但し、一番右側のスレートは、J.DeLaine女史の想定であって、原位置では下のように枠内にスレートはない。(J.Th. Bakker:https://www.ostia-antica.org/privrel/privrel.htmによると「Possibly from the facade of the Caseggiato dietro la Curia (I,IX,1)」)又、上図の文字モザイクとの対応関係を考えると、左端の「OMN[I]A」の下部にもうひとつスレート枠があっていいはずだが、現況ではその痕跡はない。
↑スレートはめ込み枠
逆に、右端のスレートの上部にも銘文を印したTABULA ANSATAが予想されるが、上部の壁は崩壊しているので確かめようもない。ただ、判明している3つの銘文を連続で捉えるなら、「OMNIA FELICIA ANNI[I]」で、「アンニウスの(商売)すべて上首尾」と読めるので、右端スレートについてのDeLaine女史の想定が正しければ、「(女神)Eponaによって DE EPONA」に類する文言だっただろうということになる。
検討すべき論点は多い。スレートには以下が描かれている。現状左端が、両脇のドリウム[型式からスペイン産オリーブ油用と思われる:関連でこの集合住宅の北側に当然注目すべき]に挟まれた人物と右上に机に座った人物(どちらかがたぶんアンニウス)、中央は帆に風をはらんだ商船と舵をとっている人物、そして想定されている右端は、左右に馬を従え玉座に座り、右手で馬の口に手ずから餌を与え、左手に豊穣の杖らしきものをもった女神エポナが描かれている。このエポナ像は構図やアトリビュート的に他の一般的なエポナ像と比べて特異といっていいだろう(一般的なポエナ像は以下参照:http://www.epona.net;但し、Jovicic, Bogdanovic, New evidence of the cult of Epona in Viminacium.pdf掲載のFig.10の紅玉髄製貴石の構図は、女神像に限って極めて類似の印象)。
というのは、昨年の三月に京大で開催された九大の堀教授の科研での国際小シンポジウムで、オクスフォード大学のジャネット・ディレーンJanet DeLaine博士の「オスティアの街角にみる聖なるお守りたち」Seeking Divine Protection in the Streets of Ostiaの中で、これまでオスティア遺跡で帝国西部の神格のイメージは皆無だったはずが、突如エポナ女神を描いた平板reliefが登場したことに、私はおおげさでなく驚愕したことがあったからである。
しかし、これはEric Taylor編集のHP「Ostia:Harbour City of Ancient Rome」 の「Terracotta objects」の中にすでに「E27317」として登録ずみのものだったことをあとから知ったので(https://www.ostia-antica.org/vmuseum/small_3.htm)、当方の調査不足にすぎなかったのだが。ディレーン女史は、この平板の元来の設置場所を、Caseggiato di Annio (III,XIV,4)の一番右側の空の枠内だったと想定している。下図がそれである。
Relief of Epona between two horses. Guida p. 97. Museo Ostiense. Inv. 3344.