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世界キリスト教情報第1675信:2023/2/27:AIによる説教

◎ミュンヘン会議開幕=ウクライナ大統領、兵器供与の加速呼びかけ
◎ブラジル貧民街の個人宅、「今年の家」に 建築専門サイトが選出
◎胎児は無実、妊婦の被告が保釈要求=米マイアミ
◎「福音宣教の主役としての聖霊」をめぐって=教皇一般謁見
◎牧師の説教まで書いた「チャットGPT」=「まだ牧師レベルではない」

 今回は最後のを紹介しよう。

◎牧師の説教まで書いた「チャットGPT」=「まだ牧師レベルではない」
【CJC】「今日、私たちは愛する父を思い出します。聖書では、『すべての人が一人ずつ死に、その後に審判がある』と言われました。父は今、死と審判を迎えていますが、私たちは永遠の命を考えることができます。聖書では、『死んだ者はもはや死ぬことはなく、その命は死から抜け出さない」(ヨハネの手紙11・26)と言われました。私たちはいつもあなたを愛しています」

 韓国メディア「東亜日報」(日本語版)が、このような書き出しの聖句を掲載した。一見すると、葬儀での牧師の故人への祈りのようだ。しかし、これは「亡くなった父のために聖書を引用した祈りを作ってほしい」という要請に、対話型人工知能(AI)サービス「チャットGPT」が作った内容の一部だ。

 ある教会関係者は、「内容の誤りなどはともかく、祈りの形式は備えているように見える」とし、「牧師の説教レベルではないが、信徒が突然の状況に応じて参考にすることはできそうだ」と話した。本文を中心に置き、意味を与えて締めくくる祈りの文、説教の枠組みは整っているということだ。

 引用した聖書の巻名には誤りがあった。「チャットGPT」が引用した箇所は「ヨハネの手紙11・26」だが、実際これと似た内容はヨハネの福音書11章26節にある。また、聖書は国内外に多数の翻訳本があるためか、現われている改訳改訂版とは翻訳に違いがあった。改訳改訂版ヨハネの福音書11章26節には、「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか」とある。

 「チャットGPT」に「チャットGPTの説教の問題点は何か」と尋ねると、「作成した説教や祈りは、いかなる哲学的な信念や宗教的な目的も持たない、入力された資料を基に自動生成された文章」と答えた。そして、「このため、私を使用して作成された説教は信仰の根本を含まず、また誤った信仰を広める恐れがある」と警告した。
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アレクサンドロス・モザイク再論

 渡伊を前にして今やたら多忙なので(3年振りのせいか、老化促進のせいか、なにごともはかどらない)、メモっておく。

 Joshua J.Thomas, The Ptolemy Painting? Alexander’s “right-hand man” and the origins of the Alexander Mosaic, JRA, 35,2022, 306-321.

 この著者が注目するのは大王の右手後ろに辛うじて残存して描かれている人物に関して、本モザイクの失われた原画の施主だったのではないか、という説を提示しているようだ。迂闊ながら、私はこれまでこの人物の存在にすら気づかなかった。世の中には観察力に長けた人がいるものだ。著者はそれを、ずばり、ディアドコイの1人、プトレマイオス1世と同定しているようだ。

 ⬆ここ:右図はその部分の拡大
プトレマイオス1世の彫像と貨幣上の横顔

 さて、真実はいかに。いや、論証はいかに。

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世界キリスト教情報第1674信:2023/2/20:世界最古のヘブライ語聖書競売

◎四旬節メッセージ=教皇、イエスと共にタボル山に登るよう招く
◎教皇、ニュージーランドのサイクロン被災者に寄り添う
◎ミュンヘン会議開幕=ウクライナ大統領、兵器供与の加速呼びかけ
◎5月競売、世界最古のヘブライ語聖書公開

 今回は、最後のものを紹介しよう。

◎5月競売、世界最古のヘブライ語聖書公開
【CJC】競売大手サザビーズは2月15日、ニューヨークで5月に競売に出される1000年以上前のヘブライ語聖書を公開した。ニューヨーク発AFP=時事通信によって紹介する。これまでに発見されたヘブライ聖書の中で最古とされる。

 出品されるのは「サスーン写本」で、9世紀後半~10世紀初頭に書かれた。落札価格は歴史的文書としては過去最高の5000万ドル(約67億円)に届く可能性がある。

 写本の名は、ユダヤ教古文書の個人収集家デービッド・ソロモン・サスーン(1880~1942)にちなんでいる。

 ヘブライ語聖書全24巻を収録した写本として現代まで残る二つのうちの一つ。紀元前3世紀にさかのぼる死海文書(死海写本)と、現代版ヘブライ語聖書の架け橋とされる。

 サザビーズによると、初期のヘブライ語聖書として有名な他の2点、アレッポ写本よりも完全で、レニングラード写本よりも古い。競売に出品されるのは30年以上ぶりだという。□
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米国キリスト教事情:教会離れ

 堀田佳男「米国でキリスト教離れが止まらない、教会の閉鎖も急増中:宗教に対する若者の信頼が崩壊、コロナ禍がダメ押し」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/73699)

 ここで述べられているのはプロテスタントの話だが、カトリックにとっても他人事でない。私が20代のころ(もう50年も前になるのか)、教会付属(正確に言うと女子修道会経営)の幼稚園の先行きがすでに危機感をもって話題となっていた。宗教の場合は、世代交代が大きな節目となるので、まず50年-70年周期くらいの変化となるはずだ。

 それに今回の新コロナが決定的打撃をあたえることになるだろうとは、私でも予想できる。

 そのマイナス要因以上に、教会が集客力をもつことができるかどうか、その活力が残っているかどうか、が決め手になるはずだが、どうだろう。60、70年代には、かなりメッキが剥がれてきていたとはいえ、ヨハネ23世が開始した第二バチカン公会議による教会刷新という起爆剤があった(私はこの世代である)。冷戦終結の21世紀前後は、ポーランド人ヨハネ・パウロ2世というスケールの大きいスターの登場が吸引力となった。

 そして現在、我が国では戦後の米国支配によるキリスト教ブーム(日本では不発に終わったとはいえ)時代の受洗者が天に召されていく中で、どれほど自覚的な2世、3世信者(私にはどうしても「ニセ信者」と聞こえてしまうのだが)が育っているかどうかが決め手となるはずなのだが、さて。

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やっぱりそうか:廃物利用の戦車投入、そして・・・

 以前もちょっと触れたことのある話題だが、武器はそれでなくとも早晩おしなべて使い物にならなくなる。現役であろうとするとメンテナンスが重要となる。既製品を有効利用しつつ、次の需要をどう喚起させていくか、これが軍事産業のねらい目となる。だから実戦での消耗は彼らにとってもっけの幸いなのである。40年前ですでに時代遅れのトマフォーク爆買いのニッポン総理なんかいいカモであるが、これで首相の地位安泰という相変わらずの朝貢外交の見返りなのだろう。

 深川孝行「ウクライナ戦争のカギを握る戦車、世界的には廃棄が進む“絶滅危惧種”だった:「戦車王国」だった欧州の主要国は、いまや日本の半分以下しか保有していない」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/73989)

 数多久遠「ウクライナ戦局に大きな影響を与えている「まだ姿を見せない戦車」:欧米による戦車供与の2つの意味」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/73862)

一世代前のドイツ製戦車「レオパルト1」などの由

 ところで、遅ればせながらこんな話題も飛び込んできた。

 福島香織「吠えまくっていた「戦狼外交」報道官、謎の左遷から見えてくる中国の一大変化:苦境にあえぎ国際社会との協調へ軌道修正か」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/73475)

 趙立堅をTV画面でしか知らない私も、クソ生意気な顔つきの彼はいつまでもつかと思っていたのだが(北鮮のおばちゃんは愛嬌あるけど)。今年1月早々、満3年もたずに使い捨てされたらしい(削除された妻のブログが昨年秋から過激になっていたので、そのころから左遷情報は洩れていたのだろう、とのこと:https://news.yahoo.co.jp/articles/c0b4e778eb8d7ddb9726b84eb0cbba124e1a639a)。

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漫画『はだしのゲン』

 たしかにこの作品についてこれまでもさまざまな論争があったが、こともあろうに広島市教育委員会が「被爆の実相に迫りにくいと判断した」としてこれまで平和教育の補助教材に採用してきたものを、他と差し替えてはずすことにきめたそうな:https://ml.asahi.com/p/000004c215/18771/body/pc.html。なんたらサミット前のお掃除だなどと思いたくはないが、現に進行中のウクライナで庶民が直面している惨状は、75年前の日本空襲と寸分違わない現実であるにもかかわらず、リアルを伝えるはずのマスコミが率先自主規制に走って映像での実相隠しも常態化している中で、なにが真実を伝ええる素材なのかと考えざるをえない。

 そもそもこれまで採用されていた箇所「コイを盗む場面」なんか、原爆の「実相」としてけっして適切とは思えないものを教材にしてきた挙げ句の決定のようだ。

 たしかに荒々しい筆致で過激な文言も見受けられるが、漫画とはいえ、否、漫画であればこそ『はだしのゲン』は強烈な情報発信源だった。今風にいえば、写真ではなく漫画だから許されてきたこともたしかだろう。その被爆の「実相」箇所を「子供には残酷すぎる」とあらかじめ排除してきての言い草には何をか言わんや、といいたくもなるが、そこにはそれなりの苦渋の選択があったのだろう。周辺部分で今だと問題視される差別用語も遠慮会釈なく出てくるが、それが当時は普通だった、そう思っていた(思わされていた)、というあたり教師なり大人の解説と是正が必要なこともいうまでもない。庶民の大人が言い放っていた言葉を当時の少年(作者・中沢啓治)がストレートにそう聞き取っていたという話なのである。

 図書室には全10巻+がまだ設置されているはずであるが、子供は指摘されなければ関心も持たないものだ。我が家の書架にも目立つ場所に関連戦争漫画を含めてずっと置いてあったのだが、練馬そだちの孫たちは読もうともしなかった。東京には東京大空襲という立派な歴史教材があるが、そこから拡げて広島原爆に普通の子供の関心は及ばないのが現実である。

 20歳になった孫娘を伴っての先月の帰広の際は、広島平和記念資料館(通称・原爆資料館)と国立のほうにも連れて行った。孫は前者には私の二倍時間をかけて見学していたけれど、だからとりあえずどうだということでもないわけで。各人各様の内的発酵を期するしかないと思っている。

 私が子供のときは、8/6は一家そろってラジオやTVの前に正座して平和公園の式典を見聞きしていた。そういえば、父は祝日には門前に必ず国旗を掲揚していた(当時の家の玄関にはそれ用の筒も設置されていたし)。私の世代になってそういう習慣を私は家族に強要することはしなかったので、まったく消え去ってしまった。私の心の中にはそれなりにヒロシマ・ゲンバクへの思いはあるのだが、それだけでは次世代・次々世代には伝わりようもないわけだ。となれば、素材はともかくも、それを扱う・採用するかどうかを含めての、大人・教師の自覚と感性によるものだ、ということになりそうな。

【追記】2023/2/18の「中国新聞ニュースレター(朝)」(https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/272184?utm_source=mail&utm_medium=letter_asa&utm_campaign=letter_asa)に、教材箇所の画像3枚を含めて以下が掲載された。「はだしのゲン「漫画だから伝わるのに」:広島市の平和教材から削除に疑問の声続々」。ここでは末尾の作者の妻の言を転載しておく。「<原作者の故中沢啓治さんの妻ミサヨさん(80)の話> 夫は原爆の恐ろしさを自分の体験を通じ、子どもたちに分かるように描いてきた。今の時代に合わないなら仕方ないが、作品を読むきっかけが失われるのが残念。ゲンはコイを盗みたくて盗むのではない。母親を助けたいという思いが強い。それが分かりにくいなら他の場面を使えばいい。何がいけないか、市教委から詳しく理由を聞きたい。」

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世界キリスト教情報第1673信:2023/2/13:黒人警官の暴力

 先週は私の方にはなぜか届いていなかった。編集者がそろそろお疲れ気味なのかもしれない。実は今週も未だ届いていないのだが、そういうときのお助けマンとして、お邪魔している小原克博氏のブログ(http://www.kohara.ac/news/)からの転載。だがそこでも1/9以降久々の掲載となっていた。4信も欠けているわけで、これまでにない現象と言わざるをえない。

◎ニカラグアが政治犯222人を国外追放=全員米国に
◎ロシア、3月に日量50万バレル減産=西側諸国の制裁に対抗
◎黒人警官が黒人を殴り殺す、アメリカの暴力に際限はない
◎世界人身取引に反対する祈りと啓発の日、教皇がビデオ通じメッセージ

 今回は3番目の記事を。暴力を振るうのはなにも白人警官だけでないわけだ。

◎黒人警官が黒人を殴り殺す、アメリカの暴力に際限はない

【CJC】米テネシー州メンフィスの教会で2月初めに黒人男性のタイリー・ニコルズ(享年29)の葬儀が行われ、黒人牧師が追悼の言葉を送った。
 ニコルズは1月、危険運転を理由にメンフィス警察の警官から3分間にわたって殴られ、2日後に病院で死亡。
 暴行した黒人警官5人は第2級殺人罪などで訴追されたが、暴行時の映像が公開され、全米に衝撃と抗議デモが広がった。

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ウクライナ疲れは家計に現れる

こんな情報が出だして久しいが、ほんとうのところどうなんだろうか。

島田久仁彦「世界はウクライナを見捨てはじめた。隠せない「綻び」と支援疲れの現実」(https://www.mag2.com/p/news/565867?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000001_mon&utm_campaign=mag_9999_0206&trflg=1)

 実は、私は1月末に帰省したのだが、それと入れ違いにガスの検針があって、その結果が帰京を追っかけるように送られてきて唖然とした。なんと、1月の検針日までわずか数日の滞在だったのに、実家を留守にしているときの3倍の請求だったのである。数日でのこの金額には畏れ入った。こういう現実にサラされると、私のような年金生活者はすぐさま音を上げざるをえない。

 この冬の光熱費の請求書がおそろしい。実はすでに予感しているのは、練馬の家の統計だが昨年比で、12月分で1.8倍、1月分で1.5倍かかっているからである。防衛手段など限られていて、老体に無理してもいいことはないのだから、なすすべもない。

 ド頭で考えてみたが、洗濯後の乾燥機をやめて外干しにするを思いついたのだが、私は花粉症なので、時節柄それはできない。夜中中起きている生活をやめればいいのだろうが・・・、これもできそうにない。まあ暖房切って厚着することくらいかな。体を縛られる圧迫感がいやで下着の裸族なのだけれど。

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老残記

 1月半ばから二月初頭にかけて、20歳になった孫娘と過ごすことが多かった。一緒に広島に帰省したり、彼女が大学での課題を消化するために我が家に泊まり込みで継続して滞在していたからだ。

 ほぼ一日中同じ部屋(居間)でそれぞれパソコンに向かうことが多かったわけだが、そこで老妻との二人の生活では気かなかったことを認識させられて、自らの老化現象を再確認させられてしまった。

 第一に、匂いへの感覚である。若い娘に較べ、老人の嗅覚が妻ともどもかなり衰えていることが色々の場面で判明。トイレに薬剤を撒いておいたら、私には全然薬品臭は臭わないのに、目ざとく気づくのである。もっともこの孫娘はどこでどう間違ったのか、思春期以来魚類はいっさい受け付けない体質になってしまっているので、特殊すぎるのかもしれないと思わないでもないが、老人の嗅覚が確実に衰退していることは疑うべくもない。

 第二に、耳の中がかゆいので、私がよく黒綿棒を突っ込んでいるのを見て、耳のかゆみをとる「ムヒ」なる商品があることを教えてくれたのも孫娘だった。早速購入してこれつけるとちょっとひんやりするだけで、私の場合やっぱり綿棒でぬぐい取る結果になるのでそう効果的ではなかったが。年取ってから耳の裏のねっとりした分泌物に自覚的に気付いている身からすると、この内外の現象は一連のものと素人考えしている。

 第三に、ここ五年で私の歯がガタガタになってきているのだが(奥歯が一本抜けたせいで、歯と歯の間が開いてきたのが原因かと)、したがって食事の後に私は無意識に口の中の掃除をして、ちゅうちゅうと音をたてていることを、孫娘に指摘されてしまった。妻はすでに聴力が衰えていることもあり(別説では夫にまったく関心を持たなくなっているせいだとの有力仮説もある)、これまで何の指摘もされていなかったことで、恥ずかしくもあったが、ありがたい指摘だった。孫娘は、家の中ではともかく、新幹線の中でもやっていたので、これは周囲の人に不快感を与えるだろうから、やめたほうがいい、と。

 それにしても、朝起きたときの口中の不快感は半端でない。唾液の分泌が激減しているせいだろう。

 妻には歯医者に行けとかいわれてしまったのだが、私は最近、長寿のあげく痴呆症になって死んでいくよりも、そうなる以前に病気にかかって死ぬという伝統的死に様を選択しようと考え出しているので、そのための第一段階は歯の治療をしないことだと思い定め、あと健康診断を受けないことでガンなんかが発症したらすでに末期だった、という段取を構想しているので、却下なのである。しかし、歯のちゅうちゅうは、ここ数年、知らず知らずやって来た習慣であるので、その修正はなかなか困難なはずだ。その第一歩は食後の歯磨き実践だろうか。

 しかし彼女にしたところで、言うのを憚っていることがまだまだあるのだろうが、私としては言ってもらったほうがいいのはいうまでもない。それが諦められたら、もう人間としておしまいなんだろうなと思っている。

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コンスタンティヌスはなぜ親キリスト教政策を採用したのか : Morris Keith Hopkinsの指摘

 このテーマは、現代に至る多くの親教会的な研究者にとっては、コンスタンティヌスらキリスト教皇帝たちのキリスト教への帰依で短絡的に処理されがちである。そもそもこういうテーマを研究に取り上げようという研究者の多くはキリスト教徒、ないしシンパだったりするので、結果論的にその結論は最初から予定調和的にそうありきとなり勝ちだ。逆に、非信者の研究者にとっては、皇帝とキリスト教会の関連など最初から関心の外だったりするので、いわゆる学界の主流は信者研究者の路線で占められて来たといっても過言でない。基本的に護教なのである。その認識が薄い中で当時の文書史料を表面的に読んでしまうと、書き手(その多くがキリスト教徒)の意図したとおりの術中に陥ってしまう。それは普通の分野では「研究」とはいわれないわけなのだが。

 そんな中で、イギリスの社会学・人口統計学・歴史学者のMorris Keith Hopkins(1934/6-2004/3:1985-2000年までケンブリッジ大学古代史教授)は異色だった。まず大学院時代にはMoses Finley教授(1912/5-1986/6:アメリカ生まれだったが、赤狩りで職を追われイギリスに移住、ケンブリッジ大学古典学教授になる)の影響を受けて、社会学研究者として出発。彼は、古代史研究者は研究対象である史料は偏見に満ちているので従う必要はなく、むしろ史料を問い直し、より大きな相互作用の中で理解することを追求すべきと主張し、文献中心の伝統主義のオクスフォード教授Fergus Millar(1935/7-2019/7)と意見を異にした。ある意味、ケンブリッジ大学での最初の恩師A.H.M.Jonesの文献史学の集大成的著述The Later Roman Empire 284-602, Oxford, 1973出版のあと、おそらく、何が自分に残されているかと考えあぐねた末に、彼は、フィンレイの影響によってアメリカ流の社会科学的視点を古典学に導入しようと意図的に蛮勇を振るったのではなかろうか。性格的にも万人向けではなかったようだ。だから決して評判がよかったわけではないらしいが、20世紀において最も影響力のある古代史家の一人だったことに間違いはない。

享年69歳の「若さ」だった

 完璧主義者だった彼に著書は4冊とそう多くないが(論稿はそれなりにある。彼の人となりや研究業績の位置づけ・評価に関して詳しくは、学統的に盟友とでもいうべきコロンビア大学教授W.V.Harrisの以下参照。”Morris Keith Hopkins 1934–2004, ” Proceedings of the British Academy,130, 2005, 81–105:私はこれに導かれて迂闊にも、私が学部時代に竹内正三先生の演習で延々と読んだ前記A.H.M.Jones, The Later Roman Empire 284-602の前書きで、Jonesが謝意を表している錚々たる顔ぶれの中にロンドン大学のMr.Hopkins(当時博士論文も書いていなかったはず)が第二巻を読んでくれたという一文を遅ればせながら確認することができた)、彼の著作の日本語訳は以下の2冊しかない。

   高木正朗・永都軍三訳『古代ローマ人と死』晃洋書房、1996年(原著1983年:但し全訳ではない)

  小堀響子・中西恭子・本村凌二訳『神々にあふれる世界』上下、岩波書店、2003年(原著1999年)

 基本、経済社会学的見地から歴史を見るホプキンスが、欧米の宗教史研究の「致命的なスコラ学」打破に果敢に挑戦したのが後者であるが、私はその中で以下の文言をみつけて文字通り絶句したのである。「国家規模の寛恕と民衆の信心こそが、信心と平和に支えられて何世紀にもわたって異教神殿に蓄えられていた莫大な神殿財産を貨幣に鋳造してローマ帝国が引き出した多大なる利益から関心を逸らす役割を果たしていたのである(註66)。異教からキリスト教へ、という公的宗教の変化は、莫大な棚ぼた的利益をローマ帝国にもたらしたのである」(上、p.182)。

 ・・・・これは私にとって盲点だった! しかし、いわれてみれば納得なのである。言い得て妙なのだが、へたをすると「GOD / GOTT」は「GOLD / GELD」なのだ(昨今の旧統一教会問題など、その錬金術の小規模な現実にすぎない)。慌てて註(66)をみてみると、冒頭に「この主張は大胆であるが、細部に関しては正当化しがたいものである」と、著者自身の私には意味不明のコメントが。そこに記されていた諸史料のうち、他の教会史家たちがコンスタンティヌス顕彰で書いている中で、「無名氏『戦争をめぐる問題について』2.1」ただ一人がそれにズバリ言及しているのだが、これは初見だったので有難かった(Anonymus, De rebus bellici : https://archive.md/xo0fT:あとになって、以下もあることを知った;Firmicus Maternus, The Error of the Pagan Religions, in:Ancient Christian Writers, No.37, 1970 : De errore profanarum religionum)。こういう本は我が図書館には当然のように所蔵されているのは、ありがたいことだ。

ところで、上記以外にも翻訳であれこれ散見する意味不明の箇所確認のため早速ホプキンスの原本を発注したのだが、どうしたものか一向に届かない。現在3回目の発注を試みている状況である。キャンセル通知もないのだ。しょうがないから所蔵大学図書館からの借り出しを試みることにした。

 本書に関し、予想通り現在においても伝統的スコラ学に牛耳られている学界の反発も強くて、彼の試みが完全に成功したとは言えない。その線での研究が将来を切り拓くことは自明のことであるとはいえ、冒頭述べた伝統史学に連なる権勢は未だ強力である。進取の気性に富む気鋭の若手の登場を期待してやまない。

【付記】著者には好意的なのに監修者・翻訳者に対してかなり辛辣な以下の書評参照のこと。さながら神学の聖域に土足で踏み込まれた祭司の憤りの表白ともいえるが、私的な感想でも核心部分でまんざらはずれていない面があると思うのは、私がカトリック系だからであろうか。否、やはり翻訳の節々に問題ありと感じてしまうのだ。:

 秋山学『地中海研究』28,2005年、pp.131-136.

 他に、新刊紹介的な以下もある。松本宣郎『西洋古典学研究』49、2001年、pp.133-157.

【追記】図書館を通じて国立のTH大学から届いた件の本はペーパーバック(2000年)だったが、背表紙に折り目もついておらず、私が初見なのは歴然。さっそく犬の匂いつけよろしく盛大に折り目をつけさせていただき、気になっていた箇所を点検し始めたのだが、文飾・文体がらみのほうについては触れないとしても、単純な歴史用語に関してやはり問題を早くも見つけてしまった。英和辞典の訳に準拠したのであろう、古代ローマ史だと「円形闘技場」とすべき所を「円形劇場」にしていたり(初出は上巻訳p.65:p.66の2行目ではせっかく正しく訳しているのに、その後も回帰しているのは、どうしたことか)、アタナシオスの場合はわざわざギリシア語読みに直して訳しておりながら、なぜかアレイオスとせずに「アリウス」のままだったり。特に前者はローマ史の専門家であれば誤訳しようもない初歩的問題なので、監修者役がきちんと校正していなかったことになる。

 また、これが指摘できるのは日本で私だけかもしれないが、上巻訳の第1章註(18)で、latrineをやはり英和辞典訳に従ったのだろう、ご丁寧に「汲み取り便所」としているが、それだと、本文p.33の末尾の「各階に汲み取り便所があった」という訳と齟齬を来すはずではないか。ここは平明に「便所」でいいはずだ。

 ただ、上記松本氏が指摘していた図19(原本では22)に関する第6章註(5)での人名誤記問題は修正されており、間違いへの配慮なのだろうか、図のキャプションも懇切丁寧なコメントに改められている。また私は、上巻訳p.65,66の剣闘士競技や、下巻訳p.24とp.91掲載のいわゆる呪詛板の図版に番号も付されていないことを奇異に感じていたのだが、それは2000年版でもそうなっていたことを付記しておこう。

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