漱石とあばた(痘痕):遅報(49)

 感染症でググっていたら、以下で、夏目漱石(1867-1916:49歳で死亡)が3、4歳頃の種痘の失敗であばた面の持ち主だったことを初めて知った。2020/5/24:小森陽一「夏目漱石と感染症の時代:『吾輩』の主人・苦沙弥先生はなぜ「あばた面」だったか」(https://webronza.asahi.com/culture/articles/2020052200006.html);佐藤博「生誕150年・夏目漱石は病気のデパートだった・・・PTSD、パニック障害、糖尿病、胃潰瘍」https://biz-journal.jp/2017/04/post_18711.html

 これはけっこう有名な話だったらしく、彼のイギリスでの3大劣等感のひとつとされている(他の2つは、英文学者なのに英会話はきわめて苦手、イギリスでは短躯:158cm 52kg:「倫敦に住み暮らしたる二年はもっとも不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あわれなる生活を営みたり」『文学論』序)。昔読んだとき、そんな箇所私はすっ飛ばしていたのだろう、全然記憶にない。しかしそれにこだわって彼の書いたものを読むと、当時のイギリスにおける人種差別にまで考察が至ることができるわけだ。

は晩年、が大学予備門時代、写真の傷のように見えるが、両者でその位置が共通しているし、彼の写真はだいたい左側を正面に見せているのも、右側がよりひどくそれを意識していたからなのだろうか。

 それはともかく、彼の写真はあばたがきれいに修正されているのだということも、初めて知った(見合い写真は言うまでもなく、切手や昔の千円札でも)。ちょっとウェブ検索しても明確にそれらしい素顔の写真はみつからなかったが、ロンドンでもじろじろ見られたというからにはかなりのあばた面だったに違いない。とはいえ日本ではそのころこんな感じ↓の人は珍しくはなかったのだろうが。

幕末の通弁御用役・塩田三郎(1864年撮影)

 そういえば「あばたもえくぼ」っていうことわざもあったっけ。当時鉛をいれたおしろい(鉛白粉)が女性の化粧に使われていたが、それだとあばたがきれいに隠せたそうだ。ただし「引きずり痘痕」になるとそれも無理だったが、とのこと(https://www.isehanhonten.co.jp/wp-content/uploads/2019/10/vol47.pdf)。どんな傷だったのか見てみたい気がするが、ぐぐっても出てこない。

この宣伝ってどう考えても嘘くさい。光のあて方も違うし、右に細工しての左だろう、ぜったい

【補記】こんな漱石観もあるようだ(2021/6/15):筒井清忠「初めて「漱石神話」を解明した書:夏目漱石と帝国大学」(https://wedge.ismedia.jp/articles/-/23099)。とにかく脱神話化はけっこうなことだ。立身出世主義とか蓄財とか、明治人なら当然のことではあろうし、なにしろ病弱だった彼は49歳で死亡しているのだから、残される家族のこと思っていたのはよくわかる(それにしても未亡人の散財癖には畏れ入る)。とはいえ、若い時私なども感激した「則天去私」と異なる実像を知ることはいいことだ。一筋縄ではいかない多重的な赤裸々な人間性を白日の下に曝しているのだから。

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日本敗(終)戦記念日考:飛耳長目(53)

 私は太平洋戦争終結とされる8/15を「終戦記念日」ではなく「敗戦記念日」と表現するのを当然と考えている。理由は語る必要もなく明白である。それを「終戦」表現したのは、当時の政権(正確には、補弼)担当者だった鈴木貫太郎ないし、文書作成に呻吟したはずの内閣書記長官迫水久常あたりが敗戦という事実を薄め糊塗すべくひねり出したものであろう。おそらく臥薪嘗胆、再起を期しての未来先取りを射程に入れてのことだったのではないか(連動して付言しておく。教科書にすら1946/1/1の天皇の「人間宣言」と掲載されているが、文言として一切その記載がない事実に気付くべきだ。これは在職中の「史学概論」関係の授業でも扱ったが、私的には天皇の戦争責任・天皇制廃止をナシにする布石で、GHQを含めてのマスコミの意図的大誤報と思っている。見出しだけ見て、内容を精査しない庶民を愚民視して誘導している典型かと)。 

 戦勝国側で一番明確なのは戦艦ミズーリ上での降伏調印式をもって9/2を「VJデー」(対日戦勝記念日)としているアメリカであるが、8/15以後も戦闘を継続していた旧ソ連や、蒋介石と内戦中だった中華人民共和国にとって、対日勝利日はそう簡単でない複雑な事情があった(https://toyokeizai.net/articles/-/80286)。同じ敗戦国ドイツでは「戦争終結」Kriegsendeや「敗戦」Niederlage im Kriegという言葉はあっても「終戦」を示す語はない上に、あとから「(ヒトラー体制からの)解放日」Befreiungという解釈も出てきているほどで(1975年シェール西ドイツ大統領、1985年フォン・ヴァイスゼッカー西ドイツ大統領演説、もちろん批判もあった:http://www.desk.c.u-tokyo.ac.jp/download/es_7_Saaler.pdf)、このあたり日独の認識の違いは興味深い。やはりドイツ人は大人なのだろうか。もう一つの同盟国(のはずの)イタリアは、なんと大戦末期のレジスタンス(実際はマフィアの功績か)のゆえに戦勝国と認められ、日独と差別化され国連の敵対条項の対象にすらなっていない。イタリア人はドイツ以上にもっと大人なのであ〜る(弱かったくせに)。

 さりながら、私がここで問題にしたいのは、ではなぜ日本ではポツダム宣言受諾(連合国への通告は8/14)を告げた天皇の「玉音放送」の日をもってそれと認識しているか、という問題である。ここにいい意味でも悪い意味でも日本的心情が吐露されていると思うからだ。

 端的に結論を述べるなら、臣民にとって初めて接した天皇の肉声でのラジオ放送が、それだけ衝撃的で大きな意味を持っていたということであろう。なにしろ戦闘状態にあった皇軍は天皇の鶴の一声でおおかた矛を収めて休戦し降伏したのである(勿論例外はあった)。

 もうひとつ、敬虔なる仏教徒の日本人庶民からしてその日を受容しやすい事情があった。8/15が年中行事に深く根付いていたお盆にたまたまあたっていたからである(旧暦では7/15あたりだったが、明治以降の新暦で8/15が定着ずみ)。先祖慰霊に戦没慰霊が重なっての合葬は庶民感覚として十分に納得できる。

 ついでに書いておくと、その日は、カトリックでは6世紀以降「聖母被昇天の大祝日」であった。但しそれがローマ教皇ピオ12世により信仰箇条(ex cathedra)に定められたのは1950年のことだったが。400年先行する1549年のその日、鹿児島上陸時に聖母に日本を捧げたのはフランシスコ・ザビエルであった。しかし、さらにそれに遡ること15年前の1534年のその日に、彼やイグナティオ・ロヨラら7名によりパリでイエズス会が結成されていて、と史実をさかのぼっていくと、ザビエルの鹿児島上陸日など、疑い深い私はなんだかできすぎの話に思えてくるのだが。

 思い出しついでに。スペインでサンチャゴの徒歩巡礼していたときのこと。巡礼路は麦を刈り取った畑の中の道だったのだが、時折それまで聞き慣れなかった「パンパン」という音がして、なんと猟銃を持った男性と走り回る猟犬がちらほら。うれしそうに腰には獲物のウズラかなんかをぶら下げている。スペイン語が堪能な連れが聞いたところでは、8/15が狩猟の解禁日なんだそうだ。よりによって聖母被昇天の大祝日がスペインでは殺生開始の日とは、天上のマリア様もご存じあるまい。野鳥や野生動物にとっては受難の始まりということで、猿に間違われたり、流れ弾にあたらないよう首をすくめながらそそくさと歩いたことを思い出す。

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ドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」を見た:遅報(48)

 ケーブルテレビ501チャン日本映画専門チャンネルで初めて見た。三上智恵・大矢英代監督「沖縄スパイ戦史」(2018年)。このチャンネルでは最近鶴田浩二がらみの特攻なんかの戦争映画を延々とやっていて、だがそれはまったく見る気にならなかったが、今日は見た。そのさわりは、2分あまりにすぎないが「予告篇」(http://www.spy-senshi.com)でも見ることができるし、三上智恵『証言沖縄スパイ戦史』集英社新書、2020/2(なんと総ページ750!);大矢英代『沖縄「戦争マラリア」:強制疎開死3600人の真相に迫る』あけび書房、2020/2,なども出版されている。

 このドキュメンタリーの見所は、日本軍の同胞のはずの島民への虐待、捨て石作戦についてはこれまでもよく述べられてきたが(背後に、明らかな沖縄差別がある)、住民が堅く口を閉ざしてきた事実として、住民の中での相互監視・密告の残酷さ、それを立案実施したのが陸軍中野学校出身者で「潜入派遣」されていたスパイ(実名も明記されている)による現地秘密戦で、住民のマラリア汚染地区への集団移住の強制、先兵として15歳前後の「少年護郷隊」結成と利用、などなどであるが、それ以上に、私に衝撃的だったのは、この沖縄戦の悲惨さは本土決戦でも軍は当然平然として行うはずだったし(それ用に中野学校出身者が各地に派遣されていた由)、うかつにも知らなかったが、現在の自衛隊においても教範「野外令」(なんと、2000年策定)というものがあり、そこでは沖縄戦と同様の作戦が述べられている、ということであった(https://ja-jp.facebook.com/notes/makoto-konishi/陸自教範野外令による離島尖閣など防衛作戦全文を暴く/802570186485937/)。

 軍は住民を守らない、むしろ労働力の提供、食料・医療品等の調達での利用以外、軍にとっては足手まといな存在である、兵士は自分の身を守るだけで精一杯、軍隊とは実は国民を守る存在ではない、という認識はこうして昔も今もそのスジでは奇しくも通底しているわけである。そう言われてみれば、私が軍の当事者であれば何の違和感もなく確かにそうするであろう。そしてそれはサイパンをはじめとする南西諸島や満州各地でその通りのことが起こった(いわゆる外地だからという甘い考えがかくいう私にもこれまであった)。それは空恐ろしい現実に違いないが、そういう行動をとらなくてもすむためには、戦争を二度と起こさないことしかない、という理論的結論となる。ここでも体験者は次々に亡くなっている。もとよりこんな話題に興味をもたない現代の若者にどう継承していくか、本当にしんどい話ではある。

 今、同じチャンネルで続いてNHKスペシャル「沖縄戦全記録」(2015年)が放映されていて(https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20150614)、こっちは現在オンラインで見ることができるが、衝撃度においてかなり薄い。それだけ前者が成功しているわけだが、それは現地での生存者たちの重い口を開かせた結果である(実際には、現地沖縄ではすでに相当の研究がなされており、ただ当事者がまだ生きている場合、お口にチャックなのだ)。その意味で、取材者の声も入っている映像はそのままで民衆史におけるオーラル・ヒストリーのお手本といっていいだろう。

 こんな証言もある:「日本兵による日本兵の殺害を証言した98歳「やり残したことがある」」(https://news.livedoor.com/article/detail/13458503/);「「僕は日本兵を殺した」:元米兵が最後に語った「もう一つの戦争」」(https://mainichi.jp/articles/20200810/k00/00m/040/188000c?cx_fm=mailyu&cx_ml=article&cx_mdate=20200811);「米兵もむせび泣いた硫黄島の激戦、75年前の傷癒えぬ元兵士は語る」(https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/photo/stories/20/021800010/)。当たり前のことだが、当事者に与えた傷口はいつまでも癒えはしない。疼くのだ。

【追記】以下が届いた。NHKスペシャル取材班『少年ゲリラ兵の告白:陸軍中野学校が作った沖縄秘密部隊』新潮文庫、2019年(原著『僕は少年ゲリラ兵だった』新潮社、2016年:放送はアニメ仕立てだった由で、そっちも出版されている)。その後書きに、沖縄の北方の最前線で戦った少年ゲリラ兵の取材をしていたとき、インターネットでISの少年兵をみて…という下りがあった。

 いずれにせよ彼らは幼心に洗脳教育(教育は洗脳に他ならない)されて、命令されたら顔なじみの仲間も殺したわけだが、そこで私が想起したのは、20歳を超えていた連合赤軍のリンチ事件のことだった。学歴や年齢は関係ない、同じだ、彼らが異常なのではない、大義名分があれば人は何でもやってしまう。もちろん心の傷にはなるだろうが、「あの状況では仕方なかった」のだ。正直に言おう、偉そうなことはいえない、私もやってしまうに違いない、と。いや、似たようなことやってきているよな、と。

【追記2】昨晩、「野火」(2014年)を見た。これは大岡昇平作(1951年)の二回目の映画化で、塚本晋也監督・主演の、フィリピン・ロケしたカラー版。リアリティたっぷりの残酷シーンの連続。最後頃の腕の細さはどうやったのだろう。初回は市川崑監督の白黒で(1959年)、あの船越英二(長男が俳優・英一郎)が目だけぎらつき面変わりした役作りには脱帽だったが、当事者がまだ生きていた時代の問題作で、そこでは結局主人公は人肉を食べられなかった設定に変えられているのも、救いがない話なので、なんだか分かるような気がする。この戦争の日本人戦死者の60%強は餓死であったという統計があるが、その対極で司令部や高級武官は安泰だったらしい(https://news.yahoo.co.jp/byline/dragoner/20181110-00103615/)。

新旧の「野火」主人公
餓死では死者も浮かばれまい

 保坂正康が書いている。「高級参謀をはじめ、日本の職業軍人とは何者だったのでしょうか。英国は階級社会ですが、国を守るという点では王族・貴族もありません。戦争で死ぬということについて、平等性がある。戦争に貴賤(きせん)なしです。・・・ ある陸軍大学校出身の元参謀には「息子を入学させるなら、陸大だよ」と言われました。彼の同期50人ほどのうち、戦死は4人だけだったそうです。エリートは前線に行かず、戦争を美化するんです。」(https://mainichi.jp/articles/20141024/mog/00m/040/003000c;https://bunshun.jp/articles/-/38922)

 こんなのもあった。「アメリカ人捕虜を殺してその肉をたべた….”凶気の宴会”が行われた「父島事件」とは:なぜ日本兵は”人肉食”を求めたのか」(https://bunshun.jp/articles/-/39584);「昼食後に姿を消した3人の日本人捕虜…シベリア収容所の”人肉事件”はこうして始まった:シベリア抑留「夢魔のような記憶」」(https://bunshun.jp/articles/-/39621?utm_source=news.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=relatedLink)。

 はたして日本人は民度が高いのであろうか。国民が戦勝に浮かれてしまい(日露戦争講和時に似た状況あったなあ)、それが軍部を否応なく先に進めさせてしまった、という話もある。軍部も輪をかけて民度が低かった、というべきだろう。そして今もそのようだ。

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世界キリスト教情報第1542信:2020/8/10

= 目 次 =
▼教皇「軍拡に費やす財源を、人々の発展と環境保全のために」
▼教皇、日曜「正午の祈り」でも広島・長崎に言及
▼30年間続いた南北教会の光復節共同祈祷文、今年は実現しない?
▼韓国のコロナ新規感染者28人に、ソウル・南大門市場で集団感染
▼ベイルート爆発で各国が緊急支援、キリスト教各派も乗り出す
▼『サマリタン・パース』がベイルートに援助物資を緊急空輸
▼ロシア正教会で有名な「悪魔祓い師」が新型コロナ合併症で死亡
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最近のコロナ談議をめぐって

 感染者の日ごと統計をみてみると、第一波感染よりも第二波のほうが断然多くなっている。しかしこれは数字のアヤなのでそうあてにはできず、死者数を見てみると状況はまったく違ってくる。

感染者数
死者数

 世界の状況は、感染者総数2000万目前、死者総数72万強で、アメリカとブラジル、インドだけで、各々1000万、30万強と、ほぼ半数を占めている。その中にあって日本は現在、感染者総数5万弱、死者総数1060名となっていて、死者数は漸次的増加傾向にあるものの、現段階では未だ第二波襲来とはいえないように思える。

 プラス的展望としては、あてにならないワクチン開発くらいしか思いつかないが、最初手探りであった新コロナも、ここ半年の追跡調査でだいぶ分かってきたことがある(以下、但し有料)。「新型コロナ 自粛不要論は正しいか」(https://mainichi.jp/premier/health/articles/20200804/med/00m/100/010000c?cx_fm=mailhiru&cx_ml=article&cx_mdate=20200805);「新型コロナ:イタリアの最新研究に世界驚愕:「世田谷=ミラノ・モデル」への期待」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61540);「第2波は?「喉元過ぎれば熱さ忘れる日本人」の弱さ:岩田健太郎・神戸大教授」(https://mainichi.jp/articles/20200808/k00/00m/040/103000c?cx_fm=mailyu&cx_ml=article&cx_mdate=20200809)

 問題は今年の年末に例年流行するインフルエンザとの併存状況がどのように展開するか、であろう。20世紀初頭の「スペイン風邪」での死者数は全世界で4000万、5000万、一説では1億ともいわれているし、日本では約38万ないし45万とされているので(http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/pandemic/QA02.html)、現段階に限ってのことだが、新コロナはかなり押さ込まれているわけだが、それがどのようになるのか、大いなる関心をもって注視したい。

 そのとき気になっていることがある。研究者はあたりまえのことだが、理論走っているのが通例である(それ自体けして悪いことではない)。多くの場合、輸入された○○理論に従って、仮説的な数字で警告する。ところが、実際に現場で働いているのは医療従事者であり、そこでの体感に落差が生じるのは当然のこと。専門家として臨床医の見解を聞いてみたいと思う。これもいうまでもないことだが、政府がらみの数字は、我が国に関してはまったくあてにならない。責任逃れのご都合主義が透けて見えるからだ。

 それにしても、ポスト・コロナが話題になっているが、少なくとも私にとっては健康上の、さらに研究上でも大きな影響があった。運動不足、それを図書館利用制限が拍車をかける結果となっただけでなく(まったく自業自得ではあるが)、研究書の相互貸借が謝絶され、コピー依頼も大幅に遅滞しているからである。それでなくとも読むべき文献は多くあるのだが、肝心要の調査発掘資料などが押さえられないもどかしさは、私の場合多大なストレスとなる。この状況が一日も早く元に戻ることを願っている。

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コインから引退皇帝の表情をうかがう

 面白いコインが売りに出ていた(PEGASI NUMISMATICS SALE 158 Hosted by Agora Auctions)。周知のように、四分治帝tetrarchの東西両正帝ディオクレティアヌスとマクシミアヌスは305年5月1日に同時に引退した。それを記念した銀5%程度含有の青銅貨AE FOLLIS、よって発行年は一応305-6年とされている。出品業者の説明では、左がディオクレティアヌスで造幣場所はロンドン、右がマクシミアヌスでトリーア製、裏面はいずれも同じで,右側のProvidentia(「神意」の擬人化)が手に持った枝を左のQuies「静寂」に差し出しているデザイン。両方ともマクシミアヌスの後継西部正帝コンスタンティウス・クロルス領域での打刻であるが、今回の政権禅譲で帝国が平静であれかしとの思いが伝わってくるような気がする。マクシミアヌスのほうの表情によりリアリティを感じることができるのも、これまで彼の副帝で女婿コンスタンティウスによるものだからかも知れない。落札希望価格も同じで$335。$250からのオークションとなっているが、すでにマクシミアヌスのほうは「SOLD」表示が。開始直後に言い値で落札されたわけだ。収集家がほしくなるような個性をマクシミアヌスに感じることができたからだろうと納得。ちなみに、ディオクレティアヌスは引退時60歳で、マクシミアヌスは4、5歳年下だったと想定されている。

 彼らが二分治体制dyarchyを敷いた286年では、ディオクレティアヌスが41歳、マクシミアヌスが36, 7歳で、その頃の少壮期の両帝の表情と比較してみるのも一興であろう。それが以下のローマ造幣所打刻の記念金貨*。両者ともに精悍さに満ちた顔つきであるが、多少くずれているとはいえ20年後もほぼまだその線を維持しているかのように見えるマクシミアヌスに比べ、ディオクレティアヌスの衰えは著しい。精気がまったく感じられないのである。よもや病み上がりが反映されていたとも思えないが。それでもディオクレティアヌスは隠居地Split(現クロアチアのダルマチア海岸の町)で引退後8年間生き続けた。他方、マクシミアヌスは帝位復活を目論んで再三策謀をめぐらし、ために実子マクセンティウス、女婿コンスタンティヌスに疎(うと)まれ、後者によって5年後に死に追いやられてしまった。いずれが武人としての生涯を全うしたというべきか、微妙である。

裏面は、象のクワドリガに両名が乗っての架空の執政官就任行列か
  • J.P.C.Kent,photo.by Max & Albert Firmer, Roman Coins, London, 1978, p.323によると、本コインは287年の両帝執政官就任行列を描いたもの。その根拠は、裏面銘文「IMPP DIOCLETIANO III ET MAXIMIANO CCSS」だが、両帝同道の行列そのものは架空のものか。これはAureus金貨5枚分に相当する記念金貨として軍高官や高級官僚に送られた一品で(すなわち流通貨幣を意図していない:cf., S.Williams, Diocletian and the Roman Recovery, London, 1981, p.49)、現品はAboukir遺跡(エジプトのアレクサンドリア北東端の岬)から出土の由。
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明智光秀研究の進展?:飛耳長目(52)

 最近、彼を巡る研究が進展しているようだ。いうまでもなくNHK大河ドラマのせいであろうが。これは歴史学研究における心理的盲点(スコトーマ)の無自覚的応用の成果というべきか。我ら庶民はえてして人口に膾炙した講談調の物語を好み、刷り込まれていて、史実(そんなものあるとしての話だが)とは違っているのは当たり前なのである。詳しくは以下参照。

 「迫る!本能寺の変(全3回)」2020/8/2(https://digital.asahi.com/articles/ASN8225SVN76PTJB00Y.html?iref=pc_rellink_01)

 「明智光秀の妻の戒名、仏画に発見 本能寺の変前に死去か」2020/8/7、但し有料(https://digital.asahi.com/articles/ASN873RS4N84PTJB015.html?_requesturl=articles%2FASN873RS4N84PTJB015.html&pn=5)。

 でも上記の場合、構成力で読者の興味をひいただけで結論的に新発見というわけでないところが、記者の腰砕けというべきか。まあそうそう新(今はやり言葉では「神」)知見はない、ということではあるが。陰謀論を廃して従来説の突発論に帰着しているのは、「「本能寺の変」のフェイクニュースに惑わされる人々:呉座勇一・国際日本文化研究センター助教に聞く」(2018/7/13:https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO3285436011072018000000?channel=DF220320183617)。

 それでふと思い出したことがある。最近またケーブルTVで放映されていた「アラビアのロレンス」。そこで主人公を演じたP.オトゥール(1932-2013)は身長188cmだったが、実際のT.E.ロレンス(1888-1935)は、私生児だったからというわけでもないだろうが、165cmしかなかった(彼の同性愛疑惑にはここで触れないでおこう)。だったら167cmmのダスティン・ホフマン(1937-)あたりが演ずるのが妥当と思えるが、それでは「絵にならない」わけである。

 逆に、私の好きな「ブレイブ・ハート」の主人公ウィリアム・ウォレス(ca.1270-1306)は195cmと伝えられているようだが、映画で彼の役を演じたメル・ギブソン(1956-)は177cm。映画でも巨漢ぞろいのスコットランド人たちの中にあっては小柄に見えたのが印象的だった。また、「グラディエーター」の主演ラッセル・クロウは188cmで・・・。もうやめときます。

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今日、2つの病院で:痴呆への一里塚(32)

 薬がなくなったので、今日は病院の連チャン。まず眼科に行って、緑内障の点眼薬だけ貰うつもりが、あちらも簡単にそうしてくれず医師の数分の問診があった。「お変わりありませんか」と問われたので、夜中中起きている件には触れず「どうも字が見にくくなってまして」と返事すると、当然のように「そうですね、右目に白内障が出ています」と驚愕発言。「えっ,手術したのは左目ですが」「はい、だから右目。まだそうたいしたことはないですが」と。おいおい・・・。

 次いで、整形外科内科に。ここではいつも痛風とコレステロールと血圧と、足首に貼る膏薬をもらうのだが、先月の検査結果を示され、「相変わらず肝臓がよくない、血糖値も高いので軽い糖尿」とご神託が下った。処方は「間食はやめる、運動する、糖質を減らす・・・、体重を10kg落とせばすべてよくなる」とよどみなく・・・。ということで、ま、コロナ以前の数字には返したいので、手始めに間食とらないことから始めてみようかと殊勝に思うのであった。我ながら野放図に口にしていたからだ。でも、きっと頭がぼ〜として仕事がはかどらないだろうな。

 帰ってきた妻に顛末を報告すると一言。「医者に行くと病気がみつかる」。

 先般、区から「東京都国民健康保険高齢受給者証」が送られてきていて、それをよく見るとこれまでは「2割負担」だったのに、今月からそれが「3割」に。たぶん広島の母の遺産を相続したせいか。都合、診療費と薬代で本日の医療費は、合計6000円弱。これが一年だと、でも控除対象になる10万には足らんなあ。

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看取り犬・文福のこと:遅報(47)

 朝日新聞デジタル(有料)で、特養施設の飼い犬「文福」が、不思議なことに入居者の看取りする、というお涙ものの話を読んだ(https://digital.asahi.com/articles/ASN7Y5KFJN7PUCFI00Z.html?ref=apital_mail)。それに触発されて検索してたどり着いたウェブではNo.1が2020/4/6で現在No.6を数えている。以下はNo.1(https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20200331-OYTET50009/?catname=column_wakayama-michihiko)。そして次の本の存在を知った。

 若山三千彦『看取り犬・文福の奇跡』東邦出版、2019年;同氏『看取り犬・文福:人の命に寄り添う奇跡のペット物語』宝島社、2020年

 デイヴィッド・ドーサ(栗木さつき訳)『オスカー:天国への旅立ちを知らせる猫』早川書房、2010年

 ところで、朝日の記事を読んで、私は母の老衰死を体験したので、書かれていることで腑に落ちたことがあった。それはたとえば、認知症になると食事するという意味も分からなくなり食べなくなるとか、水分を摂るのにとろみをつけることである。水だとさらさらしていて気管に入ってしまうのだそうだ。そして母の場合、12月中旬頃、ケアマネさんに「背中の傷が抗生物質投与しているのに改善されない、もう吸収していないようなので、そろそろ看取りに入ります」と言われ、要するに老衰死とは内臓が吸収しなくなり餓死に至ることだと合点した瞬間だった。だがこれといった持病もなく心臓も強そうだったので先は長いだろうと漠然と思っていたが、食事が細くなっていき、2か月後の翌年2月11日の早朝に施設内で一人で逝ってしまった。そろそろ危ないという電話がその2時間ほど前にあって出る準備をしていたときのことだったので、私は看取ることはできなかった。その意味で私は文福ほど鋭敏でなかったわけだ。だがさすがに施設の方の判断は的確だった。

 たぶん、犬は人間よりはるかに嗅覚に優れているので、それで感知することができるのだろうが、他の犬はそういう行動を取らない。なぜ文福や看取り猫オスカーはできたのだろうか。特異行動というよりほかないが、ペット好きには大きな慰めであったには違いない。

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「1945ひろしまタイムライン」:飛耳長目(51)

 あれでもコロナ騒ぎで翻弄されていたせいなのだろうか。時間の流れが平板になって(いつまでも梅雨が明けなかったせいもある)、いつの間にか8月となった。そして敗戦、原爆忌。
 NHK BS1でさっきやっていたのを見た。
https://www.nhk.or.jp/hibaku-blog/timeline/
 75年前に、二六歳で妊娠していた主婦、一三歳で付属中学に張ったばかりの男子、三二歳だった新聞記者(1995年死亡)が残した日記を、現代のSNS風に編集し直した試み。結果を知っている身からするとドキドキしながらの視聴だった。お腹の中にいた娘さんが登場していたので一安心だったが、お母さんはもう死亡されているのだろう。中学生は5度のガン手術を経て89歳でご健在だった。
 あとからHPに行ってみた。ここには日記の原文もある。つい読んでしまう。アーカイブには映画館で放映されたニュースを見ることもできる。私の記憶だとこのニュースは戦後も映画館でやられていた。こっちは早くお目当ての映画をみたいのに、なぜわざわざするのだろうと思ったものだ。映画館でニュースが流れなくなったのは、さて、いつごろのことだったか。
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