秘匿されてきたアスレティック・モザイク

 イタリアの首都ローマから20km南東に、カステッリ・ロマーニCastelli Romani と呼ばれる丘陵地が広がっていて、古来より著名な保養・観光地である。その中でもひときわ有名なのがフラスカーティFrascati で、その名前の白ワインとポルケッタ(豚の丸焼き)が名物となっている。そこに林立する由緒ある別荘のひとつに、1582年に枢機卿Bonanniによって建設されたVilla Lancellotti がある。その後の詳しい来歴を辿るのは今は省略して(Wikipedia 参照)、ただちに本論に入ろう。

現況:ちなみに現在非公開の由

 この別荘には、実は「トゥスクルム・モザイク」Il Mosaico Tuscolano と称される床モザイクが一階玄関間に保存されている。それは古代トゥスクルムの斜面に位置するカマルドリ会修道院の庭で発見されたものだった。それを最初に報告したのはE.Pinderで1862年9月のことだった(Musaico Tuscolano, Bullettino dell’Instituto di Corrispondenza Archeologica, 1862-9, pp.178-182)。その翌年、今度はH.Hirzel が Pinderの先行研究を批判的に再検討している(Musaico Tusculano, Annali dell’Instituto di Corrispondenza Archcologica, 35, 1863 pp.397-412。そして41年後にHans Lucas, Athletentvpen, Jahrbuch des kaiserlich deutschen archäologischen Instituts, 9-3, 1904, pp.127-136 が発見以来の研究を総括的に論じた。 余談になるが、19世紀と20世紀初頭の上記3論文はたいへん有難いことにウェブ検索で入手できた。研究はその段階で早くも終わったようで、私はこれまで後続研究を見つけ得ていない。

典拠:Isa Belli Barsali e Maria Grazia Branchetti, Ville della Campagna Romana, Milano, 1975, p.222.

 Pinder によると、そのモザイクは、12 passi × 6 passi(≒ 9m × 4.5m;他説では12m × 6m;いずれにせよ、上記写真を見る限り、私には幅と縦の比率が2対1のようには見えないのが不審)の長方形で、おそらく体育訓練場 palestraの床を飾っていたものだったらしい。その部屋の山側の壁面は、発掘当時まだかなりの高さで壁が残っていた(4〜5 passi)。そしてモザイクはほぼ完璧な保存常態で、白黒のテッセラだけで作製されていた。製作年代を彼はハドリアヌス時代としている。この別荘への移設の際、両脇の2つの小さな四角の枠内に銘文が埋め込まれ、以下のように書かれているらしい。「ROMANVM HOC VETVS OPVS E TVSCULO TRANSLATVM」(この古いローマ(時代)の作品は、トゥスクルムから移設された);「PHILIPPVUS LANCELLOTTVS HIC POSVIT ANNO MDCCCLXXIII」(フィリッポ・ランチェッロッティがここに1873年に設置した):典拠は以下、M.Domenico Seghetti, Frascati nella natura, nella storia, nell’arte, 1906(未見。なお1986年なり2007年にAtesa社から再刊されたらしい。なお、銘文中の2箇所の「U」表示はママ)。ここに登場する人名はフィリッポ・マッシミリアーノ・マッシモ・ランチェッロッティ公爵(1843-1915年)。彼は1865/2/22にエリザベッタ・アルドブランディーニ(1847-1937年)と結婚し、この別荘を翌年購入していた。

 一見して分かるように、古代の接近格闘競技を中心に描いているが(具体的には、下部右から順に、ボクシング、レスリング、円盤投げ、徒競走?、パンクラティオン、幅跳び、など)、なぜか通常のそれ関係の本では紹介されることのないモザイクである(少なくとも、私は知らない)。私はググっていて偶然見つけた。その具体的解題は、地元のジャーナリストによって詳細に紹介されている。Achille Nobiloni, Il Mosaico Tuscolano della Villa Lancellotti a Frascati : Rinvenuto nel giardino dei Padri Camaldolesi nell’estate del 1862 (http://achillenobilonifrascati.blogspot.com/2010/01/:2010/1/14)

 今回はこの希有なモザイクの存在を紹介するにとどめるが、機会があれば詳細に論じたいと思っている。その際、下部左端(No.10-13)に何が描かれているのか、が焦点となるはずである。その際、Pinderが数字を付し(おそらく玄関奥から見ている)、それを具体的に図示したNobiloniの図(逆に玄関から見ている)を示しておく。

Pinder, p.180.
Nobiloni

【警告!】 私は今回の件で、未入手本の検索をしていて、どうやらフィッシングにあった可能性がある。無料で本のコピーが手に入る、ロボットでないことを証明するためカード・データの提示を、と求められたのだが、その後、肝心のダウンロードはできなかった。お陰で正月早々カード番号の変更をするはめになった。みなさまもお気をつけあれ。

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虐殺実行者はゾンダー・コマンド:遅報(62)

 さきほど、NHK BS1で「アウシュビッツ:死者たちの告白」の再放送を偶然見た。強制収容所でこれまで8箇所、ユダヤ人でありながら同胞殺害に加担させられたSonderkommandoたち(特殊任務部隊兵:分断のため14ヶ国のユダヤ人、ロシア人捕虜で構成)のメモが、焼却炉の周りから発見されていて、インクが滲んだり薄れてこれまで読み取り不可能だったものが数年前から解読可能となったらしい。よくも遺したものだ。これがユダヤ人らしいところだろうか。いや、裏切り者とされた彼らが死を覚悟しての一斉蜂起を目前にしての後世への遺言行動だったのだろう。この録画、NHKオンデマンドで1年間みることができる。みんなに見てほしいと思う。

収容所内のレジスタンスが隠し撮りした死体焼却作業中の彼ら

 後半で、第2次大戦中に、ナチス占領下でのユダヤ人迫害は彼らの財産奪取でドイツ系市民を潤したこと(これなんか、米国が日系市民にした処遇とまったく 同じ)、他方、イギリスなどは多数のユダヤ人亡命者の流入を警戒した政府によって、ユダヤ人絶滅作戦の情報を故意に握り潰したこと、が指摘されていて興味深かった。自由陣営を標榜してきた側の素の実態が、わが身かわいさで見捨てていたのだ、という指摘は実に鋭い。 それ以外でもよろず悪いことはすべてナチになすりつけているが(例えば、人種差別や非健常者の断種・ロボトミー手術)、同時代にどの国でも(イギリスやアメリカでも)同じようなことを実はしていたことには口をつぐんでいるわけだ。勝者の身勝手な論理にごまかされてはならない。

 いつも思うことだが、いわゆる専門研究者たちがなぜこれを研究テーマにしてこずに、おめおめみすみすマスコミに先を越されているのか、たとえ触れたとしても勝者の論理に取り込まれて論じて一向に恥じない、その不感症・無関心の根源を問いたくもなろうというもの(参照、ウィキペディア「ゾンダーコマンド_(強制収容所)」;https://news.yahoo.co.jp/articles/846114a07593e6fd945c145a2528f97145db29fc;https://www.newsweekjapan.jp/ooba/2016/01/post-11_1.php;https://news.yahoo.co.jp/byline/satohitoshi/20171229-00079884/)。

 それにしてもアイヒマンたちは、「私は一人もユダヤ人を殺していない」「大量虐殺など見たこともない」というご飯論法で自らの潔白を主張しているのは、実に立派な法廷用論理である。それはそうだ、それを実際にやっていたのはゾンダー・コマンドたちだったのだから、その通りである。上官に命令され、部下に命じただけのことだ。だが勝者の論理はそれをあえて無視し、結論先にありきの軍法会議方式で、弱い下級責任者に無理矢理責任をなすりつけてゆく。そうしないと被害者感情が鎮まらないからだ。有り体に言えば復讐である。現に上意下達でただ命じられてのことであっても、被害者の視野内の現場にいた当事者が告発対象のやり玉にあげられ、処刑されてしまうことはよくあることで、それはわが日本軍でもB級・C級戦犯が現地で簡単に処刑され、A級戦犯は丁寧に扱われ25名中18名は死刑を免れたという事例と重なってくる(雲上人の天皇や、なんと731部隊長石井四郎ともなると利用価値ありとして免責されたのである)。この不条理はなんともいたしかたない。負けるとそういう目に会うということで、そこに勝者にも正義などありはしない。

 落書き研究としては、住居部分の外壁レンガに以下の刻みが発見された情報は興味深い(映像で収容所内のそれらも一瞬写っていた)。

 ところで、NHKの独自調査で、これを記した本人の、戦後結婚して生まれた娘たちが見つけ出され登場したのには、びっくり。収容所が解放されたのはこの日付の1年後のことで、彼自身証拠隠滅のため処分されるはずのゾンダー・コマンドだったのだから。よく生き延びて、戦後に子をなし得たものだ。

 やはりウィキペディア情報だが、ガス室で使用されたのはチクロンBという青酸化合物の殺虫剤で、それを開発したのがユダヤ人研究者だったというのは、悪い冗談としかいいようもない。ただそれにしても毒性の拡散までそうとう時間がかかるようで、そのあたりリアルな情報が欲しいところ。ちょうどギリシア生まれイタリア系ユダヤ人、シュロモ・ヴェネツィア(鳥取絹子訳)『私はガス室の「特殊任務」をしていた』河出書房新社、2008、を見つけたが、わが図書室にはなかったので、購入しようと思う。

【補遺】同様に専門家すら目を閉ざしてきたドイツに於ける「収容所慰安婦」の黒歴史をあばけ!:https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20210329/pol/00m/010/006000c?cx_fm=mailhiru&cx_ml=premier&cx_mdate=20210412

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2021年賀状と画題

 私は2,3年前から、今後メール賀状にするので、アドレスを教えて下さい、と繰り返しお願いしているのだが、なぜか未だ亀さんメールで年賀状を送ってくださる人がほとんどメール・アドレスを記入してくれていない現実があって、これはまったく理解できない現象だ。

 もう今年から返礼いたしません。念のため、運良くここをご覧下さった方々に重ねて周知しておきます。

最初は住所やなんか明記していたが、悪用されるといやなので削除しました

 今年の賀状がわりの上記の絵は、作成時の着色を想定しての復元画像(https://www.youtube.com/watch?v=IkzvQs6dRJI)。中に牛がいたので採用しました。本当は古代ローマ史関係では下図1のような牛の骸骨が同じ「平和の祭壇」の淺浮彫もあって、12年前に送ってくださる方もあったのだが、正月早々骸骨ではなんだし、やっぱり時節柄ちょっと憚れる気がしたので、こっちにしました。Ostiaでも下図2があるのだが、ちょっとストゥッコの剥落がひどく、見栄えが今一なのであきらめた。

下図1
下図2
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消えゆく庶(賤)民史:からゆきさん

 「「1日で49人の相手を…」過酷な労働、波乱の人生赤裸々に:「からゆきさん」肉声テープ発見」(https://mainichi.jp/articles/20201228/k00/00m/040/337000c?cx_fm=mailyu&cx_ml=article&cx_mdate=20201229)

 昔、山崎朋子作『サンダカン八番娼館』(1972年)を読み、のちに映画(1974年)も見た。いや、順番はこの逆だったかもしれない。いずれにせよ、今回のテープと内容は驚くほど似ているように思う。

 しかし今回の記事の中で、近世社会では娼妓(しょうぎ)奉公をしていた女性も奉公を終えれば結婚をし家に入るという経路が確保されていたが、むしろ、明治以降の近代化に伴って廃娼運動などをきっかけに娼婦への差別、蔑視が強まった、という所見は不意打ちだった。キリスト教的な正義感による救済事業の持つ負の面が出ていたわけである。

 私は「からゆきさん」で念頭に浮かぶのは、彼女たちの出身地が天草・島原なんかに多かったので、どうしても中に隠れキリシタンの子女がいたんじゃないか、と思ってしまうのだが。

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ポンペイで新発掘の居酒屋と落書き

https://gigazine.net/news/20201228-pompeii-fast-food-stall/;http://pompeiisites.org/en/comunicati/the-ancient-snack-bar-of-regio-v-resurfaces-in-its-entirety-with-scenes-of-still-life-food-residues-animal-bones-and-victims-of-the-eruption/

今回は、なぜか日本の報道も早かった。

 色があざやかで、往時の様子を窺わせている。場所は、このところ新発掘が連続している第5区のどこかであろう。

【追記1】ようやく私の定番チェック先のウェブに載った。https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2020/12/street-food-shop-emerges-in-pompeii.html

【追記2】このタウンターの犬の箇所に落書きがあるとの情報で、さっそくチェック。上部の黒い枠の部分でみっけ。

https://www.youtube.com/watch?v=xgd4FVyKUdI&feature=emb_rel_end

NICIA CINAEDE CACATOR」:「ニキアスよ、ホモ野郎よ、ウンコ垂れ!」といったあたりか。

 ところで妙なことに気付いてしまった。このカウンター下の絵は、左から吊り下げられた二羽の鳥とニワトリと犬であるが、最初の二つはまあ食材でもあろうが、右端の犬はちゃんとつながれているのでよもや食用ではなく、飼い犬だと思うが、そうだとしたらなぜここに描かれているのか、ちょっと気になりだしたのだ。

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世界キリスト教情報第1562信:2020/12/28;イタリアのクリスマス

= 目 次 =
▼コロナの雲に覆われて世界各地のクリスマス
▼教皇、使徒的勧告『愛のよろこび』の考察深める特別年布告
▼中絶胎児の細胞使用問題でバチカンがコロナワクチン使用容認
▼中国本土の新規感染21人、4日連続確認の北京市は規制強化
▼香港高裁、蘋果日報(リンゴ日報)創業者の保釈を許可
▼ブラジル・リオ市長を汚職容疑で逮捕、再選目指す大統領に打撃
▼沖縄本島中部の教会でクラスター=クリスマスへ県が注意を喚起

今回は、イタリアのクリスマス情報を紹介しよう。

 24日からイタリア全土で都市封鎖が始まった。
 カトリック教会は、国内の信者に対し、近所の教会でクリスマスのミサに参加するよう呼びかけた。ローマにある教会のパウエル・プルスツィンスキ司祭は「クリスマスを家族で祝うことを忘れないで欲しいが、今年は新型コロナに苦しむ世界中の人を思い、みんなで祈りたい」と話した。
 例年なら多くの信者や観光客が詰めかける、バチカンのサンピエトロ大聖堂前広場に立てられたクリスマスツリーとキリスト生誕の場面の模型「プレゼピオ」にも人影はまばら。
 教皇フランシスコが執り行うクリスマスイブのミサも、例年数千人の信者が参列するが、ことしは新型コロナウイルスの感染予防のため、大聖堂に入る聖職者は最小限に絞られ、参列者はおよそ100人と大幅に制限された。参列した人はマスクを着用し、互いに距離をとっていた。教皇は「試練の暗いトンネルから抜け出せないと不安になっていないか」と問い掛けた上で、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)が続く状況を念頭に「神は勇気を持とうと言っている」と呼び掛け、共に乗り越えたいとの考えを示した。
 イタリアでは午後10時から夜間の外出が禁止されているため、ミサ開始も2時間早めて午後7時半からになった。
 主の降誕の祭日25日正午から、教皇はローマと世界に向けたメッセージと祝福、「ウルビ・エト・オルビ」(ローマと全世界へ)で「私は全ての人、国家や企業、国際機関の指導者に呼び掛ける。競争ではなく協力を促すよう、全ての人のための解決策を見つけるように」と述べた。そして全ての人にワクチンを、特に、地球の全ての地域の最も弱く最も助けを必要としている人々にワクチンが行き渡るように、と教皇は願った。
 この祝福は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、バチカン宮殿の「祝福の間」で行われ、インターネットなどで配信された。(CJC)□
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紙と石:事実はどちらに

 「『石に刻まれた江戸時代』(関根達人著):危機の歴史に学ぶ」(https://mainichi.jp/articles/20200622/dde/014/040/013000c)

 今日、「戦後75年に学ぶ戦訓」(飛耳長目(72)掲載)を読んだとき、その一ヶ月前のこの記事が目にとまった。

 私も東日本大震災で先人たちが残してきた「津波碑」「災害碑」の存在を初めて知ったくちである。標記の記事は、江戸時代に災害を報告している藩文書(紙)では被害を軽く報告しており、事実はむしろ村落共同体で建立した「供養塔」(石)に刻まれているほうにあったのでは、というのが趣旨である。お役人の報告書の軽さと、身近な肉親を失った庶民の血を吐くような思いが、素材の「紙」と「石」に象徴されているようで、胸を打つ。村落共同体は、次の瞬間には隠匿・抹殺もされやすい「紙」などはなから信じておらず、手間がかかる「石」という素材に永遠の遺言を刻み込んでいたわけである。

 ただ、ここでもお上のやることを信じてはいけない。「石」は同時に支配者のプロパガンダの道具にもなるからだ。

 古代ローマ史研究において、私はこれまで二大史料群として当然のようにこの「紙」(文書史料)と「石」(碑文史料)を使ってきたが、庶民の「石」に寄せてきていた思いの深さに今まで気づくことはなかった。改めて考えてみると、古代メディア素材としては、前提条件として文字が読め、その格納場所を探知できるノウ・ハウが必要な「紙」よりも、公の場所で否応なしに視覚的に目に入る「石」や「青銅」製の立像や、その台座の「石」に刻まれた銘文のほうが優れた媒体であったわけである。もちろん、支配者側も当然それを見抜いておりおおいに利用していたわけだが、遅ればせながらこのことに今回気づくことができて、本当によかったと思う。

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日本渡航方法と感染症:飛耳長目(73)

「日本人の祖先 漂着したのか、航海してきたのか:長年の論争、終止符?」(https://mainichi.jp/articles/20201221/k00/00m/040/040000c)

 昔から注目していた実験考古学の調査報告である。

 今回の観測用ブイ138個の動きをもとに、偶然の漂流説は葬り去られ(それが可能なのは、かろうじて荒天で黒潮が乱れたときのみ=荒天のときはそもそも船を出さない)、意図的移住説(その際、人口維持のために最低男女10人の渡航が必要)の可能性のほうが高まった。

 その上、以下の情報を加味すると人の流れをいつも歓迎しているわけにもいかない。「感染症と考古学:人口激減の謎に迫る」(https://my.mainichi.jp/articles/20201109/dde/014/040/004000c)

 その記事の中に、考古学界としてコロナへの動きが鈍かったので、それへの刺激で特集を組んだとの言及があった。古代ローマ史においても状況はまったく一緒で、まあ西欧学界が反応してからのことなんだろうなと思いたいところであるが(皮肉である、念のため)、私の知る限りでの反応は、むしろ大学におけるリモート授業の実践報告ばかりである。若手が一生懸命やっているのは、まあ無意味だとはいわないが、そこで遅れをとっているベテラン勢が自らの専門性に固着して何かをいうべきなのに、どうも関心の希薄さが感じられて仕方がない。

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殉教者再々考

 私の研究の出発点は、キリスト教迫害史だった。駆け出しの最初の20代の時はともかく、研究に年期が入ってくると、「殉教者になる人たちのメンタリティー」「殉教伝記者のメンタリティー」が気になりだした。どういう連中が殉教するのか、そしてその記録を残した殉教伝記録者たちはいかなる選択基準で叙述しているのか、といったことである。端的にいえば、「〇〇と××の受難記」のなかに、表題に挙げられた以外の殉教者・告白者が、多くの場合無名で登場していて、そういう彼らは殉教者だったりするのに、とりあえず記録者の主要叙述対象にはなっていない。これをどう考えるべきか。こういったことを含めて原点回帰で研究の最終仕上げでいずれ触れたいと思っているが、ここでは冒頭の件に限っての現段階での私の結論を述べれば、さあ殺せと自爆テロ的な意気込みで(もちろん、皆が皆そうであるというわけではないが)官憲に出頭する確信犯的な「自発的殉教者」以外の場合、「逃げ遅れた愚直な信者」がたまたま探索に引っかかってしまった、という印象が強い。かわいそうなくらい要領が悪いのだ。

 研究者にもご多分に漏れず立場とか忖度とか色々ある。そこで、研究者の手垢がついていない原史料レベルを細かく読み解いていくと(もちろん、原史料といえどもそれを書いた記者・編纂者の傾向性の検証は必要)、司教・司祭・助祭といった高位聖職者は、危険を察知すると敵前逃亡的に、真っ先に避難・逃亡・潜伏し、あるいは背教する。そして嵐が収まると、否、収まりそうだと見当つけると、ちょっと弁解を述べて現職復帰する(そのまま棄教する御仁も多かったはずとはいえ)。こういった要領のよさで生きてゆくへたれ連中の名前は、該時代において侮蔑すべき存在なので、当然記録として残存しない(あっても例外的だ)から残らない、誰かが義憤を感じて書き残していても抹殺される、ときにどっかの国と同じで、制度教会ぐるみで。その挙げ句の残存伝承作品が「受難記」なのだ。

 いや、受難記には殉教した司教や司祭も登場していると反論されるかもしれない。そう、彼らはごく少数の実に貴重な存在だったからこそ、記録に残されたのだ。もちろん一般信徒とて同じだ。殉教者は信者のごく一部に過ぎない。それでも色んな意味で著名人だからこそ名が残ったわけだ。3世紀中盤以降の大量棄教に直面し、彼らの存在を免罪符にし、否、かの殉教者たちを称揚することが自らの弱さへの言い訳となるという計算あってのことだ。そしておそらく官憲側からすると、彼らは見せしめのために検挙・処刑された。逆に言うと、それで沈黙してしまうはずの広範な層が存在していて、そのもくろみ通りの結果となるのもいつもの通り。

 ここまでお読みいただいた皆様の中で既視感にとらわれる人がいるかもしれない。殉教者問題はまるで、モリカケ問題・サクラ問題、そして最近の「ガースー」総理現象とそっくりだなあ、と。本来、粛々と法規を守るべき立場の者が、権力におもねって真っ当な対応をしないのが、残念ながら世間の、いや日本の現状なのである(決して今だけのことでもない)。当事者にとっていいわけの材料はいくらでもある。学術会議問題だって、権力側がもう一歩強く出た場合、さてどうなるか、これは「みもの」だと私は思っている。

 だからこのままでいいのだ、と私は言いたいのではない。要領の輩が跡形もなく四散逃走したあと、居残ってしまった不器用で愚直な存在が引っ立てられていくわけだ。キリスト教的にいうとそれが殉教者の大方の姿である。彼らは転ぶという選択肢すら頭に浮かびはしないほど愚直なのである。彼らへの処断は権力側からすれば単なる見せしめに過ぎないが、彼らをこそ我らは注目しなければならない。だから赤木俊夫氏の自(恥)死を黙視してはならないのだ(https://www.tokyo-np.co.jp/article/61894)。

【追記】2021/1/21深夜にスターチャンネルの「見逃し」で以下の映画を見た。テレンス・マリック監督「名もなき生涯」”A Hidden Life“(2019年:アメリカ・ドイツ)。第2次大戦中に、ナチス・ドイツに併合されたオーストリアを舞台に、良心的兵役拒否の立場から、度重なる従軍命令とナチスの軍門に降った教会の指示に従わず、ひたすらに自分の信念と妻や娘への愛に生き、36歳で処刑された実在の農夫フランツ・イェーガーシュテッターの生涯を描く。

Franz Jägerstätter(1907-1943:享年36歳)

 大自然の中でひっそり生きてきた山村の一介の農夫が「無実の人を殺せない」という一点で徴兵の忌避を表明する。そのため彼、彼の家族は周囲から孤立していく。彼はフランシスコ第三会に入り、地元教会の聖具係でもあった。だが、村の司祭も司教も助けてくれない。信念を貫こうとすることで皆が不幸になっていく。五度目の召集令状が来て、苦悩は頂点に達する。1943/3/1に出頭して宣誓拒否し逮捕勾留。同年8/9(おお、私の誕生日だ)にギロチンで処刑死。その中で家族は村八分の目に会い、彼の死後もそれは続く。ウィキペディア情報によると、彼には生い立ちに問題があったようで、若い頃は荒れていたが、妻との出会いで変わったらしい。

 世間的にまったく忘れ去られていた彼は、1964年以降になって研究者たちに見いだされ、2007年にベネディクト16世教皇により列福。しかし、これではたして遺された家族が受けてきた悲しみは癒されたのであろうか。彼も幸福だったのだろうか。「私に力を」「神はなにもなされない」。

 こういった視点で「受難記」は読まれれなければならない、と思う。

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袴田さんはカトリック:遅報(61)

 またまた袴田氏の件がニュースになっているので、ちょっとググったら、あれれの事実が。彼は信者になっていたのだ。ああ、だからなのか、とようやく納得。死刑囚で思い出すのは、映画「復讐するは我にあり」の主人公は幼児洗礼だった。

「袴田元被告のローマ教皇ミサ参列はなぜ実現したのか」(https://mainichi.jp/articles/20191214/k00/00m/040/203000c)

 ついでに、「3日間追っかけて見つけたローマ教皇の「心」」(https://mainichi.jp/articles/20191129/k00/00m/030/058000c)

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