とにかく陰性、ということで

 孫が熱出したので、妻が病院で検査させたら孫は陽性で、妻は一緒に食事してたりしたのだが陰性だった。それでも妻は濃厚接触者となり、1週間ほど様子見となり、自宅待機。

 それで私はどうなのかと思っていたが、検査キットが通販で売りに出されることを知り、2000円台で5本と手軽な値段だったので注文したら、意外に早く翌日届いたのでさっそく実験。

 不慣れだったが、まあやってみたら陰性だった。一週間後に広島に里帰りの予定なので、その時また検査してみるつもりだ。

 妻も、こっちは病院でちゃんと検査して陰性だった。彼女の話によると、練馬区の方針とかで孫はとにかく所定の日数自宅待機したら、再検査なしで登学オッケーの由。

【追記】日曜に3回目のワクチン接種。これで大手を振って1週間後に帰省できる、かな。

【追記2】月曜になって、前回同様の筋肉痛がでてきたのは想定内として、夜になって体がだるく気力が湧かないので、妻が非接触の体温計で測ってくれたら37度5分あった。これでは寝るしかない。

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コンスタンティヌス家3代の貨幣入手

 私は現役の後半にはCNGのオークションに参加してきたのだが、それ以前にはときどきAgoraでもやっていたので、今でもむこうからオークションの連絡がある。リタイアしてからはいって見ることもなかったが、今回はどういうものか出品を眺めたのである。そしたら以下の連番の3点が眼にとまった。いずれもそう高価ではなかったし、競争になったら降りればいいと気楽に最低価格で入札した。なんとそれがそのまんま入札終了となった。それが以下である。

 いずれも打刻場所は上パンノニア(現クロアチア)のSiscia造幣所、打刻時期もいずれもコンスタンティヌス大帝時代に属する317-318年と大帝晩年の334-335年にあたるが、となると、317-318年のほうはリキニウス統治時代となる。これらは、大帝(272?-:在位306−337)と父コンスタンティウス1世・クロルス(250?-:在位293-306)、そして大帝が祖先としたとされるクラウディウス・ゴティクス(214?-:在位268-270)を表面に打刻しているので、コンスタンティヌス朝の始祖(伝説上にしろ:SHA, v. Claud. 13.1-3)を含めての3名の揃い踏みなので(但し大帝のコインの表面の像はコンスタンティノポリスであって大帝ではない)、つい (^^ゞ。

 伝説時代を含めて、コンスタンティヌス王朝の男系はユリアヌス(331?-:在位360?-363)までの約100年間で絶える運命を辿る。

 さてこのコインたち、送料・手数料込みで約175ドルの請求がきた。リタイアした年金生活者はもうこういう所有欲は断捨離しないといけないのだが・・・。

151                          152          
153

151:コンスタンティノポリス創建記念BI 半centenionalis貨幣:表面刻文は「CONSTAN-TINOPOLIS」、左向きのコンスタンティノポリス、月桂冠型ヘルメットと皇帝式服着用、左肩背後に例の十字型帝笏;裏面は左を向いたウィクトリア女神、右脚を戦艦船首の上に置き、右手に長めの帝笏を携え、左手を楯に添え、下刻銘部に「BSIS」=シスキア造幣所第二工房

152:コンスタンティウス・クロルス死後記念BI半follis貨幣:表面刻文「DIVO CONSTANTIO PIO PRINCIPI」(神君コンスタンティウス・元首に)、頭部をヴェールで覆い月桂冠で押さえたコンスタンティウスの右向き;裏面刻文「REQVIES OPTOMORVM MERITORVM」(最良の諸善行の安息)、皇帝が左を向いて高官椅子に座し、右手を挙げ、左手に帝笏、下刻銘部に「SIS」

153:神君クラウディウス・ゴティックス死後記念BI半follis貨幣:表面刻文「DIVO CLAVDIO OPTIMO IMP」(神君クラウディウス・最高軍司令官に)、頭部をヴェールで覆い月桂冠で押さえたクラウディウスの右向き;裏面刻文「REQVIES OPTIMO-RVM MERITORVM」、高官椅子に左向きで座した皇帝は、右手を挙げ、左手に帝笏、下刻銘部に「SIS」

【付論】今日連絡あったCNG(http://www.cngcoins.com/)に、なんと8枚ほど151と同様の貨幣が出品されているが(LOT838-845)、うち1枚はTrier造幣所打刻で、できばえもコンスタンティノポリスと比べるとかなり劣る(私だったら偽造と判定する)。また、まさしく同じシスキア造幣所第二工房打刻とされているLOT841(Æ Follis)ではあるが、我らの151とは印象がかなり異なっていて(当然材質も)、これだと私の食指は動かない。あとの6枚はいずれも「Contemporay imitation (hybrid)」とされている。

LOT841

 これらのうちLOT841以外はいずれも1989年にイギリスのNether Compton (Dorset) で発見された22670枚の退蔵貨幣の一部で、1994年に競売の付されて散逸したものらしい(そのせいか、出品者評価よりもかなり高めの値がついていたりする)。最終日まで13日間あるので、興味ある向きはご覧いただきたい。cf.,https://www.bacas.org.uk/wp-content/uploads/2017/08/NComprint.pdf

発見状況

 個人的興味としてはこの退蔵中どれほどがイミテーション貨幣で占められていたかであるが、もはやせんない妄想かもしれない。

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『ローマ教皇列伝』Liber Pontificalis解読

 この基本史料に邦訳あっていいのでは、というのが私の動機なのだが、本日から初期中世ラテンに疎い5名で読みはじめたが、えてしてそういうものだが、初っぱなから大苦難の様相である。どなたか助っ人お願いできればと切望しておりますので、お声を上げていただければ幸甚です。

 隔週火曜日、午後18:30より90分程度。Zoomでやっています。次回は5/31、といった感じ。連絡先:k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

使用ラテン語底本:一応MGHを底本とするが、読解には便利なので以下のThe Latin LibraryのDIGITAL版を使用しています。

 https://www.thelatinlibrary.com/liberpontificalis1.html

 Th.Mommsen, Liber Pontificalis ,Pars Prior, MGH, Gesta Pontificvm Romanorvm, vol.1, Berlin, 1898.

 Louis Duchesne, Le Liber pontificalis, tom.1, Paris, 1886(https://books.google.co.jp/books/about/Le_Liber_pontificalis.html?id=_gAXCJUWI0UC&redir_esc=y)

翻訳:

Louise Ropes Loomis, The Book of the Popes, New York, 1916(https://books.google.co.jp/books/about/The_Book_of_the_Popes.html?id=Q3CxAAAAMAAJ&redir_esc=y)

 Raymond Davis, The Book of Pontiffs, Liverpool UP, revised third edition, 2010.

 Nathalie Desgrugillers, Liber Pontificalis 1.Des Origines au pontificat de Sylvestre (30-355), L’Éncyclopédie médiévale, 2012:入手不可

参照辞書

 de Daremberg et Saglio, Le Dictionnaire des Antiquités Grecques et Romaines, Paris, Hachette, 1877-1919(http://dagr.univ-tlse2.fr/)

 Mediae Latinitatis lexicon minus, Leiden, 1984.

文法書

 國原吉之助『新版中世ラテン文法』大学書林、2007.

 初回90分で、ろくに読解できなかったが、それにしても格変化とかで問題山積みなのである。

 なお、現在教皇へのカトリック的な一般的敬称表記は「聖下」がよく使われているが、ここでは試しに伝統的な「猊下」としてみた。またbeatusは現在では、「聖人」sanctusと差別化して「福者」と訳されるが、ここではあえて冗長ながら「祝福された」と訳した。

ーーー

献辞 

 至福なるbeatissimo 教皇ダマスス(猊下)に、ヒエロニムスが(献じます)。

 猊下の聖性の栄光に鑑み、我ら謹んで次のごとく哀願いたします。我らが猊下の聖性のおかげで司られることを知ったところの使徒座のapostolicae sedis(権威)に基づき、これに対し深く頭を垂れてhoc curui、我らは祈ります、祝福されたbeati 使徒ペトルスの首位権の(時代)から、猊下の(使徒)座の中で行われた猊下たちの諸時代までずっとusque ad 諸事績を、平和の秩序のために、我らに詳述するのを猊下が決心させられますように、と。我ら謹んで、上述の聖座sanctae sedis の諸司教のうち誰が殉教の冠を得たか、それどころかuel 誰が諸使徒の諸規範に反して逸脱したかさえ知られているのかを、思量することを知る限りにおいて、我らのために祈りたまえ、至福なるbeatissimae 教皇(猊下)よ。

 首都ローマ司教ダマススが、司祭ヒエロニムスに(与う)。

 貴下の(知識の)泉によって満たされた教会は喜び、そしてより多く、諸々の時代の祭司職のsacerdotalis 好奇心は以下を渇望するものである、すなわち、何が価値あるものかが知られ、そして何が無価値であるので退けられるべきかを。さらにtamen 何がなされるのか、我らがみつけえたものが何かを、我らの(聖)座のsedis 研究を、汝の隣人愛において享受することを、我らは(これまでも)導いてきたのである。我らのために(キリストの)聖なる復活のゆえに祈りたまえ、兄弟よ、同僚司祭よ。ご機嫌ようVale、我らの主、神、キリストにおいて。五月二十三日に与う。十月二十六日に受領、ローマからヒエロソリマに送付(書簡)。

 

第一章 ペトルス PETRVS

 1. 祝福されたbeatus ペトルス、使徒にして使徒たちの筆頭者princeps、アンティオキアの人、ヨアンネスの息子、ガリラヤ属州のベトサイダ村vico(出身)で、アンドレアの兄弟が、最初primum アンティオキア内で司教のカテドラにcathedram 七年の間着座したsedit。このペトルスは帝都ローマに皇帝ネロの時に入って、そこでibique 司教のカテドラにcathedram 二十五年二月三日間着座したsedit。彼はまた[かくして]autem 皇帝ティベリウスの、そしてガイウスの、そしてティベリウス・クラウディウスの、そしてネロの諸時代にいたのである。

 2. 彼は、二つの書簡を書いた、それらは公同catholicae(書簡)と呼ばれている、そしてマルクス(マルコ)の福音書を(書いた)。なぜならマルクスは彼(ペトルス)の聴聞者auditor であった、そして受洗によって(ペトルスの)息子だったので、その後post (マルクスの福音書は)四福音書すべての源泉で、それらが吟味されたad interrogationemとき、そして彼の証言によってtestimonio、それはペトルスのそれであり、あるものはギリシア語、あるものはヘブライ語、あるものはラテン語で表明されていてもconsonent、さらにtamen それらは彼の証言によってtestimonium 立証されたのであるsunt firmatae。

 3. 彼は、二人の司教、リヌスとクレトゥスを叙階したordinauit。彼らは自らあらゆる祭司的奉仕をministerium sacerdotale 首都ローマで会衆populoや、それどころかuel やって来た人々にさえ示したexhiberent。また[かくして]autem 祝福されたペトルスは祈祷や説教を会衆に対して教育すべく専念した。

 4. 彼が、会衆の前のみならず皇帝ネロの前でも同様に、魔術師シモンと多くの議論を持ったとき、すなわちut 彼らを祝福されたペトルスがキリスト教信仰に集めadgregabat、後者(魔術師シモン)が魔術と欺瞞をもって散らしたのでsegregabat、そして彼らはかなり長くdiutius 討論したが、シモンは神のdiuino ご意向で殺された。

 5. 彼は、祝福された司教クレメンスを聖別したconsecravit。かつまた-que 彼にカテドラをcathedram、それどころかuel 教会をecclesiam さえすべて管理させるべくdisponendam 委ねてcommisit、言う:私に舵を取り、結びかつまた-que解く権能がpotestas 我が主イエス・キリストによって授受されているのでsicut、そして私は汝に委ねるcommitto、種々のことどもの管理人たちをdispositores 叙階するordians ことを、彼らにより教会の活動はactus ecclesiasticus 達成され、そして汝は少しも世俗の諸々の世話にin curis saeculi 気をとられないように、むしろただsed solummodo 祈祷のためだけに、そして会衆に説教するために自由であるべく専念せよ、と。

  6.  この管理のdispositionem 後に、彼は殉教によりパウルスとともに花冠を受けるcoronatur、(それは)主の受難の後三十八年に(あたった)。彼はアウレリア街道にアポロン神殿内に埋葬された、(それは)磔刑にされた場所の近くで、ネロの宮殿の近くで、ウァティカヌス丘の内へと、凱旋(街道)地区の近くで、六月二九日に。彼は、十二月における諸叙階式でordinationes、司教を三名、司祭を一〇名、助祭を七名(の叙階を)執り行ったfecit。

第二章 リヌス LINVS

 1. リヌスは、生まれはnationeトゥスキア[エトルリア]地方regionis Tusciaeのイタルス(イタリキ=イタリア)人Italusで、父はヘルクラヌスHerculanoで、(司教座に)十一年三か月十二日間着座した。彼はまた[かくして]autem ネロの諸時代、Saturninus とScipioの執政官職(後五六年)からCapitoとRufusが執政官職(後六七年)に至るまでずっとでusque ad、殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は、祝福されたペトルスの指示に則りex praecepto、女性は聖堂内ではin ecclesia 頭部をヴェールで覆って入るべしと制定したconstituit。彼は、二回の叙階式で、司教十五名、司祭十八名を執り行ったfecit。彼は、祝福されたペトルスの遺骸の傍らにiuxta corpus beati Petri、ウァティカヌス(の丘)の中にin Vaticano、九月二三日に埋葬された。

第三章 クレトゥス CLEVVS 

 1. クレトゥスは、生まれはローマ人で、パトリキウス街 vico Patricii 出身で、父はアエミリアヌスAemiliano、(司教座に)十二年一ヶ月十一日。彼はまた[かくして]autem ウェスパシアヌスとティトゥスの諸時代、ウェスパシアヌス七回目とドミティアヌス五回目の執政官職(後七七年)からドミティアヌス九回目とルフスが執政官職(後八三年)に至るまでずっとusque ad だった。(彼は)殉教により花冠を受ける。

黄色の矢印間がVicus Patricius:現在のサンタマリア・マッジョーレ聖堂の西南にあたる

 2. 彼は祝福されたペトルスの指示に則りex praecepto、司祭二十五名を首都ローマでurbe Roma 叙階したordinauit。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカーヌス(の丘)内へとin Vaticanum 四月二六日に埋葬された。そして司教座は二〇日間空座だった。

第四章 クレメンス CLEMENS

 1. クレメンスは生まれはローマ人で、ケリオモンティウム(=Caelimontium、下図の第二) 街区でregione(出身)、父はファウスティヌスで、(司教座に)九年二月一〇日間着座した。

彼はまた[かくして]autem ガルバとウェスパシアヌスの諸時代に、トラカルスとイタリクスの執政官職(六八年)からウェスパシアヌス第九回目とティトゥス[第七回目執政官職](七九年)に至るまでずっとusque adだった。彼はその間dum 多くの書物をキリスト教の信仰の熱意により書き記したが、殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は(帝都ローマに)七つの街区をregiones 作り、教会に忠実な書記たちをnotariis 割り当てた。彼は殉教者たちの諸事績に細心かつ好奇心をもっていたからで、かつまた-que 各々(の書記)が自身の街区についてregionem、入念に問い質すようにそうしたのである。

 3. 彼は二つの書簡を書いた。それらは公同catholicae(書簡)と呼ばれている。彼は祝福されたペトルスの指示に則り、教会の司牧職をpontificatum 舵取りすべく授かった。ちょうどsicut 彼(ペトルス)に主イエス・キリストからカテドラが託されていた、もしくはuel 委ねられていたごとく。さらにtamen ヤコブに対して書かれた書簡の中で、等しくqualiter 彼に祝福されたペトルスによって教会が委ねられたことをあなたはみつけ出すであろう。それゆえにideo そのためにpropterea リヌスとクレトゥスが彼(クレメンス)以前に登録されており、こうしてeo 使徒たちの筆頭者である彼自身から、交付さるべき祭司的な職務へとad ministerium sacerdotale、司教たちは叙階されているのである。

 4. 彼は十二月に二回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭一〇名、助祭二名、様々な地のために司教一五名を執り行ったfecit。彼は殉教者としてトラヤヌスの(執政官職)三回目に逝去した(後一〇〇年)。そのうえetiam 彼はギシリア人たち(の地)に十一月二四日に埋葬された。そして司教職は二十一日間空座だった。

第五章 アナクレトゥス ANACLETVS

 1. アナクレトゥスは、生まれはギリシア人、アテナエ(出身)で、父はアンティオクスで、(司教座に)九年二か月一〇日着座した。それはまた[かくして]autem ドミティアヌスの諸時代に、ドミティアヌス第一〇回目とサビヌスの執政官職(八四年)から、ドミティアヌス第一七回とクレメンスの執政官職(九五年)に至るまでのことだった。

2. 彼は、祝福されたペトルスの記念碑を建設した、そして、彼は祝福されたペトルスによって司祭にされていた間にdum、あるいはseu 司教たちが安置されるべき他の諸々の埋葬場所を配置したconposuit。そこにさらにとはいえubi tamen et、彼自身も埋葬された、祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、七月十三日に。

3. 彼は十二月に二回の叙階式で、五名の司祭、三人の助祭、様々な地のために六名の司教を執り行った。そして司教職は十三日間空座だった。

第六章 エウァリストゥス EVARISTVS

 1. エバリストゥスは生まれはギリシア人で、父はユダヤ名でユダスで、ベツレヘム市出身でde ciuitate Bethleem、(司教座に)九年十か月二日着座した。それはまた[かくして]autem ドミティアヌスとネルウァ・トラヤヌスの諸時代、ウァレンスとウェトゥスの執政官職(九六年)からガルスとブラドゥアに(一〇八年)至るまでずっとusque ad だった。彼は殉教により花冠を受ける。

 2. 彼は、首都ローマ内の諸々の名儀教会をtitulos 司祭たちに割り当て、そして七名の助祭たちを叙階した、彼らが真理の鉄筆のためにpropter stilum ueritatis 説教するpraedicantem 司教に近侍するためだった[司教の説教を速記するためだったのだろうか;それに以下に示される叙階助祭と数が異なっていることにも注目]。

 3. 彼は十二月に三回の叙階式で、十七名の司祭、二人の助祭、様々な地のために十五名の司教たちを執り行ったfecit。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカーノ(の丘)の中へと、一〇月二七日に埋葬された。そして司教職は十九日間空座だった。

第七章 アレクサンデル ALEXANDER

 1.アレクサンデルは生まれはローマ人で、父はアレクサンデルで、カプト・タウリ街区の出だったがde regione Caput tauri、(司教座に)一〇年七ヶ月二日着座した。彼はトラヤヌスの諸時代からへリアヌスHelianoとウェトゥスVetere(の執政官職の時:一一六年)に至るまでいた。

 2.彼は主の受難を、諸ミサが行われる際の祭司たちのsacerdotum 説教praedicationeの中に、組み入れた。彼は殉教により花冠を受け、そして彼と共に司祭エウェンティウスEuentius と助祭テオドルスTheoldolus も(殉教した)。彼は、人々の諸住居内で(祝別する場合は)水を撒き塩で浄められるべきである、と制定したconstituit。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、六名の司祭、二名の助祭、様々な地のために五人の司教たちを執り行った。彼はヌメンタナ街道uia Numentana に埋葬された。彼はそこで斬首されたdecollatus est、首都ローマからさほど遠くない第七里程標で、五月三日のことだった。そして司教職は三十五日間空座だった。

第八章 シストゥス XYSTVS

 1.シストゥスは、生まれはローマ人で、父はパストルで、ラタ通り街区[上図のVII]出身でde regione Via Lata、一〇年二ヶ月一日着座した。彼はまた[かくして]autem ハドリアヌスの諸時代、ウェルスとアンニクルス(の執政官職:一二六年)に至るまでずっといた。彼は殉教により花冠を受ける。

 2.彼は、以下を制定したconstituit。諸々の聖具 ministeria sacrata は奉仕者たちministeris 以外によって触れられてはならない、と。彼は以下を制定したconstituit。使徒座へと召喚された司教たちは誰でも、自らの司教区へとparrociam 帰ることは、フォルマータforumata なる市民宛てのplebi 挨拶のsalutationis 使徒座の書簡を携えずには、受け入れがたいnon susciperetur、と。

 3.彼は十二月に三回の叙階式で、司祭十一名、助祭四名、様々な地のために司教四名を執り行った。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)の中へと、四月三日に埋葬された。そして司教座は二ヶ月間空座だった。

 4.彼は以下を制定した。(ミサの)司式中にintra actionem、それを始めている祭司はsacerdus、会衆にpolulo (以下の)聖歌を唱和させるように、と。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主」Sanctus,sanctus,sanctus,Dominus Deus Sabalot[序誦中の文言]、そしてなどなど。

第九章 テレスフォルス TELESPHORVS

 1.テレスフォルスは、生まれはギリシア人で、隠修士出身でex anachorita [=ἀναχωρητής]、(司教座に)十一年三ヶ月二十一日着座した。彼はまた[かくして]autem アントニヌスとマルクスの諸時代にいた。

 2.彼は、以下を制定した:復活祭前の七週間に断食が挙行され、そして主の御降誕ではnatalem Domini 夜間にnoctu ミサ聖祭missas が挙行されるように、と。というのもnam あらゆる時代において、誰も三時課[午前九時]より前にante horae tertiae cursum ミサ聖祭をmissas 挙行することを企図しなかったのだが、(それは)その時間に我らの主が十字架にお登りになったからだがascendit、そしていけにえの前にante sacrificium 天使の讃歌hymnus angelicus[栄光頌(グロリア)のことか]、すなわちhoc est:「天のいと高きところに神に光栄あれ」Gloria in excelsis Deo が奉献されたdiceretur。彼は殉教により花冠を受けた。

 3.彼は、まさにuero 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと一月二日に埋葬された。彼は十二月に四回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十二名、助祭八名、様々な地のための司教十三名を(任命した)。そして司教座は七日間空座だった。

第十章 ヒギヌス YGINUS

 1.ヒギヌスは、生まれはギリシア人で、アテナエ出の哲学者の出で、彼の系譜は判明していない。(司教座)に四年三ヶ月四日着座した。かれはまた[かくして]autem ウェルスとマルクスの諸時代、マグヌス[執政官表ではCanus Iunius Niger]とカメリヌスの執政官職(後一三八年)からオルフィトゥスとプリスクス(後一四九年)にいたるまでずっといた[明らかに数字が合わない]。

 2.彼は聖職(階級)をclerum 制定し、諸々の段階をgradus 割り当てたdistribuit。彼は、十二月に三回の叙階式で、(ローマ教会の)司祭十五名、助祭五名、様々な地のための司教六名を(任命した)。彼はそのうえetiam 祝福されたペトルスの遺骸の傍らに、ウァティカヌス(の丘)内へと一月十一日に埋葬された。そして司教座は三日間空座だった。

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世界キリスト教情報第1620信:2022/2/7

= 目 次 =
▼2月の「教皇の祈りの意向」=修道女と奉献生活に召された女性のために

▼ミャンマー=クーデター1年、ボ枢機卿「人道支援へのアクセスの保証を」

▼教皇、プラスチック海洋投棄は「犯罪」と停止訴え

 今回は最後のを紹介しておく。

◎教皇、プラスチック海洋投棄は「犯罪」と停止訴え
【CJC】バチカン市6日発ロイター通信によると、教皇フランシスコ(85)は2月6日、プラスチックの海洋投棄は「犯罪」で、次世代のために地球を救うには止めなければならないと述べた。イタリア国営テレビ『RAI』との1時間にわたるインタビューで話した。

 教皇は、アドリア海に何トンものプラスチックが投棄されている現状を訴えに来たイタリア人漁師について触れ、次に会った際、ごみは倍増して一部を除去する作業に当たったと聞かされたと述懐した。その上で、「プラスチックの海洋投棄は犯罪だ。生物多様性も地球も全てを殺してしまう」などと述べた。□
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アレクサンドロス・モザイクの秘密

 本日、いやもう昨日か。NHK BSプレミアムで、13:30から「古代ローマ・ポンペイ遺跡が日本にやってきた!」(90分)が放映された。その予告では、あのモザイクの秘密を明らかにするといった言い方されていたので、どこまで突っ込んでやってくれるのかとおおいに期待していたのだが、あれ〜?見落としたのか、気付かなかった。よもや楯に写った自分の顔を見ながら死にゆくペルシア兵のことだったのか? あれは秘密でもなんでもない、と私は思っているが。それと、4Kスペシャルの「よみがえるポンペイ」(これ、2/6の13時から再放送あり )での放映映像(再現映像)が使い回されていることに気付いた。これはまあ出来がよいものだったので、再見できて個人的にはよかったのだけど。

 それで若干欲求不満になり、次回の勉強会の予習を兼ねて記憶を呼び起こすことにした。

 昔、ファウノの邸宅(VI.12.2)のエクセドラの床を飾っていたこのモザイクを卒論で取り上げた学生がいたので(テキストは、Ada Cohen, The Alexander Mosaic:Stories of Victory and Defeat, Cambridge UP, 1997;Paolo Moreno, Apelles:The Alexander Mosaic, Skira, 2002)、若干お付き合いして調べた時に、お〜〜〜という驚きを体験したことがあって。

 ところでファウノの邸宅は、優に2軒分の敷地を占めていて、なんとアトリウムとペリステリウムと呼べる空間が2つあるのだ(上の図だと、27と7、54と39)。おそらく右の52から入って7,そしてズスっと奥の広いほう(39)にいたる区画が主として家族用と考えると、今問題のエクセドラExedra(37)はおそらく限られた賓客用だったかもしれない。というのはその豪華さが尋常でないからで、ナイル河畔風景のモザイクもここの敷居に埋め込まれていた。エクセドラとは本来は談話室であるが、私はこれだけのモザイクを使っているので、夏の食堂tricriniumを兼ねていたのではと考えている;ただその場合、部屋の周辺空間をかなり占める食事用寝椅子を置くにはちょっと手狭で、舗床モザイク全体を眺めることができなくなってしまうのが難点だが。実はこの邸宅の舗床モザイクはおおかた剥ぎ取られて国立ナポリ博物館の中二階左翼に展示され、現場にちょっとだけレプリカで復元されているのだが(29など)、このエクセドラでも壁を含めて再現してほしいと思わざるを得ないのだ(3Dであるはずなのだがじっくり再現したものに行き当たっていない):ついでに言っておくと、アレクサンドロス・モザイクの舗床の傷みが左側の大王側に著しく、後79年当時にも補修されていなかったことから、このモザイクの主題は自ずと中央から右にあったということの暗黙の証言、と私には思えるのだが。

 おもわず前口上が長くなってしまったが、まずは全体写真。

このモザイクに限って1cm平方に15-30個のテッセラ(石片)という緻密さで描かれたOpus vermiculatum技法:普通はそれでも5,6個だとか。

 そもそもファウノの家は、ナイル河畔風景や静物画で、Opus vermiculatum技法のモザイクだらけの豪華さなのだが、かのモザイク舗床の来歴とかなんかのご紹介はまあ他にお委せするにして(だいたい単なる画材に歴史事象を重ねてどうのこうのと考察するのは、研究者のサガとはいえ、お門違いとも思えるが:あ、本ブログも同罪でした(^^ゞ)、一挙に核心に触れることにする。

 昔ちょっと勉強した時に何に驚いたかというと、画面中央の以下の図の解釈だった。

 それとの関連で大王の背後の以下の図の左にもご注目ください。

大王の後のヘルメットの兵士:銀のボイオティア・ヘルメット、金のリース、白い馬毛の飾りは上級将校を示す(『アレクサンドロス大王の軍隊:東征軍の実像』新紀元社、2001年、p.14より)

 まあ、事前に「アレクサンドロス・モザイク」という予備知識を吹き込まれて普通に鑑賞すれば、おのずと構図的に主役の大王とダレイオス3世に目が引かれてしまうし、左3分の1が剥落しているし、背景となっている群像などそれでなくとも乱戦の中にまぎれているので、いちいち見ているわけではない(否、一応見ているのだがぼ〜と見ているだけの「ちこちゃん状況」にすぎないわけな)ので、つい見落としがちになるのだが、中央から右はペルシア軍兵士の群像が描かれているのだが、その中の異質な存在に気付いた研究者がいた。それがギリシア・マケドニア系ヘルメットを着用した兵士である。上の部分図では正面に目線を流している者ともう一人ヘルメットの羽根飾りが見えている。さて下の部分図にも同様のギリシア的ヘルメットが。剥落が目立つモザイク左側はギリシア・マケドニア系兵士が描かれている区画なので、下のほうの部分図のそれは大王麾下の騎兵と考えていいのだが(実際そのように後世において修復再現されている)、じゃあ中央の彼らは何だという件で、画面上部に林立する長槍の実にダイナミックな動きから、前進していたダレイオス3世軍(画面中央)が動揺して逃走に移っている(画面右)様子が歴然で、その研究者は、中央の二名、それとその左のペルシア兵が右向きであることに注目して、その三名を敗走を始めたペルシア側兵士で、あのヘルメット着用の二名をペルシア軍に傭兵として参加していたギリシア人たちとしたのであ〜る。これには私は本当に驚いてしまった。観察眼と構想力の勝利である。

 それでじっくり考えてみたら、あの画面上部に林立する長槍であるが、あれこそギリシア・マケドニア系のファランクスの特徴とするなら(長さ4-6mのSarissa)、ギリシア系とペルシア系の闘いなのに、ダリウス3世軍にファランクスが見えるのは一見奇異で、しかしそれがギリシア傭兵の歩兵だとすると納得できるわけである。ちなみにペルシア軍の主力は弓兵や騎兵で、1万人の重装兵「不死隊」(歩兵と騎兵がいた)は有名だったが、大きな楯と2mの槍で武装した歩兵の基幹部隊Sparabaraは決して決戦兵器ではなかった。下図参照。

A、Sparabara;B、弓兵;C、不死隊;D、旗手:大王の東征をまとめたYouTubeを参照(https://www.youtube.com/watch?v=K7lb6KWBanI)

 ただし、イッソスの敗北後に、ダレイオス3世は自軍に長槍部隊を創設してきたるべき決戦に備えていた、という情報もあって、となると事態はまた複雑になるが。

 ところで1831年に発見されたモザイクを、その直後に剥落部分を含めて油絵に描ききったものが、モザイクが展示されいる国立ナポリ博物館中二階のモザイクの左壁に掲示されていることはご存知だろうか。それが下図である。かつて私はこの復元想像図を舐めるようにながめ、写真に収めたものだ。

この画像、実は明度をだいぶあげている
モザイク修復中の映像に、展示されている油絵が写っている

 今日では色々な復元画像もウェブ上で得ることできる。以下はその一例。

 さて今回ググっていたら、またまた驚くべき説を唱えている人物に行き当たった。Werner Kruckの英語版ウェブ「Reconstruction of the mosaic」(http://alexandermosaik.de/en/interpretation_of_the_mosaic.html)に寄せられた、Justin Woodのコメントである(2015/02/05)。中央から右の背後に見える長槍をギリシア系と見るところまでは同じなのだが、それをアレクサンドロス大王麾下のファランクスとみなす。即ち、ペルシア軍本陣はこの絵での背後からギリシア歩兵に追い立てられ、左からは突撃してくる大王の騎兵隊に不意を突かれ、この時点でダレイオス3世は大王軍に包囲されつつあった。それでダレイオス3世がまさに逃走を図った瞬間を描いているのだ(戦車の前の尻を見せている馬は王の逃走用だったと、もっともらしく言われている)、と。

 客人を前に主人が蘊蓄と謎解きを披露している光景が目に浮かぶ。それを我々がどう読み解くか、おそらく正解などありようもないが、深読みの楽しさがここにある。

【付記】最近このモザイクの研究書というか写真集が出ていたことにようやく気付いた(なんと、Fausto Zevi御大が寄稿者の一人としてご登場だ!:Photography by Luigi Spina et als., The Alexander Mosaic, 5 Continents Editions Srl, 2021)。しかしさて2021年開始で今年中には終わる修復結果とどう整合するか見ものである。なにしろこれまで塗られていたニスを取り除くというので、光沢など変わる可能性が高い。逆にいうと、未だにほかにそんなに専門研究書がないので、ねらい目のテーマではある。

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Pompeii 雨のアトリウム

 これは私が写した写真ではないが、別件ググっていたら出くわした。私もアボンダンツァ通りを歩いていた時、雷を伴ったたいへん激しい夕立に遭遇し、近くの邸宅に避難したときに似た写真を撮ったことあるのだが、とりあえず捜し出していないので、忘れないうちに代わりに拝借しておいた。

この邸宅に逃げ込んだ人々は、みな喜んで笑っている。雨宿りも普通じゃなくて天井にcompluviumの穴が空いていて、雨水が床ではねるので、壁際まで避難しないといけない。乾期の夏期に訪問すると雨に遭うこと自体めったにない僥倖なのである。

こんな調子で写真のような現状だとアトリウムはびちゃびちゃになるが、古代においては、屋根に落ちてきた雨水を下で受け止めるimpluviumに流し込むべく、天井の矩形空間compluviumに吐水口があったので、少しは効率的だったかもしれない。ところで、この吐水口、中世教会建築ではやたら魔界の魔モノ的なおどろおどろしい装飾物でおなじみだが、古代ローマでは2022/1/5にアップした犬の塑像関係で触れたような毒気のない動物が多い。

左、アトリウム風景   中、compluviumに設置された吐水口       右、動物たちをかたどった吐水口

 以下はおまけであるが、今般の東博のポンペイ展で展示物の中に伝エルコラーノ、パピルス荘出土の吐水口で、造形は雌ライオンとのこと。テラコッタ製の管の先に青銅製のこれが接続されているわけだが、さすがにパピルス荘、こんなところまで凝っていたとは。

 なお、Impluviumに溜まった雨水は、その下に掘られている貯水槽に流れ込ませる集水口があって貯水され、それ用に傍に設置された井戸からくみ上げて使用されるのだが、ほとんど井戸水で生活したことのない私としては、こんな水、何にどう使用するのか、どうしても気になってしまう。直接はいうまでもなく、たとえ砂などで濾過した水にしても、飲料としての利用は勘弁してほしいと思ってしまうのだ。はたしてあの水をどうしていたのだろうか。その時代、水を行商販売していた水売り人がいたし、街角には公共の泉水もあったので、飲料水はそれでまかない、貯水槽の水は生活用水に使用していたと思いたいのだが・・・。

左、手前がアトリウム(客間)、そしてタブリヌム(当主の執務室)、その奧に青天井で列柱のペリステリウム(中庭)が見える;右、地下の貯水槽の図式:このように直接水をくみ上げるのが普通だったようだが、中には砂に浸透させる方式もあったらしい。
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世界キリスト教情報第1619信:2022/1/31

= 目 次 =

▼教皇「一致の歩みのために、回心の勇気を」、エキュメニカルな夕べの祈りで
▼同性愛の子非難しないで、教皇が親に呼び掛け
▼教皇、カトリック系メディア関係者と会見、「真実の追求とともに、人間の尊重を」
▼前教皇、虐待行った聖職者の検討会議に出席したと認める=米CNN報道
▼スイスで自殺を考える若者が急増=医療専門家が指摘
▼台湾に生涯ささげた英国人宣教師の生き様描いた漫画が出版へ
▼ビザンツ帝国時代の教会、ガザ地区で一般公開
▼ボッティチェリのキリスト画が52億円で落札=米で競売

今回は同性愛関係への教皇の呼びかけと、前教皇の弁明を紹介。

◎同性愛の子非難しないで、教皇が親に呼び掛け
【CJC】ローマ発共同通信によると、教皇フランシスコは1月26日、子どもが同性愛者であっても非難しないよう親たちに呼び掛けた。子育ての難しさに触れ「異なる性的指向の子ども」を責めないよう訴えた。バチカンで行われた水曜日恒例の一般謁見で発言した。ANSA通信が報じた。

 カトリック教会は同性愛をタブーとしているが、教皇は柔軟な姿勢を見せてきた。2020年に上映されたドキュメンタリー映画「フランシスコ」の中では「同性愛者も家族になる権利を持っている」と述べ、事実上の結婚を社会的に認めるべきだとも語っている。□
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◎前教皇、虐待行った聖職者の検討会議に出席したと認める=米CNN報道
【CJC】米CNNがローマ発で報じたところでは、前ローマ教皇ベネディクト16世(94)は1月24日、虐待を行ったカトリック教会聖職者に関して検討した1980年の会議に出席していたことを認めた。これまで出席を否定していたが、「自身の声明の編集上の誤り」が原因だったとしている。CNNはタイム・ワーナー・グループの傘下ターナー・ブロードキャスティング・システムが所有。米ジョージア州アトランタ市に本拠を置いている。

 独ミュンヘン大司教区で起きた聖職者による虐待の調査結果は20日、公表された。それによれば、前述の会議の議事録にはベネディクト16世の出席が記録されており、前教皇による出席の否定は「信じがたい」との評価を受けていた。ベネディクト16世は77~82年に同教区で大司教を務めていた。

 前教皇は、個人秘書を通じてカトリック系の通信社に出席を認める声明を出した。この秘書によれば、誤りは「悪意から生まれたもの」ではなく、調査に対する「声明の編集過程で生じた誤りの結果」だったという。

 秘書によれば、前教皇はこの件について「大変申し訳ない」気持ちで、許しを乞う姿勢を示している。前教皇は後日、詳細な声明を発表する予定。1900ページに及ぶ報告書に目を通すのに時間を要するとしつつ、これまで読んだ内容から、被害者が受けた「苦痛に恥と痛みを感じる」と述べた。□

 これについては、以下で詳しく報じられている。http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/52325721.html

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やっと来たコロナ接種3回目書類

 昨日、待ち望んでいた練馬区役所から書類が届いた(妻は医療従事者なのですでに接種済み)。

 さっそく今日、行きつけの診療所に予約を取ろうとしたら、これまでの接種日を聞かれ、年齢を聞かれ、要するに高齢者なので繰上接種が可能ということになり、日時調整のうえ、最速より1週間遅れの日曜日の2/13の午前中となった。使用ワクチンはファイザー社製。それまであと2週間余り、無事に過ごしたいものだ。

 その一週間あと、オミクロン蔓延で延期していた広島行きを断行し、一週間程度あちらに滞在する予定だが、さてどうなることやら。

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世界キリスト教情報:第1618信

= 目 次 =
▼教皇、フィンランドのエキュメニカル使節を歓迎
▼列聖省、聖イレネオへの「教会博士」称号付与案提出
▼独カトリック教会の児童性虐待、「前教皇が対応怠る」=最新報告書
▼「キング牧師の日」に米ヒューストンでインクルージョン訴えるパレード
▼礼拝者殺到で29人死亡 リベリア、強盗現れパニックに
▼イエメン内戦、刑務所空爆で70人死亡=移民収容所に転用、子どもたち犠牲に
▼アンネの隠れ家を密告した人物特定か
▼禅僧ティク・ナット・ハン師死去 、「マインドフルネス」を欧米諸国に紹介

 今回はちょっと長くなるが、最初の3つを紹介しないといけない。
 最初のものは、教皇が2025年を「第一ニケア公会議開催1700周年」として祝うと宣言している。私はなんとかこれは目撃できそうである。
 2つ目の「聖イレネオ」とは、リヨンのエイレナイオス(後130頃ー202年)のことで、彼が新たに教会博士doctor ecclesiaeに選出された(1/21付)。
 3番目は、まあどうみてもこの問題が前教皇の引退の真の原因だったとしか思えないわけで。

◎教皇、フィンランドのエキュメニカル使節を歓迎
【CJC】教皇フランシスコは1月17日、フィンランドのエキュメニカル使節を歓迎した。

 「バチカン・ニュース」によると、使節は、フィンランドの福音宣教に大きな役割を果たした、ウプサラの聖ヘンリック(司教・殉教者)の祝日(1月20日)と、「キリスト教一致祈祷週間」(1月18日~25日)を機会にバチカンを訪れた。

 使節を歓迎された教皇は、2022年度「キリスト教一致祈祷週間」のテーマ、「わたしたちは東方でそのかたの星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2・2)に触れながら、教会の伝統は福音書の東方三博士の中に異なる文化や民族の象徴を認めている、と指摘。わたしたちは、分裂の闇をかき散らす神の優しい光に導かれ、一致に向けて歩んでいる、と話した。

 また、世界は神の光を必要としている、と述べた教皇は、その光はただ愛と一致と兄弟愛の中にのみ輝く、と話した。

 教皇は、2025年に記念される「第一ニケア公会議開催1700周年」、2030年の「アウクスブルク信条500周年」を、一致への歩みを強め、人の論理より神の御旨にいっそう従順となるための機会として見据えながら、この歩みを続けて行くことを希望した。

 神を求め、大胆さと具体的な行動をもって、イエスを見つめながら共に進み、互いに祈り合いましょう、と招きつつ、教皇は使節のメンバーと共に主の祈りを唱えた。□

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◎列聖省、聖イレネオへの「教会博士」称号付与案提出
【CJC】バチカン(教皇庁)列聖省は、リヨンの聖イレネオ司教殉教者に「教会博士」の称号を付与する案を教皇に1月20日提出した。バチカン・ニュースが報じた。

 教皇が、列聖省長官マルチェッロ・セメラーロ枢機卿と会見した際、同枢機卿は、列聖省メンバーの枢機卿・司教による定例総会で肯定的見解を得た、リヨンの聖イレネオ(司教殉教者)に「教会博士」の称号を付与する、という案件を教皇に提出した。

 聖イレネオは小アジアのスミルナ(現トルコのイズミル)に、130年から140年の頃に生まれた。早くから、当時のスミルナ司教で使徒ヨハネの弟子、ポリカルポから教えを受けた。リヨンの司教となり、202年頃、殉教した。

 教皇は同時に、フランチェスコ・サヴェリオ・トッピ大司教(イタリア、1925~2007)、マリア・テレザ・デ・ヴィンチェンティ修道女(イタリア、1872~1936)、ガブリエラ・ボルガリーノ修道女(イタリア、1880~1949)の英雄的徳を認める教令を承認した。□

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◎独カトリック教会の児童性虐待、「前教皇が対応怠る」=最新報告書
【CJC】ドイツのカトリック教会司祭らによる児童虐待に関する調査報告書の内容が1月20日、明らかになった。前教皇ベネディクト16世(94)が同国南部ミュンヘン司教区の大司教を務めていた際、4件の性的虐待への対応を怠ったと、報告書は指摘している。英BBCなど一般メディアが伝えたものをまとめて紹介する。

 この調査は、カトリック教会から委託を受けたドイツの法律事務所「WSW」が実施したもの。WSWは四つの事件について、ベネディクト16世が虐待に目をつぶっていたということで意見が一致した、と弁護士のマーティン・プッシュ氏は述べた。

 前教皇ベネディクト16世(本名=ヨゼフ・ラッツィンガー)は1977年から82年まで、独南部ミュンヘン司教区の大司教を務めていた。

 虐待行為はベネディクト16世の大司教在任中も続いていたとされ、告発された司祭たちは教会でそれぞれの職務を継続していたという。

 ベネディクト16世は対応を怠ったとの指摘を否定している。

 報告書について発表したマルティン・プッシュ弁護士は、「(ベネディクト16世の)大司教在任中に起きた(4件の)性的虐待のうち2件は、虐待行為として国が認めたもの」だと説明した。

 「いずれのケースでも、加害者はパストラルケアの活動を続けていた」。パストラルケアとは、地域社会の人々を訪問し、支援する活動などを指す。

 少年への虐待行為を告発されたペーター・フラマン司祭は、(ベネディクト16世の)ミュンヘン司教区に移動した後も、パストラルケアを続けていた。

 2013年、前教皇は体力の衰えを理由に退位した。存命中の教皇の退位は約600年ぶりだった。以降、名誉教皇としてヴァチカン市国で生活している。

 前教皇は法律事務所からの質問状に対し、数十ページにわたる回答を提出したと報じられている。回答書の中で調査への支持を表明した一方で、虐待疑惑は認識していなかった、対応を怠ったという事実はない、と主張したという。

 しかし、調査報告書には、虐待に関する話し合いの場に前教皇が同席していたことを強く示す議事録が含まれている。

 ローマ教皇庁(バチカン)は声明で、報告書が公表されれば詳細を確認するとした。

 「司祭による未成年者への虐待行為は恥であり遺憾だと、改めて表明するとともに、バチカンは全ての被害者への支援を表明する。未成年を保護し、彼らにとって安全な空間を保証していく」

 独カトリック教会での虐待をめぐっては、過去の報告書で、1946年から2014年の間に全国で3600人以上が司祭らから虐待を受けたとされている。被害者の多くは非常に幼い、ミサで侍者を務める少年たちだった。

 ミュンヘン・フライジング司教区に関する最新の報告書では、1945年から2019年の間に少なくとも497人が被害に遭っていたことが明らかになった。

 改革を訴えるカトリック団体『私たちは教会』はベネディクト16世に対し、ミュンヘン大司教時代に起こったことの責任を取るよう求めている。

 報告書は、前教皇のほか、ミュンヘン・フライジング司教区の現大司教、ラインハルト・マルクス枢機卿を含む教会関係者数人についても批判している。マルクス枢機卿は2件の虐待疑惑で対応を怠ったとされる。

 同枢機卿は昨2021年6月にすでに、明らかになりつつある虐待という「大惨事」に対する責任の一部を負うべきだとして、現教皇フランシスコに辞任を申し出ている。

しかし、教皇は辞任申し出を拒否した。辞任申し出の数日前、教皇は、カトリック教会の教会法典を改正し、性的虐待や児童ポルノの所持、虐待の隠蔽などを処罰の対象としている。□
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「特別展ポンペイ」を見てきた

 2022/1/21に、めったにないことだが知人から無料鑑賞券を2枚もらったので、某読書会の予習を兼ねて、これもめずらしく妻と2人で東博に「ポンペイ展」を、念のため事前予約して見に行った。会場の平成館は奥にあるので、上野駅公園口からそこまで行くのが寒かったが、駅前の自動車道がなくなっていたり、西洋美術館が改修中とかで、久し振りだったのでその変わりように驚いてしまった。

 14時半予約していたのだが、それ以前に検札を通ろうとしても、入場者はそんなに多くなかったのに、待合室で待たされてしまった(たぶん予約してなければ直に入れたと思う)。今回は、空間構成にかなり余裕があって、鑑賞者もそう多くなかったので、気分的にゆっくり見ることできた。写真が自由に撮れたのもイタリア的でよかったが、これって日本ではいつものように人が多いとはた迷惑になるはず。以下の動画がある。

 「ファウノの邸宅」「キターラ奏者の邸宅」「悲劇詩人の邸宅」に焦点合わしているのはいい試みだった。私的には「Julia Felixの邸宅」関係があちこちに、特にあの有名な「賃貸広告文」があったのも嬉しかった。

 また「Lucius Caecilius Iucundusの邸宅」(V.1.26)関係の4点が出品されていて、これはまさにちょうどその遺跡の出土品を別件で扱っていたので、その偶然が嬉しかった。とりわけ、玄関を入ってアトリウムを直進するとタブリヌム(家長の執務室)に至るが、その両脇に設置されたヘルマ柱の左側のほうには、青銅製胸像が載っていて、柱に「GENIO・L[uci]・NOSTRI ・FELIX・L[ibertus]」(我らのLucius(Caecilius)の守護霊に、Felix L.が[献じた])と刻まれている(本物はナポリ博物館に展示されているし、これまで日本にも来たことあるが、今まで無関心で気付かなかったのだ)。なお、1930年代から1970年代までこの原位置には青銅レプリカを載せたヘルマ柱が設置されていたようだ。なお、簡単に往年の様子を想像したい向きには、以下があります。https://www.youtube.com/watch?v=ETd7pszxhnc

 その末尾の刻文「L(ibertus」(=解放奴隷)から、解放奴隷のFelixが、たぶんご主人様のLucius Caeciliusへの敬愛の念から胸像を守護霊に寄進したと考えるのが順当なのだが、研究者たちは必ずしもそのようにとっていない。それはなぜか。今回のカタログではこの家で出土した最古の後15年の書字板にLucius Caecilius Felixが登場しているので、それが解放奴隷Felixと同一人物なのでは、というわけである。こうなると、献呈されたLucius Caeciliusは、このLucius Caecilius Felixと、そして当時の当主Lucius Caecilius Iucundusと、そして解放奴隷Felixは、どういう関係になるのか、これが当然問題になる。もちろん、あくまで解放奴隷Felixは主家と血縁関係なく、解放時に当時の当主Felixの名前を頂戴しただけ、ととることもできるはずだ。

 ところが今般のカタログではそう考えていない(p.106:署名RC=Rosaria Ciardiello)。Iucundusの祖父なり父が解放奴隷Felixであり、胸像そのものもFelixだった可能性を指摘している。かなり入り組んだこの解釈もまんざら無視できはしない。このようにたかだか2行足らずの刻文なのだが、なかなか決着がつきそうもない。問題解決にタブリヌムの右に設置されていたもう一柱は参考にならないのだろうか。Fausto & Felice Niccolini(1816?-1886?)によると、右のヘルマ柱は、噴火後に穴を掘った盗掘者たちによって頭部が破壊されてしまい、発掘時にそのまま見つかった由だが(https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R5/5%2001%2026.htm)、破壊された胸像のほうはともかくとしてヘルマ柱上に何の痕跡(刻文)もないのだろうか、気になるところである。もうひとつ、同家から出土した書字板史料の詳細な検討から何かヒントが見つからないだろうか。いずれにせよ、今後のさらなる検討対象となりそうなテーマではある。

左、東博で撮影;右、写真の左隅のヘルマ柱にレプリカが置かれていた写真もみつけた
携帯で撮ると歪みますね

 もうひとつ興味あったのはこの家から153点出土した書字板のひとつのレプリカだったのだが、これは薄暗い照明の中では真っ黒の炭板としか見えなかったのが残念。実はそれらの中に「円形闘技場の乱闘」のフレスコ画関係の傍証記述を記載したものがあるのだが(H69-82)、それの展示だと連携的でよかったのだが。

 炭化といえば、炭化したパンも展示されていたが、どうせなら刻印stampを押してあるものにしてほしかったのも、一時それを調べていたことあるからだが(これも余談だが、なんでパンに刻印押したのかが問題で諸説ある。私は誰が無料配布したのかを示すため、というのが一番当たっているように思ったのだが、奴隷の名前が多く押されているので、一般化は無理でしょうね。どなたかいい知恵出してください)。

 私的に今回一番の収穫は「奴隷の拘束具」だった。この種の拘束具は初見だったので驚いたこともある(ちなみに、2010年の京都・古代学協会主催の横浜美術館の時は、ポンペイ郊外出土の給湯システムが初見で、たいへん興奮したものだ。なにしろ私はそれまでドイツ出土のものを写真でしか見たことなかったので(その経験が、オスティアでも役立った、といってもそこでは金属は回収されたあとの単なる空間が残っていただけだったが)。蛇足だが、このときのグッズ売り場は私にとって実に充実していて、18禁の品々をいっぱい教材用に購入したことを思い出してしまった、もっとも刺激的すぎるそれらは実際には研究室に死蔵してしまったのだが)。

上がピラネージのエッチングを使っての解説文:件の拘束具は大劇場の回廊から出土とのことだが、農業奴隷ではあるまいし、本当にこんな拘束をしていたのだろうか、いささか疑問。農業奴隷だってだいたいは円形の足枷だったはず。新人奴隷の調教ないし懲罰用?
 ところで、全部で158を数える展示物のうち、「東京のみ」が34もあるのは、展示空間の問題だということだが、立像「ビキニのウェヌス」、モザイク画「辻音楽師」、フレスコ画「円形闘技場の乱闘」「賃貸広告文」「サッフォー」「パン屋の店先」などはせっかくの貴重な逸品なのに、東京以外では見られないのは残念なことだ。私だったら他を省いてもこれらをとるのだが。特に私は今般モザイク画で署名を、フレスコ画で落書きを自力で確認できたのも収穫だった。たぶん、ナポリ博物館よりも低く私の目線に設置されていたので、容易に気付けたのだろう。

 上記ギリシア語:ΔΙΟΣΚΟΥΡΙΔΗΣ ΣΑΜΙΟΣ ΕΠΟΙΗΣΕ「サモスのディオスクリデスが[これを]作成す」。だが、といって彼がこのモザイクを実際作成したかどうかは不明、というよりこの署名すら原作品からの模写だろう。

 下記の2つの落書きは、Casa di Anicetus(I.3.23)のペリスタイル(中庭)の後壁に描かれていた壁画「円形闘技場の乱闘」に刻まれていたもの。

  ラテン語:D(ecimo) LVCRETIO FE[L]ICETER「デキムス・ルクレティウスに幸運を」

  ギリシア語:ΣΑΤΡΙΩ / OYΑΛΕΝΤΙ / OΓΟΥΣΤΩ / ΝΗΡ ΦΗΛΙΚΙΤΕΡ「サトリウス・ウァレンス、アウグストゥス・ネロ[の奴隷]に幸運を」(他の読み方もあるので検討中)

 これら2つの落書きに通底する同一意図を想定するとき、後59年のヌケリア市民との乱闘の後始末として、元老院が一旦定めた10年間剣闘士競技禁止令を、皇帝ネロが早くも数年後に解除した件で(この後段は、なぜか誰も触れようとしないのはなぜ)、そのために奔走し関わった人物たちを顕彰してのもの、という仮説もなりたつであろう。ここらにも宝の山が埋もれている予感がする。

 主催者が宣伝している「アレクサンドロス大王のモザイク」については、一時期博物館で舐めるように詳細を観察したり、文献もちょっと調べたことあったし、現地「ファウノの家」でレプリカ再現の作業中に薄い石片を張り付けていた(本式のモザイク埋め込みではなく)のに遭遇した経験もあるので、感激はそうなかった。ただ現在修復中であの周辺の部屋も閉鎖中なのが奏功してか、そこの展示物がたくさん送られて来ていたのは思わぬ僥倖である。

あとは感想:  

 いつも思うのだが、館内で鑑賞できるビデオを編集・販売してくれると、教材とかで大いに役立つのにと。

 各々の展示物の傍に、出土場所を示したカードがあったが、カタログにあるような地図を配布解説文の裏面にでも印刷してくれていると、手軽に参照できてよかったような気がする。 

 部屋が暗いこともあって、音声ガイドのポイント(場所)が分かりにくく、手こずった(ガイドリストには書いてあったにしても)。  

 それと、あろうことか図録に4箇所間違い(ないし、展示物の差し替え?)の修正が挟み込まれていて、これは責任者の芳賀女史の律儀な性格のせいかなと。  

 ミュージアムグッズ売り場で、関係図書の販売を期待していたが、はずれだった。そのくせポンペイと無関係なもの、無意味なものがたくさん売られていたのは、私的にはいかがなものかと(ワイン、菓子、クッション、キャラその他:すでにメルカリに山ほど出品されているじゃないか:本来あるべきガルムがなぜないのだっ)。・・・とはいえ、うちの嫁さん、指輪だっけを嬉々として買っていたようでして (^^ゞ、ったくもう。

 新コロナ下でもあり博物館の推奨見学時間90分となっていたが、ゆっくり見てもその時間内でまずまず見学できる感じかと。

【追記】3/10午前中に2回目の見学を10:30から90分間にした。この時は別件でこれも頂戴した無料鑑賞券で、事前予約していなかったが、検問で予約せよとご指導いただいてしまったので、事前にしておいたほうが面倒がないだろう。とはいえたかだか数分のことだが。

 というのも、前回にくらべて今回は人出がかなり多く、展示物の前に人がいてなかなか前に進めないことが多くなったし、12:30頃、帰り際に見ていると例のごとく並ばされている人数も相当いたからである。

【追記2】なぜか東京で掲示不可だったものが京都では掲示されているというので、6/2の帰省の折、途中下車して行ってきた(交通費が直行より7000円余分にかかったのはこたえた)。新幹線で降りる人がほとんどいなかったのでしめしめと思っていたが、駅前のバス停では長蛇の列となりびっくり。といっても同胞ばかりだったが。ま、会場の市京セラ美術館での人出はまずまずだった。

 お目当てはカタログのNo.147(2022/6/3のブログ参照)の「キターラ奏者の家」(Casa del Citarista:I.4.5)で、あの背景の山をウェスウィウス山とする説に出会い、かなり急な坂道の果てに平たい頂上が見えるわけだが、おそらくそれがストラボン叙述「山頂以外は非常に美しい畑地が取り巻く。山頂は大半が平らだが全体が不毛の地で」との関係でそう注目されているのだろうが、単にそれを確認するための寄り道であったのだが、残念ながら19世紀半ばのN.La Volpeによる描画のようには明確に認識することはできなかった。それに、天空を飛翔するクピド?は別として、頂上にどっしり根付いた樹木をどう解釈するのかも問題だろう。以下、左が描画、中が今回撮った全景写真、右がその頂上と裾野の部分の拡大合成図である。

現状況では頂上付近に顕著な剥落、右端下図で坂道は明確ではないが、かすかにその痕跡らしきものがあるといえばあるような(^_^;。

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