメモしておこう。東西面レリーフでの登場人物たちの顔の向きが前後を向いているのは、後を向いているというよりも、これらの行列が一直線ではなくて、「⊂」字型に、左隅でUターンしていて、それを正面から見て重複表現している場合もある。また、出立図Profectioの場面は従来説ではなぜかミラノ出立等イタリア内とされているが、皇帝馬回りの登場人物たちが平時のフェルト帽を被り武装していないので、敵地でのそれとは思えず、私はコンスタンティヌスの領域首都トリーア出立とすべきと判断した。またProfectio左端の、まさに城門を出てきたばかりの四輪馬車の座乗人物が他と比べて小さいことから、彼はコンスタンティヌスではなくて、息子クリスプス(当時12歳)とする別説もあるらしい(となると、そこにコンスタンティヌスは描かれていないことになる、かも)。レリーフにおけるコンスタンティヌス像は例外なく少なくとも頭部が破壊されているので(恐らく4世紀後半の反コンスタンティヌス時代に)、ここで頭部が保存されているのは別人と判断されてのことであろうか。いずれにせよあのブロックは違和感の塊である。また、西面の荷駄に馬ないしラバ以外にめずらしくラクダが描かれ、その背後にうずくまった人物がいるが、これは何を示しているのだろうか(捕縛されているのかも)。南面レリーフについては拙稿で多少とも触れているので、省略。

 入城図Adventusの東面レリーフに移る。左端でローマの市門をくぐってコンスタンティヌスが座した四輪馬車carrucaが進む。それに先行する行列の中に武装解除された二名のローマ人捕虜が、徒(かち)でおそらく両手を縛られて引き回されている。たぶん同時代のローマ在住者には誰と見当がついたはずだ。その行列の先頭は浮き彫りの右端から北面東端にかけて、まさに四面門(しかもその屋階上に四頭の象を頂いている:これは剥落が進んだ現在、確認しづらくなっている)をくぐろうとしているが、この門は凱旋式の際行列が必ず通過したPorta Triumphalisに間違いなかろう(cf., Martialis, Epig. 8.65)。

東面右端と北面東端の柱部分の両端にそれぞれ4頭の象の戦車が描かれていたと思われるがぽっこり剥落し、現在かろうじて北面、兵士の兜の左上にその痕跡が残っている(2015/8/29:筆者撮影)

 実はこの門は、コンスタンティヌスのアーチの屋階の北面の東側から2枚目のレリーフ(もともとはマルクス・アウレリウス帝の出立図profectio:皇帝の頭部は18世紀にトラヤヌス帝に似せて修復された)にも描かれており、その屋階上にトロパイオンと四頭の象、それに一体の神像が確認できる。

 北面の2レリーフも興味深い。特に左側の演説図Adlocutioでは、ロストラ(演壇)の両脇の背景に描かれている公共建築物は、左がBasilica Julia、右がセプティミウス・セウェルス凱旋門とされ、ロストラ上についても中央に唯一正面向きで立つコンスタンティヌス(但し顔面破損)、彼の背後に5本の列柱があって、それらは第1テトラルキア体制の成立を記念して立てられたもので、その中央は主神ユピテルをいただき、左右円柱上の小立像は4人の皇帝を示している。また皇帝のすぐ背後の2旒のvexillumは皇帝旗であると私は考えている。ロストラ前面の左右端に二名の座像が見えるが、左がマルクス・アウレリウス帝で、右がハドリアヌスとされている。こうして、このロストラは全体として、コンスタンティヌスが過去30年間のテトラルキア体制の正統継承者であること、ローマ帝国華やかりし時代の、アウグストゥス時代、ハドリアヌスやマルクス・アウレリウス時代の帝国の回復者であることを暗黙のうちに明示しているわけである(なお、このことは政治家コンスタンティヌスがテトラルキア体制を放棄して独自の政治的プロパガンダを以後開始することと矛盾しているわけではない)。なお、彼を左右から見守る男性群像(とりわけ壇上はトガ着用の元老院集団で、一段低く地面に立つのはローマ市民たち)の中に男児三名が紛れている。彼らが大帝の後継者の息子たちとする説は、出生年的にも位置的にも受け入れがたい。

 最後に言わずもがなのことだが、このレリーフでの登場人物は(そして、アーチ門全体でも女神と円柱台座での捕虜を除けば)、すべて男性であった。昨今の「人種差別主義者」チャーチル像への落書きのように、「性差別主義者」コンスタンティヌスなどと落書きなどされないように願わざるをえない。

腹に巻かれているのは「黒人の命も大切だ!」Black Lives Matterの張り紙らしい

 さて、ぜひとも触れておきたいテーマに、コンスタンティノポリスでの紫斑岩製円柱上の太陽神としてのコンスタンティヌス像の件がある。いつか書く機会があることを念じている(まだ書く気でいるのが、我ながらいじらしい)。これにより、コンスタンティヌスの一貫した自己認識がヘリオス・ソル神であったことが立証されるはずで、キリスト教的プロパガンダの虚構性ないし相対性が明確になるはずでアル。

左、ポイティンガー地図で、コンスタンティノポリスに特に表示されている円柱;中央・右、紫斑岩製円柱上のHelios神としてのコンスタンティヌス像復元図

 以下の写真はこの円柱の柱頭の状況である(この時はパイプで足場を組んでの作業のようだった)。その凸凹を検証して上記のような立像が再現された(後世に、十字架が立てられたりしている)。私はこれをローマで、コンスタンティヌスのアーチでやりたかったのだが、ドローン撮影は許可が必要で果たしていない。

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