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ポーランドよりメール:飛耳長目(41)

 ゼミ生だった林俊明君から近況メールが本日届いた。彼はフランスに留学して博士号を取得したあと、縁あって2年前からポーランドで日本語教師をしている。先日のラテン語のテレワークに江添氏がサプライズで招待したので久々に彼の顔を見ることができた。もっと早くからテレワークすれば一緒に翻訳できたわけだが、時差が7時間あって、あちらは活動中の真昼なので、なかなか難しいという事情もある。以下、彼の許可を得て転載する。

 彼には2018年2月のフランス調査旅行でたいへんお世話になった。その時の体験は2018/2/22のブログに掲載している。彼は上智大学史学科のブログ「卒業生の声」にも一文を寄せてくれている(https://dept.sophia.ac.jp/human/history/contributed/page/4/#post-42)。

豊田先生並びに皆様:林@グダニスクです。 
 火曜日はご招待いただきありがとうございました。久しぶりでしたが、非常に楽しい、有意義な時間を過ごすことができました。火曜日はあまり時間がなく、こちらの現状をあまりお伝えすることができなかったので、ちょっとご報告申し上げたいと思います。

 ・ポーランドの全般的現状について感染者は13000人に迫り、死者は400人以上出ています。こちらでは1月からコロナウィルスについて話題になっていましたが、初めは遠いアジアの話でした。2月中旬から国内で患者が出始めて、そのうち国境も封鎖されて、国内の移動も最低限の移動しかできなくなりました。国内の飛行機は全て運休、長距離列車も通常の1割か2割程度しか動いていません。交通機関は休日ダイヤで動いていますが、定員の半分しか乗車できず、座席の半分には✖︎印がついています。3月中旬から学校が休校になり、会社もテレワークが推奨されました。2週間くらいで公立の学校もオンラインで授業をするようになりました。その後、大規模商業施設の閉鎖や不要不急の外出をしないように政府から要請されていますが、この国は国民性からか政府の決定に従順で、あまり大きな混乱は起こっていません。面白いのは、65歳以上の人優先の買い物の時間が設けられていて、朝10時〜12時のあいだは全てのお店は65歳以上の人のみ入ることができます。このおかげで私の日々の生活パターンが崩れました。午前中に授業がない日は、午前中に買い物をして午後に授業の準備をしていましたので。今は午前中に授業の準備をして、昼から買い物に行っています。外出にマスクは必須で、していないと罰金があります、またお店への入場時は手袋着用するか消毒液をつけることを求められています。これでも少し緩和されまして、2週間前までは公園や森、ビーチは立ち入り禁止でした。

 ・仕事についてゼミの最中に少し申し上げましたが、今は全部オンラインでやっています。3月13日金曜日までは通常通りに授業をしていましたが、その前日12日にいきなり14日土曜日以降の授業は全てオンラインでするようにとの連絡が来ました。
 もともと、自分の学校は通常のクラス授業と個人レッスンの他にGoogle Meetでのオンライン個人授業もやっています。なので、私もオンラインの個人授業の経験はありました。私は火曜日から土曜日が仕事日で(日曜と月曜が休みで土曜日午後も授業なし)、9人相手の授業があり、多人数相手のオンライン授業は初めてなので初日はかなり大変でした。またクラス授業は6つ、個人授業はもともとオンラインのものも含めて6つあり、合計週15時間程度授業時間がありますが、今回の騒動前に比べて準備にかなり時間がかかるようになりまし たね。当然生徒やクラスによってレベルも教科書も違い、教え方も変えなければいけないので(特に個人授業は)、まだ試行錯誤といったところです。クラスの場合はアクティビティーをして、ロールプレイングをやったりもしますが 、オンラインでは無理でなかなか困っています。それに会社作成の教科書を初級レベルの生徒に普段は印刷して渡しているのですが、今回の騒動で渡すことが出来ず、郵送での発送も秘書の保健上の理由と送料が膨大になることからできずに困っている状況です。教科書は著作権の関係でPDFをメールで送ること は禁止されており、Googleドライブ上の閲覧のみ可のファイルだけ共有している状況で、生徒は紙の教科書もなく不便を強いています。生徒もオンライン環境が整っていないという生徒は、授業に参加しなくなっています。クラスによっては、出席する生徒が半分程度になっているところもありますし、ずっとキャンセルが続いている個人授業もあります。

 ・私の日常生活について私の学校はポーランド南部のカトヴィツェに本社があり(日本語教育以外にも、日ポ間のビジネス仲介や旅行業をしています)、先生が今現在4名本社にいます。先生はみんな学校のあるオフィスビルから徒歩1分のアパートに住んでいて、町の中心の広場からも30秒なので非常に便利です。他に、ポーランド各地(ワルシャワ、グダニスク、シュチェチン、ルブリン、ヴロツワフ、リブニク)に各1人ずつ先生がいて、さらにクラクフにカトヴィツェから先生が分担して授業をしに出張しています。私も毎週火曜日にクラクフに片道1時間半くらいかけて行っていましたが、オンライン後はもちろん行っていません(このクラクフ出張が非常に辛いです)。テレワークになるということで、家からオンラインで授業ができるようになるのかと思ってましたが、学校からカトヴィツェのみアパートのネット速度が遅いので、テレワークとはいえ学校に出社して授業をするようにとの通告がありました。学校は近くて授業に必要な資料はみんなそこにあるので行って授業をするのは構わないのですが、同じビルの同じ階にコールセンターのオフィスがあって、このテレワ ークの時でも一部屋に10人以上常に人がいるのが非常に気になっていました。当然、トイレや洗面所、エレベーターを共用するわけで。

 そうこうしているうちに彼女から、心配だし一緒に住まないかと言われて、社長からも行くことの許可が下りて、4月6日からポーランド北部のグダニスクに来た次第です。ちなみに4人いる同僚のうちの1人も、オンラインが決まってからすぐ彼女の家に移りました。今いるグダニスクのアパートは、海からも徒歩10分程度で公園もあり海沿いにずっと遊歩道もあったりして気に入っています。グダニスクはドイツ領だったことが長い都市で旧市街は二次大戦後復興されて非常に綺麗です(旧市街からトラムで30分かかるので行ってませんが)。今いるのは郊外ですがドイツ風の一軒家や建物も見ます。建築様式は、先生と一緒に行ったフランスのメスに近いですね、あそこもドイツの領土で建物の建築年代も同じ頃ですから。生活ですが、向こうの家族と同居なので、なかなか大変です。ラテン語以上に格変化が激しく(男性、女性、中性に加えて、男性は生物と無生物で変化が違う)、動詞活用も複雑なポーランド語を早く覚える必要があります。ご飯は、ドイツに似て肉、ジャガイモが多い食事ですが、彼女がベジタリアンに近い人間なので(肉をほとんど食べない)、野菜を他の家庭より食べられるのが幸いです。とはいえ、向こうの家族からはとてもよくしてくれていて、非常に感謝しています。ちなみに、9月からワルシャワに転勤になりそうですが、グダニスクかその近郊のグディニアで将来は勤務出来るよう今要望を出しているところです。

 火曜日は会議があり、授業の準備もあるので参加出来るかわかりませんが、皆様も健康にお気をつけください。
 それでは。
カトヴィツェ市内のNikiszowiecと呼ばれる地区で、20世紀初頭にドイツ人の実業家が炭鉱と製鉄所で働く労働者のために建てた団地です。カトヴィツェのあるシロンスク(ドイツ語でシュレジェン)地方は石炭と鉄鉱石が豊富で、19世紀以降に急速にドイツの統治下で工業化しました。人口増加に伴って労働者の住居が必要となり、レンガと赤色で縁取られた窓枠はポーランド語でFamiliokと呼ばれるシロンスク地方の特徴的な建築様式で、このような団地がドイツ人の手によって多く建てられましたが、中でもNikiszowiecは観光地化して綺麗に残っています。他のところは現在廃墟になっているか、貧困地区になってスラムみたいになっているところが多いですね。
グダニスクの旧市街と運河の写真です。もともとドイツ人の多い街で第二次大戦まではドイツ人の人口が95%以上でした。第二次大戦で旧市街は8 割以上破壊されて、ドイツ人が追放されたあと、ドイツの要素を徹底的に排除してドイツ支配下になる前の17世紀のグダニスクの再建が試みれました。ちなみに旧市街以外の戦争で破壊されなかった建物は、ドイツ的な建築がそのまま残っています。グダニスクは非常に綺麗で観光客も非常に多いです。
ワルシャワの王宮広場です。右側にあるのが、王宮で奥が旧市街です。どちらも1944年のワルシャワ蜂起のあとにナチスの手で徹底的に破壊されましたが、その後元通りに再建されました。
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今朝、BS4Kでアーチを学んだ:飛耳長目(41)

 本日5/2の「ジオ・ジャパン」で九州を扱っていた。例のごとく、聞くともなく聞いていたら、耳に飛び込んできた。九州は火山活動が活発で高千穂峡みたいに川の両脇がそそり立つ地形が多かったので、普通の橋を架けられず、西欧から学んでアーチ(石)橋を取り入れた、と。材料の火成岩が豊富だったこともある。入試問題で古代ローマのひっかけで九州の通潤橋の写真を出題したことがある私であるが、「九州ではなぜ」と問うことがこれまでなかったので、新鮮な指摘であった。

熊本・通潤橋

 古代ローマ建築はアーチ構造を基本にしている。ということは、イタリアなど地中海世界も九州と同様だった、否、だからこそそこでアーチが登場・多用されたのではないか、という思い付き。

スペイン・トレド・アルカンタラ橋

 だが、こんなことその向きでは先刻ご承知のことなのだろうが。読んだかも知れないが、記憶にない:私はいつもこんな調子だ。セゴビアの水道渠に触ったとき、その石材がなんと日本では墓石の花崗岩だと初めて知った、でも家に帰って本をみたらあたりまえのことだが、ちゃんとそう書いてあった。読んだとき関心もなかったので読み飛ばしていたのであろうが、百聞は一見にしかず。そんなことから、建物構造や、トンネル構造のアーチと、橋梁構造のアーチ、どちらが起源が早かったのか、気になりだしている。

スペイン・セゴビア水道渠
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今日みつけた呪詛板関係4つ:遅報(31)

 他のことをググっていたら、目についた。とりあえずメモっておこう。

① 2003年ピレウス発見の、2400年前のギリシアの呪詛板:

https://www.livescience.com/54285-curse-tablets-uncovered-in-greece.html;http://karapaia.com/archives/52215623.html

② 2013年に、エルサレムで発掘された1500年前の呪詛板:

http://karapaia.com/archives/52205572.html;https://www.livescience.com/ancient-curse-of-dancer-deciphered.html

③ 20世紀半ばにイタリアの発掘隊によってイスラエルのカエサレイアの劇場跡から発掘された1600年前の呪詛板:

http://karapaia.com/archives/52205572.html;https://knowledgenuts.com/2015/11/13/the-mysterious-curse-tablet-found-in-the-city-of-david/

④ 約2700年前のアッシュール出土の粘土板にてんかん発作の原因とされていた悪魔の姿が描かれていた。http://karapaia.com/archives/52287454.html;


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またもやコーカソイドの知的盗作?:遅報(30)

 といっても、ヘレニズム時代の話である。「ヒッパルコスが最初じゃなかった。3700年前のバビロニアの粘土板に記されていた世界最古の三角法」:https://reader.elsevier.com/reader/sd/pii/S0315086017300691?token=C12854E53EEDE2FAF51476A392B88C5B72F0B0CD5F9DE74AA07FA1AF0B5AC4A19409EDA5015BA3DAA1BD48EDDAE47B41

 20世紀初めに発見された粘土板(Plimpton322:縦12.7cm、横8.8cm)は、約3700年前のものと判定されているが、その粘土板の記述を再検討していたオーストラリアの研究者が、そこに世界最古の三角法の表を記している、という見解を発表した。

 これが本当だとすると、これまで前120年頃にヒッパルコスが考案していたとされる三角法が、1000年も古い時代に解明されていたということになる。

 私にはその当否を論じる能力はないが(ウィキペディアの「プリンプトン322」を読んでも何も理解できません)、なんでもかんでもギリシアとかヘレニズム起源としたがる向きへのしっぺ返しには、一種の快感を覚えるものである。

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この息苦しさってなんだ:痴呆への一里塚(20)

 ”Stay Home!”の掛け声に和したつもりではないが、行くところもないままに自宅に引きこもっていたが、今日、近所のセブンイレブンまで行こうと思い立った。その準備していると(いや、単に外出の服を着ていただけなのだが)、ただそれだけでなんだか息苦しい。やれやれまた体重増えたせいか、と思いつつ、重い体をのろのろと前に運んで家を出た。相変わらず息苦しく心臓に負担をかけているのが歴然で、こんなのが狭心症の前期症状かな、などと自己診断しながら歩いて買い物して帰る段になると、あら不思議、その息苦しさが消えていることに気付いたのであ〜る。

 いったいこれはなんだったのだろうか。謎である。が、いい兆候であるはずはない。

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集団感染(免疫)で、誰が勝利するのか

 田中宇氏がまたまた面白い見解を示した。2020/4/28「都市閉鎖 vs 集団免疫」:http://tanakanews.com/200428corona.htm。以下、彼の数字と論理を使っての私見である。

 中国の武漢は1月末から完全に都市封鎖を行い、3か月を経て勝利宣言をしたが(中国当局の主張を真に受けると)、むしろそのため免疫を得たのは約3%留まりにすぎなかった。すなわち中国全体は集団免疫の60%にはほど遠いから、確実に再流行に見舞われるはずで、この感染症の影響は長引かざるをえない。それは経済的ダメージの長期継続を意味する。

 他方で、対応が遅れて3月末から都市閉鎖したNY市では現在21%の免疫保有者がいるが、それ以外の地域は5%程度に留まっているだろう。トランプは確実に集団免疫の道を歩みたがっている(貧民層および不法移民は確実に打撃を受ける)。4月上旬に規制を厳しくした東京は、それまで事実上集団免疫の道を歩んでいたので、30%以上になっているかもしれない。意図的に集団免疫政策を採用しているスウェーデンは40-50%あたりだろうか。

 集団免疫は、無能・無策な国ほど獲得できる。もちろん多くの死者を出すが(有能な国は、一応の高齢者対策を講じているフリはしないといけない)。他方で、非常事態宣言を出して都市封鎖を実施すればするほど、また免疫効果が短期間であれば再感染が長引き、かえって都市封鎖を持続せざるをえず、結果的にかえって、経済・財政・金融破綻、生活困窮者の増加というマイナス面のほうがはるかに大きくなる、というメカニズムに捕らわれてしまう。

 こうしてパンデミック(くり返して言うが、歴史的に見て、今回の件は規模的に未だ実際はたいしたことない、のだが)が長引けば、社会問題にすらなってきたお荷物の医療を必要とする高齢者、年金生活者が一掃・淘汰され、免疫を得てコロナと共生できた人類が生き延びていく。このパンデミック後の地球の姿は果たしてどうなっていくのか。私自身は淘汰される側であるが(そして、淘汰されてもいいと思っている。ま、それも運命かと)、それでもなんだか見届けたくなっている私がいる。

 ゴリラ研究者の山極寿一氏の、人間による自然破壊が、野生動物=宿主と人間の接触機会を増加させている、という記事も面白かった:http://nml.mainichi.jp/h/acsXa4zdwRncttab

【追記】田中氏続報(5/4:中国式とスウェーデン式):http://tanakanews.com/200504sweden.htm

【追記2】世の識者の中には、感染症は社会的上下、貧富に関係なく犠牲者が出る、とノー天気なことを仰っている人がいるが、それは現実問題としてまったくの嘘だ。どうしてそんな戯言を平気で言えるのか。言外に富者の気の緩みを案じてのことだろう、と一応は言っておこう。だが、そんな人に是非ともお読みいただきたい記事が出てきた。ここにも数字の嘘が潜んでいるわけ:2020/5/16「新型コロナ危機による「不平等な死」 欧州のマイノリティー感染拡大から」(https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20200514/pol/00m/010/010000c?cx_fm=mailpol&cx_ml=article&cx_mdate=20200517)。スウェーデンでの患者や死者の内訳をちゃんと見れば(政府は意図的にそうしないわけ)、移民や社会的少数者・弱者が圧倒的なのである。

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訃報・山本博文さん:遅報(29)

 さっき、久々に郵便局に行って帰りにポストを覗くと、おや「S経新聞」が。前にはN経が入っていたことがあり、有難くこの拡販を持ち帰って読んでいて、びっくり。死後出版の記事に出会う。日本史の人なので私のウェブ情報に引っかからないから、こんなことが起こる。

 なんと一ヶ月も前の2020/3/29 に腎盂ガンで63歳にてご死去。若い。分野も違うので面識はないが(私が一方的にテレビで拝見していた)、私の側からすると、私が10年間居住していた岡山県津山市の出身で、県立津山高校から東大文三に進学されたことを、たぶん話題になった『江戸お留守居役の日記 寛永期の萩藩邸』かなんかで知り、なんとなく親近感を感じて(錚々たる箕作一族、とりわけ元八を出した幕末・明治・大正期は別にして、津山出身で史学はめずらしいので)、心情的に応援していたら、詳しくは知らないが倒錯、もとえ盗作(コラムでの無断使用)騒ぎがあったことを小耳に挟んだこともあったが、てらいもなくテレビに登場しているのを見て、たいしたことなかったんだと思っていた、まあその程度でしかない。

 なんでも一〇〇冊以上の本をお書きになっている由で、大学教員歴40年の間にどうすればそんなことできるのか不思議で、もちろん才能があったに違いないが、史料編纂所という恵まれた勤務環境のせいかもしれないと思ったり。いまさら追っつく話ではないものの、後学のため多作のコツを知りたいと思ったり。

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世界キリスト教情報第1527信:2020/4/27

= 目 次 =      
▼ロシア正教会、感染拡大で復活祭に司祭らだけで礼拝      
▼バチカンが新型コロナ対応へ新委員会設立、「パンデミック」後の影響分析や対策提案  ▼教皇が訪中準備、最初の訪問地は武漢?      
▼教皇の武漢訪問は「フェイクニュース」と中国『環球時報』      
▼台湾がバチカンにマスクの追加支援、教皇は台湾に気遣い      
▼『チビルタ・カットリカ』誌が簡体字中国語版を創刊

 今回は、カトリック教会の中国・台湾関係での微妙な動きが目立っているが、私的にはいささか微妙です。最後の Civiltà Cattolica 誌は1850年以来イエズス会が出版してきたものである(https://www.laciviltacattolica.it:このウェブ版にはこれまでイタリア語以外に、英語・スペイン語・フランス語・ハングル語版があった。残念ながら日本語は入ってない。アジアに於けるバチカン外交の重点の在り方が明確に示されている)。そもそもフランシスコ・ザビエルが日本に上陸したのも中国伝道の橋頭堡としてであり、たった2年の日本滞在、600人余の信者を獲得しただけで、渡航目的を果たせそうにないので日本を去り、ゴアを経由して中国入境を試みるが、1年後に広東省の上川島でなすすべもなく病没した。享年46歳。

 私はイエズス会士の現教皇が「フランシスコ」を教皇名に採用したことについて、奇異の念にとらわれざるをえなかったが、それはかつての日本布教でもイエズス会のライバルであったフランシスコ会の創設者のアッシジのフランシスコを採用したと受け取ったからである。しかるに、教皇着座以来の彼の妥協的な親中国外交を見るにつけ、彼の秘められた真意は「フランシスコ」・ザビエルの果たさざる夢の実現にあるのでは、と思わざるを得ないのだが、これははたして妄想にすぎないのであろうか。彼は現在すでに83歳で、中長期的展望は望むべくもないとはいえ。

 バチカン市国国境よりBorgo Santo Spiritoを東に歩いて数分に位置するイエズス会総本部(Casa generalizia della Compagnia di Gesù a Roma)内では、たぶんそんなジョークが話されているはずだ。

左のイエズス会総本部からサン・ピエトロ方向(西)を見る
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ローマ軍の金属製水筒? ほぼ完品で出土

 https://archaeology-world.com/a-roman-laguncula-water-bottle-of-the-4th-century-ad-discovered-in-france/

 みなさんは、これ↓を見てなにを想像しますか。

 私は一目見て「水筒」と思った。しかし説明文を読んで混乱する。水筒ではなく、携帯食糧の容器だ、というのである。まだ完全に納得させられてはいないが(下に表示されているスケールは全体で10cmを表示:江添誠氏ご教示による。最初一目盛りが10cmと誤認していたので汗顔の至り)。

左がSeynodの場所、右が出土状況

 スイス国境に近いフランスのSeynodの古代ローマ時代の神域から、例外的に良好な状態で、後4世紀前半のlaguncula(私は最初「水筒」と訳していた)が出土した。そこはショッピング・センター建設予定地での、緊急発掘だった。第一層からは1世紀末に神殿の最初の痕跡、次いで42の土葬墓が出土し、それらから貨幣、土器、小立像が見つかった。こういった奉納品の中から、金属製の容器が出てきたのである(大きさは、本体直径12,3cm、幅7cm程度)。鉄製円板2枚を、月桂樹の葉状の丸い突起のアウトラインの青銅製平板で接合し、把手とフタも青銅製で、フタはかつて銅製の鎖で本体に結ばれていた痕跡が残っている。フタと底は同心円状の輪型で装飾されている。

 私的には、この器の使用目的に短い把手と底の輪型の存在が、ヒントになるように思う。火中に立てるなり横倒しにして温めていたのでないか、と。

上は底の形状、下は側面

 軍隊用水筒は一般には19世紀後半にさかのぼるとされてきた。すでに水筒型の容器が古代ローマ時代にあったことはこれまでも出土例が2、3例あって知られていたらしいが、今回は完品に近い出土で改めて注目されている次第。そもそもローマ兵が日々の軍用糧食の貯蔵用に帯同していたもので、おそらく、8人からなる分隊contubernium個々人の常備品だったのだろう。まあ確かに、行軍中ラバが曳く荷車もあったらしく、石臼・鍋・釜・その他の共同装備品がそれで運ばれていた。当時ローマ軍の食糧供給は、一軍団(約5000名)で一日当たり1.2トンの穀物を必要としていた由。ならば単純計算で一人当たり240g/日か(兵士は行軍中通常3日分の食糧配給されていた由)。この水筒型容器の容量がどれほどになるのか、計算すれば出るはずなので、算数得意な人はチャレンジしてください(後述の【追記】の復元品は、水筒を前提とし、本出土品よりも、直径で1.5倍、幅で2倍の大きさで、容量は1.5リットルとなっている)。

 容器内の底から残留有機物が検出された。キビ粒(Panicum miliaceum)、ブラックベリー、乳製品の痕跡もあった。そしてオリーブ酸も確認されたのでオリーブも入っていたようだ(別説だと、それら動物性・植物性材料は加熱され、料理されていた、と想定されている)。かくしてこの容器、固形食物を入れることができたので、一種の実験台apprenticeshipだった、のかもしれない。

 なぜそれが墓地から出てきたのか。記事では、推察するに、死者の同僚兵士、友人、ないし兄弟による究極の敬意からだった、とされている。

 実際には、ローマ兵たちは水筒として山羊皮製の水袋を使っていた。これだと落としてもこすっても破れないし、素焼きの土器と同じで、外側の表面が濡れて気化熱で冷やされるという利点もあった。だからその皮製水筒は第1次世界大戦時まで使用され、「ghirba」と呼ばれていた(cf., http://new.alpitrek.com/Equipaggiamento-Acqua.html)。

ローマ軍の水筒はたぶん左端のような物だったろう:中央は第1次大戦の伊軍、右端は第二次大戦の仏軍のもの、金属製になってもまだ山羊の形態を留めているのがおもしろい
最近の、ghirba名を継承した品物にこんなのもある、らしい

【補遺】ghirbaをググっていたら、第1次世界大戦のイタリア兵墓銘碑に好んで刻まれていたらしい文言が出てきた。

【追記】こんなものも出てきた。ローマ時代の複製品と銘打って、1.5リットルの水筒として販売されているらしい(販売価格30ユーロ:Lenght : 19 cm ; width : 14 cm ; weight : 855 gr.)。

左:オランダの業者Celtic Webmerchantのカタログより;右想像図の右端にも描かれている

 余談だが、よく兵士たちがこういった日常携帯品を十字架状の棒forcaにくくりつけて(背嚢:sarcina)担いで行軍していたように描かれているが(重量20〜50kgに及んだとも)、あんな棒きれでその重さを支えるなど、ワンゲル出身の私としては考えられない。錬成訓練では30kgをリュックに詰めて仰向けに成って背中に密着させて背負うが、立ちあがるのがやっとで、よろよろ歩きだ(別途持参の武器・防具の重さも考えてみよ)。こんなこと、実際体験すればすぐ分かるのだが、手抜きの紙上研究では平気で間違ってしまう(これを「紙上談兵」「机上の空論」という)。文献的には、兵士が背負って行軍しているかのような記述が残っているが(Appianos, HR, Hisp. 86:Josephos, JW, III.4-5:Vegetius, Epitoma rei militaris, II, ;画像的にはトラヤヌス円柱上)、訓練ならともかく、実戦においては行軍速度を稼ぐためにも、ちょっと考えられないことで、この矛盾をどう解釈すればいいのか、思案のしどころである。上記でも触れたが、普段は荷車使用が普通だったのでは。道なき道に直面して、それが不可能な場合の各自、ないしは従者の下僕の携行だったのではないか、と想像している。

浮き彫りでも兵士が実際に担っているようには描かれていないことに注意すべきかも

 ところでforcaのことを「十字架状の棒」と書いたが、考えてみれば、ローマ兵が揃いもそろってそれを背負っていたとすると、行軍とはまさにイエスの「道行き」Via Dolorosaではないか。であればキリスト教護教家たちの言説にそれが見えても不思議はないが、なぜか私にそれの記憶がない。御存じ寄りからの情報をお待ちしている。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

念のため:私説ではここで金属製水筒はありえない。実際上記トラヤヌス円柱にそれらしきものは見当たらない

【追補】エウトロピウス、Ⅳ.27の事情を知るために、栗田伸子訳で、サルスティウス『ユグルタ戦争』(岩波文庫、2019年)を読んでいたら、第43-45章(p.76-79)で以下の箇所に出会った。前109年の新執政官メテッルスは任地のヌミディアで前任執政官アルビーヌスから無気力な軍隊を引き渡されたが、賢明にも父祖伝来の軍律が回復されるまでは出陣しないことにし、「陣営内でも戦列においても奴隷や荷役獣を所有してはならない」等を命じ、「兵士が食糧と武器とを自ら運ぶようにさせ」、こうして「処罰よりもむしろ過ちから遠ざけることによって、短期間に軍を立て直した」と。換言すると,平時にはそういったことが容認されていた、おそらく非常時にでも、ということでもある。

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古代ローマの感染症:(7)日常復帰に向けて、沈船データ


 コロナ騒動に付随して多少あれこれ書いてきた。ま、100年に一度の出来事ではあるが、すでに山を越えつつあるという認識で、そろそろ我が日常に戻ろうと思う。それでこのあと罹患して死んだら笑ってください。

 今日、イギリスから書籍が届いた。A.J.Parker, Ancient Shipwrecks of the Mediterranean and the Roman Provinces, BAR International Series 580, Oxford, 1992, pp.547+図版・地図、の大判で、古代ローマ時代の地中海における沈没船研究であるが、本を開いて驚いたことに、その大部分が沈船データのカタログ・リストで、本文といえるのは、最初の30ページを占めている程度。いかにも英国的研究で、価格は古書で¥12,947。本当は所蔵する国内大学図書館が複数あるのだが、図書館が閉鎖中でやむを得ず自腹を切った。相互貸借だとまあ郵送費往復2000円台ですんだのだが。

 これの入手動機は、この秋の某学会大会で発表しませんか、という話があり、じゃあ時節柄マルクス・アウレリウスの疫病についてやろうと思い立ち、関連論文を集めていたら、その中で、疫病蔓延影響のせいで、明らかにマルクス・アウレリウス時代の沈船が少なくなっているとの以下の記述を確認するためであった。R.P.Duncan-Jones, The Impact of the Antonine Plague, Journal of Roman Archaeology, 9, 1996, p.139, n.182. 以下がそこで引用されていたfig.5である。私的にはむしろfig.3のほうが全体を見通せていいと思うので、並載しておく。

Fig.3 Ancient shipwrecks:Mediterranean wrecks by date, grouped in centuries

 あげく、学会大会なくなるかも、だが。その時は、この研究、面白そうなので誰かやってみませんか。

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