またまた失せ物探し:痴呆への一里塚(44)

 2021/3/8:今日は実印入れたポーチを探し回った。実印押す必要のある書類が来る、というので、手元そばに関係書類と置いていたはずが、肝心なときポーチが雲隠れ。元の置き場もなんども家捜しした。それでも見つからないので、すんでのところで、そんなはずないと思いつつも無関係の妻にまで職場に電話するところだった。

 結果は、書類とポーチを上に置いていたファイル箱の裏側、ではなく(そこは最初に見た)、なぜか30センチ横にずれた場所の食卓と壁の間に挟み落ちていた。ポーチが黒色だったので見えなかったのだが、今回は念を入れて懐中電灯で照らして発見、ふ〜〜。ざっと1時間半の捜査時間。最近、こんなのばっか。

【教訓】手間でも、いつもの置き場所に置いておくこと。いつかそこも忘れるだろうから、妻に言っておくこと。

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ローマで前6世紀の住居出土:遅報(73)

 2015年に、現在のローマ市の中心部から前6世紀の大きな邸宅が発見された(参照、https://www.digitalaugustanrome.org/:85付近かと)。その場所は、古来Quirinaleの丘と呼ばれている地区で、現在ではテルミニ駅から共和国広場を経て、バルベリーニ広場に弧を描いて至るバルベリーニ通りの北端に位置するPalazzo Canevari(Largo di Santa Susanna, 13)の敷地内で、その改築現場での2010年からの予備発掘によって出土した。この歴史的建造物は、19世紀後半にイタリア王国で3度財務大臣を勤めたQuintino Sellaによって建てられ、地質学研究所の元本部で、現在はCassa Depositi e Prestiti S.p.A.が100%所有するCDP Immobiliare=不動産開発セクターの所有である。2013年に前五世紀の神殿が発見され(幅25m、長さ40mと、当時ローマ最大級:その下から前七世紀の新生児の骨格も出てきた由)、調査は周辺に拡大され、そこで今回の発見に至った。

中央上部の赤印がPalazzo Canevari

 ローマ第6代の王セルウィウス・トゥリウス(紀元前578-535年)による城壁の北西端に位置していたその場所から、なんと、かの王と同時代の前六世紀に属する大きな住居がでてきたのである。保存状態は良好で、家は長方形で(3.5m × 10m)、玄関と柱廊玄関のあるトゥフォ石のブロックで区切られた2つの部屋、壁は粘土で覆われた木で作られ、高さは3m、屋根は瓦で覆われていた可能性がある。ここ10年間でもっとも重要な発見とされているのも無理はない。

左図赤線がセルウィウスの城壁:出土地は上部くびれやや下付近か;右写真、中央に女性が立っている

 この地域は城壁内とはいえ場末であったので、従来ネクロボリス=墓地としての使用が想定され、ローマの住民はフォロ周辺(上記地図ではティヴェレ川蛇行付近以南)に居住しているものとばかり考えられてきたが、今回、居住地が予想以上の広がりを持っていたことが実証されたわけである(考えてみれば、城壁でわざわざ護る必要があったのだから、まあ墓地よりも住民がそれなりにいたはずではある)。その一方で、2013年に発見された前五世紀の神殿との関連でその管理人の住居だったという、時代設定的に若干矛盾したような想定もされているようだ。別の考古学者は、この住居はかの神殿ができるまでの約50〜60年間使用されていた、と考えている。

 イタリアでは、このような発見があると、私有地といえども遺跡保存されなければならない法律があるので、いかなる形になるかは不明だが、遺存されるはず。たとえばナヴォーナ広場北側でドミティアヌスのスタディウムがビルの地下と一階部分の空間を割いて保存されているように(以下の写真参照)。

は時々見学会が開かれている地下遺跡、は現在の通りから見ることできる入場門
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2020年発掘トップ10:遅報(72)

2021/1/1ARCHEOLOGY誌情報:トップ10の中に古代ローマ関係がひとつだけ入っていた。

 このところ、ずっと整備調査中で見ることできないフォロ・ロマーノのセプティミウス・セウェルスのアーチ門と元老院会議場の間であるが、そこの地下にローマの礎石といわれている「黒石柱」ラピス・ニゲルLapis Nigerがある。その付近から小さな記念碑が、1899年に考古学者Giacomo Boniによって発見されていたが、その後1世紀以上にわたって忘れられていたものが、今回の調査で「再発見」された。

 カエサルが作った元老院会議場curia Juliaの階段を修復中に、前6世紀の石棺と小さな丸い祭壇を含む地下墓室が出てきた。そこが伝説時代のローマの最初の王ロムルス(前771-717年)の墓ではないかというわけである。私にはその真偽を論ずる資格はない。

左がラピス・ニゲル付近の祭壇復元図;右が再発見の丸祭壇と石棺

 余談になるが、それにしても、上左のラピス・ニゲル隣接の祭壇復元図を見て、かつて1997年夏に訪れたラヴィニウムで見学した「十三祭壇」にそっくりなことに驚かされる(http://www.koji007.tokyo/atelier/bar/)。

現在は第14番目も見つかっている由
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Oplontisの希有なトイレ:トイレ噺(26)

 エルコラーノのトイレ話を書いていたら、思い出して。OplontisのVilla di Poppeaには、意表をついた隠しトイレがあるので紹介しておこう。

中央サロン(下図での24)から両翼に広がる邸宅に向かって、右端の坂を下っていく。

 この別荘、皇帝ネロの愛妾ポッパイア所有と言われているだけあって、鮮やかな色彩の剛胆ともいえる壁面絵画が目を奪うが、正面左にみえる列柱廊の裏側に、共同トイレ(下図左での21;右図だと44:平面図は上記写真とは方向が逆になっていることに注意)があって、そこには下図では右方向から入って行けることが見てとれよう。そしてさらによく目を凝らして見てほしい。馬蹄形をした通常の共同トイレを示す番号(21)に重なって手前に狭く細長い空間があることに(右図では44の下)お気づきだろうか。

右はその拡大図で、トイレは(44)

 上記写真が馬蹄形の普通の流水型共同トイレで、往時は木製の便座があったと思われる。室内に外光は直接入らずほとんど真っ暗。手前右端の構造物は水槽の縁。ところでここに至る通路が右手前にあって、それを逆にトイレ側から写した写真が下図である。そこでは左側に出入りする通路が伸びている。手前左下に見える構造物は水槽の縁。

 問題は、侵入禁止の木製扉が壊れてたてかけてある箇所で、そこを覗いて右向きに撮った写真が以下である。ついでにいうと、ここはさらに真っ暗闇である。

ただ左壁に沿って深い溝が区切られているだけ

 溝の上の壁に便座を設置した痕跡はない。すなわち、男子用の立ちション用便所である。要するにここでは、共同トイレの手前に男子専用の立ちション・トイレが立地している希有な例で、私の知っている数少ない男子専用トイレである。それにしても、両トイレとも閉鎖空間なのでいかに流水型とはいえ、往時においてはかなり強烈に異臭がただよったのではないか。華麗を極めた豪邸のすぐ背後の思わぬ秘め場所である。なぜこんなややこしい場所に作ったのだろう。私には賓客用とは到底思えず、従業員の奴隷や被解放奴隷専用だったと断じたいのだが、どうだろう。ひと言申し添えておくと、この邸宅、今のところ他にトイレ構造は残っていない(完全に発掘されているわけではないが)。

 なお、Pompeii in picturesの中では(https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/VF/Villa_055%20Oplontis%20Villa%20of%20Poppea%20p12.htm#_Room_47:_Latrine)、この横長トイレを女性用、馬蹄形のほうを男性用と表記しているが、納得できない。

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エルコラーノのトイレの落書き:トイレ噺(25)

 前ブログで思い出したことが。エルコラーノの「宝石の家」Casa della Gemma(Ins.or.I,n.1)には、小さい個人用トイレがあって(下図17:18は台所)、そこの南側壁に有名な落書きが残っている。ここは事前に見学許可をとる必要がある。

Apollinaris medicus Titi im(peratoris) / Hic cacavit bene=「アポッリナリスは、医者は、ティトゥス皇帝の / ここでよき排便をした」(CIL, IV, 10619)

 ウェスビオス火山の後79年の噴火時(8/24;ないし10/24)、ローマ皇帝はティトゥスであったので(79/6/24-81/9/13)、エルコラーノの埋没までの実にきわどい期間に、この家をティトゥス帝の侍医が訪れたことになる。もっとも「imperator」とは当時ではまだ「最高軍司令官」の意味が強く、第一次ユダヤ戦争でエルサレムを陥落させたティトゥスは、71/8/6以来帝位に就くまでに8年間に実に計15回も最高軍司令官の歓呼を受けているので、父帝生前においてそう呼ばれることがあっても一向に不思議ではないのであるが。

 また、この邸宅の北と東側を占めている大規模(約1800㎡)で眺望絶景なうえに豪華絢爛な邸宅「テレフォス・レリーフの家」Casa del Rilievo di Telefo (Ins.or.I,n.2:下図・写真参照)が、もしウェスパシアヌスが勝利して皇帝になった68-9年の内乱で、彼を支持した元老院議員マルクス・ノニウス・バルブスM.Nonius.Balbus 所有のものだとすると、ひょっとするとそこにティトゥスが滞在した折に(ヘルクラネウムにおいて格式的にも皇族の宿舎に最もふさわしかったはず)、同行していた侍医が隣家に逗留(分宿)したのかもしれない。いずれにせよ、この落書きを記したのがはたして侍医自身だったのか、それとも貴人逗留を記念して家人が書き込んだものなのか、謎であるが。常識的に後者の方がありえるだろうが。

この豪邸から郊外浴場に出ることできるそうなので、M.ノニウス・バルブス所有と想定されている。ちなみにバルブスとは「吃音=どもり」の意
往年の絢爛豪華さを偲ばせる最上階展望台のMable Salon(18)

 段々と、M.Nonius Balbusにも言及したくなるが、それはいずれ。郊外の浴場前の広場の彼の立像と、国立ナポリ博物館のたしか中庭列柱廊の出口近くにあった騎馬像が、今回ようやく結びついた(JuniorとSenior両人がいる)。

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プロシュート型?携帯日時計:遅報(71)

 以前見つけていた2017/1/24の記事がたまたま目にとまったので。「古代ローマの「ハム」形携帯時計、3D技術で検証:3Dプリンターを駆使して忠実に再現、使い方や機能が明らかに」(https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/012300022/)。

 以下がエルコラーノのパピルス荘から1775年に発見された現物の現況(後1世紀後半:国立ナポリ博物館所蔵)と発掘時のスケッチ。

 が3Dでの復元品に発見当時のスケッチにあった豚の尻尾状の針を設置;は豚肉のプロシュート

 私はこういう数式が必要な理系的思考はやたら苦手なのだが、私も大好きな豚の生ハム・プロシュート型をした携帯日時計Portable Sundialということで、おもしろいなと(別説としては、水筒がわりの革袋型とも;私的にはそのほうが身近な感じする)。古来携帯日時計は旅行者用に色々工夫されていたようだ(機会があれば触れたいものだ)。地中海世界では、中世修道院で修道士が時祷用に所持していたとか。

 このプロシュート型、きちんと計測すれば誤差15〜30分程度らしいが、弱点は風でゆれるので実際にはもっと不正確になるとのこと。ただ、考えてみるとのどかだったあの時代、そんなに正確さは要求されていなかったので、十分実用的だったとは思う。だがまあ私など天空の太陽の角度で推し量かればいいことと考えてしまう。当時の庶民にとっても必需品ではなかっただろうが。

 普通の日時計はこんな形で固定設置されていた。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/b/111000126/?SS=imgview&FD=-787263934はエルコラーノ遺跡のCasa della Gemma(Ins.or.I,n.1)の中庭設置のもの
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西洋古代史の未来問題

 ある古代史関係の学会の月報に、2022年度から高校世界史が必修からはずされ、フランス革命以後のみ扱う「歴史総合」が始まるので、西洋古代史の今後を憂えている一文を読む機会があった。

 かつて私が所属していた史学科では、1、2年次の概説レベルの講義でも高校で日本史しか受講してこなかった学生にも西洋史や東洋史を選択必修としていたので、学生の戸惑いに接することがあったが、「山川の詳説世界史の教科書をざっと読みなさい」といった乱暴な指導をせざるを得なかったことを想い出す。まあ選択必修のためそれなりの受講生も得ていたこともあり、行く末に危機感も感じることなく過ごしていた。そして立場が変わって教職リタイア後に、この私のブログは、主軸は古代ローマ史関係のはずのところ、アクセスの頻度数としては、圧倒的に雑談レベルのもののほうが多いのが現実で、世の中の皆さんにとって、古代ローマ史なんかどうでもいい存在なんだな〜と痛感している身からすると(この点、一世風靡された塩野女史はとにかく偉大というしかないが、なぜなのだ?)、いまさらながら研究者がおたおたしているのも滑稽な感じがしないでもない。

 私の感覚からすると、中等教育において地球規模で世界史を論じる事ができる、ないし論じる視野が要求されるのはいわゆる「大航海時代」以後であって、それ以前の原始・古代・中世は、隣接文明圏との関係を踏まえながらの各国史レベル中心でいいようにも思われるので、今回なんで時代区分的にフランス革命以降なのかについてはまったく納得できないけれど、古代ローマ史なんか、大学に入ってから外国文学や語学、地域研究で必要に応じて学べばいい、また、そういった科目を目指している者は高校で世界史を選択しているはずとの判断なのだろう。

 いずれにせよ、従来西欧での古典語・古典学重視がそのまま輸入されてきて、これまで高尚さを売り物にしてきた経緯があるが、その西欧においてさえ古典語・古典学の重要性減退が著しい昨今、見直されるのは当然である。なにしろ第2次世界大戦以降の日本史すら高校で手抜き状況は問題と言わざるをえないし。

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告解と古代コイン:遅報(70)

「ざんげで盗みを告白:古代の硬貨を200枚返還」(2021年1月22日 12:12 発信地:ローマ/イタリア)https://www.afpbb.com/articles/-/3327768

【1月22日 AFP】伊南部ナポリ近郊のパエストゥム考古学公園(Paestum Archaeological Park)へ21日、告解で窃盗を告白された司祭によって古代の硬貨約200枚が返還された。

 告解を行った人が、司祭に硬貨の返還を依頼したという。返還された硬貨208枚のうち7枚は偽物だったが、残りの大半は紀元前3世紀から紀元後4世紀のものだった。

 イタリアの古代遺跡から盗まれた遺物が、時に何十年もたってから返還された例はこれまでにもある。古代ローマ都市ポンペイ遺跡の関係者によると、中には呪いを恐れて盗んだ遺物を返す人がいるという。(c)AFP

【コメント】この情報だけでは遺跡からの盗掘というより、誰かの収集品を盗んだものの返還というべきか。ただ、写真や動画でみる限りは保存状況はよくないので、本来の収集家のものとは思えない。パエストゥムなら、ギリシアとローマの貨幣は出てくるだろうし。実は伝聞情報だが、どうやらポンペイにも街の中にこういったものを扱っている場所があるようだ。古物商は本物に偽物を混ぜて売ろうとする。私も、シリアやエジプトでは子供が売りつけに寄ってきた経験がある。粗悪品ないし偽造品だったが。イタリア南部のどこだったか、劇場跡の住居の住人の青年が「掘ったらコインなんか出てくるよ」と言ったら、「そんなこといっちゃだめ!」と慌てて母親がたしなめたことがあったので、まあ地下掘ればなんか出てくるイタリアではみなさんおやりになっているとも言える。我々外国人がそれをすると懲役25年だっけに処せられるらしいので、私は現地で購入した場合必ず領収書もらうようにしている。でもそろそろイタリアで官費で老後を過ごすにはいいかも、ね。

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世界キリスト教情報第1571信:2021/3/1安楽死

= 目 次 =
▼NZ地震10年=シンボルの大聖堂、修復に動きだす
▼教皇が3月5日からイラク初訪問、イスラムとの融和演出か=毎日新聞
▼スイス新型コロナウイルスに伴うセミロックダウンの段階的緩和計画、国内メディアの評価分かれる
▼「三一節」の大規模集会申告は計95件で「禁止措置」に=韓国ソウル警察庁
▼韓国野党・安哲秀氏の「LGBT」発言が物議=ソウル市長選
▼安楽死望む患者の「意思尊重」命じる判決=カトリックの国ペルーで
▼「記者殺害はサウジ皇太子承認」米が報告書、高官に制裁

 今回は、下から2番目の安楽死の件を紹介。

◎安楽死望む患者の「意思尊重」命じる判決=カトリックの国ペルーで
【CJC】カトリック教徒の多い南米ペルーの裁判所が2月25日、安楽死を望むポリオ患者の意思を尊重するよう政府に命じた。AFP通信が報じた。安楽死を認める判決は同国初。
 憲法裁判所は、保健省と社会保険庁が「安楽死によって人生を終わらせたい」というアナ・エストラーダ・ウガルテさん(44)の「決断を尊重」しなければならないとする判決を下した。
 現地メディアによると、心理学者のエストラーダさんは12歳の時から、治療法がなく進行するポリオに苦しんでいる。体のほとんどがまひ状態で、1日の大半をベッドの上で過ごし、排せつにも介助を必要としている。
 判決を受けて、エストラーダさんは現地ラジオRPPに、「言葉にできないほど興奮している。大きな喜びを感じている」と述べ、「この時が来れば自由になれると、常日ごろはっきり言ってきた。その時が今訪れた。このために私は今まで闘ってきた」と語った。□
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ポンペイ近くで馬車発掘

知人からの連絡で知った。2021年 2月27日発表:ポンペイ遺跡の北にあるCivita Giuliana(Porta Vesuvioから直線で750m)で発見。3年前に3頭の馬が発掘された厩舎の玄関から出てきた由(http://pompeiisites.org/en/press-kit-en/the-excavations-of-civita-giuliana/;https://gigazine.net/news/20181225-pompeii-third-thoroughbred/)。

日本語で読める記事と動画:https://www.afpbb.com/articles/-/3334024

黄色線がポンペイ遺跡、上の黄色〇印が発掘地点のCivita Giuliana
こういう青銅製装飾から、結婚式で使用された馬車と想定されているようだが、さて

【追伸】以下、在イタリアの藤井慈子氏による新聞記事等からの続報。「座席から麦の穂の痕跡が確認されたことから、Cerere(豊穣の神ケレス)信仰とかかわる可能性が浮上し、このCenereがポンペイではVenere(ウェヌス)と共に信仰を集めていたことから、ケレスとウェヌスなどにかかわるsacerdotessa (女祭司)が同別荘にいたのでは、という説のようです。ただ単純に豊穣のシンボルである麦の穂が、祝祭(結婚式?)の前か後に残っただけではという説も出されています。私的には、後者の方が自然のように思われますが(ケレスとウェヌスの 信仰にかかわるものなら、青銅製メダルの浮彫に、それらの図像が施されてもいいような、、、麦の穂だけでここまでいうのかな?という印象を受けました が、先生はいかがでしょうか)。また、同じような移動用の馬車の出土は、Casa del Menandroから1点、Villa Ariannaから2点確認はされているが、とても比較の対象ではなく、唯一類例として挙げられるとしたら、15年前にトラキアの墓から出土したもの(南ギリシア、ブルガリアとの国境付近)があるそうです。」

【続報】その後、発掘がすすんだようだ。以下の画像の次に3D映像も(ここから行けるはず。拡大してみるとすごい迫力!:https://twitter.com/pompeii_sites/status/1365735037262585857?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1365735037262585857%7Ctwgr%5E%7Ctwcon%5Es1_&ref_url=https%3A%2F%2Fimperiumromanum.quora.com%2F%3Fni%3D0nsrc%3D4snid3%3D18406889849tiids%3D22748989:2021/2/28)。

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