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古代ローマ・コインとOstia,Portus

 今、ポルトゥスを描いた皇帝ネロやトラヤヌスの貨幣を調べているのだが、しかるべき著書などには限られたものしか掲載されていないので、もちょっと悉皆調査めいたものはないのか、と思ってググっているうちに、おもしろいものに行き当たった。それが「acsearch.info」で、慌て者の私は年間会費80ユーロを支払った後になって、1ヶ月の試用期間があることに気づいたのだった。だいたいの問題はとりあえず1ヶ月もあれば解決するはずだから、またしても無駄金を支払った感じとなるが、ともかく会員にならないとピンボケ写真で決着しない欲求不満に苛まれ続けるわけで、ついついやってしまった次第。
 このリストは、過去二十年間の欧米におけるコイン・オークションを網羅して、なかなか興味深い。私は一応定評あるRICなどのカタログ・シリーズ本は所有しているが、これらにはごく一部の写真しか掲載されていないし、だいたいは小さくてしかも不鮮明なので、今の場合、私には用をなさないわけである。たとえば、下図は大英博物館所蔵のコインで、その解説が多くの書籍に一般化して述べられている場合が多いのだが、実際には金型によって千差万別であり、研究として1歩踏み込むとそんなに簡単ではない。なおこのネロ・コインについては、本年1/7でもちょっと触れている。

後64年ローマ造幣所発行、青銅貨、29.84gr、6h

 かのオークションでさっそく、「acsearch.info」で、coin,Nero,Portus,Lyonといった単語で検索してみた。そしたら188ヒットした(2023/4/10現在:なぜLyonかというと、このコインはローマとリオンの打刻しか発見されていないからだ)。世の中にはこんなにこの貴重なコインが遺っているのか、とまずは感心したのだが、リストの画像をよくよく眺めていると、妙なことに気づいたのである。ネロやポルトゥスと関係ないものが時々混じっているのはまあ識別が簡単なのだが、どうも胡散臭いものが少なくともとりあえず4例見受けられたことで、それらはいずれも打刻がやたら鮮明なのでどうしても注目せざるをえないのだが、それらの説明文にはだいたい共通してPadua人Giovanni Cavino(1500-1570)による模作と明記され、しかるに落札価格は500ドル前後だったりしているのである。近世のコピーでもそれだけの価値があるというわけか。逆に由緒正しい古代のコインであっても摩耗や破損がひどいものは捨て値となる(今回は10数枚見受けられた。当然のこと数枚は値がつかなかったようだが、それでも600ドルや1000ドルで落札されたものもある)。しかし私だったら50ドルでもぜったい購入しないものが、なぜか6000ドルで落札されたりしているのには驚かされる。あのコインは是が非でも入手したいというマニアの執着心によるのであろううか。

Padua人Giovanni Cavinoの模作品:26.98gr、34mm、8h

 油断できないのは、それと瓜二つのコインがあってそちらの落札価格はなんと134522ドル! 時価にして1800万円なのである。それが以下である。まあそれに似せて16世紀にコピーが作成されたというべきなのだろうが。

64年頃発行、24.76gr, 37mm, 6h

 というわけで、打刻が鮮明だけど価格が500ドル前後なのは後代の模作と見当つけて(19例あった)、よってあれこれ上記188から引き算してみると153枚となった。総数で一割が後代の作ということになる。

 ところで、同一造幣所においても金型は数種類あって、意匠が微妙に異なっているのが常なのだが、数ある意匠の中で、裏面が最も詳細な描写となっているのは、以下であろう。

66年リヨン造幣所発行、黄銅orichalcum(銅と亜鉛の合金)、26.69gr, 35mm, 7h

 このコインは、1983年にLyonのLa Favoriteのとある墓地から出土したもの。解説によると、このコインはリヨンの「ローマと劇場博物館」のクラウディウス展で展示されたものの、その後、常設展示されておらず、博物館のインターネットサイトでのみ公開されている由(https://lugdunum.grandlyon.com/fr/Oeuvre/16235-Sesterce-de-Neron)。それでこのコインに従って、私なりに多少の絵解きをしてみよう。

 まずは刻文であるが、表側では「IMP・NERO・CAESAR・AVG・PONT・MAX・TR・POT・P・P」、すなわち「最高軍司令官・ネロ・カエサル・アウグストゥス・最高神祇官・護民官職権・国父」。月桂冠を戴いた左向きのネロ帝横顔、首の正面には丸いブローチ?(aegis=メドゥーサの顔が描かれた楯、と特定している解説あり) 裏側の刻文は下部に「PORTV・AVG」、すなわち「アウグストゥス(=皇帝)の港」(但し、「PORT」と表記するのがルグドゥヌム=リヨン造幣所の通例なので厳密に言うと「V」は誤記となる。これがローマ造幣所打刻だと上部に「AVGV-STI」=「アウグストゥスの」,下部に「POR OST」=「港オスティア」,その両側に「S」と「C」=「元老院決議」senatus consultum表記が通例となる)。

 問題は裏面の港風景で、まず弧に沿って左側に列柱廊ないし倉庫が2つ並び、最後に神殿、その前に不明瞭ながら犠牲を捧げる人物、右側の弧に沿ってアーチ状の防波堤らしきものが、そして、港の入口を示す左右上部中央には巨大な神像(左手に三叉の槍をもっているなら、海の神ポセイドン:それゆえに右手にはイルカを所持しているとする解説もあるが、私にはそう見えない)。本来あるべきはずの灯台はなぜか描かれていない。今まさに入港しようとしている帆船が左側に、出帆しようとしている軍船が右側に描かれている。内湾の中にはここでは大小7隻の船が帆を畳んで碇泊している(タグボート=曳船と覚しき小型船が3、中・大型船が4隻:但し、左上の帆船は完全に帆を畳んでいないし、船尾での接岸にようにみえる)。うち左下では船首側から渡り板を使って荷揚げ作業中の3人が描かれている。中央の大型船では今まさに帆を畳む作業が進行中で甲板に2名、マスト上に2名の姿がみえる。その右手の小舟はひょっとしてタグボートで、立っている人物はパイロットかもしれない。コインの一番下には横臥した半裸の男性神が描かれていて、右手には船の櫂を持ち、左手付近にはイルカが見える。これは典型的な河神の姿なのでティベリス河神を表しているものと思われる(別説ではPortus神)。

[研究者による図版解読の違いは、たとえば、以下はJean-Claude Golvin/Gérard Coulon, Häfen für die Ewigkeit : Maritime Ingenierskunst der Römer, Philipp von Zabern, 2021(Aus dem Französischen von Birgit Lamerz-Beckshäfer), p.82による解説文参照:紀元66年、ネロ時代にリヨンで打刻されたセステルティウスの裏面に描かれたポルトゥス。下の髭を生やした川の神は、イルカに乗って伸びをし、手に舵を持ち、テヴェレ川の擬人化していると。右側はアーチと橋脚を持つ桟橋で、その足元には波が打ち寄せている。左側には、倉庫や柱が立ち並ぶ岸壁を見ることができる。上方には、ネプチューンが台座の上に像として立ち、軍艦に囲まれている。モチーフは非常に精巧に彫られており、漕ぎ手、帆を揚げる水夫、荷物を降ろす荷物運搬人たちsaccaliiまでわかるほどだ。ルグドゥヌム、リヨンの「ローマと劇場博物館」、とまあこんな調子である]

 しかも、である。現在までの発掘調査結果においては、右側突堤にコインで描かれているようなアーチ状の構造物は発見されておらず、単なる突堤でしかないので、こうなるとコインのデザインははたしてどれほど事実を反映しているのか、と疑問視せざるをえないことになる。さてどうしたものか。謎のひとつというべきか。

北側突堤の中央部を覆うトラバーチンのブロック:Otello Testaguzza, 1970, 87.

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新刊書『古代ローマごくふつうの50人の歴史:無名の人々の暮らしの物語』が届いた

 この本は、2023/3/13にサクラ舎出版の、河島思郎氏の著作である。遅ればせながらその存在を知ったのは昨日だったのだが、即注文したら翌日届いた。

 さっそくパラパラ覗いてみたレベルだが、入手以前に、ごく普通の庶民を50名挙げて何かを述べるのって古代ローマではなかなか大変だろうなとか、最近になってようやく、V.レオン『図説古代仕事大全』原書房、2009(原著出版2007)や、K.-L.ヴェーバー『古代ローマ生活事典』みすず書房、2011(2006)や、R.クナップ『古代ローマの庶民たち:歴史からこぼれ落ちた人々の生活』白水社、2015(2011)などが翻訳出版されるようになってきたが、それらとどう差別化しているのだろうか(我が国の研究者では嚆矢ではないか)、と思っていたが、案の定、王政時代を扱った第1章は神話の登場人物や庶民とは言えない著名人の羅列で、やっぱりな感が漂ったものの、第2章からが本領発揮で、主として墓碑などの銘文に記載された人々(正真正銘の普通の人)、それに文書史料で登場する若干普通とはいえないかもの人々を骨格に、種々の周辺的考古学的遺物の写真で肉付けしての叙述が続く。最後を飾るのが犬なのはまあ、ご愛敬というべきか。それとも「はじめに」に登場する老女ユリア・アゲレを加えればお約束の50人に達する、というわけだろうか。

  カラー画像、それに雑学のコラム8つ、それに本書を読むにあたってのごく簡単な豆知識20、それに帝都ローマや地中海世界の地図も付されていて、サービス精神満載だが、欲をいうともう少し銘文に寄り添った叙述を味わいたかった、という感想なのだが、これは一般向け書物には無理な注文なのかもしれない。

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「地球を揺るがす北極圏:永久凍土の異変に迫る」を見た

 2023/4/2の00:40-01:30のフランス制作の番組を見た。初演は今年の3/12だったらしいが、私は日本にいなかったので今回が初めての鑑賞だった。放映直後にぐぐってみたら、今だと「dailymotion」で見ることができるようだ。いつまで見ることできるのかは知らない。https://www.dailymotion.com/video/x8jnon1

 これまでの気候変動論者は地球温暖化・温室効果促進を産業革命後のCO2の増加に求めてきたが、今次の注目点はメタン・ガスである。

 ここ二十年の間に、修復不可能な自然現象が急速に進行している、それが北極圏の永久凍土の融解で、それに伴ってメタン・ガスが大気中に大量に放出されているのだが、アメリカ・アラスカのイージー湖での調査で、ここだけで毎日10トン以上の気体が放出されている由で、ただメタンの発生源は、そのガスの分析をしたところ、永久凍土レベル(厚さ150m)を越えて何キロもより深層に存在する何百万年前の化石燃料層からのものが含まれていたことが判明した、のだと。最新の研究によると北極圏の地下に一兆6千トンのメタンが貯蔵されており、大気中のメタンの250倍がそこにある計算となる、そうだ。 

イージー湖の湖底は大部分は人間が歩ける遠浅なのだが、ごく一部が急に深くなっていて、これまでその最深部は15mと測定されていたが(画像中央上部の凹み)、新兵器の投入で10倍の深さまで可視化でき、それによって永久凍土全体の融解が仮定されるに至った。

 となると、これは地球温暖化レベルを越えた現象ということになる。番組でははっきりと明言していなかったが、端的に言って地球のマグマ活動による新規の現象というべきではないか。・・・なにしろ、メタンは二酸化炭素より熱を30倍も閉じ込めることができるのだそうだ。なのにこれまで温暖化現象においてメタンは過小評価されてきた、というわけだ。と、かなり危機感を煽る内容になっており、正直言って、どこまで信じていいのか私には判断できないけれど。

 まあ地球温暖化論者からすると、CO2増加による温暖化によって永久凍土が融解を始め、それによって地表の圧力が軽減されたので、より深層の化石燃料層からのメタンが大地の亀裂をたどって上昇する現象が生じたのだ、という理屈になるのだろうが。

 いずれにせよ、人類なんかの将来はこういった地球規模の不退転の連鎖現象から、決して永久に存在保障されているわけではない、というわけであろう。

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世界キリスト教情報第1678信:2023/3/27

 このところの様子から予期されたことだったが、発信者から以下の連絡があった。「主宰者がこの1月に85歳を迎えました。【週刊 世界キリスト教情報】の 企画・編集・配信にも影響が出て、受信者皆様にご迷惑をお掛けしています。 あれこれと対応を検討しましたが、この4月10日付けをもって休刊することを決意いたしました。  突然のことですが、事情ご了承のほどお願いいたします。メールマガジンな どへ転載・使用されておられる方には、さらに手間のかかることになりますが 、申し訳ありません。長い間のご支援、ご協力に改めて感謝いたします。  なお情報源の【CJC通信】は、なおしばらく(2023年度内)は発信を 予定しています。」

 長い間ご苦労様でした、と言いたい。後継者が得がたいのはどこも同じである。

◎ロシア、ベラルーシに戦術核配備へ=ウクライナ政府高官が批判
◎中国、ウクライナ侵攻1年でロシアに無人機15億円分輸出
◎ホンジュラス、中国と国交で台湾と断交
◎韓国のカトリック司祭団体、「尹錫悦退陣」要求する「時局ミサ」

 今回は最後のニュースを紹介しよう。
◎韓国のカトリック司祭団体、「尹錫悦退陣」要求する「時局ミサ」
【CJC】韓国メディア「ハンギョレ新聞」(日本語版)によると、カトリック正義具現全国司祭団(正義具現司祭団)が3月20日午後7時、全羅北道全州市(チョンジュシ)の豊南門(プンナンムン)広場で民主主義回復と平和を願い、検察独裁打倒と買弁売国独裁政権退陣を要求する「時局ミサ」を開いた。

 正義具現司祭団が政権退陣を要求する「時局ミサ」を開いたのは、尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権では今回が初めて。

 この日のミサは神父、修道女、市民など主催者側推算1000人余り(警推算500人余り)が参加する中で開かれた。全州教区のキム・ジンファ神父は説教を通して「私たちは惨憺(さんたん)たる思いで、しかし断固として、『憲法を踏みにじり国民の自尊心を踏み付けたためもうその座から下りるべし』と言わなければならない。

 正義具現司祭団はこの日「絶体絶命の今、泣訴します」という声明書を通して「尹錫悦政権が歴史に永く輝くことを心より祈願し、梨泰院(イテウォン)惨事で退陣の声が高まった時も私たちの生活方式を作り直すのが先だとして期待を捨てずにいたが、今日、大統領の勇退を促す」と明らかにした。

 正義具現司祭団のソン・ニョンホン総務神父は「彼が日本に行ってきて以来、私たちの大統領ではない、日本のための大統領だと考えるようになった。韓国人だと思ったのに、日本のために働く、国民と関係ない他の働きをする大統領だった。だからこそ私たちが立ち上がって退陣を要求するのだ。時は熟した。(この豊南門広場は) 朴槿惠(パク・クネ)元大統領の退陣を要求した場所だ。本当に国民による大統領、国民と共にする大統領、国民の生と共にする大統領が必要だ」と語った。□

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世界キリスト教情報第1677信:2023/3/20

 元情報のブログでは、「企画・編集の都合で、3月13日付けを休みます」とあって、その一週間後のアップもないが、小原氏のブログ(http://www.kohara.ac/news/2023/03/20.html)には3/20分として以下が掲載されている。

◎北朝鮮に拘束されたキム・グクキ牧師の妻「生存確認だけでも」
◎教皇、台湾の仏教の僧侶たちと会見
◎「DKZ」のギョンユン、”カルト宗教信者”めぐる物議に謝罪

 この現象をどう捉えればいいのか門外漢の私には分からないが、今回は最初の記事を紹介しておこう。

◎北朝鮮に拘束されたキム・グクキ牧師の妻「生存確認だけでも」

【CJC】北朝鮮で宣教活動中に逮捕され、8年間拘束されているキム・グクキ牧師の妻、キム・ヒスンさんが夫に送る手紙を公開した。米政府系放送局「ボイス・オブ・アメリカ」(VOA)が3月10日報じた。キム牧師の家族がメディアに心情を明かしたのは初めてだと、VOAは伝えた。韓国メディア「東亜日報」(日本語版)によって紹介する。
 キムさんは手紙で、「寂しくても頑張ってください。今年、あなたは70歳です。一緒に迎えたいです」とし、「健康はいかがですか。あなたが生きていることだけでも確認できればいいのに」と切ない気持ちを表した。また、「国内だけでなく世界の多くの国であなたが無事に釈放されて戻ってくることを祈っています」とし、「あなたは一人ではない。多くの人があなたのために努力している」とメッセージを伝えた。
 大韓イエス教長老会合同に所属するキム牧師は、国内でホームレスなど社会的弱者を支えていたが、2003年に宣教のために中朝国境地帯である中国遼寧省丹東に派遣された。キム牧師は脱北者や「コッチェビ(浮浪児)」など北朝鮮住民のための「脱北者シェルター」を運営し、北朝鮮に医薬品や農機具などを送り、宣教活動をしたという。15年に北朝鮮当局に逮捕され、スパイ罪と国家転覆陰謀罪の疑いで無期労働教化刑を宣告された。
 キム牧師夫妻の知人が、「権寧世(クォン・ヨンセ)統一部長官が7日、拘束者の家族に会って励ました。米国務省もキム牧師の釈放に関心を示し、キム・ヒスンさんが勇気を得たようだ」と伝えたと、VOAは報じた。
 米国務省は1月、全世界の政治犯釈放キャンペーンでキム牧師を紹介し、「キム牧師をはじめ、すべての政治犯の釈放を求める声に参加してほしい」と呼びかけた。
 北朝鮮には現在、キム牧師のほかにもキム・ジョンウク、チェ・チュンギル氏や脱北者出身の韓国人6人が拘束されている。

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(5)3/16の徘徊

 まず、その前日のリド・ディ・オスティアの海岸での夕焼けをごらんください。もちろん無修正(念のため)。私はこの鮮明なあかね色が大好きです。白い雲が朱に染まり、徐々に墨色に変わっていく。なぜか日本ではこんな夕焼けに出会ったことがない気がする。我らはこれを見た後、中華料理屋でチンタオ・ビールと夕食を楽しんだ。

3/16 晴天。

 ドイツ留学中で先般我らと合流したGE君と二人でオスティア関係の遺跡めぐりを企て(OK君より譲られたオスティア遺跡の入場券が8日間通用でオスティア遺跡管理事務所管轄下の諸遺跡[Ostia Antica, C.Giulio II, Museo navi, Porti Claudio e Traiano, Necropoli]共通券18€だったので:なんと今回の訪問で知ったが、オスティア遺跡のみの1日券はなくなっていた! あとの選択肢は年間パスの40€。これってかなり大胆な実質的値上げじゃんかあ・・・。今年中にまた来りゃいいだろ、というわけか)、早めに駅前で郊外線バスのコトラル1.3ユーロを2枚づつ購入してイゾラ・サクラのマウソレオに向かう。乗車場は駅の若干左側。

 例の給水塔が右手前方に見えたところで無事下車、ところが早く着きすぎて10時だっけの開園まで間が持たないので、まず北の教会跡、その後、西のマウソレオを押さえ、そしてロータリーのところにあるバールでこちらでの朝食、ブリオッシュとカプチーノ。そこからちょっと西に歩いたところのエディコーラでポルトゥスに行く道を店のご主人のお爺さんに教えてもらうが、橋が30分歩いた西にしかないので、橋を渡ってそこから川筋をほぼUターンして、計小一時間歩かないといけない。

 とぼとぼ歩いてようやくポルトゥス公園の入口につき、2人いたクストーデさんの指示に従い、園内を北に道をとり、かなり歩いてやっと受付にたどり着く(入口に作っておけよ、といいたい所だ)。そこにも3名ほど人がいて、あっちがクラウディウス、こっちがトラヤヌスと説明を受けたあとは、無料の地図をもらって(別途、QRコードで説明を読むこともできる)勝手に自力で歩くシステム。遺跡の各所に説明板はあっても道順なんかの標識はない。野原の気ままな散策という感じ。このところの晴天続きもあって、もう雨期も終盤の趣で野原には可憐な花も咲き乱れている。

トルローニアの館までいって、最近発掘中の皇帝宮殿方面はパスして、帰路に移る。入口への帰り際にすれ違った見物人は2組のみ。すでにかなり疲れていたので(約1時間の無駄なUターンがきいていた:あのロータリーあたりに橋があれば、または陸橋の自動車道に歩道があれば、こんな苦労はしなくてすむのに・・・)、ケータイでウーバー方式のタクシー呼んで船舶博物館への道を探ろうと思ったが、まずは途中で見かけた中華料理屋(例の赤い提灯ぶら下げている)で昼食をとひたすら歩いて、そこでビールを飲んで元気になり、GE君のケータイで首尾よくタクシーも来てくれた。それに乗ってケータイでの事前提示料金20ユーロで船舶博物館に到着。

 私は18ユーロの入場券で、彼は40ユーロの年間パスで無事入場。20年前と比べて今回内装もすべて改装されたようで明るく(昔のはなんだか薄暗く寒々とした印象の記憶が)、船の展示はいうまでもなく、説明板、関連展示もなかなか体裁よくあか抜けている(一部、フランスの手が入っているようだ)。本物とコピー取り交ぜての展示物の中でひときわ私の注目を引いたのは、船舶繋留装置であった(表示には「Bitta d’ormeggio, marmo, Portus, II secolo d.C.」、すなわち(船の)繫留柱、大理石製、Portus出土、後2世紀、と書かれていた)。私にはトラヴァーチンにしか見えないのだが。その直後、それ関係で予想外の遭遇もあったのだが、その時はそんなこと知るよしもない。我ら以外の入場者はフランス人男性一人のみ。そこになぜか係員5,6名はたむろしていたな。なんとも贅沢というかいたずらに無駄な感じである。

しかしこんな平べったい石の差し込みで船がちゃんと係留できたのであろうか:土留め装置もないようだし
私が異常接近していたので、お喋りしていた2人の女性監視人の注目を引いてしまった。ぎりぎり何もいわれなかったようなので、計測するのは諦めた。

 そこを出て、我らは博物館の背後の野原にそっと向かった。突堤跡とかつての港の管理者の官舎跡を見るためだ。群れてお喋りに興じていた係員たち、監視カメラ見ていなかったのだろう、警告を受けることなく、そこでなんてことない平凡な写真を撮ることができた。それが以下の写真。実は20年前にこの角度で撮っていたら「ピーっ」と鋭い笛の音がして、なにごとやあらんと周囲を見渡したら空港方向のはるか向こうの建物の影に自動小銃構えた兵隊さんが・・・。要するに飛行場だし軍用地だからこっち側を撮るなという警告だった。わかったわかったと手を振ってあちらに背を向けて写真撮った体験あったので、実は今回もビクビクモノだったが、今回は何も起こらず・・・。

こんもりとした凸が緩いカーブを描きながら向こうへと続いている

 だけど、そのあと最初に見学を飛ばしたイゾラ・サクラのマウソレオに帰ろうとして、右往左往、この日の徘徊が始まったのであ〜る。まずはバス停をさがすがみつからない(空港内巡回の無料のシャトル・バスのはあったが、郊外線のコトラルのが・・・)、GE君のケータイ情報でそれがあるというちょっと離れた北側に自動車道を歩いて向かう。

 その途中でなんととんでもない遺跡に。それは博物館の裏にあった突堤の延長で、自動車道で切断された向こう側の続きだった。それ自体の存在は平面図で知ってはいたが、それを目の当たりにできたのは、この徘徊の思わぬ副産物であったのだし、しかも博物館の裏のそれには見当たらなかった、私にとってきわめて興味深い痕跡がそこに認められ、俄然興奮も高まったのであ〜る。それは、トラヴァーチンないしトゥーフォ製、ないし大理石製と思しき船舶繋留装置が抜かれた跡であった、はずなのだ。文字通り、犬も歩けば棒にあたる、豊田が歩けば遺跡にあたる。だから徘徊はやめられな 〜い。

自動車が疾駆するこんな自動車道をヒヤヒヤしながら歩いていると・・・(右側が博物館区域)
左手の草地に突堤の延長が…
よくよく見ると等間隔で穴が開いているじゃないの、これはひょっとすると・・・

 たぶんひょっとしたわけである。最左付近での穴ぽこ間は平均141-150cm、穴の大きさは横幅30,縦25cm、といった感じで、我が愛すべき米軍御用達のガーミンによる測定高度は−14mと出た。え、なんでぇ?

 この出会いで私は充分満足したのであるが、その遺物を通り過ぎて自動車道から見返すと、おっとっと、

 さらにその偉容が偲ばれることとなった。これは博物館裏の突堤跡ではそれほどの高度差でなかった光景だ。そしてこちら側には穴は開いていない。その手前地面にぽつぽつ見えているのは、照明灯。

 ちなみに我が愛すべきガーミンによるこちら側の測定高度は40m! ものの10分でのこのでたらめさにはもはや苦笑いも浮かばない。

 その後、その先のロータリーまでいくが、停留所が見つからないので、タクシーを呼ぼうとしてこれもうまくいかない、たぶん飛行場に近いせいだろうとのことで、来た道を博物館までまた引っ返すが、そこでもタクシーはなぜかイタリア語をまくし立てて来てくれない(キャンセル3回)。しょうがないので明るいうちに飛行場のターミナルまで歩こうということになって、それは自動車道をあれこれいくつも強制横断するということを意味するのだが、無事成功し、私は初めて徒歩でローマ空港にたどり着くという快挙を達成することができたのであ〜る。これを得がたい体験といわずして・・・、なにをか言わんや。

 なつかしのターミナル3のタクシー乗り場で乗車(差配していた係員に「荷物は」と問われて「ない」と答え、怪訝な表情されてしまった:おれたちは難民か)、運ちゃんにはトゥット・トレンタと連呼して(全部で30ユーロ、のつもり:ローマの雲助運転手、下車時に一人30だと言いかねないので)、運ちゃんもメーター倒さず動きだすが、どうやらオスティア橋での事故のせいで渋滞に巻き込まれさんざ時間とられながらもリド・チェントロ駅に到着。運ちゃんお約束の30ユーロ以外に渋滞にこと寄せてチップを要求し出す。面倒なので金満日本人の端くれとして5ユーロ札を出すと喜んで引ったくる。

 18時過ぎてのご帰還に、心やさしいOK氏はわれらのためにビールを残してくれていた。夕食は米を炊いて、ふりかけに湯を注いで軽くすませ、早く寝る。28580歩。これって今回最高歩数だ。

【追記】この突堤等については、以下参照。http://www.ostia-antica.org/portus/plan-claudius.htm

 ところで、帰国後1か月過ぎて興奮が醒めて見直していて、気がついてしまった。ポンペイの係留装置の計測は、横23cm、縦44cmだった。これだとフイミチーノのアナポコよりは微妙に縦が大きくなる・・・。ということは、フイミチーノのはポンペイと規格が違っていた可能性もある。やっぱり船舶博物館で計測すべきだったなあ。

【追記2:2023/5/17】あれこれ調べていると、現地研究者たちはあの穴を係留装置の抜けた跡とは考えておらず、ウィトルウィウス『建築書』叙述に依拠して、堰堤構築工法における横木の露頭部分と捉えているようだ。まあ、このあたりの着想の欠如は素人の哀しさであるが、丸太にしては穴の断面が大きすぎる気がするし、背面の北側に見当たらないのはおかしいな、と思うだがどうだろう。いずれにせよ、この問題は継続検討したい。

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(4)移動日

 3/11早朝に起きて、それなりに住みよかったポンペイのコンドミニオを後にする。私には未だよくわからない現金の宿泊税(ポンペイでは1泊2ユーロ)と鍵を室内において扉をしめれば、はいサヨウナラという仕儀。駅で巨大な荷物を持参するOG君と合流してからしばし、めずらしく周遊鉄道が定刻通りやってきた。

周遊鉄道は、相も変わらず落書きだらけの車体だらけ:一部きれいなのもみかけたが

 ナポリ駅で荷物を預け、地下鉄に乗り換えてカヴール駅経由で国立博物館へ。ビザンツ関係とかの展示会をしていたが、大枠展示に変わりばえなし。ここも、高校生とおぼしき集団がガイドないし引率教員に誘導されて多数群れていたが、その大多数の疲れ果てて無関心な顔つきを見ていると、どこも同じで、学校教育の限界について、久々に思い巡らされてしまったことだ。しかし思い起こせば、けっしていい生徒でなかった私が未だこんなことしているのは何故なのだろう。

 その後どうなっていたか気になっていたアレクサンドロス・モザイクはまだ修復中で、その場所には合成布製?の複写がぶらさげられていた。

 2時間の見学を終え、足の都合というわけではないが、地下鉄で博物館前から大回りしてナポリ駅(ガリバルディ)に移動。そのとき車内で面白いものを見つけた。ちなみにポンペイでは全く見かけなかったマスク姿をナポリではちらほら目撃していたが。

車中でも距離を取りましょう、という表示が地下鉄車両の床に貼られていて:これいつまで残ってるんだろうか

ナポリ駅2階で慌ただしく昼食をとり、イタロという別会社に乗るOG君と別れて、我らはFSに。と、まるで我ら二人の専用列車のおもむき。どうしてこんなに乗客いないのだろうと思っていると、ときどき停車もするし、それで行きのFrecciarossa(1時間強) と違って2時間ちょっとのIntercityであることを知る(あとから家族連れ数名が乗ってきて、よりによって我らの横列に)。

 テルミニからピラミデ経由でリド線に乗るが、3年前の未使用の乗車券が使えたことはダメ元だったので、ありがたさと同時に意外感あった。車内にはナポリと比べ一段とマスク姿の、特に老人がぼつぼ目に付いた。通い慣れたオスティア・アンティカ駅を通り過ぎ、チェントロ駅で下車すると、予約したOKは今回の宿舎は駅の直ぐ裏ですと簡単にいうが(実際に裏の線路脇なんだけど)、そこをめざして重いスーツケースを引きずって線路の陸橋を超えてまた下るのは、今の私には一苦労で、彼に助けてもらうしまつ。75歳、老残である。

 着いた場所はコンドミニオ群といったほうがいいような、規格化された新しめの4階建ての建物群で、その前で待っていることしばし、OKから連絡受けてやって来たのは、まれに見る上品な初老のご婦人だった。古代ローマ史でマトロナと呼ばれる「既婚婦人」もかくやという印象。その彼女が手に持った携帯を我らに差し出す。見れば日本語で「身分証明書をみせていただけますか」とか「それを写真にとっていいですか」の文章が。ここまでグーグルの翻訳が活用されているとわ!  ローマの宿泊税は一人3.5ユーロ/日。ここはそれが前払いだった。ただ契約したOKさまいわく、ここの借り上げ費は安く、日本円で一日一人当たり4000円ちょっとなのだ、と大いばりなのである。とまれ内装も小綺麗で清潔感にあふれ、年金生活者にやさしいので感謝です。簡易ベッドを含めれば4-5名は宿泊可能。

よくみると一部5階もあるが、エレベーターはない、はず。われらの住居は3階。

 チェントロ駅の前には大型のスーパーがあるのは知っているが、疲れているので、こちら側の街を歩き、アリメンタリイと小さな売店のみつけ、とりあえず前者でパンとトイレ紙、宿舎に近い後者で水・ビール等を買う。後者はモロッコさん風の店員が、いちいち電話で値段をボスに聞いていたようで、察するににわか仕立ての店番か。

 そのあと、これまで中華料理を連呼してきたOK君に引きづられるように、陸橋を越えてチェントロに出る。以前滞在していたことのある宿舎への道だったので見覚えある通りで、繁盛している寿司屋を横目に、たどり着いた店でまず見せられたのが大きく拡大されたバーコードで、なぜかメニューと一緒に持ってこられる。OK君が聞き取った説明はバーコードが英語版のよし。しかしここでも注文は口頭。あと、支払いもクレジットが主流とみたが、我らは現金。

 家に帰れば、シャワーを浴びる気力もなく私は爆睡するのであった。

【追記】今回の2箇所のコンドミニオの台所で気になったのは、電化製品の普及である。今滞在中の台所の写真をみよ。

手前がコーヒーメーカー、中が電動ヤカン、右はこれまでもみたことある電子ヒーター?

偶然だろうが、ヤカンはポンペイもまったく同じ銘柄だった(そこには電子ヒーターはなく、ガスだった)。後から気付いたのだが、下には自動食器洗浄器と、レンジ・オーブンも付いていた。この家にはマッキネッタがないのには、畏れ入った。カプセル買わないとカフェも飲めないとは。ちなみにこの機械(LAVAZZA A MODO MIO)、後から調べたら、どうやら日本未発売のようで、ちゃちな作りの割には1万7千円はするしろもの。泡立ちがよくてバール並みのこくなのでついほしくなるが、日本の水でははたしてどうだろうか。

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(3)ポンペイでの追加訪問地:Morgine発掘地点

 そういえば、今回是非とも訪れておきたい場所があったのを思い出し、大荒れとの天気予報が大外れの曇天下、遺跡から南に700mを午前中に往復しました(これ書いている午後1時半、しっかりと雨が降り出したようですが、しばらくしたらまた太陽が・・・:こちらの雨期はこんなのとか、夜のうちに降っているとかが多い感じです)。iPhone計測で往復5600歩程度で、驚いたことに7日にねじった右膝がかなり回復していて、普通に歩けるようになっていることでした。

 さて、件の場所とは、ポンペイ遺跡の大体操場内にこのところ豪華なフレスコ壁画が掲示されてきた「Morgine=argo Murecine」遺跡のことです(今回、以前の展示よりだいぶ縮小されてしまった印象あります。奥のほうには別の新展示が開陳してあって油断ができません)。

 足の不安があったので、あらかじめiPhoneの地図で道順を見極め、それを頼りにとぼとぼと行ってきました。確かにあれ便利ですね。  

 国鉄の線路を高架で通り抜け、着いた先はネギなど植えられた農地や草ぼうぼうの空き地で、そこを東西に高速道路が横切っています。その工事中に発見された古代遺跡からめぼしいものを保存切り取って、道路建設が優先され、今や高速道路の下になっているようです。表示くらいあるだろうと期待したのですが、それらしいものは見当たりませんでした。作業中の農婦さんに発掘現場(スカーヴィ)はこのあたりですか、と聞いたけど、そう、だけどもう自動車道の下になったり、埋め戻してたいらになってるよ、という感じのやり取りでした。そのとき横を車ですれ違った主婦さんも運転しながら「ああ、スカーヴィね」と言って、直ぐ近くの住宅に入って行かれてたので、ご近所からすると、物好きな輩がまた来たわ、という感じでありました。

奥に壁のように見えるのが高速自動車道:発掘地点はたぶんこの道の行き止まり、というかトンネル付近

 ガーミン計測での海抜は59mで、ちなみにこのあと昼食にポモドーロのパスタを食したFS国鉄駅ポンペイのレストランあたりは63m、例の引き算すればそれぞれ、標高5m、9mとなるのですが、さてどんなものでしょうか。

 このそばを、往年のサルノ川の本流が流れていたはずですが、なにかで読んだブログでは、近年著名な公害垂れ流しのドブ川となり、暗渠化されてしまったとされてたはず。でもグーグル・マップなんかみても3、400m南をちゃんと流れているようですが、今回そこまでは行きませんでした。

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世界キリスト教情報第1676信:2023/3/6

元情報に行ってみたら以下の文言が。「≪連絡≫世界キリスト教情報(第1676信)は3月6日に送信すべきところ、主宰者の一身上の理由で、送信が3月7日まで出来ませんでした。申し訳ありません」。

◎中国が全人代開幕、23年成長率目標「5%前後」
◎教皇、今年4月にハンガリー司牧訪問
◎ウクライナにおける戦争から1年、教皇の祈りとアピール
◎ブラジル貧民街の個人宅、「今年の家」に 建築専門サイトが選出
◎クフ王のピラミッドで未知の空間発見、構造解明に期待

 今回は、キリスト教情報とは思えないが、最後のを紹介してみよう。

◎クフ王のピラミッドで未知の空間発見、構造解明に期待

 【CJC】カイロ2日発ロイター通信(日本語)によると、エジプト観光・
考古省は3月2日、首都カイロ近郊のギザにあるクフ王のピラミッド内部に通
路のような空間が見つかったと発表した。4500年の歴史を持つ大ピラミッ
ドにおける新発見につながる可能性もある。

 見つかった空間は長さが約9メートル。2015年に始まった「スキャンピ
ラミッド」プロジェクトによる成果で、3Dシミュレーションや宇宙線を利用
した新技術を駆使してピラミッド内部構造の調査が行われた。

 学術誌「ネイチャー」に掲載された論文によると、今回の発見はピラミッド
の構造解明につながる可能性があるほか、切妻型になっている新たな空間の目
的についても調査が行われる。

 エジプト考古最高評議会のモスタファ・ワジリ議長は、今後もスキャンによ
る調査を続けるとし「通路の奥に何が見つかるかを把握したい」と述べた。

 宇宙線が大気に衝突して生じる「ミュー粒子」を利用した調査には、名古屋
大学の技術が用いられた。□

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(2)順調な外食と自炊

 ポンペイではコンドミニオを借りて、まあ基本は自炊をしている。ここは洗濯機がないのと炊事道具が不十分なのが欠点だが,空間的には広くて、周遊鉄道のサンクチュアリ駅歩いて1分だから、我らには至便である(4星ホテルのパルマと同じ建物だから基本いい集合住宅なのだろう)。[ところが、あとから悩まされ出したのが、イタリアではよくある、シャワーで温水が出なくなるという事態:テクニコが二回きたけど、最後は洗面所は温水出るけど、シャワーはいっかな冷水のままだった:家主に言わせると同時に2箇所で使うなと。そんなあ]

 ①は昨3月4日の昼は、OG君ご推奨のピザ屋(Mercato Pompeiano:ちょっと国鉄駅方向)に行ったのですが、安いはずの「デ・ラ・カーザ」(その家のワイン )を頼んだのに21ユーロの立派なボトルの白ワインが出てきて、若いかわいいお嬢さん給仕にうまくやられた感ありでしたが、まあ美味しかったので許します(本当は許さない!)。ピザは典型的なナポリ・ピザで周りの土手がやたら立派で、私は6ユーロ、OK氏は6 .5ユーロ、そして写真添付したOG氏のは10ユーロ、それに席料のコペルト計6ユー ロと、ピザ屋のくせにリストランテ並にぼったくる。甘く見られたものだ。こうなるとチップなしね。  

半分食べて、一休みのOG・ピザ

 ②われらみな満腹で、OG氏は晩飯パス。我らはちょっと薄いステーキを自炊。

我らの夕食:これにコンソメ味の冷凍野菜のスープがつく。パンもうまいので、充分いける。

 基本、冷凍野菜にコンソメ入れた温かいスープがよかった。それに近所の小さなスーパーで購入したパン(長細いのと亀の甲型)がいずれも美味だったのがうれしい。

 それにしても、後半、OG君が近くのB&Bに来てからは、一緒に夕食とるようになったのだけど、彼の腕前はたいしたもので、我らは手出しできないレベルでした。米使ってのチャーハンや、冷凍フンギと鶏肉の惣菜など実に美味しかったなあ。

③ OG君のご所望で、私がごひいきのジャルディーノのあるオステリア(Osteria da Peppino)に一夕行った。入口から中を覗いたら、以前と異なって黒と白を基調とした洒落た造作なので、あれ店間違ったかと思って周囲を見直したのだが、場所はここだと意を決して入ると、どうやらその屋の家族が夕食をしていたらしく、母親然とした女性が立ちあがってエスコートしてくれ、そのあと若いカメリエーレが給仕してくれた。彼が最初に持って来たのは、なんとQRコードとパスワード。これにはとまどってしまったが、どうやら代替わりでの新機軸といった感じ(昔なじみのご主人の顔が見えなかった)。さすがにiPhone情報はメニューだけで、注文はカメリエーレ、略してカメさんが取りに来るシステムだったのでなんじゃらほい。このあたりが、日本のシステムとちょっと違うわけ。

 やっぱりデ・ラ・カーザで頼んだ白が立派なボトルで出てきて、しかも微発酵で美味、ワインリストも35あたりからだったので、昨日の今日の我らは俄然緊張せざるを得なかったのだが、結果はなんとなんと6ユーロとはこれいかに。自重せずにもう一本頼むべきだったが、後の祭り。

 海の幸の前菜食してはじめて、おお変わらずこの店の味だと納得(オリオがいいのだろう、じつに美味)。しかし件のカメさん2皿とったらとアドバイスして、それでそうしたのだが、それで満腹感が得られてしまう小食の日本人たちが、2の皿にいけなかったのは、店としては失敗だったかも。

タコとルッコラ、絶妙な味付け

 1の皿はこれも定番の海の幸のパスタ。かなりコシの強いパスタもこの店のものだった。味は並としておこう(OK君は絶賛していたが)。

 小心者揃いの我らはここで食事をやめてカフェにしたのだが(OG君いわく、カメさんは不服そうな顔してました、と)、3人での総額80ユーロちょっととはこれいかに、であった。一人頭30€は安いよなあ。なんだかバランス感覚がまだとれない感じ・・・。やっぱここはいい店だ。も一度行きたい、つくづくそう思ったことだ。

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