月: 2019年12月

人はなぜ体験を書かないのか、否、語り始めるのか:遅報(15)

 このところ、なぜか1968年の本を読んでいる。きっかけは、小児性愛虐待記事を求めての『文藝春秋』97-3(2019)にたまたま載っていた、立花隆「東大紛争五十周年」のコラムを偶然読み、彼の「東大ゲバルト壁語録」『文藝春秋』47-3(1969)を知ったからである(これは簡単にpdfで入手できた:http://kenbunden.net/student_activism/articles/pdf/1.pdf)。それで検索していて、落書きが写っている由で、渡辺眸『フォットドキュメント東大全共闘1968-1969』角川ソフィア文庫、2018年、これはわが図書館にはなかったので、古書で入手した。以下2点はさすがにあった。

 島泰三『安田講堂1968-1969』中公新書、2005年;三橋俊明『路上の全共闘1968』河出ブックス、2010年。

 まあそれまで立花、島と東大の言説だったが、三橋を読んで、遅ればせながら、日大に関する以下のウェブサイトがあることを知ったあたりから、もっぱら関心は日大全共闘関係となる。

 「1968年全共闘だった時代」http://www.z930.com;「日大闘争by日大全共闘」https://keitoui.web.fc2.com。

 挙げ句、とうとう以下も発注してしまった。わが図書館には当然のこと、ない。ま、古書で捨て値で安いということもあった。日本大学文理学部闘争委員会書記局『叛逆のバリケード:日大闘争の記録(増補版)』三一書房、1969年。なんと、新版が出ていたので(2008年刊)、やむを得ずこれも・・・(^^ゞ 私は観念先行よりもどうやら農民一揆的な日大闘争のほうを好むようだ。全共闘はセクトではない[なかった]、いわんや全学連でもない、という認識は重要である。多くのセクトがそれを僭称していたせいで、外から見ると誤解があるからだ。逆にいうと、日大の場合が特異だったというべきか。

 いもづる式に『忘れざる日々:日大闘争の記録』全9冊(2011-2018年:http://www.z930.com/kiroku/no_9/kiroku09.html)の存在も知ったので、ここには一般学生の声や落書きが載っているかもと思って、記載された取扱先アドレスにメール送ったが、まず不達。古書でももう全巻どころか単品でも入手が困難なようだ。ここでも販売してますと書いてあった模索舎にメールすると7冊入手可能とさっき返事があった。送料込み7000円。第1巻と第5巻がないらしい。

 それぞれ40周年、50周年という区切りでの出版のようだ。書き手の(元)活動家たちは当時も饒舌だったので、記録自体を残そうとするのは当然と思われるが、一般学生や「単ゲバ」のほとんどは沈黙し続けているのではないか。考えてみると、それは私自身にも言えることで、多少関わった身からするとなにか語ればそこからこぼれ落ちてしまう、ある意味下世話で、ある意味核心的な情報もあって、到底全体像を伝えることができないという思い、またもちろん思い出したくない体験や、慚愧の念に苛まれる場合もあって触れたくない気持ちもあるはずだ。逆にいうと、よほどの動機がなければ、体験の一部を切り取ることすらできないのである。*

 この語るのか語らないのか、を煮詰めて考えてみることは、歴史上の諸史料の残存理由やその言説のレベル、を探る意味で重要な気がする。そして思うのだが(情緒的すぎるであろうか)、解説に百万言を費やすよりも、以下の落書き(正確には、『叛逆のバリケード』目次裏記載の詩?)が発している高揚感のほうが、活動上昇期当時の彼らの実際を表現しえているように思うのは、私だけであろうか。きっと香港騒乱の参加者たちもそれを今体感しているはずだ。

  生きてる 生きてる 生きている
  バリケードという腹の中で
  生きている
  毎日自主講座という栄養をとり
  “友と語る”という清涼飲料剤を飲み
  毎日精力的に生きている
  生きてる 生きてる 生きている
  つい昨日まで 悪魔に支配され
  栄養を奪われていたが
  今日飲んだ“解放”というアンプルで
  今はもう 完全に生き変わった
  そして今 バリケードの腹の中で
  生きている
  生きてる 生きてる 生きている
  今や青春の中に生きている

 だがそれは、いわばプラス・イメージ方向でのことである。立命館大学の学生だった高野悦子は「悲しいかな私には、その「生きている」実感がない」(『二十歳の原点』1969年3月8日)と書いて、3か月後に鉄道自殺した。2月中旬から活動家の仲間入りしていたのだが。おそらく運動凋落期で先の展望も開けず、その上性格的にマイナス思考の、観念論先行型だったからだろうか(https://plaza.rakuten.co.jp/etsuko4912/diary/200506290000/)。当たり前のことだが、千差万別の生き様があったし、プラスであろうがマイナスであろうが、書き手が書き残さなかった、残そうとしなかった別の真実があったはずである。

(*) 橋本克彦『バリケードを吹きぬけた風 : 日大全共闘芸闘委の軌跡 』朝日新聞社 、 1986、の本文冒頭に以下が書かれている。

 この態度は正直でなかなかいい。それは、東大全共闘のヒーロー、山本義隆『私の1960年代』金耀日、2015、の取り澄ました叙述スタイルと対照するとき、明確になる。

【香港関係】

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-48618554

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-50709898

デモ隊は香港理工大学付近で、れんがを使ってバリケードをつくった。分離帯には「思想は防弾性だ」、「奴隷より反逆者でありたい」、「絶対に降伏しない」などと書かれている(11月18日撮影)

【追記1】『バリケードに賭けた青春』(北明書房、1969年)をヤフオク経由で入手した。そこで柳田邦夫(邦男とは別人:筆名でないとしたら、鹿児島ラ・サール高校、学習院大学、中央公論社出身のジャーナリスト、1988年に56歳で死亡、か)が書いた「バリケードの中の祭典」が、プラス面的になかなか読ませる。

【追記2】在庫があった『忘れざる日々』が届いた。ザッと見ていて、vol.2, 211, pp.114-117に「『叛逆のバリケード』巻頭詩をめぐって」が掲載されていた。その元記事は以下のブログに掲載されている。2011/7/22「野次馬雑記」http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2011-07.html

 当時日大全共闘文理学部闘争委員会に所属していたT氏が、封鎖の初期の夜、一人きりになり寂しかったときに黒板になぐり書きしたということであるので、ま、落書きでいいように思う。残念ながら写真はなかった(どこかにあるはず、とのこと)。

【追記3】佐々木美智子『あの時代に恋した私の記録:日大全共闘』鹿砦社、2009、を入手した。もちろん落書き狙いだったが。立て看は別にしてバリケードの中の落書きはそう写っていなかったのは残念であるが(輝度をあげてわざとみえなくしている?)、2,3箇所だけあった。版権と肖像権もあるので、ここでの掲載はやめておこう。

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文在寅大統領の宗教と政治:遅報(14)

 今回遅ればせながら、以下の書き込みで、隣国韓国の現大統領が宗教的にはカトリックだということを初めて知った。http://agora-web.jp/archives/2036104.html;http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/52262257.html

 その気になって検索すると出てきた。https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019112400001.html

 韓国の宗教分布は、ウィキペディアによると、15年前の統計で恐縮だが、約3割がキリスト教で、23%を占める仏教を抑えて国内最大勢力(非宗教人口47%)、その内訳は、プロテスタント18%、カトリック11%の割合だそうだ。前任大統領の朴槿恵も中学生の時カトリックになっているので、政治的には対立しながらカトリック大統領が少なくとも2代続いているが、それに注目する人は皆無だろう。一般信徒にとって所属宗教とは何なのだろうか。人によってのめり込み具合は千差万別としかいいようもないが。

 だがしかし、第1−3代李承晩、第4代尹潽善とプロテスタント大統領が続いたあと、1961年に軍事政権に移行し、その後の初めての直接選挙での第14代金泳三、第17代李明博もプロテスタントだった。これに対して第15代金大中においてカトリックが大統領となる(妻はプロテスタントだったが、相互尊重していた由)。そして第16代が盧武鉉、第18代が朴槿恵、そして盧の友人で第19代が現在の文在寅がカトリックとなると、あっさり現代において政教分離、と片付けるにはちょっとまてよ、という感じにならざるをえないだろう。なんと、隣国の大統領はこのところずっとキリスト教徒であったのである。であればこそ、たとえ頭は挿げ変わったにせよキリスト教を通じての人脈の継承(特に、米国との、外交担当者同士での)がある(あった)はずである。トランプ政権で激変した米国政府の方針の読み違えの遠因も、案外そのあたりにあるのかもしれない。

https://www.buzzfeed.com/jp/kazukiwatanabe/list-of-korean-presidents-20161129

 カトリックの理想的本質を「赦し」「愛敵」であるとする観点からすると、現大統領の言動は明らかに非カトリック的であるが、歴史の中で朝鮮民族に血肉化してしまっている「怨」の意識を払拭することは、国内的にみて選挙民を敵に回すことなるのだろう。政治家の最重要事項は理想ではなくて(理想を高唱しつつ、その実)現実問題の処理である。

 それにしても、以下のような冷静な分析がもっとあってもいいように思うのだが。https://webronza.asahi.com/politics/articles/2018122000007.html

【日本大使館前が後になっている現状】 https://bunshun.jp/articles/-/11714?page=4;https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20191030/pol/00m/010/002000c?yclid=YJAD.1576646849.EcZXlLedcq19xEUpQ3KbLzoXAY7V4NjFkYNO1GvwJ_BvsqZE3tEKdKwl5MtD1qIbefkbny9NhiU4snA-

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